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2010年12月29日

『古典力学の形成―ニュートンからラグランジュへ』 山本義隆 (日本評論社)

古典力学の形成―ニュートンからラグランジュへ →bookwebで購入

 『プリンキピア』は微積分ではなくユークリッド幾何学で書かれているが、もともと微積分を使って導きだした命題を微積分がまだ一般的でなかったのであえて古い手法で書き直したという意味のことをニュートン自身が語っている。

 簡単にいうと、未知数をXとして方程式を立てれば簡単に解けるのに、方程式を知らない小学生のためにツルカメ算や流水算といったアクロバット的な解き方でわざわざ解いてみせたというようなことだ。

 『プリンキピア』の命題はもともとは微積分で導出されていたというのは科学史の常識といってよいが、『錬金術師ニュートン』でニュートンの臆面もない二枚舌ぶりにあきれ、ひょっとしたら微積分を使ったというのも、ライプニッツと微積分の先取権を争う過程ででっちあげた与太話ではないかと思うようになった。

 本書を開いたところ、40頁目でもう答えが出ていた。ウェストフォールというニュートン学の第一人者がくまなく調査しても流率法(微分のことをニュートンはこう呼ぶ)で証明していたという証拠は見つからず、それどころか匿名の第三者を装って微積分先行証明説とライプニッツ剽窃説を広める情報操作をおこなっていた証拠まで出てきた。著者は「『プリンキピア』の諸命題は、元々あのような幾何学的なスタイルで証明されたものと考えるのが妥当であろう」と結論している。

 もっともライプニッツの方も一筋縄ではいかない。ライプニッツは「惑星の運動の原因についての試論」で万有引力の法則を微分法で導きだしたが、同論文が『プリンキピア』の剽窃ではないかと指摘されると、執筆時点では『プリンキピア』の書評しか読んでいなかったと反論していた。ところが執筆時点で『プリンキピア』を読んでおり、書きこみまでしていたという証拠が1967年に発見されたのだ(本書の表紙がライプニッツの書きこみ)。

 急いでお断りしておくが、本書は科学史のスキャンダルをあげつらう本ではない。今日「ニュートン力学」として知られている体系はニュートンの没後百年以上かかって多くの学者が構築してきたものだということを資料的に跡づけるのが主眼であって、『プリンキピア』の証明の穴を指摘するのは「ニュートンの力学」と「ニュートン力学」が別物だということを確認するためである。

 ライプニッツの「試論」についても著者は以下のように評価している。

 しかし問題は独立に到達したか否かではなく、重要なのは Leibniz が同一の結果を異なる方法と異なる道筋で得たことである。実際 Leibniz が用いた思考手段もその結果を表す表現形式も Newton のものとは決定的に異なっている。そしてその点にこそ Leibniz の本領と『試論』の意義はあった。というのも、新しい記号法と新しい表現様式の創出は、新しい思考手段と新しい思考方法の創出だからである。とりわけ『試論』は、力学において微分方程式が公に登場したはじめての文書としてきわめて重要である。

 幾何学的方法か、微積分による解析的方法かは単なる好みの問題ではすまない。先に『プリンキピア』の証明法をツルカメ算や流水算にたとえたが、ツルカメ算や流水算は一種の名人芸なのに対し、ax + b = 0 という方程式なら誰でも機械的に解ける。和田純夫氏の『プリンキピアを読む』(ブルーバックス)をのぞけばわかるが、ニュートンは超絶的な技巧を駆使しており、当意即妙のひらめきはとても余人のおよぶところではない。しかしライプニッツの方式なら機械的に解けるのである。ニュートンとライプニッツでは学問のあり方が根本的に変わってしまうのだ。

 本書は二部にわかれる。第1部「Kepler問題」はニュートンはケプラーの法則から引力の逆二乗法則を導きだすのには成功したが、逆二乗法則からケプラーの法則を導くのには失敗したのではないか、そしてそれがニュートン後の課題になったのではないかという仮説にあてられている。

 微積分の式を眺めるのは二十年ぶりなので、議論の細部は正直いってよくわからない。しかし数式を読み飛ばしても論旨はおおよそ摑める。

 第2部「力学原理をめぐって」は不完全なまま放りだされた「ニュートンの力学」を「ニュートン力学」に再構築するまでの学説史でオイラー、ベルヌーイ、ダランベールをへてラグランジュで完成に達する。「ニュートン力学」の形成に動いたのがニュートンを神格化した英国の学者ではなく、ライプニッツの系統を引く大陸の学者だったというのは皮肉である。

 重要なのは「ニュートン力学」の形成が単に力学にとどまらず、大学の理工学部の誕生にかかわっていた点だ。

 18世紀までの大学には理学部も工学部もなかった。大学にあったのは神学部、法学部、医学部という専門学部と、教養学部にあたる哲学部(学芸学部)だけだった。哲学部で学ぶ自由七科には自然哲学的な内容が含まれていたが、幾何学や天文学のような役に立たない学問に限られていた。機械工学や冶金学のような役に立つ学問は大学では忌避されていたのである。

 科学革命を推進するような研究は大学ではなく王立の科学アカデミーでおこなわれていたが、アカデミーの会員になれるのは趣味で科学研究に打ちこめる貴族か、ニュートンのような天才に限られていた。18世紀までのヨーロッパには職業としての科学者は存在しなかったのである。

 この状況を変えたのはフランス革命だった。国家は政策として科学技術の振興をはかり、研究者・技術者養成機関としてエコール・ポリテクニクなどのグラン・ゼコールを設置した。王権に守られて趣味の研究をしていた科学者が教壇に立つようになったのである。

 この変化を体現しているのが「ニュートン力学」の大成者であるラグランジュである。ラグランジュはイタリアの役人の息子だったが、抜群の才能をオイラーに認められてベルリン王立アカデミーの外国人会員に推挙され、プロイセンのフリードリヒ大王の庇護のもとに研究をつづける。フリードリヒ大王の没後は類十六世に招かれ、ルーブル宮に住居をあたえられて『解析力学』を完成させる。

 『解析力学』の上梓の翌年フランス革命が起るが、ラグランジュは革命政府にも厚遇され、エコール・ノルマルとエコール・ポリテクニクで学生の指導にあたり、帝政時代になるとナポレオンから爵位をあたえられている。

 著者はラグランジュの『解析力学』の意義を次のように評価している。

 『解析力学』は、一定レベルを越える学生にたいしては、力学を誰にたいしても教育可能・伝達可能・習得可能・使用可能なものとしたのである。これが力学のマニュアル化であり、そしてこれこそがフランス革命に前後する時代の要請に最もよく応えるものであったといえる。

 著者の山本氏は東大全共闘の議長だった人だが、学説史がはからずも大学論になったのは問題意識のしからしめたものだろう。

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