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2010年09月28日

『デカルト伝』 ロディス=レヴィス (未來社)

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 デカルト研究の第一人者、ジュヌヴィエーブ・ロディス=レヴィスによる伝記である。ロディス=レヴィスは大著『デカルトの著作と体系』(紀伊國屋書店、絶版)とクセジュ文庫の『デカルトの合理主義』(白水社)が邦訳されている。

 デカルトの伝記は1691年に刊行されたバイエの『デカルト伝』(講談社、絶版)が長らく決定版とされ、今でも準一次資料としてあつかわれているが、本書はそのバイエに代わる新たな決定版伝記という評価が定まっているという(小林道夫『デカルト入門』でもそういうあつかいだ)。

 わたしが本書を手にとったのはダヴィデンコの破天荒な伝記小説『快傑デカルト』にどの程度信憑性があるかを確かめたかったからだが、結論はすぐに出た。ロディス=レヴィスは「プロローグ」の末尾に「デカルトの伝記作者たち」という補説をつけ、デカルト没後3年目にでたリプシュトルプから今日にいたる代表的な伝記を俎上に載せているが、「近年では主観的で、偏っていて、しかも攻撃的な視点が盛んに見られるようになった」とし、その中でも最悪のものとしてダヴィデンコの本に言及している。ダヴィデンコはデカルトと聖秘蹟会の敵対関係を後半の軸にしているが、デカルトのスウェーデン招聘に奔走しストックホルム到着後は自宅に泊めて世話を焼いたシャニュは聖秘蹟会の一員だった。ダヴィデンコは新発見の事実をいくつかとりこんでいるものの、間違った読み筋で物語を組み立てていたのである。ロディス=レヴィスは「この著作がすでにあまりにも多くの好奇心を呼び起してしまっているのでなければ、われわれはむしろそれについて沈黙を守るほうを選んだであろう」と吐き捨てるように書いている。

 デカルト家が貴族ではなかったのに貴族とされていた件だが、バイエが祖父のピエール・デカルトを同郷同名の貴族と誤認したのが原因だった。ピエールは医者でフランソワ一世の王妃のエレオノールの侍医をつとめたジャン・フェランの娘と結婚したが、腎臓炎と膀胱結石で早世した。曾祖父にあたるジャン・フェランはピエールの遺体を解剖し、ラテン語の論文の中で所見を報告したという。解剖したということは外科医だったのだろうか。それとも医師であるにもかかわらず解剖したのだろうか。デカルト自身は30代半ばになるまで医学に関心を見せなかったが、科学探求心は隔世遺伝したようである。

 デカルト家は医業で財をなしたが、当時は医者は社会的評価が高くはなく貴族の称号をもつ者は稀だった。デカルトの父ジョワシャンは大学では医学部より格の高い法学部で学び、官職を買って法官となった(当時の官職は買うか相続するものだった)。三代つづけて法官になれば貴族に叙せられた。デカルト家が貴族となるのは1668年(デカルトの死の18年後)のことである。

 デカルト家は貴族への階段をのぼりはじめた新興ブルジョワジーで、デカルトとその兄は一族の期待をになってアンリ四世の肝煎で作られた名門ラ・フレーシュ学院から法学で有名なポワチエ大学にすすむ。

 兄は法官となるが、デカルトはエリートコースを捨てた。もし望めば子供のいない代父ルネ・ブロシャールの官職を相続することができたろうが(ブロシャールはデカルト25歳の時に亡くなるが、デカルトが相続しなかったので官職は売却されている)、彼はオランダでオラニエ公マウリッツ・フォン・ナッサウの軍の志願兵となった。今なら東大法学部を卒業してフランス外人部隊にはいるようなものだ。

 通説では親の意向で箔をつけるために軍にはいったとされてきたが、デカルトは貴族ではなかったので箔づけとなるような地位に出世する見こみはなかった。親の意向どころかむしろ親の反対を押し切って軍隊にはいったと見るべきだろう。

 なぜデカルトは法職の道からはずれたのか。ロディス=レヴィスは『方法序説』の「法学、医学および他の諸学はそれらを修める人々に名誉と富をもたらす」という一節から金になる仕事を嫌ったのだろうと推測している(彼が正業につかずに哲学研究をつづけることができたのは父祖が医学と法学で稼いでくれたおかげなのだが)。

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