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2010年11月30日

『プラトン序説』 ハヴロック (新書館)

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 オングの『声の文化と文字の文化』でたびたび引用され、考察の重要な柱になっていた本だが、驚くべきことが書いてある。プラトンの時代はギリシアが口誦文化と文字文化が激突した知的革命の最終段階にあたり、プラトンは新興の文字文化の側に立って旧来の口誦文化と戦ったというのだ。

 デリダの『グラマトロジー』以来、プラトンは音声中心主義と文字抑圧の元凶とされてきたが、そのプラトンが文字陣営の立役者だったというのである。

 プラトンが文字を告発したのは『パイドロス』と『第七書簡』においてだが、ハヴロックが注目するのは『国家』のプラトンである。プラトンは哲学者が支配する理想国を描きだすが、詩人をその理想国から締めだした。詩人追放は他愛のない枝葉と見る人もいるが、ハヴロックは『国家』は政治批判ではなく教育制度批判の書であり、詩人と哲学者はパイデイア(教育・教養)の主導権をめぐって対立していたとする。

 ハヴロックは『イリアス』に代表される叙事詩が単なる気晴らしではなく、若者にギリシアの歴史や地理、諸王家の系譜、しきたり、処世術、航海術等々の知識を伝えるメディアの役割を果たしていたことを論証していく。叙事詩は教科書であり百科事典、民族の知恵の宝庫だったのだ。

 ギリシア人は紀元前18世紀から紀元前12世紀まで独自の音節文字をもっていたが、蛮族侵入によってミケーネ文明が崩壊するとともに文字の知識を失ってしまう。ギリシア史の暗黒時代、文化の継承は韻律と決まり文句によって堅牢となった口誦詩に頼るしかなかった。

 紀元前9世紀頃、ギリシア人はフェニキア人から単子音文字を学び、母音字をつけくわえてアルファベットを作りだすが、アルファベットが社会に根づくには300年から400年を要した。読み書き能力がようやく一般化したのはペロポネソス戦争末期のことである。プラトンが活躍したのはその一世代後であり、詩人が主導した口誦文化が文字文化に最終的に交代する時期にあたっていた。

 文字文化の浸透はギリシア人の意識のあり方も変えていく。ソクラテスの問答法は口頭でおこなわれたが、ハヴロックによれば文字による意識の覚醒をうながした。

 紀元前五世紀後半のある知識人グループ全体にこのようなかたちで採用されたと推定される対話法とは、意識をその夢の言語から目覚めさせ、抽象的な思考へと意識を鼓舞するための武器だったのである。こうして、「私がアキレウスと一体化する」という考え方よりも、むしろ「私がアキレウスについて考える」という考え方が生まれてきた。

ソクラテス的精神状態がホメロス的精神状態にとってかわったのである。

 この時重要な役割をはたしたのが「プシュケー」という言葉だった。もともと「空気」をあらわした「プシュケー」という語はソクラテスからプラトンにいたる時期に「魂」をあらわすように変化したことが知られているが(アリストパネスは『雲』や『鳥』で「プシュケー」の新しい意味をからかっている)、ハヴロックは「プシュケー」の語義の変化の背景には文字による意識の変容があったとしている。

 ソクラテスの精力の大部分はおそらく、すべての経験をイメージ連鎖で表現してきた詩的な基盤からいまやみずからを批判的に切離しつつあった思考する主観(プシュケー)を定義することに費やされた。そして、思考する主観はこのようにみずからを切離すにつれて、みずからの経験の新しい内容を形成する思想ないし抽象物について思考するようになる。ソクラテスにとってこれらの概念がイデアになったという当時の証拠は見当らない。これはプラトンがつけ加えたことだとみなすほうが安全であろう。

 ハヴロックはそこまで書いていないが、『パイドロス』で文字批判の根拠とされた「プシュケー」は文字の産物ということになるのだろうか。デリダの音声中心主義批判とはなんだったのか。もう一度『パイドロス』を読み直した方がよさそうだ。

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2010年11月29日

『声の文化と文字の文化』 オング (藤原書店)

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 欧米で文字学が散発的な試みにとどまり学問として確立していないのはソシュールに典型的に見られるように、文字言語は音声言語の写しにすぎず、たいして重要ではないとする考えが根強いからである。文字がつけくわわったのは人類の歴史では比較的新しく、文字をもたない言語の方が圧倒的に多いこと、文字をもっている言語でも文字の読み書きができる人は最近まで少数にすぎなかったことが傍証とされている。文字があろうとなかろうと、音声言語はびくともしないというわけだ。

 しかし『プルーストとイカ』があきらかにしたように、文字の読み書きができるようになった人間は脳の構造が文字にあわせて再編成されている。文字は単なる写しどころか、人間の脳を作りかえてしまうのだ。文字を知る前と後とでは思考のありようが変わっている可能性があるのだ。

 本書は三十年近く前に出版された本だが、文字が人間の意識・文化・音声言語におよぼした決定的な影響をさまざまな角度から探っており、脳科学以前にもわかる人にはここまでわかっていたのかと驚かされる。著者のオングは16世紀に記憶術の再編成をおこなったラムスの専門家というから、文字以前と文字以後という問題意識は記憶術の関連で着想したものだろう。

 文字以前といっても、われわれはすでに文字によって汚染されているから、無文字社会や無文字時代に作られた口承文芸、文字の読み書きのできない人の観察などによってしか接近できない。

 オングが文字以前を考察する柱としているのは1930年代に中央アジアの奥地でフィールドワークしたルリアの研究と古代ギリシアの口誦文化の終焉を跡づけたハヴロックの『プラトン序説』である。

 ルリアはハンマー、のこぎり、丸太、手斧を示しグループわけしてもらったところ、読み書きのできない者は丸太だけを別グループにすることができなかったという。

 ハンマー、のこぎり、手斧が道具で、丸太が材料だということがわからないのは読み書きのできない被験者がバカだからだろうか? 被験者はルリアにこう答える。

「みんな似たり寄ったりだよ。のこぎりは丸太をひけるし、手おのだった丸太をたたき割れる。どっちか捨てろというんなら、手おのかな。のこぎりのほうがいろんな仕事ができるもんな」ハンマーも、のこぎりも、手おのも、みな道具だときかされても、かれは、そういうカテゴリーによる分類には関心を示さず、あいかわらず状況依存的な思考にこだわりつづける。「なるほどね。でもあれだよ、道具なんかあったってそれだけじゃどうしようもないぜ。やっぱり材木がなきゃはなしにならないよ」

 ルリアは被験者にカテゴリーにもとづくグループわけをなんとか教えこもうとしたが、彼らはそうした抽象的な分類には興味がなく、状況依存的というか実用本位の思考にこだわりつづけた。どちらがすぐれているかではなく、文字以前と文字以後はまったく別の世界なのである。

 書くことを内面化した人は、書くときだけでなく話すときも、文字に書くように話す。つまり、かれらは、程度のちがいはあれ、書くことができなければけっして知らなかったような思考やことばの型にしたがって、口頭の表現までも組織しているのである。文字に慣れた人びとは、口頭で組み立てられている思考が、こうした型にしたがわないという理由で、それを素朴なものと考えてきた。しかしながら、口頭による思考は、きわめて洗練されたものでもありうるし、それ独自のしかたで反省的でさえありうる。

 文字に汚染された人間は文字に汚染された言葉しか喋れなくなっている。無文字社会や無文字時代の口承文芸は繰返しと無意味な決まり文句が多いが、それを幼稚と見るのは文字以後の偏見だろう。

 カテゴリーと形式論理はアリストテレスによって確立されたが、アリストテレスが登場したのはギリシアでアルファベットが発明されてから300年ほど後のことだ。約300年の間にギリシア人はアルファベットを内面化し、文字世界にはいりこんでいった。

 アリストテレスの師であるプラトンは文字の影響力に警戒を隠さなかったし、プラトンの師であるソクラテスにいたっては文字をはっきり否定していた。本書はソクラテスとプラトンの文字批判を考察の重要な柱としているが、この二人の系譜を継ぐアリストテレスは皮肉にも文字以後の思考の基盤をすえたのである。

 アリストテレスの『詩学』は悲劇を論じているが、クライマックスに向かって一直線にのぼりつめていく構造は文字言語なくしては不可能である。悲劇は朗誦されるとはいえ、文字によって完全にコントロールされた最初の言語芸術だった。アリストテレスは文字言語による最初の文芸の理論家でもあったのである。

 とはいえ文字が本領を発揮するのは印刷が普及してからだ。本書の後半は印刷の考察にあてられているが、前半の緻密な展開にくらべてちょっと駈け足になっている印象を受けた。最後の最後に電子メディアの可能性に言及しているが、1982年という発表年を考えると言及したこと自体が慧眼といえよう。

 文明史的な問題に正面から取りくんだ堂々たる著作だが、意外に小ネタが多い。悲劇の次に登場した文字でコントロールされた文学作品はポオの「モルグ街の殺人」だとか(推理小説以前の小説はエピソードの寄せあつめで構成という概念がなかった)、索引が意味を持つようになったのは印刷以後だとか(手写本では本ごとにページ付が違うので本ごとに索引を作らなければならない)、ニュー・クリティシズムには戦うべきオールド・クリティシズムがなかった(英語の文学がアカデミズムの対象になったのはニュー・クリティシズムとほぼ同時期)とか最後までおもしろく読んだ。翻訳はこの種の本としては異例に読みやすい。

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2010年11月28日

『プルーストとイカ』 メリアン・ウルフ (インターシフト)、『病の起源2』 (NHK出版)

プルーストとイカ
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病の起源2
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 知能に問題がなく教育も受けているのに、なぜか文字の読み書きができないディスクレシアという発達障害がある(日本語では「読字障害」もしくは「難読症」)。ディスクレシアの人の中には空間把握能力が並外れている人がいることがわかっており、すぐれた知的能力を発揮する人もすくなくない。みずからディスクレシアであることをカミングアウトしている著名人には恐龍学者のジャック・ホーナー博士、俳優のトム・クルーズやオーランド・ブルーム、スウェーデン王家らがいるし、ダ・ヴィンチやアインシュタイン、エジソンもディスクレシアだった可能性があるという。

 他の能力が正常で文字の読み書き能力だけが阻害されているのだとしたら、ディスクレシアの人は脳の文字処理過程になんらかの問題が起きていることになるだろう。ディスクレシアの原因解明は脳の文字処理のメカニズムの解明につながるのである。今日では生きている人の脳の活動をイメージング技術によってことこまかにとらえることが可能になっており、文字の本性に迫る研究がおこなわれている。今回はそうした最先端の研究を一般向けに紹介した本を二冊とりあげよう。

 一冊目の『病の起源 2』は2008年にNHKで放映されたシリーズ『病の起源』を書籍化したもので、2では読字障害、糖尿病、アレルギーをあつかっている。糖尿病とアレルギーの章も興味深いが、なんといってもすごいのは「読字障害~文字が生んだ病~」である。

 音声言語の場合、耳からはいった刺激は聴覚野で特徴がとりだされ、言語を処理する専門領域であるウェルニッケ野とブローカ野を介して前頭葉に送られ、意味が理解される。ウェルニッケ野とブローカ野は人類百万年の進化の過程で徐々に発達してきた領域で、猿人段階ですでにブローカー野にあたるふくらみが生まれていたという。

 文字言語はどうだろうか。文字言語の場合、目からはいった刺激は視覚野で形態情報を抽出された後、隣接する39野(角回)と40野で音韻イメージに変換され、ブローカー野から前頭葉に送られることがわかっている。文字言語は一度音韻イメージに変換されなければ理解されない。ディスクレシアの人は文字を音韻イメージに変換する部分でつまづくらしいのである。

 音声言語は百万年かけて進化したので専門領域を発達させることができたが、文字言語はわずか八千年の歴史しかない。人間の脳は文字を処理するようにはできていないので、文字の読み書きは個人が努力して習得しなければならないのだ。

 読字を可能にする39野・40野とはどのような領域だろうか。39野と40野は視覚野・聴覚野・運動感覚野・体性感覚野に囲まれており、こうした諸領域を統合する働きをしている。具体的には石器を製作し使いこなすために発達した領域で、文字処理は石器のための領域を転用しておこなわれていたわけだ。

 『病の起源』はディスクレシアという発達障害を手がかりに文字の誕生を人類進化史に位置づけるという壮大なビジョンを描いてみせてくれたが、限られた時間で説明するためにある種の単純化がおこなわれていると見た方がいい。大筋では間違っていないだろうが、実際はこんなに割り切れた話ではないかもしれないのである。

 そのことを教えてくれるのが参考文献にもあげられていた『プルーストとイカ』である。著者のメアリアン・ウルフはディスクレシア研究と治療の第一人者で、自身もディスクレシアの子供を持つ母親である。

 本書は三部にわかれる。

 第一部「脳はどのようにして読み方を学んだか?」は文字の誕生からアルファベットの完成までをたどった文字史だが、専門外だからだろうか、あまり出来がよくない。いかにも自信なさげで見通しが悪く、疑問符をつけたくなるような箇所もないわけではない。文字史については『病の起源』の方の簡潔な叙述の方がはるかにすぐれている。

 第二部「脳は成長につれてどのように読み方を学ぶか?」は著者の専門だけに叙述が見違えるように生き生きとしてくる。脳の文字処理過程はミリ秒単位で追跡されており、『病の起源』で図式化されていたような単純な話ではないことがわかる。

 文字を読み書きはなれてくればより滑らかに、より容易におこなわれるようになってくる。それは脳が文字にあわせて自らを再編成したことを意味する。文字は脳を作りかえるのだ。

 ポルトガルの研究者が辺鄙な農村地帯で実施した教育の機会がなかったので読み書きができない者と、そうした境遇にもかかわらず読み書きを習得した者との比較研究は興味深い。同じ環境で生活しながらも読み書き能力の有無によって行動学的・認知言語学的・神経学的な差があることがわかったのだ。その差の原因は脳にあった。

 この二群の被験者が六〇代に入ってから脳スキャンを行ったところ、さらに大きな相違が確認された。読み書きできない群の被験者の脳は言語課題を(記憶して解決しなければならない問題を扱う場合のように)前頭葉の脳領域で処理していたのに対し、読み書きできる被験者群は側頭葉の言語野を使用していたのだ。つまり、農村部で同じような育ち方をした人々であるのに、リテラシーを獲得したか否かで脳内での言語処理の仕方に著しい差が生じたということになる。アルファベットの原理を習得したことにより、視覚皮質のみならず、知覚、識別、分析などの聴覚・音韻機能や、言語音の表象・操作を司る脳領域においても、脳の機能の仕方が変化したわけだ。

 読み書きができる者の間でも本をたくさん読む者(本書では「熟達した読み手」と呼んでいる)と全然読まない者の間には脳に差が生まれているというから恐ろしい。

 第三部「脳が読み方を学習できない場合」は本書の一番の読みどころで、ディスレクシアを手がかりに脳の文字処理に斬りこんでいく。

 健常者でも文字を使用するかしないかで脳に違いが生まれることは第二部で示されたが、ディスクレシアの人では通常の脳の再編成が起らず、おそらくは機能代償によって別の形の再編成が起きているらしい。

 言語によってディスクレシアのあらわれ方に違いがあるという発見も興味深い。ドイツ語やスペイン語のような綴りと発音が即応している言語と英語のように不規則な言語では明かに違い後者の方が障害が重くなるのだそうである。標準語で育った子供と方言で育った子供でも障害の度合が変ってくるという。標準語話者にとっては話し言葉と書き言葉の距離は短いが、方言話者にとっては距離が大きく負担が大きいということらしい。

 ディスクレシアと遺伝の問題も正面からあつかっているが、それ以上に興味深いのは電子メディアの影響に踏みこんだ部分だ。文字使用が脳を変えたように電子メディアも脳を変える可能性がある。紙の書籍から電子書籍への移行は予想もしないような影響をもたらすかもしれないのである。

 巻末の原注は抜粋だが、完全版のPDFが出版元のサイトで公開されている。ありがたいが、版下データをそのままもってきたらしくページ付が逆で使いにくい。PDFは数回クリックするだけで作れるのだから、普通の順番で作り直してほしい。

 訳文はおおむね読みやすいが「流暢」という言葉を文字言語に使うのはおかしい。「流暢な読解」のような不自然な表現が出てくるが、編集者は何をしていたのか。

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2010年11月27日

『世界の文字の図典』(普及版) 世界の文字研究会 (吉川弘文館)

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 図書館でよく見かける『世界の文字の図典』というぶ厚くて重い本があるが、その普及版である。紙がアート紙から普通の印刷用紙に変わり手にもって読めるようになった。価格も三分の一で個人でも手が出せる範囲である。原著は1993年に出ているが、この種の事典としては異例のロングセラーとなり四半世紀をへて普及版の出版にいたったわけだ。

 「世界の文字研究会」編となっているが、「あとがき」と最近でた読売新聞の記事によると、実質的な著者は吉川弘文館で「伝説の初代編集長」と呼ばれた故近藤安太郎氏である。

 近藤氏は1970年に近藤出版社をおこして「日本史料選書」や「世界史研究双書」、系図研究シリーズなど歴史関係の良書を多く世にだすことになるが、独立にあたってかねてから関心のあった文字に関する「楽しめながら読める本」を作ろうと思いたつ。懇意にしていた歴史学者に話をもちかけたが、文字は言語学の分野だからと印欧語学者の高津春繁氏と朝鮮語学者で文字学に造詣の深い河野六郎氏を紹介された。原稿は近藤氏が執筆し、高津・河野両氏の校閲をうけて両氏の名前で出すという方向で準備を進めたが、高津氏の急逝と本業の出版が多忙になったために、八割方できあがっていた原稿は1973年頃から中断状態になった。その後も資料の収集につとめていたが、1991年に近藤出版社が倒産してしまう。

 この時手をさしのべたのが古巣の吉川弘文館だった。八割方できているなら出そうということになったが、20年間放置していただけに完成にはさらに2年を要し1993年に上木にいたった。近藤氏は裏方に徹し高津・河野両氏の名前で出版する予定だったが、高津氏は亡くなり河野氏からは名前を外して欲しいという申しいれがあったので「世界の文字研究会」編となったということのようである。

 以前からたびたび図書館で参照していたが、手元においてみると実に楽しい本である。おりにふれてページをめくっていると、おやという情報に出くわす。検索的な使い方ではこの本の真価はわからない。装丁は事典然として厳めしいが、図版が1200点もあり狭義の文字学だけではなくローマ字の書体や書道、印刷史や点字、モールス符号の話まで出てきて文字関係の雑学がてんこ盛りだ。

 漢字については全体の1/4がさかれ、説明にくわえて「主要通用漢字表」として3300の漢字について甲骨文・金文・古文・篆書・隷書・楷書・草書・明朝体の正字・簡化字・当用漢字の各自体が、さらに中古音・拼音・広東音・越南音・朝鮮音・日本語の呉音・漢音・訓読みが一覧できるようになっている。

 これだけの情報を集めることができたのは近藤氏の編集者としての人脈があったればこそだろう。「楽しめながら読める本」を目指したということだが、その意図はみごとに果たされたといってよい。

 ただ20年近く前の本の再刊だけに古くなった部分があるのは否めない。

 1980年代に急速に解読の進んだマヤ文字が2頁しかないとか、文字の起源として注目されているシュマント=ベッセラのトークン仮説が抜けているとかは1993年という発行年代を考えれば仕方ないかもしれない。

 残念なのは文字の理論的理解が1960年代で止っている点である。表音文字と表意文字という時代遅れの二項対立を軸にしているが、クルマスのように表語文字、音節文字、音素文字の三分類をとるべきだった。ヒエログリフと漢字について「表語文字であるが、実はこれを表意文字という」と書いているが、それではゲルプが表語文字という用語をもちだした意味がなくなるし、本書の監修者に予定していたという河野六郎氏が『文字論』で展開した表語に関する透徹した議論を理解していたとは思えない。

 もっと親しみやすい明るい装丁にしてほしかったとか注文はあるが、これだけの本は世界的にも珍らしいし、今後出る可能性もないだろう。文字に興味のある人はぜひ座右にそなえておくべき本だ。

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