« 2010年11月 | メイン | 2011年02月 »

2010年12月31日

『フーコーの振り子』 アクゼル (早川書房)

フーコーの振り子 →bookwebで購入

 地動説か天動説かという論争はニュートンの万有引力の発見で決着がついたと思いこんでいたが、そうではなかった。実験で証明されていないとして信じない人がすくなからずいたのだ。

 地球の自転のまぎれもない証拠をつきつけたのがフーコーの振り子と呼ばれるシンプルな実験だった。長い振り子を揺らしていると、振動面がだんだんずれていく。ずれる速度は緯度によって決る。北極点か南極点なら24時間だが、それ以外の場所では緯度をθとすると

24 / sinθ

となる。これを正弦則という。

 振り子の実験と正弦則を考えだしたのはレオン・フーコーである。ジャイロスコープを発明したり、光の速度を当時としては高精度で測定するのに成功したり、博士号に値する成果をいくつもあげているが、アカデミックな経歴を持たなかったために学会からは無視されつづけた。本書はレオン・フーコーと振り子の実験を軸に19世紀前半のフランス科学界を描いた本である。

 フーコーが数々の業績をあげることができたのは創意工夫の才能と機械技術の知識だけでなく、手先の器用さに恵まれていたからだ。職人の生まれかなと思ったが、そうではなかった。フーコーの父親は出版業で成功した人で、フーコーはパリの名門校コレージュ・スタニスラスから医学校に進んでいる。父親は早逝したが、フーコーの没後、母親が資金を出してフーコーの全集を刊行しているから相当な財産家だったと思われる。

 母親がフーコーを医学校にいれたのは手先が器用で優秀な外科医になると期待したからだが、フーコーは血を見ると気分が悪くなった。患者の苦しむ姿にも耐えられず、医学を断念せざるをえなくなる。

 医学校は中退したものの、当時最先端技術だった写真術に通じているのを医学校時代にフーコーの才能に注目した顕微鏡学のアルフレッド・ドネに見こまれ、共著で『顕微鏡学アトラス』を出版した。

 共著とはいっても、学会では単なる実験助手のあつかいだった。ある時期までアカデミズムでは「経験主義者」というレッテルは最大の罵倒語だったが、フーコーはまさに「経験主義者」だった。致命的なのは数学教育を受けていない点だった。18世紀まではラテン語ができることが学者の条件だったが、19世紀では数学が科学者の必須条件になっていた。

 フーコーはドネの推挙でデバ紙の科学記者になるが(同僚に作曲家のベルリオーズがいた)、科学記者としてみごとに職責をはたしたものの、かえって何でも屋のアマチュア科学者という評価を決定的にしてしまった。

 このままだったら一介の科学ジャーナリストで終るところだったが、パリを通る子午線の測定で実績をあげたフランソワ・アラゴーが『顕微鏡アトラス』の写真に驚嘆し、フーコーに光速度測定装置の製作を依頼したことから新たな道が開けた。フーコーはこの仕事をみごとにやりとげるが、学会では依然として実験助手のあつかいだった。

 振り子の実験を思いついたのは光速度測定装置の工夫をしていた時だった。彼はまず自宅の地下室で2mの長さの振り子で予備実験をおこない、次いでアラゴーのはらかいで1851年2月3日、パリ天文台の高い天井のメリディアン・ホールで11mの長さの振り子で本実験をおこなった。実験はみごとに成功したが、一介の実験助手の成功は嫉妬を呼びフーコーはいよいよ孤立することになった。

 ここで手をさしのべたのが共和国大統領で、まもなくクーデタで帝位につくことになるナポレオン三世である。ナポレオン三世はありあまる才能をもちながら不遇なフーコーに自分自身の数奇な生いたちを重ねたのか、フーコーの最大の後援者となった(それがまた嫉妬に油を注いだ)。

 ナポレオン三世は悪いイメージしかもっていなかったが、本書ではフランスの近代化をなしとげた名君として描かれている。フーコーの全集の出版もナポレオン三世の肝煎りだったが、普仏戦争の敗北で退位したために母親が自前で出さなければならなくなった。

 学界や政界のごたごたもおもしろいが、フーコーの振り子の理論的解明は依然として未解決のままだという指摘には目を見張った。フーコー自身は振り子は絶対空間に対して静止していると考えていたが、相対性の原理からいって絶対空間を規準にした議論はできず、問題は一気に難しくなる。著者はマッハとアインシュタインを持ちだしているが、フーコーの振り子の振動面がどんな座標系に属しているかは結論が出ていないそうである。

 相対性をいいだしたら地動説の勝利も怪しくなるかもしれない。シンプルな実験ほど深い闇を宿している。

→bookwebで購入

2010年12月30日

『磁力と重力の発見』 山本義隆 (みすず書房)

磁力と重力の発見 1
→bookwebで購入
磁力と重力の発見 2
→bookwebで購入
磁力と重力の発見
→bookwebで購入

 ウンベルト・エーコの『前日島』に魔術的な治療法が出てくる。深手を負って腕を切断するしかなくなった銃士を救うために傷口にあてていた布をはがして薬液にひたすと一瞬で痛みがとまり、一週間で完治したというのだ。薬は傷口ではなく、傷口にあてていた布につけただけだが、遠隔感応で効いたのである。

 『前日島』はフィクションだが、傷ではなく、傷にあてていた布や傷つけた刀剣の方に薬を塗るという治療法はルネサンス期に実際におこなわれていた。悪名高いパラケルススの「武器軟膏」で、当時からまやかしと批判されていた。

 ニュートンの万有引力の法則も同時代人には「武器軟膏」同様のまやかしに見えたらしい。力という観念はもともと筋肉感覚に由来し、直接接触することによってのみ伝わると考えられてきた。遠く離れた物体に働きかける万有引力が眉唾と受けとられたのもやむをえないことだったろう。

 「武器軟膏」はともかくとして、否定しようのない遠隔力も存在した。磁力である。

 磁石の発する不思議な力については古代ギリシア以来さまざまな説明が試みられてきたが、ルネサンス期になり羅針盤の実用化から地球自体が磁力を発していることが発見されると、磁力は天体どうしを結びつける力に擬せられるようになった。ニュートンがデカルトの渦動重力理論を捨て、万有引力の法則を提唱した背景には宇宙論にまで拡大されていた革新的な磁力論がある。

 本書は『古典力学の形成』の前史というべき本で、著者は古代ギリシア以来の磁力観の発展がどのように万有引力の法則を準備したかを詳細に跡づけている。

 本書は三巻からなるが、まず第一巻の「古代・中世」から見ていこう。

 磁力について最初に言及したギリシア人はタレスらしいが、タレスにつづく自然学者たちが説明を試み、近代にいたるまでくりかえされることになる二つの類型を早くもつくりあげている。

 一つは類似物どうしの感応という物活論的な説明であり、もう一つは微細物質による機械論的な説明である。類似物の感応についてはふれるまでもないだろう。機械論的な説明をはじめておこなったのはエンペドクレスで、プラトンも似たような説明をおこなっている。ここでは二世紀のアプロディシアスから引こう。

 磁石からの流出物は、鉄の通孔を覆っている空気を押しのけて、それらを塞いでいる空気を動かす。一方、その空気がその場を離れたとき、いっしょに流れ出す流出物のあとを鉄がついてゆく。そして、その鉄からの流出物が磁石の通孔まで運ばれると、それらの流出物がそれらの通孔に対応して適合するがゆえに、鉄もいっしょにそれらの流出物のあとについて運ばれる。(アプロディシアス『問題集』)

 この「流出物」は論者によって「水分」になったり「原子」になったり「エーテル」になったりするが、目に見えない微粒子の流れが磁力の本体であり、鉄が引き寄せられるように見えるのは微粒子の衝撃力に押された結果なのだとする点では軌を一にしている。

 磁力観の発展という点では中世まではワンパターンのくりかえしである。説明が類型的に踏襲されるだけでなく、ダイアモンドが磁力をさえぎるとか、ニンニクを塗りつけると磁石は磁力を失うといった明らかな誤りが延々踏襲されているのだ。ダイアモンドはともかく、ニンニクで磁力がなくなるかどうかはすぐにわかりそうなものなのに、権威ある文献に書いてあると無批判に受けいれてしまうのだろう。

 磁力観的にはおもしろみがないが、紹介される話柄のおもしろさという点ではほとんど澁澤達彦を思わせる。澁澤のフアンならこの巻は読んで損はない。

 第二巻「ルネサンス」は魔術の復活と羅針盤の実用化によって磁力の歴史が大きく進む。

 魔術には悪魔に頼る魔術と頼らない魔術の二つがあるとされていたが、ルネサンスにいたって後者が「自然魔術」の名で容認されたのだ。天界と地上の間には「宇宙の精気」が循環し、相互に影響ををおよぼしあっているという考えが広まり、魔術の理論的根拠となった。天界を知ることは地上を知ることであり、占星術が大きな力をもった。

 羅針盤は船乗りの間の秘伝という形で中世後期から密かに使われていたらしいが、磁針が北に向くのは北極星が引き寄せるからだと考えられた。

 しかし磁針の向きが真北からそれる偏角と水平より下を向く伏角が知られるようになると、磁針を引きつける磁力源が天界ではなく地上にあるという考えが有力になり、ついに地球自体が磁力をもつとされるようになった。

 著者はこれを文献本位から経験重視への転換と評価し、15世紀までの宗教的で思弁的な魔術と16世紀の経験的で実証的な魔術は明確に区別すべきだとしている。経験的で実践的な新しい魔術は職人たちの間で培われてきた技術と結びつき「自然科学の前近代的形態」へと変貌していく。

 磁力は自然魔術として研究されていたが、もはや過去の文献を盲信した記述は影を潜め、長い間混同されてきた静電気力と磁力の違いにも目が向くようになる。

 第二巻の後半は職人の活躍に注目し、『自然魔術』の著者で職人の世界と結びついていたデッラ・ポルタに紙幅をさいている。デッラ・ポルタは素朴ながら磁力の強さを定量的に測定する手段まで考案しており、磁力が魔術的で定性的な作用から物理学的で定量的な力へと転換する決定的な一歩を踏み出したとしている。

 第三巻「近代の始まり」は二千年以上におよぶ磁力の歴史の大団円であり、ギルバート、ケプラー、ガリレイ、デカルト、ニュートンという大物が登場する。

 まず『磁石論』のウィリアム・ギルバートである。デッラ・ポルタの章ではギルバートが自己顕示の塊で先人の発見を剽窃して平然としていると批判されていたが、断片的な発見を一つのビジョンにまとめあげ、磁気現象を磁気哲学という包括的自然観のもとに再編成する剛腕を見ると一時代を画する大学者だったと認めざるをえない。

 ギルバートは地球自体が磁力をもつことを論証し、天界の底に淀む冷たくて不活性で汚い地球というアリストテレス自然学の地球像を一新し、諸天体は磁力によって結びついているという壮大な宇宙観を打ちだした。月は第五元素からなる完全な球ではなく地球と同類の天体であり、「あたかも鎖で繋がれているかのように大地に強く結びつけられている」。磁石の接合力は磁石の大きさ・量に比例するという説は結果的には間違っていたが、ケプラーに引きつがれ、ニュートンの質量概念として結実することになる。ギルバートはそれとは知らずに万有引力の理論を準備したのである。

 ケプラーは『磁石論』を出版直後に読んでおり、フォン・ホーエンブルク宛書簡に「私に翼があるならば、イギリスに飛んでいってギルバートと話をしたいものです。彼の基本法則で惑星のすべての運動は証明できるものと私は信じています」とまで書いている。ギルバートの磁気哲学があったからこそケプラーは天体の間に力が働くという観念に到達し、三法則をまとめることができたといって過言ではない。著者はケプラーの三法則を次のように評価している。

 ケプラーによる天文学の改革は、たんに太陽を中心におき、また円軌道を楕円軌道ととり替えたことにはとどまらない。彼の改革の本質的な点は、惑星運動の動因として太陽が惑星に及ぼす力という観念を導入し、天文学を軌道の幾何学から天体動力学に、天空の地理学から天界の物理学に変換させたことにある。

 ケプラーは万有引力法則の手前まで達していた。『宇宙の神秘』第二版の注でケプラーはこう書いている。

 かつて私は、惑星を動かす原因は霊に違いないと信じ込んでいた。しかしこの主導的原因が距離の増加につれて弱まり、太陽の光もまた太陽からの距離に応じて衰えることを考えてみたとき、ここから次のような結論にいたった。すなわち、この力は、文字どおりの意味ではないが、少なくとも漫然とした意味において、ある物体的なもの(alquid corporeum)である。それはわれわれが光を、非物質的なものでありながら物体から放射されるあるものとして、ある物体的なものであると言うのと同様である。

 ただし、その放射力は「磁気」としてイメージされている。

 自身が磁性体である地球はその〔放出する運動〕形象によって月を動かす。同様に、太陽はおのれの放出する〔運動〕形象によって惑星を動かすのであるから、太陽もまた同様に磁性体であるということ、このことはきわめて確からしい。(ケプラー『新天文学』)

 ガリレイとデカルトに対しては点数が辛い。ガリレイはアリストテレスの「自然運動」と「強制運動」の区別から抜けられなかった。アリストテレス的に考えれば惑星の公転運動は「自然運動」なので太陽は引力をおよぼす必要がない。彼は加速度を発見したが、落下も重量物体の「自然運動」なので、重力という発想にはつながらなかったのである。

 デカルトについては慣性の法則をはじめて正確に定式化したと評価する一方、渦動重力理論や右ネジ・左ネジで磁石のN極S極を説明しようとした磁気理論を「自然にたいする知識があまりにも貧しく限られたものでしかない状態にあっては、およそ現実離れしたものにゆきつかざるをえなかった」と一蹴する。

 ニュートンと引力の逆二乗法則の先取権をめぐって争ったフックについては王立協会の書記という仕事が多忙をきわめた上に、数学的能力が欠如していたので先に進めなかったという評価にとどまっている。

 いよいよニュートンだが、著者はすでに『古典力学の形成』を書いているせいか、あっさりした記述である。

 この後に「磁力法則の測定と確定」と題した長いエピローグがつづく。万有引力の法則はニュートンで一応の解決を見たが、磁力の方は解決したとはとても言えない状態だったからだ。

 磁力が難しかったのは磁力の強度を測定しようとすると反対の極の磁力が影響してしまうことだ。だから磁力は近い距離では距離の三乗に逆比例するが、遠距離では距離の二乗に逆比例するというおさまりの悪い結果しか出てこなかった。

 著者はそれまで自らに禁じていた数式を解禁して楽しそうに問題を解いている。文化史の領域にまで踏みこんだ本書は「無免許運転にも近い無謀」と謙遜しているように著者にとってアウェイの仕事だったが、やっとホームにもどったというところだろう。

→ 1を購入

→ 2を購入

→ 3を購入

2010年12月29日

『古典力学の形成―ニュートンからラグランジュへ』 山本義隆 (日本評論社)

古典力学の形成―ニュートンからラグランジュへ →bookwebで購入

 『プリンキピア』は微積分ではなくユークリッド幾何学で書かれているが、もともと微積分を使って導きだした命題を微積分がまだ一般的でなかったのであえて古い手法で書き直したという意味のことをニュートン自身が語っている。

 簡単にいうと、未知数をXとして方程式を立てれば簡単に解けるのに、方程式を知らない小学生のためにツルカメ算や流水算といったアクロバット的な解き方でわざわざ解いてみせたというようなことだ。

 『プリンキピア』の命題はもともとは微積分で導出されていたというのは科学史の常識といってよいが、『錬金術師ニュートン』でニュートンの臆面もない二枚舌ぶりにあきれ、ひょっとしたら微積分を使ったというのも、ライプニッツと微積分の先取権を争う過程ででっちあげた与太話ではないかと思うようになった。

 本書を開いたところ、40頁目でもう答えが出ていた。ウェストフォールというニュートン学の第一人者がくまなく調査しても流率法(微分のことをニュートンはこう呼ぶ)で証明していたという証拠は見つからず、それどころか匿名の第三者を装って微積分先行証明説とライプニッツ剽窃説を広める情報操作をおこなっていた証拠まで出てきた。著者は「『プリンキピア』の諸命題は、元々あのような幾何学的なスタイルで証明されたものと考えるのが妥当であろう」と結論している。

 もっともライプニッツの方も一筋縄ではいかない。ライプニッツは「惑星の運動の原因についての試論」で万有引力の法則を微分法で導きだしたが、同論文が『プリンキピア』の剽窃ではないかと指摘されると、執筆時点では『プリンキピア』の書評しか読んでいなかったと反論していた。ところが執筆時点で『プリンキピア』を読んでおり、書きこみまでしていたという証拠が1967年に発見されたのだ(本書の表紙がライプニッツの書きこみ)。

 急いでお断りしておくが、本書は科学史のスキャンダルをあげつらう本ではない。今日「ニュートン力学」として知られている体系はニュートンの没後百年以上かかって多くの学者が構築してきたものだということを資料的に跡づけるのが主眼であって、『プリンキピア』の証明の穴を指摘するのは「ニュートンの力学」と「ニュートン力学」が別物だということを確認するためである。

 ライプニッツの「試論」についても著者は以下のように評価している。

 しかし問題は独立に到達したか否かではなく、重要なのは Leibniz が同一の結果を異なる方法と異なる道筋で得たことである。実際 Leibniz が用いた思考手段もその結果を表す表現形式も Newton のものとは決定的に異なっている。そしてその点にこそ Leibniz の本領と『試論』の意義はあった。というのも、新しい記号法と新しい表現様式の創出は、新しい思考手段と新しい思考方法の創出だからである。とりわけ『試論』は、力学において微分方程式が公に登場したはじめての文書としてきわめて重要である。

 幾何学的方法か、微積分による解析的方法かは単なる好みの問題ではすまない。先に『プリンキピア』の証明法をツルカメ算や流水算にたとえたが、ツルカメ算や流水算は一種の名人芸なのに対し、ax + b = 0 という方程式なら誰でも機械的に解ける。和田純夫氏の『プリンキピアを読む』(ブルーバックス)をのぞけばわかるが、ニュートンは超絶的な技巧を駆使しており、当意即妙のひらめきはとても余人のおよぶところではない。しかしライプニッツの方式なら機械的に解けるのである。ニュートンとライプニッツでは学問のあり方が根本的に変わってしまうのだ。

 本書は二部にわかれる。第1部「Kepler問題」はニュートンはケプラーの法則から引力の逆二乗法則を導きだすのには成功したが、逆二乗法則からケプラーの法則を導くのには失敗したのではないか、そしてそれがニュートン後の課題になったのではないかという仮説にあてられている。

 微積分の式を眺めるのは二十年ぶりなので、議論の細部は正直いってよくわからない。しかし数式を読み飛ばしても論旨はおおよそ摑める。

 第2部「力学原理をめぐって」は不完全なまま放りだされた「ニュートンの力学」を「ニュートン力学」に再構築するまでの学説史でオイラー、ベルヌーイ、ダランベールをへてラグランジュで完成に達する。「ニュートン力学」の形成に動いたのがニュートンを神格化した英国の学者ではなく、ライプニッツの系統を引く大陸の学者だったというのは皮肉である。

 重要なのは「ニュートン力学」の形成が単に力学にとどまらず、大学の理工学部の誕生にかかわっていた点だ。

 18世紀までの大学には理学部も工学部もなかった。大学にあったのは神学部、法学部、医学部という専門学部と、教養学部にあたる哲学部(学芸学部)だけだった。哲学部で学ぶ自由七科には自然哲学的な内容が含まれていたが、幾何学や天文学のような役に立たない学問に限られていた。機械工学や冶金学のような役に立つ学問は大学では忌避されていたのである。

 科学革命を推進するような研究は大学ではなく王立の科学アカデミーでおこなわれていたが、アカデミーの会員になれるのは趣味で科学研究に打ちこめる貴族か、ニュートンのような天才に限られていた。18世紀までのヨーロッパには職業としての科学者は存在しなかったのである。

 この状況を変えたのはフランス革命だった。国家は政策として科学技術の振興をはかり、研究者・技術者養成機関としてエコール・ポリテクニクなどのグラン・ゼコールを設置した。王権に守られて趣味の研究をしていた科学者が教壇に立つようになったのである。

 この変化を体現しているのが「ニュートン力学」の大成者であるラグランジュである。ラグランジュはイタリアの役人の息子だったが、抜群の才能をオイラーに認められてベルリン王立アカデミーの外国人会員に推挙され、プロイセンのフリードリヒ大王の庇護のもとに研究をつづける。フリードリヒ大王の没後は類十六世に招かれ、ルーブル宮に住居をあたえられて『解析力学』を完成させる。

 『解析力学』の上梓の翌年フランス革命が起るが、ラグランジュは革命政府にも厚遇され、エコール・ノルマルとエコール・ポリテクニクで学生の指導にあたり、帝政時代になるとナポレオンから爵位をあたえられている。

 著者はラグランジュの『解析力学』の意義を次のように評価している。

 『解析力学』は、一定レベルを越える学生にたいしては、力学を誰にたいしても教育可能・伝達可能・習得可能・使用可能なものとしたのである。これが力学のマニュアル化であり、そしてこれこそがフランス革命に前後する時代の要請に最もよく応えるものであったといえる。

 著者の山本氏は東大全共闘の議長だった人だが、学説史がはからずも大学論になったのは問題意識のしからしめたものだろう。

→bookwebで購入

2010年12月28日

『錬金術師ニュートン』 ドッブス (みすず書房)

錬金術師ニュートン →bookwebで購入

 ニュートン錬金術研究の第一人者だったB.J.T.Dobbsの最後の著書の邦訳である(Dobbsは「ドブズ」、「ダブズ」等と表記されることもある)。

 Dobbsはケインズがオークションで落札しキングズ・カレッジに寄贈したいわゆるケインズ手稿を分類整理した研究者として知られている。彼女は手稿の錬金術記号や暗号を解読してニュートンがまぎれもなく錬金術の世界に生きていたことを論証し、その成果を『ニュートンの錬金術』(平凡社から出ていたが絶版)にまとめている。本書はそれにつづく研究で、万有引力理論の形成と錬金術の関係を掘りさげている。

 ニュートンは45歳で『プリンキピア』を出版したが、万有引力の法則自体は23歳の時に発見していたと語っている。ペストの流行のためにケンブリッジから生家にもどり、リンゴの木から実が落ちるのを見て云々という例のお話である。しかしこれは微積分と万有引力の法則の先取権をめぐって争うようになった1710年以降にはじめて出てくる話であって、資料的な裏付はない。

 それどころか『プリンキピア』直前までニュートンがデカルトの渦動重力理論を信奉していたという証拠ならたくさんある。

 『プリンキピア』執筆のきっかけとなったハレーの訪問の9年前だが、渦動重力理論を語っている書簡(オルデンバーグ宛)があるので引用しよう。ニュートンは重力は天空から地球の中心に向かって下降してくるエーテルの圧力によって引き起こされると明確に述べている。

 〔エーテルは〕下降しながら諸物体に浸透していって、そのさい働きかける諸部分すべての表面積に比例する力で運び下ろすのであろう。ちょうど同量の物質が空気の姿をとって、地球内部からゆっくりと上昇することで、自然は循環をなすわけだが、この気体物質はしばしのあいだ大気を構成するにしても、下方から立ち昇ってくる新たな空気、発散気、蒸気によって絶え間なく持ち上げられ、ついにはエーテル空間へ再び消え去るのであり、たぶんそこで、ゆくゆくは性質を和らげ、希薄になって第一原理へと戻るのであろう。

 20代の頃のニュートンはエーテルに重力作用を認めるのみだったが、この書簡を書いた頃になると生命力をもたらす「水銀の精」とエーテルの統一をはかろうとしていた。「日ごとに活力を蘇らせるためのエーテル的気息とヴァイタルな醱酵素」が太陽系全体にみなぎり、天体の「食物」となっているというわけだ。

 ところが『プリンキピア』の執筆中(Dobbsは1684年8~11月の期間と推定している)、天体の運行は向心力の逆二乗法則できれいに解けることがわかり、重力を引きおこすような密度をもったエーテルが天体間に存在するなら必ず起こるはずの天体の減速が一切ないという問題にぶつかる。エーテルが天体の運行の妨げにならないほど希薄だったら重力(下降圧)を生みだすこともないだろう。ニュートンは自明のこととして受けいれていたデカルトの渦動重力理論を放棄しなければならなくなる。

 ここで登場するのが錬金術の「能動的原理」である。

 重力問題では、ニュートンは物質的・機械的原因が役立たずであることを理解しており、物質的原因との訣別を余儀なくされていた。手持ちの証拠は物質的エーテルの存在を否定していた。だが重力は作用しており、まるで諸物体のまさしく中心まで浸透しているかのごとく作用するように思えた。物体の表面かつ/または内部の諸部分の表面への作用によって摩擦抵抗となることなく、そのように浸透しうるのは霊のみであった。ピロンやリプシウスの解釈によるストア思想の文脈では、もちろんすべてに浸透する霊とは、受動的物質原理に浸透して結びつけるべく至るところで働いている能動的原理であった。神の文字どおりの偏在性に包摂された能動的原理、万物をひとつに結びつける霊的力という重力概念は、長年にわたってニュートンの役に立つことになった。ストア派の着想に間違いはなかった。しかしニュートンはそれのプラトン化版を用いた。そこでは絶対者=神は完全に非物質的であり非有形的であるが、しかしすべての浸透する存在であった。

 もっともニュートンはこうした試行錯誤は表には一切出さず、『プリンキピア』では重力がどのように働くかだけが問題で、なぜ働くかは問う必要がないという現象主義の立場を貫いている。

 意外だったのはニュートンは『プリンキピア』以後もエーテルの存在を信じつづけていたことである。ニュートンが否定したのはエーテルの重力作用だけで、生命作用の存在は依然として認めていたというのだ。

 ニュートンには宇宙空間に物質をいくらか残しておく必要があったのであり、現に宇宙エーテルを語る彼の言葉のほとんどには、明かにいくらかの残留物質の存在が読みとれる。『重力について』で彼は、すべての空間は物質に関して空っぽであるとは言わなかった。正しくは、「空っぽの空間」が存在すると言ったのであり、「エーテル空間の圧倒的大部分はエーテル粒子のあいだに散らばる空虚だ」と言ったのである。『重力について』にはいくばくかの粒子が残存しており、ニュートンは刊行された『プリンキピア』でもこの残存宇宙エーテルについて書きつづけたのであった。

 ニュートンは『プリンキピア』の原稿を王立協会に送るとすぐさま錬金術工房にもどり、1684年のハレー訪問で中断したところから実験を再開しているので、意外に思う方がおかしいのかもしれない。ニュートンがまともな科学研究をしていたのは『光学』と『プリンキピア』を執筆していた数年間だけで、それ以外は錬金炉やオカルト文書にはまっていたのである。講義はわけがわからなかったので受講者はほとんどおらず、ルーカス教授職をついだ弟子のウィストンですら講義をまともに聴いたことはなかったという。

→bookwebで購入

2010年12月27日

『一七世紀科学革命』 ヘンリー,ジョン (みすず書房)

一七世紀科学革命 →bookwebで購入

 マクミラン社の「ヨーロッパ史入門」というシリーズの一冊である(邦訳はみすず書房から)。235ページあるが、本文150ページほどのコンパクトな本で80ページ以上が用語辞典、索引、300冊近い参考文献、訳者解説、日本語の参考文献にあてられている。

 参考文献は著者名と発表年であらわすことが多いが、本書は通し番号であらわし、本文中に埋めこんであるので参照しやすい。すべての参考文献に短評をつけているのはありがたい。

 入門書とあなどって読みはじめたが、見通しのよい明解な記述に舌を巻いた。

 科学革命の解説はまず自然の数学化をどう説明するかがポイントになるが、本書は科学革命以前の天文学はプラトンの流をくむ数学的部分と、アリストテレスの流れをくむ自然学的部分からなる「混合学」だったと大づかみに把握した上で、プトレマイオスの周天円やエカントは実在ではなく、計算のための単なる補助線とみなされていたとつづける。

 プトレマイオスは観測される惑星運動を説明するために数学的なモデルを考案したが、その結果提案された仮設的構築物や作業仮説は、アリストテレス主義的自然学とは整合性がないと考えられた。人々はプトレマイオスの体系をまるごと拒否してもよかっただろうが、実際にはうまくいく天文理論はプトレマイオスのものしかなかった。有用なプトレマイオス天文学を使いつつも、同時に天界の本当の姿はアリストテレスの宇宙論に描かれているものに違いないと考えることで、決着をはかるしかなかった。

 アリストテレス自然学とプトレマイオスの天動説は一体のものと見なすのが一般的なので、両者が調停不能な対立関係にあると言われてもぴんと来ないが、よくよく考えればアリストテレスの質的な説明とプトレマイオスの量的な説明は水と油である。

 オジアンダーは『天球回天論』出版の実務をまかされると地動説(太陽中心説)=計算の道具説をうたった序文を勝手につけくわえ、コペルニクスの支持者から猛反発を受けたが、計算のための道具という点ではプトレマイオス説も同じだったのだ。

 著者はさらに自然学と数学の対立は社会的身分にもおよんでいたと指摘する。自然学を研究するのが大学を出た知識人なのに対し、計算士や建築家、技師はただの数学職人と見なされていた。数学職人の社会的地位は科学革命によって床屋外科医や画家などとともに著しく向上した。

 数学的な自然把握が権威を持ちはじめると一つ問題が持ちあがった。アリストテレス自然学は自明の経験的命題から出発するのに対し、数学的命題は素朴な日常的知識に反するものが多い。たとえばマイナスの数とマイナスの数をかけるとプラスの数になるとはどういうことなのか。数学は人工的な構築物であり、限られた条件下でしか成りたたないのに、なぜ自然に適用できるのだろうか。

 数学的認識の確実性の問題にとりくんだのはカントであり哲学の問題として議論される傾向があるが、著者は哲学論議には向かわず、数学的認識を正当化したのは実験だと指摘する。数学的モデルと一致する実験結果がえられたら、自然はその数学的構造をとっていると見なすわけである。実際、数学化された自然科学の権威を確立したのは『純粋理性批判』よりも実験だったろう。

 マルクス主義歴史観が全盛だった頃は実験的手法は職人によって生みだされたとされていたが、「職人」と見なされていた実験の担い手は錬金術師だったり自然魔術師だったことが明かになっている。そもそも中世以来、実験は錬金術師や自然魔術師の独擅場であり、実験器具も彼らが考案し改良したものだった。

 科学革命の最大の達成であるニュートンの万有引力の発見も魔術とかかわっている。ニュートンが錬金術の研究に打ちこんでいたことはよく知られているが、科学的な研究にも物活論的や万物照応的な魔術的発想を背景にしていることが明かになっている。たとえば『光学』で白色光を七色のスペクトルに分解したが、初期の草稿では七色ではなく五色にになっていた。最終的に青色と橙色をくわえて七色にしたのは音階と光のスペクトルを対応させるためだったという。

 万有引力の法則は機械的接触のない遠方に直接力が伝わるとしているので、同時代のデカルト派やライプニッツ派の学者からスコラ哲学の「隠れた性質」の焼直しだと批判された。ニュートンは表向き、何故ではなく如何にを問うのが科学だとつっぱねたが、裏では魔術的思考にどっぷり浸かっていたことがわかっている。

 第六章と第七章では宗教や文化状況と科学革命の関係を論じているが、あくまで英国の視点であろう。大陸系の本では宗教改革や30年戦争が焦点となるが(コペルニクスは宗教改革の時代に生き、デカルトとケプラーの活動期間は30年戦争と重なる)、本書によると英国ではピューリタニズムが科学革命を促進したという説をめぐって賛否両論がおきているそうである。

 王立協会の会員にピューリタンが多いという指摘は誤りだったようだが、心臓と血液の関係を絶対主義になぞらえ、心臓=王の至高性を語っていたウィリアム・ハーヴィーが1649年のチャールズ一世の処刑後、血液の優位を語りだしたというのは面白い。

 ハーヴィーはともかく、惑星の一つにすぎなかった太陽を宇宙の中心に位置づけ直したコペルニクスの体系が絶対王制を正当化するメタファーとして機能したという指摘は説得力があると思う。

 著者は最終章でニュートンは実際は突破口を開いたにすぎず、力学はむしろ大陸系の学者によって築かれたと指摘している。ニュートンの虚像を作りあげたのは18世紀の啓蒙主義者と広教派国教徒であり、17世紀科学革命という概念そのものも18世紀啓蒙主義の産物だとしている。

 本書は内容もすぐれているが、翻訳がとても読みやすい。英国の視点で書かれていることを承知した上でなら、科学革命を手っとり早く知るための最良の一冊といってよいだろう。

→bookwebで購入

2010年12月26日

『天文学の誕生』 三村太郎 (岩波科学ライブラリー)

天文学の誕生 →bookwebで購入

 いささか誤解をまねく題名である。副題に「イスラーム文化の役割」とあるので、天文学とはいっても近代天文学の誕生にイスラム文化がどう影響したのかを論じた本だろうと察しがつくが、近代天文学についてふれているのは最初と最後の章だけである。本書は天文学という切口からアッバース朝イスラム帝国の王権と文化政策をさぐった本で、アッバース朝の本としては実におもしろく、一般書にはこうした内容の本は他にないのではないかと思う。

(イスラム天文学については『望遠鏡以前の天文学』の第8章が百科全書的にゆきとどいた説明をくわえている。本書はアッバース朝の文化政策に焦点を絞った内容なので、イスラム天文学全般が知りたかったら『望遠鏡以前の天文学』を読んだ方がいい。)

 ムハンマドの没後、イスラム共同体は「神の使徒の代理人」たるカリフが治めるようになるが、第四代カリフでムハンマドの娘婿のアリーが暗殺された後、アリーと対立していたシリア総督ムアーウィヤが第五代カリフとなり、以後ウマイヤ家がカリフの地位を世襲するようになった。これがウマイヤ朝で、ギリシャ語圏の行政システムを採用したためにメルキト派キリスト教徒が行政の中枢を占めた。一方、ムハンマドの血族であるアリーの子孫こそが正統のカリフであるべきだと考える人々はシーア派を形成して対抗勢力となった。

 ウマイヤ朝イスラム帝国はイベリア半島からアフガニスタンまで急激に版図を広げたが、アラブ中心主義に偏して非アラビア人ムスリムに、ムスリムなら課せられるはずのない人頭税や地税を課したために改宗被征服民族の間に不満が広がった。747年、ムハンマドの叔父であるアッバースの子孫がシーア派ペルシア勢力の支援を受けて蜂起し、749年、イラクのクーファでカリフに推戴された。これがアッバース朝である。

 アッバース朝は被征服民族、中でもペルシア民族の力を借りて成立した政権なのでサーサーン朝ペルシアの後継国家という性格を持たざるをえなくなった。サーサーン朝ペルシアはゾロアスター教を国教としていたが、ゾロアスター教ではすべての学問はゾロアスター教に由来するとしていたために、あらゆる書物の収集・翻訳が国家事業としておこなわれていた。アッバース朝第二代カリフのマンスールはサーサーン朝に倣って翻訳事業をはじめたが(『アルマゲスト』などの天文学書がアラビア語に翻訳された)、それだけでなくサーサーン朝で重んじられていた歴史占星術までも復活させた。

 歴史占星術とは外惑星の合という長い周期によって国家の行く末を占う占星術で、すべての惑星が牡羊座の0度で合となる43億2000万年の約数にあたる36万年を「世界年」としていた。ゾロアスター教では『アヴェスタ』の注釈書に世界誕生の瞬間のホロスコープが記載されるなど歴史占星術が重視されたが、マンスールの宮廷には占星術師が集められ、『カリフの即位と統治』や『宗教と王朝の書』など歴史を占星術的に解釈した書物があらわされた。

 マンスールの時代にはインドの天文学書である『シンドヒンド』が翻訳されるなど、インド天文学の導入も盛んだった。

 インド天文学はギリシア天文学を独自に発展させたものだったが、本書によるとインドにはいったのはヒッパルコスまでで、プトレマイオスははいっていなかった。球面三角法もなく、すべて平面三角法で解かれ、天文定数もヒッパルコス段階のものだった。インド天文学は『アルマゲスト』よりは遅れていたといえるかもしれない。ではなぜ注目されたのか。

 本書はインド天文学が注目されたのはまず第一に実用的だったからだとする。算用数字で位取りで記述するインド式計算法は巨大な数字をあつかうので、位取りで記述するインド式計算法は圧倒的に有利であり、三角法もインドで現在の三角法に近いものに改良されていた。

(この条は『望遠鏡以前の天文学』の第8章の記述とズレがある。同書によると初期のズィージュはインド数字(アラビア数字のことをアラビア語圏ではインド数字と呼ぶ)ではなくアラビア文字による記数法による60進法で記述されており、インドの三角法はもっと現代に近い形に作り直されたという。)

 イスラム圏ではインド天文学の形式に倣った実用的な天文学書があらわされ、ズィージュと呼ばれた。ズィージュにはインド天文学が知らなかったプトレマイオスの手法や定数をとりいれたものも出てきたが、それだけではなく、天文学の重点が計算からギリシア的な論証へと移っていった。

(本書だけを読むとズィージュはマンスールの宮廷ではじめて作られたと受けとりかねないが、『望遠鏡以前の天文学』によると、8世紀にはイスラム帝国の版図になったインドとアフガニスタンで多数のズィージュが編纂されていた。)

 ギリシア的な論証の重視はアッバース朝王権の要請だった。イスラム帝国は内部に多くのキリスト教徒やギリシア哲学を奉じる異教徒をかかえこんでいた。他方ではペルシア人が重きをなすようになっために、ペルシャ人の間に広まっていたマニ教が勢力を拡大していった。アッバース朝王権はギリシア的論証に通じた彼らに対抗してイスラム教の教理を擁護する必要があった。特に危険なのは「二元論者」と呼ばれたマニ教だった。マニ教はグノーシス主義やゾロアスター教の影響を受けて生まれた新しい宗教だったが、論理的に一貫しており、キリスト教の教父が多くの論駁書を書かねばならないほど教理問答に長けていた。

 アッバース朝の宮廷はギリシアの学問をおさめた知識人を顧問として招き、彼らの助言を通じて帝国内のさまざまな声を汲みあげたが、この統治システムはアッバース朝の後の政権でも踏襲されたという。

 最後の章ではイスラム天文学ではじまった『アルマゲスト』批判がコペルニクスに影響をあたえた可能性に言及しているが、史料が乏しいこともあって可能性にとどまっている。

→bookwebで購入

2010年12月25日

『望遠鏡以前の天文学』 ウォーカー編 (恒星社厚生閣)

望遠鏡以前の天文学 →bookwebで購入

 天文学は望遠鏡の登場で大きく変わったが、本書は望遠鏡以前の天文学を17章にわけて通覧した論集である(邦訳版は13章)。副題に「古代からケプラーまで」とあるが、ヨーロッパだけではなく、インド、イスラム圏、極東(中国・朝鮮・日本)、さらには邦訳では割愛されてはいるが、マヤ、アステカ、アフリカ、大洋州(アボリジニー・ポリネシア・マオリ)、先史巨石文明時代のヨーロッパまでおさえている。この目配りのよさは大英帝国の遺産かもしれない。

 執筆者も多岐にわたり、英米の大学や博物館に籍をおく天文学史、科学史、古典学、考古学の専門家が参加している。中には天文学を専攻したことのある投資家という肩書の人もいるが、趣味で研究をつづけているのだろうか。

 個別に見ていこう。

「エジプトの天文学」(ウェルズ)

 古代エジプト人は一年を365日とする暦を用いていたり、星の位置によってナイル河の氾濫の時期を予測するなど、高度な天文知識を有していたが、その知識は神話とないまぜになっていた。古代エジプト人は天の川を裸の女神ヌウトに見立て、春分の日の日没地点と重なる双子座を口に、冬至の日に日出地点と重なる白鳥座のデネブを産道の出口に擬していた。春分から冬至までは人間の妊娠期間にほぼ等しいことから、古代エジプト人は一陽来復を女神ヌウトの出産と考えていたという。

 エジプト文明は長大なナイル河流域で発展したので北のデルタ地帯の上エジプトと南の溪谷地帯の下エジプトにわかれるが、暦も上エジプトの太陽太陰暦と下エジプトの太陽恒星暦にわかれていた。上下エジプトが古王国時代に統一されると下エジプトの暦が上エジプトの暦の特徴をとりこみながらエジプト全土に広まっていった。

「メソポタミアの天文学と占星術」(ブリトン&ウォーカー)

 牡羊座、牡牛座、双子座、蟹座……という星占いでおなじみの十二星座はメソポタミアの先住民族、シュメール人の文化にさかのぼる。メソポタミアは天文学と占星術の揺籃の地だった。

 シュメール人を征服したバビロニア人は天体観測を引きつぎ、宗教上大きな存在だった月の運行を予想しようとした。曲線を折れ線で近似する概算法や60進法はバビロニア人の遺産である。ギリシア天文学がメソポタミアの天文学から受けた影響は従来いわれていた以上のものがあるらしい。

「プトレマイオスとその先行者たち」(トゥーマー)

 古代ギリシアではポリスごとにばらばらの暦をもちいており、誤差も大きかった。遅くともBC6世紀にはメソポタミアの天文知識がはいってきていたが、暦の精緻化や統一といった実用的な方向には進まず、天球という透明な殻が入れ子になる宇宙モデルの構築の方に進んだ。

 ここで問題になるのは惑星の逆行現象だが、同心球理論で最初の答えをあたえたのがエウドクソスである(同心球理論はいろいろな説明を読んできたが本書が一番わかりやすい)。同心球理論はどうパラメータをいじっても火星の逆行を説明できないそうで、周天円理論と離心円理論にとってかわられることになる。

 エウドクソスの300年後、ニケア生まれのヒッパルコスが周天円理論と離心円理論を集大成した。彼はメソポタミアから生の観測データと数学モデルを手にいれ、太陽と月の大きさを計算した。彼はまた基本的な観測器具であるアストロラーブを発明し、天文計算を簡略化する三角表を作った。

 さらに300年後、プトレマイオスが『アルマゲスト』によってギリシア天文学を集大成する。プトレマイオス自身は『アルマゲスト』が決定版とは考えておらず、後世の人々に修正されることを望んでいたというが、結果的に1500年にわたって崇められつづけ、ローマ教皇庁公認の宇宙モデルともなった。

「エトルリアとローマの天文学」(ポター)

 ローマ人は他の学問同様、天文学でもギリシアを踏襲しただけだったが、イタリア半島の先住民族であるエトルリア人の迷信好きの影響からか、占星術になみなみならぬ関心を寄せるようになる。占星術師は「カルデア人」と呼ばれ、東方の密議宗教とともに流行し、ストア派にまでとりいれられるようになった。

 東方宗教の一つであるキリスト教が勝利をおさめると占星術は逆に排撃されるようになったが、学問としてプトレマイオスの体系を学ぶことは推奨された。

「ギリシア後期およびビザンツの天文学」(ジョウンズ)

 東地中海世界は1453年のコンスタンティノープル陥落までギリシア語が支配的だったが、古代末期からルネサンスにいたる1300年の間に知的中心はアレクサンドリアからコンスタンティノープルに移り、宗教は異教からキリスト教に交替した。

 『プトレマイオス表』と『簡易表』は古代末期に急速に普及したが、バビロニアの計算方式に完全にとってかわることはなかった。プトレマイオスは難しすぎたので簡単に使えるバビロニア方式との併用がつづいたのである。

 『アルマゲスト』を改良しようという動きはなかったが、注釈書や手引書は多数書かれた。中でも高い水準にあるのは新プラトン派のプロクロスによるものだという。

 ビザンチン帝国時代になるとヘラクレイオス帝が天文学の空白地帯だったコンスタンティノープルにアレクサンドリアのステファノスを招いた。ヘラクレイオス帝はコンスタンティノープルの緯度で使える『簡易表』の著者に擬せられているが、実際の著者はステファノスだったらしい。

 この後、偶像崇拝破壊運動などがあってコンスタンティノープルの天文学は途絶えるが、9世紀になってギリシア語の学問が復活する。パピルスの巻物で保存されて来た写本は長持する羊皮紙の冊子に書き写された。イスラム圏がギリシア語文献を貪欲に移入したのもこの頃である。

 11世紀になるとイスラム圏で独自に発展した天文学を輸入しようという動きがはじまり、『プトレマイオス表』とは異なる数値(ダマスクスでイスラム天文学者が観測した数値)が天文計算にあらわれるようになる。ビザンツ天文学はプトレマイオスの体系を発展させずにそのまま伝えたことに意義があるとされてきたが、後期には独自の展開が見られたことは特筆に値する。しかし第四回十字軍の略奪と1453年のコンスタンティノープル陥落でギリシア人学者とギリシア語写本は西方に流出し、ビザンチン天文学は終幕をむかえる。

「紀元後千年間のヨーロッパの天文学:考古学的記録」(フィールド)

 本書は文献記録中心だが、本章は考古学的遺物として残っていたり絵画の中に描かれている天体観測器具をとりあげている。天球儀や日時計などだが、特筆すべきはオーパーツとして有名な「アンティキテラの機械」である。

 「アンティキテラの機械」とは1901年にアンティキテラ島沖の沈没船の中から引きあげられた青銅製の歯車装置である。あまりにも複雑かつ精巧にできていたので古代の遺物とはなかなか認められなかったが、1950年代になってX線写真で歯車と銘文が確認されて研究が本格化し、現在では天文計算をおこなうための機械式計算機だろうと推測されている。

「インドの天文学」(ピングリー)

 暦を改良する試みはヴェーダ時代からあったが、インドで天文学が本格的に研究されはじめるのはギリシアの植民都市経由でメソポタミア天文学と占星術が移入されてからである。占星術はインドに定着し、天文計算の必要からインド独自のサンスクリット天文学が発展した。

 さまざまな学派が興ったが、5世紀にアールヤバタという大天文学者があらわれ、アールヤ学派とアールダラートリカ学派という二つの学派を創始した。アールヤ学派は南インドで栄えたが、アールダラートリカ学派はサーサーン朝ペルシアに伝わり初期イスラム天文学に多大な影響をあたえたという。

 19世紀末までは占星術師や暦製作者は伝統的なインド天文学の天文表を使いつづけたが、20世紀にはいると西洋から移入された近代天文学に変わっていった。

「イスラーム世界の天文学」(キング)

 近年、ヨーロッパ中心主義への反省からイスラム科学と、イスラム科学がルネサンスにあたえた影響が見直されているが、天文学史の世界でもイスラム天文学に注目が集まっている。本章はわずか40ページの小編ながらイスラム天文学の濫觴から独自の発展、ヨーロッパに対する影響までコンパクトにまとめている。

 アラブ民族は砂漠の民なのでもともと天文に対する関心が深く、月の満ち欠けなど天文知識をもっており、『コーラン』にも太陽や月、星が言及されている。断食月のはじまりと終りも月の観測にもとづいている。イスラム帝国が成立すると、帝国の各地に残っていたヘレニズム天文学の遺産をとりこみ、しだいに独自の天文学が発展していった。

 最初にアラビア語の天文学書が作られたのはインドとアフガニスタンで、インド天文学にもとづくものと『アルマゲスト』にもとづくものがあった。

「中世ヨーロッパの天文学」(ペーゼルセン)

 キリスト教世界では占星術は迷信の烙印を押され、古代の伝統は途絶えてしまった。天文学は大学の前身となった司教座聖堂学校で自由七科の一部として教えられるにとどまったが、スペインからアラビア語に翻訳されたギリシア天文学の文献が輸入されるようになった。11世紀にはイスラム圏からアストロラーブという天球儀を平面投影した多機能観測器具がもちこまれた。

 各地で大学が設立されアリストテレスの学問が研究されるようになると地球中心の天球理論が広まったが、プトレマイオスの複雑な体系と両立しないことがわかり二つの学派が生まれた。

 13世紀には占星術が復活し、占星術師(mathematician)が職業として確立した。占星術師は宮廷や都市に雇われ、星占いだけでなく土地の測量や度量器の管理者の役割もつとめた。

「ルネサンスの天文学」(スワドロー)

 コペルニクス、ティコ・ブラーエ、ケプラーにいたるおなじみの展開をあつかった章だが、コペルニクスに先立つレギオモンタヌスを特筆大書することで新味を出している。レギオモンタヌスについては『コペルニクスの仕掛人』が詳しかったが、本書の方がずっと大きくとりあげている。

 コペルニクスについては「コメンタリオルス」の論点はイスラム天文学者がすでにとりあげており、コペルニクスが「全く先行者たちを知らなかったとは信じ難い」としている。

 コペルニクスとケプラーの天体運行理論は多くの図を使ってわかりやすく説明している。翻訳は読みやすいが、既訳のある文献の題名の訳し方が違うのは不親切である。

「中世後期およびルネサンスの天文器具」(ターナー)

 この章は観測器具の歴史をあつかう。アルミッラ天球儀、アストロラーブ、クロス・スタッフ、四分儀などだが、大航海時代がはじまると海洋上で位置を知るために不可欠な道具となり、改良され大量に生産されるようになった。


→bookwebで購入