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2010年11月28日

『プルーストとイカ』 メリアン・ウルフ (インターシフト)、『病の起源2』 (NHK出版)

プルーストとイカ
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病の起源2
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 知能に問題がなく教育も受けているのに、なぜか文字の読み書きができないディスクレシアという発達障害がある(日本語では「読字障害」もしくは「難読症」)。ディスクレシアの人の中には空間把握能力が並外れている人がいることがわかっており、すぐれた知的能力を発揮する人もすくなくない。みずからディスクレシアであることをカミングアウトしている著名人には恐龍学者のジャック・ホーナー博士、俳優のトム・クルーズやオーランド・ブルーム、スウェーデン王家らがいるし、ダ・ヴィンチやアインシュタイン、エジソンもディスクレシアだった可能性があるという。

 他の能力が正常で文字の読み書き能力だけが阻害されているのだとしたら、ディスクレシアの人は脳の文字処理過程になんらかの問題が起きていることになるだろう。ディスクレシアの原因解明は脳の文字処理のメカニズムの解明につながるのである。今日では生きている人の脳の活動をイメージング技術によってことこまかにとらえることが可能になっており、文字の本性に迫る研究がおこなわれている。今回はそうした最先端の研究を一般向けに紹介した本を二冊とりあげよう。

 一冊目の『病の起源 2』は2008年にNHKで放映されたシリーズ『病の起源』を書籍化したもので、2では読字障害、糖尿病、アレルギーをあつかっている。糖尿病とアレルギーの章も興味深いが、なんといってもすごいのは「読字障害~文字が生んだ病~」である。

 音声言語の場合、耳からはいった刺激は聴覚野で特徴がとりだされ、言語を処理する専門領域であるウェルニッケ野とブローカ野を介して前頭葉に送られ、意味が理解される。ウェルニッケ野とブローカ野は人類百万年の進化の過程で徐々に発達してきた領域で、猿人段階ですでにブローカー野にあたるふくらみが生まれていたという。

 文字言語はどうだろうか。文字言語の場合、目からはいった刺激は視覚野で形態情報を抽出された後、隣接する39野(角回)と40野で音韻イメージに変換され、ブローカー野から前頭葉に送られることがわかっている。文字言語は一度音韻イメージに変換されなければ理解されない。ディスクレシアの人は文字を音韻イメージに変換する部分でつまづくらしいのである。

 音声言語は百万年かけて進化したので専門領域を発達させることができたが、文字言語はわずか八千年の歴史しかない。人間の脳は文字を処理するようにはできていないので、文字の読み書きは個人が努力して習得しなければならないのだ。

 読字を可能にする39野・40野とはどのような領域だろうか。39野と40野は視覚野・聴覚野・運動感覚野・体性感覚野に囲まれており、こうした諸領域を統合する働きをしている。具体的には石器を製作し使いこなすために発達した領域で、文字処理は石器のための領域を転用しておこなわれていたわけだ。

 『病の起源』はディスクレシアという発達障害を手がかりに文字の誕生を人類進化史に位置づけるという壮大なビジョンを描いてみせてくれたが、限られた時間で説明するためにある種の単純化がおこなわれていると見た方がいい。大筋では間違っていないだろうが、実際はこんなに割り切れた話ではないかもしれないのである。

 そのことを教えてくれるのが参考文献にもあげられていた『プルーストとイカ』である。著者のメアリアン・ウルフはディスクレシア研究と治療の第一人者で、自身もディスクレシアの子供を持つ母親である。

 本書は三部にわかれる。

 第一部「脳はどのようにして読み方を学んだか?」は文字の誕生からアルファベットの完成までをたどった文字史だが、専門外だからだろうか、あまり出来がよくない。いかにも自信なさげで見通しが悪く、疑問符をつけたくなるような箇所もないわけではない。文字史については『病の起源』の方の簡潔な叙述の方がはるかにすぐれている。

 第二部「脳は成長につれてどのように読み方を学ぶか?」は著者の専門だけに叙述が見違えるように生き生きとしてくる。脳の文字処理過程はミリ秒単位で追跡されており、『病の起源』で図式化されていたような単純な話ではないことがわかる。

 文字を読み書きはなれてくればより滑らかに、より容易におこなわれるようになってくる。それは脳が文字にあわせて自らを再編成したことを意味する。文字は脳を作りかえるのだ。

 ポルトガルの研究者が辺鄙な農村地帯で実施した教育の機会がなかったので読み書きができない者と、そうした境遇にもかかわらず読み書きを習得した者との比較研究は興味深い。同じ環境で生活しながらも読み書き能力の有無によって行動学的・認知言語学的・神経学的な差があることがわかったのだ。その差の原因は脳にあった。

 この二群の被験者が六〇代に入ってから脳スキャンを行ったところ、さらに大きな相違が確認された。読み書きできない群の被験者の脳は言語課題を(記憶して解決しなければならない問題を扱う場合のように)前頭葉の脳領域で処理していたのに対し、読み書きできる被験者群は側頭葉の言語野を使用していたのだ。つまり、農村部で同じような育ち方をした人々であるのに、リテラシーを獲得したか否かで脳内での言語処理の仕方に著しい差が生じたということになる。アルファベットの原理を習得したことにより、視覚皮質のみならず、知覚、識別、分析などの聴覚・音韻機能や、言語音の表象・操作を司る脳領域においても、脳の機能の仕方が変化したわけだ。

 読み書きができる者の間でも本をたくさん読む者(本書では「熟達した読み手」と呼んでいる)と全然読まない者の間には脳に差が生まれているというから恐ろしい。

 第三部「脳が読み方を学習できない場合」は本書の一番の読みどころで、ディスレクシアを手がかりに脳の文字処理に斬りこんでいく。

 健常者でも文字を使用するかしないかで脳に違いが生まれることは第二部で示されたが、ディスクレシアの人では通常の脳の再編成が起らず、おそらくは機能代償によって別の形の再編成が起きているらしい。

 言語によってディスクレシアのあらわれ方に違いがあるという発見も興味深い。ドイツ語やスペイン語のような綴りと発音が即応している言語と英語のように不規則な言語では明かに違い後者の方が障害が重くなるのだそうである。標準語で育った子供と方言で育った子供でも障害の度合が変ってくるという。標準語話者にとっては話し言葉と書き言葉の距離は短いが、方言話者にとっては距離が大きく負担が大きいということらしい。

 ディスクレシアと遺伝の問題も正面からあつかっているが、それ以上に興味深いのは電子メディアの影響に踏みこんだ部分だ。文字使用が脳を変えたように電子メディアも脳を変える可能性がある。紙の書籍から電子書籍への移行は予想もしないような影響をもたらすかもしれないのである。

 巻末の原注は抜粋だが、完全版のPDFが出版元のサイトで公開されている。ありがたいが、版下データをそのままもってきたらしくページ付が逆で使いにくい。PDFは数回クリックするだけで作れるのだから、普通の順番で作り直してほしい。

 訳文はおおむね読みやすいが「流暢」という言葉を文字言語に使うのはおかしい。「流暢な読解」のような不自然な表現が出てくるが、編集者は何をしていたのか。

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