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2010年12月26日

『天文学の誕生』 三村太郎 (岩波科学ライブラリー)

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 いささか誤解をまねく題名である。副題に「イスラーム文化の役割」とあるので、天文学とはいっても近代天文学の誕生にイスラム文化がどう影響したのかを論じた本だろうと察しがつくが、近代天文学についてふれているのは最初と最後の章だけである。本書は天文学という切口からアッバース朝イスラム帝国の王権と文化政策をさぐった本で、アッバース朝の本としては実におもしろく、一般書にはこうした内容の本は他にないのではないかと思う。

(イスラム天文学については『望遠鏡以前の天文学』の第8章が百科全書的にゆきとどいた説明をくわえている。本書はアッバース朝の文化政策に焦点を絞った内容なので、イスラム天文学全般が知りたかったら『望遠鏡以前の天文学』を読んだ方がいい。)

 ムハンマドの没後、イスラム共同体は「神の使徒の代理人」たるカリフが治めるようになるが、第四代カリフでムハンマドの娘婿のアリーが暗殺された後、アリーと対立していたシリア総督ムアーウィヤが第五代カリフとなり、以後ウマイヤ家がカリフの地位を世襲するようになった。これがウマイヤ朝で、ギリシャ語圏の行政システムを採用したためにメルキト派キリスト教徒が行政の中枢を占めた。一方、ムハンマドの血族であるアリーの子孫こそが正統のカリフであるべきだと考える人々はシーア派を形成して対抗勢力となった。

 ウマイヤ朝イスラム帝国はイベリア半島からアフガニスタンまで急激に版図を広げたが、アラブ中心主義に偏して非アラビア人ムスリムに、ムスリムなら課せられるはずのない人頭税や地税を課したために改宗被征服民族の間に不満が広がった。747年、ムハンマドの叔父であるアッバースの子孫がシーア派ペルシア勢力の支援を受けて蜂起し、749年、イラクのクーファでカリフに推戴された。これがアッバース朝である。

 アッバース朝は被征服民族、中でもペルシア民族の力を借りて成立した政権なのでサーサーン朝ペルシアの後継国家という性格を持たざるをえなくなった。サーサーン朝ペルシアはゾロアスター教を国教としていたが、ゾロアスター教ではすべての学問はゾロアスター教に由来するとしていたために、あらゆる書物の収集・翻訳が国家事業としておこなわれていた。アッバース朝第二代カリフのマンスールはサーサーン朝に倣って翻訳事業をはじめたが(『アルマゲスト』などの天文学書がアラビア語に翻訳された)、それだけでなくサーサーン朝で重んじられていた歴史占星術までも復活させた。

 歴史占星術とは外惑星の合という長い周期によって国家の行く末を占う占星術で、すべての惑星が牡羊座の0度で合となる43億2000万年の約数にあたる36万年を「世界年」としていた。ゾロアスター教では『アヴェスタ』の注釈書に世界誕生の瞬間のホロスコープが記載されるなど歴史占星術が重視されたが、マンスールの宮廷には占星術師が集められ、『カリフの即位と統治』や『宗教と王朝の書』など歴史を占星術的に解釈した書物があらわされた。

 マンスールの時代にはインドの天文学書である『シンドヒンド』が翻訳されるなど、インド天文学の導入も盛んだった。

 インド天文学はギリシア天文学を独自に発展させたものだったが、本書によるとインドにはいったのはヒッパルコスまでで、プトレマイオスははいっていなかった。球面三角法もなく、すべて平面三角法で解かれ、天文定数もヒッパルコス段階のものだった。インド天文学は『アルマゲスト』よりは遅れていたといえるかもしれない。ではなぜ注目されたのか。

 本書はインド天文学が注目されたのはまず第一に実用的だったからだとする。算用数字で位取りで記述するインド式計算法は巨大な数字をあつかうので、位取りで記述するインド式計算法は圧倒的に有利であり、三角法もインドで現在の三角法に近いものに改良されていた。

(この条は『望遠鏡以前の天文学』の第8章の記述とズレがある。同書によると初期のズィージュはインド数字(アラビア数字のことをアラビア語圏ではインド数字と呼ぶ)ではなくアラビア文字による記数法による60進法で記述されており、インドの三角法はもっと現代に近い形に作り直されたという。)

 イスラム圏ではインド天文学の形式に倣った実用的な天文学書があらわされ、ズィージュと呼ばれた。ズィージュにはインド天文学が知らなかったプトレマイオスの手法や定数をとりいれたものも出てきたが、それだけではなく、天文学の重点が計算からギリシア的な論証へと移っていった。

(本書だけを読むとズィージュはマンスールの宮廷ではじめて作られたと受けとりかねないが、『望遠鏡以前の天文学』によると、8世紀にはイスラム帝国の版図になったインドとアフガニスタンで多数のズィージュが編纂されていた。)

 ギリシア的な論証の重視はアッバース朝王権の要請だった。イスラム帝国は内部に多くのキリスト教徒やギリシア哲学を奉じる異教徒をかかえこんでいた。他方ではペルシア人が重きをなすようになっために、ペルシャ人の間に広まっていたマニ教が勢力を拡大していった。アッバース朝王権はギリシア的論証に通じた彼らに対抗してイスラム教の教理を擁護する必要があった。特に危険なのは「二元論者」と呼ばれたマニ教だった。マニ教はグノーシス主義やゾロアスター教の影響を受けて生まれた新しい宗教だったが、論理的に一貫しており、キリスト教の教父が多くの論駁書を書かねばならないほど教理問答に長けていた。

 アッバース朝の宮廷はギリシアの学問をおさめた知識人を顧問として招き、彼らの助言を通じて帝国内のさまざまな声を汲みあげたが、この統治システムはアッバース朝の後の政権でも踏襲されたという。

 最後の章ではイスラム天文学ではじまった『アルマゲスト』批判がコペルニクスに影響をあたえた可能性に言及しているが、史料が乏しいこともあって可能性にとどまっている。

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