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2010年11月27日

『世界の文字の図典』(普及版) 世界の文字研究会 (吉川弘文館)

『世界の文字の図典』(普及版) →bookwebで購入

 図書館でよく見かける『世界の文字の図典』というぶ厚くて重い本があるが、その普及版である。紙がアート紙から普通の印刷用紙に変わり手にもって読めるようになった。価格も三分の一で個人でも手が出せる範囲である。原著は1993年に出ているが、この種の事典としては異例のロングセラーとなり四半世紀をへて普及版の出版にいたったわけだ。

 「世界の文字研究会」編となっているが、「あとがき」と最近でた読売新聞の記事によると、実質的な著者は吉川弘文館で「伝説の初代編集長」と呼ばれた故近藤安太郎氏である。

 近藤氏は1970年に近藤出版社をおこして「日本史料選書」や「世界史研究双書」、系図研究シリーズなど歴史関係の良書を多く世にだすことになるが、独立にあたってかねてから関心のあった文字に関する「楽しめながら読める本」を作ろうと思いたつ。懇意にしていた歴史学者に話をもちかけたが、文字は言語学の分野だからと印欧語学者の高津春繁氏と朝鮮語学者で文字学に造詣の深い河野六郎氏を紹介された。原稿は近藤氏が執筆し、高津・河野両氏の校閲をうけて両氏の名前で出すという方向で準備を進めたが、高津氏の急逝と本業の出版が多忙になったために、八割方できあがっていた原稿は1973年頃から中断状態になった。その後も資料の収集につとめていたが、1991年に近藤出版社が倒産してしまう。

 この時手をさしのべたのが古巣の吉川弘文館だった。八割方できているなら出そうということになったが、20年間放置していただけに完成にはさらに2年を要し1993年に上木にいたった。近藤氏は裏方に徹し高津・河野両氏の名前で出版する予定だったが、高津氏は亡くなり河野氏からは名前を外して欲しいという申しいれがあったので「世界の文字研究会」編となったということのようである。

 以前からたびたび図書館で参照していたが、手元においてみると実に楽しい本である。おりにふれてページをめくっていると、おやという情報に出くわす。検索的な使い方ではこの本の真価はわからない。装丁は事典然として厳めしいが、図版が1200点もあり狭義の文字学だけではなくローマ字の書体や書道、印刷史や点字、モールス符号の話まで出てきて文字関係の雑学がてんこ盛りだ。

 漢字については全体の1/4がさかれ、説明にくわえて「主要通用漢字表」として3300の漢字について甲骨文・金文・古文・篆書・隷書・楷書・草書・明朝体の正字・簡化字・当用漢字の各自体が、さらに中古音・拼音・広東音・越南音・朝鮮音・日本語の呉音・漢音・訓読みが一覧できるようになっている。

 これだけの情報を集めることができたのは近藤氏の編集者としての人脈があったればこそだろう。「楽しめながら読める本」を目指したということだが、その意図はみごとに果たされたといってよい。

 ただ20年近く前の本の再刊だけに古くなった部分があるのは否めない。

 1980年代に急速に解読の進んだマヤ文字が2頁しかないとか、文字の起源として注目されているシュマント=ベッセラのトークン仮説が抜けているとかは1993年という発行年代を考えれば仕方ないかもしれない。

 残念なのは文字の理論的理解が1960年代で止っている点である。表音文字と表意文字という時代遅れの二項対立を軸にしているが、クルマスのように表語文字、音節文字、音素文字の三分類をとるべきだった。ヒエログリフと漢字について「表語文字であるが、実はこれを表意文字という」と書いているが、それではゲルプが表語文字という用語をもちだした意味がなくなるし、本書の監修者に予定していたという河野六郎氏が『文字論』で展開した表語に関する透徹した議論を理解していたとは思えない。

 もっと親しみやすい明るい装丁にしてほしかったとか注文はあるが、これだけの本は世界的にも珍らしいし、今後出る可能性もないだろう。文字に興味のある人はぜひ座右にそなえておくべき本だ。

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