« 2010年08月 | メイン | 2010年11月 »

2010年09月30日

『デカルト、コルネーユ、スウェーデン女王クリスティナー-一七世紀の英雄的精神と至高善の探求』 カッシーラ (工作舎)

デカルト、コルネーユ、スウェーデン女王クリスティナー-一七世紀の英雄的精神と至高善の探求 →bookwebで購入

 哲学者デカルト、劇作家コルネーユ、女王クリスティナの三人を通して17世紀の時代精神を読みとろうとする試みである。本書は仏訳版からの邦訳で原著の一部が割愛されているが、重訳ながら訳文はカッシーラの重厚な風格をよく伝えている。

 原著は「デカルト主義の基本問題」という論文からはじまるが、邦訳はデカルトとコルネイユの間に影響関係はあったのかという問いにいきなりはいる。

 コルネイユはデカルトより10歳若かったが、世に知られたのはコルネイユの方がやや早く、代表作である『ル・シッド』の初演は『方法序説』の刊行された年である。コルネイユが新進劇作家として注目を集めはじめた時期、デカルトはオランダにいて互いに接点はなかった。それでもデカルト哲学とコルネイユ劇に「道徳的親近性」があるとしたら、同じ時代を生きていたからという抽象的な答えをもってくるしかないだろう。ランソンいうところの「平行関係」である。

 カッシーラはデカルト哲学とコルネイユのドラマツルギーが自由というテーマを共有していると指摘した後、ストア主義という補助線を引くことによって二人がともに生きた時代を浮彫りにする。

 ルネサンスを機にストア主義復興の気運が生まれ、デカルトもコルネイユもストア主義礼讃の教育を受けたが、カッシーラは「両者のストア主義には、単なる伝統的教説の反復など認められず、独創と斬新さがありありと窺える」と断ずる。その独創とは情念の肯定である。

 古代ストア主義にとって情念は無条件に悪であり、アパテイア――情念パトスのない状態、魂の平安――が至高善とされていた。アパテイアを実現するには諦念によるしかない。

 だが『情念論』で明確になるようにデカルトにとっては情念は脳の中で動物精気が騒擾する身体現象にほかならず、身体的存在である限りのがれることはできない。デカルトは諦念による情念の抑圧ではなく、むしろ情念に情念をぶつけて積極的に情念を統御する方途を選ぶ。デカルトから見れば古代ストア主義のアパテイアは「非身体的存在のための処方」にすぎず、理想どころか「虚妄」にすぎないのである。デカルトは情念を否定する消極的・受動的な古代ストア主義を情念肯定の積極的・能動的な近代ストア主義に換骨奪胎した。

 デカルトのこの積極的・能動的ストア主義はコルネイユの「悲劇は聴衆の魂のなかに憐みと恐怖を喚起しながら、カタルシスを行わなければならない」とするドラマツルギーと通底する。

 コルネーユの主人公(英雄)を際立たせるのは、情念に対する熟慮の優越にある。どの主人公も、デカルトが『情念論』で最良の技術として称揚したもの、すなわち「魂に固有の武器」を以て情念に立ち向かう技術を、身に備え、行使する。この武器とは、コルネーユの場合にも、「明晰で判明な観念」であり、それに基づく判断である。

 カッシーラは近代的ストア主義という概念によってデカルトとコルネイユに共通する時代精神に明確な輪郭をあたえたのだ。

 クリスティナ女王はどうだろうか。

 デカルトをストックホルムに呼びよせたスウェーデン女王クリスティナは名君の誉れが高かったが、デカルトが亡くなって5年後、従兄弟のカルル十世に禅譲してカトリックに改宗してしまう。みずから王冠を棄てるというだけでも大変なことなのにプロテスタント国の女王がカトリックに宗旨変えしたのだから、古来さまざまな憶測をよび、改宗にデカルトの影響があったかどうかも議論のまとになってきたが、どうも否定論が優勢のようである。

 クリスティナはデカルトから親しく教えを受けたとはいっても、デカルトは4ヶ月で急逝している。女王は多忙なために会う時間を早朝にしか作れず、朝寝坊のデカルトを毎朝五時に宮殿の図書室に伺候させたのに、言葉をかわしたのは週に数回だけだった。ようやく気心が知れてきたところでデカルトは病にたおれた。影響を受けるほどの関係ではなかったいう見方がでてくる所以である。

 カッシーラは17世紀前半のオランダで勃興していた「近代に特有の新しい色彩を帯びた」ストア主義に光をあてることによって、デカルトとクリスティナの師弟関係が4ヶ月にとどまらない広がりと深さを有していたと指摘する。

 ユストゥス・リプシウス、ゲラルドゥス・フォシウス、スキピオス、ヘインシウス……と知らない名前を挙られてもさっぱりわからないが、カッシーラを信じるならオランダに移住したデカルトはこの伝統に四方八方から包囲されていたということだし、クリスティナの方もオランダの文献学者や人文主義者のサークルと親交を結んでいた。

 クリスティナはデカルト哲学を知る以前からストア主義の厳格さに引かれていたが、エピクテートスを尊敬すると言い条、

「しかし、凶暴な主人が単なる気晴らしのためにその片足を切ったとき、この奴隷哲学者が耐え忍んだことは許しがたい。私ならば、哲学などはものともせず、その主人の頭をたたき割ったことであろう」

と言い放つようにもともと血の気が多かったのだ。彼女が情念を肯定するデカルトの新しいストア主義と情念の自然法則を解明した『情念論』に夢中になったのは当然だろう。カッシーラは書いている。

 中世の教義では情念とは罪に他ならず、人間の原初の神聖な起源からの堕落の表れであり結果に他ならなかった。一方、ストア主義にとって情念は病気である。それは理性の不在であり、ほとんど狂気に近い状態であるとされる。デカルトの倫理はこの両極端を排する。情念を独立した目標および善としてでなく、単なる手段と見なす。情念は、人間に自然にそなわった性向であり現象である限り、疑わしいものでも非難すべきものでもない。個々の情念は、たとえどれほど危険に見えようとも、何かよい面をもっている。……中略……この方策で武装した人間は情念を避ける必要もなければ、情念との戦いに空しく身をやつす必要もない。彼はむしろ情念を生活の幸福と感じるが、情念を善用することによりその幸福にふさわしい人間になろうと努力しなければならない。

 デカルト、コルネイユ、クリスティナはこの新しいストア主義に代表される近代の胎動期に生きていたのである。

 きわめて刺激的な論考だが、それだけに邦訳で割愛された部分が気になる。原著からの全訳版が待たれる。

→bookwebで購入

2010年09月29日

『デカルトの暗号手稿』 アクゼル (早川書房)

デカルトの暗号手稿 →bookwebで購入

 デカルトがストックホルムで客死してから四半世紀がたった1676年6月1日、デカルトが最期まで手元においていた文書を秘蔵するパリのクレルスリエのもとを若きライプニッツが訪れるところから本書ははじまる。クレルスリエは独占欲が強く、それまで他人にデカルトの手稿を見せるのを拒んできたが、ハノーファー公の紹介状とライプニッツの熱心さに負けてしぶしぶ閲覧と筆写を許した。この時書きうつされた文書類の原本は後に失われ、今ではライプニッツの筆写だけで伝わるが、その中に暗号で書かれたとおぼしい『立体要素について』という覚書があった。デカルトは暗号で何を書き残したのか。

 思わせぶりなはじまり方だが、ネタバレ的なことを書いてしまうと暗号は1987年にピエール・コスターベルによって最終的に解読されている。デカルトは正四面体や正六面体、正八面体といったプラトン立体を研究し、頂点と辺と面の数の間に以下の関係がなりたつことを発見していたのだ。

頂点の数 + 面の数 - 辺の数 = 2

 デカルトはこの式がプラトン立体だけでなく、あらゆる三次元多面体で成立することに気がついた。この式は三次元空間の性質をあらわすものだったのである。

 上掲の式はオイラーの多面体定理として知られているが、デカルトはオイラーより一世紀早く多面体定理を発見していた。もし暗号にしていなかったら、デカルトはトポロジーの創始者としても歴史に名を残していたかもしれないのだ。

 なぜデカルトはせっかくの発見を暗号で隠していたのだろうか。またまたネタバレ的なことを書いてしまうと、薔薇十字団がからんでいたというのが本書の結論である。

 薔薇十字団というとトンデモ本のたぐいかと警戒する人がいるかもしれないが、本書は著者の思いこみを垂れ流したたぐいの本ではない。著者のアクゼルは『天才数学者が挑んだ最大の難問』や『偶然の確率』、『フーコーの振り子』で知られる科学ライターで、オカルト畑の人ではない。デカルトと薔薇十字団の関係については賛否両論かまびすしかったが、近年の研究では関係があったことはほぼ確からしい。アクゼルはエドゥアール・メール、リチャード・ワトソン、クルト・ハヴァリチェクらの研究を手がかりに、薔薇十字団との関係という視点からデカルトの生涯を描いている。

 鍵となるのはファウルハーバーというウルム生まれの数学者である。彼は織物職人ながら算術教室を開き、ウルム市の数学者兼測量士に抜擢されるが、要塞や水車の設計にすぐれていたが、ドイツ遍歴時代のデカルトは彼と親交を結び共同研究までしていた(ロディス=レヴィス『デカルト伝』にも出てくる)。

 ファウルハーバーは錬金術に手を染め、薔薇十字団にも関係していたことがわかっている。彼は著書の中でポピュリオスというライプニッツが筆写した手稿の中にしか出てこないデカルトの偽名に言及しているし、デカルトの方は彼から教えられたらしい秘密の記号を手稿の中で使っている。

 驚いたのはウルム人脈経由でデカルトはケプラーと出会っていた可能性があることだ。本当に出会っていたなら、なぜ書き残さなかったのだろう(ガリレイに会えなかったことは書き残している)。

 本書でもう一つ興味深いのはデカルトに対するライプニッツの愛憎半ばする思いである。ライプニッツはデカルトの公刊本だけではあきたらず『精神指導の規則』のオリジナル原稿を購入したり、クレルスリエを訪ねて未公開手稿を見せてもらったり、エリーザベト王女の妹がハノーファー公妃となるとその縁で晩年のエリーザベト王女と文通しているが、その一方、マルブランシュにデカルトをこきおろした辛辣な書簡を送ったりもしている。

 デカルトに屈折した関心をつのらせるようになったのはニュートンとの微積分の優先権争いが影響しているようだ。ライプニッツは独力で微積分をあみだしたのにニュートンをパクったようにいわれたのがこたえ、他人の影響に神経過敏になっていたらしい。ライプニッツがもっとも影響を受けたのはデカルトであるから、デカルトのすべてを知っておかないと不安で仕方なかったのだろう。

 実はライプニッツはデカルトの暗号を解いていたことがわかっている。ライプニッツは16ページある『立体要素について』を1ページ半写しただけでやめ、余白に短いメモを書き残している。暗号を解いたコンスターブルはそのメモを根拠にライプニッツが途中でやめたのは暗号が解けてそれ以上筆写する必要がなかったからだとしている。ライプニッツがパクリ不安にとりつかれていなかったら、デカルトの秘められた発見を発表していたかもしれない。

 デカルトの業績が世に出る機会はもう一回あった。決定版の伝記を書いたバイエはライプニッツがデカルトの手稿を筆写していたと聞き、内容を問い合せていたのだ。ライプニッツは内容を解説してやったが、バイエは数学がわからないので理解できず伝記にはライプニッツへの謝辞だけが書かれているという。

 本書は薔薇十字団に偏りすぎているとはいえデカルトの伝記としてよくまとまっている。ロディス=レヴィスまでは手がでないが手っとり早く最新のデカルト像を知りたいなら本書をお勧めする。

→bookwebで購入

2010年09月28日

『デカルト伝』 ロディス=レヴィス (未來社)

デカルト伝 →bookwebで購入

 デカルト研究の第一人者、ジュヌヴィエーブ・ロディス=レヴィスによる伝記である。ロディス=レヴィスは大著『デカルトの著作と体系』(紀伊國屋書店、絶版)とクセジュ文庫の『デカルトの合理主義』(白水社)が邦訳されている。

 デカルトの伝記は1691年に刊行されたバイエの『デカルト伝』(講談社、絶版)が長らく決定版とされ、今でも準一次資料としてあつかわれているが、本書はそのバイエに代わる新たな決定版伝記という評価が定まっているという(小林道夫『デカルト入門』でもそういうあつかいだ)。

 わたしが本書を手にとったのはダヴィデンコの破天荒な伝記小説『快傑デカルト』にどの程度信憑性があるかを確かめたかったからだが、結論はすぐに出た。ロディス=レヴィスは「プロローグ」の末尾に「デカルトの伝記作者たち」という補説をつけ、デカルト没後3年目にでたリプシュトルプから今日にいたる代表的な伝記を俎上に載せているが、「近年では主観的で、偏っていて、しかも攻撃的な視点が盛んに見られるようになった」とし、その中でも最悪のものとしてダヴィデンコの本に言及している。ダヴィデンコはデカルトと聖秘蹟会の敵対関係を後半の軸にしているが、デカルトのスウェーデン招聘に奔走しストックホルム到着後は自宅に泊めて世話を焼いたシャニュは聖秘蹟会の一員だった。ダヴィデンコは新発見の事実をいくつかとりこんでいるものの、間違った読み筋で物語を組み立てていたのである。ロディス=レヴィスは「この著作がすでにあまりにも多くの好奇心を呼び起してしまっているのでなければ、われわれはむしろそれについて沈黙を守るほうを選んだであろう」と吐き捨てるように書いている。

 デカルト家が貴族ではなかったのに貴族とされていた件だが、バイエが祖父のピエール・デカルトを同郷同名の貴族と誤認したのが原因だった。ピエールは医者でフランソワ一世の王妃のエレオノールの侍医をつとめたジャン・フェランの娘と結婚したが、腎臓炎と膀胱結石で早世した。曾祖父にあたるジャン・フェランはピエールの遺体を解剖し、ラテン語の論文の中で所見を報告したという。解剖したということは外科医だったのだろうか。それとも医師であるにもかかわらず解剖したのだろうか。デカルト自身は30代半ばになるまで医学に関心を見せなかったが、科学探求心は隔世遺伝したようである。

 デカルト家は医業で財をなしたが、当時は医者は社会的評価が高くはなく貴族の称号をもつ者は稀だった。デカルトの父ジョワシャンは大学では医学部より格の高い法学部で学び、官職を買って法官となった(当時の官職は買うか相続するものだった)。三代つづけて法官になれば貴族に叙せられた。デカルト家が貴族となるのは1668年(デカルトの死の18年後)のことである。

 デカルト家は貴族への階段をのぼりはじめた新興ブルジョワジーで、デカルトとその兄は一族の期待をになってアンリ四世の肝煎で作られた名門ラ・フレーシュ学院から法学で有名なポワチエ大学にすすむ。

 兄は法官となるが、デカルトはエリートコースを捨てた。もし望めば子供のいない代父ルネ・ブロシャールの官職を相続することができたろうが(ブロシャールはデカルト25歳の時に亡くなるが、デカルトが相続しなかったので官職は売却されている)、彼はオランダでオラニエ公マウリッツ・フォン・ナッサウの軍の志願兵となった。今なら東大法学部を卒業してフランス外人部隊にはいるようなものだ。

 通説では親の意向で箔をつけるために軍にはいったとされてきたが、デカルトは貴族ではなかったので箔づけとなるような地位に出世する見こみはなかった。親の意向どころかむしろ親の反対を押し切って軍隊にはいったと見るべきだろう。

 なぜデカルトは法職の道からはずれたのか。ロディス=レヴィスは『方法序説』の「法学、医学および他の諸学はそれらを修める人々に名誉と富をもたらす」という一節から金になる仕事を嫌ったのだろうと推測している(彼が正業につかずに哲学研究をつづけることができたのは父祖が医学と法学で稼いでくれたおかげなのだが)。

→bookwebで購入

2010年09月27日

『快傑デカルト―哲学風雲録』 ダヴィデンコ (工作舎)

快傑デカルト―哲学風雲録 →bookwebで購入

 フランスのジャーナリスト、ディミトリ・ダヴィデンコが書いたデカルトの伝記小説で、原題を直訳すれば『醜聞の人デカルト』である。

 読みはじめて啞然とした。一般に流布しているデカルト像とあまりにも違うのだ。語り口も講談調でまさに快傑デカルト、哲学風雲録である。

 一般的なデカルト像というと裕福な法服貴族の次男坊に生まれるが、生来病弱だったために朝寝坊の習慣をつづける。名門校を出てから当時の貴族のならわしで軍隊にはいり、戦闘義務のない無給の将校となって箔をつけ、母親の財産を相続してからはオランダに移住し、孤独のうちに哲学の研究をつづける。スウェーデン女王の招聘で53歳にしてはじめて宮仕えをするが、軍隊時代も含めてずっと朝寝坊をつづけていた身にとって朝5時から宮殿に伺候しなければならない生活がこたえたのか半年で急死する、といったところか。

 ところがダヴィデンコの描くデカルトは貴族ではない。法服貴族になるには三代つづけて高級官僚にならなければならないが、デカルト家でそのような地位についたのはデカルトの父がはじめで、貴族に列せられるのはデカルトの没後のことだというのだ。

 若きデカルトはそれでは格好がつかないので、祖母から相続した土地についていた称号をひっぱりだしてルネ・デカルト・デュ・ペロンと名乗り、緑づくめの衣装でパリの街にくりだす。たまたまペロン枢機卿という生臭坊主が時めいていたので、その縁者のような顔をして女をあさりまくる。

 軍隊にはいった動機も貴族の御曹司の箔づけなどではなかった。デカルトは高級官僚になるための教育を受ける。日本でいえば鹿児島ラサールから東大法学部に相当するエリートコースであるが、父親がやっているのが魔女裁判の片棒かつぎだと知って官僚コースを拒否、母親の財産を相続できる26歳になるまで食いつなぐためにフランス人傭兵隊に入隊する。

 傭兵隊には食いつめた貴族の次男坊、三男坊が集まっていた。給料は出なかったが衣食住は保証され、城市を陥落させれば三日間略奪御免となるので、略奪品を収入にしていた。デカルトも略奪と博打で荒くれた生活を送るが、ドイツで薔薇十字団にはいりフランスの代表に選ばれる。

 26歳になり相続の資格のできたデカルトは母親の遺産をさっさと売り払い、パリに出て母方の親戚のル・ヴァスール邸に居候する。ル・ヴァスール邸には学者や文人が出入りしていたので、彼らに薔薇十字団の教えを広め、望遠鏡の製作で一山当てようともくろむが、リシュリュー枢機卿に睨まれてフランスにいられなくなる。リシュリュー没後は聖秘蹟会がデカルトを執拗に迫害するだろう。

 オランダでは母親の遺産を売り払った金で財テクを試みるが、いつも手元不如意で薔薇十字団の仲間の家を居候してまわる。デカルトの困窮を救うためにパリの薔薇十字団員が国王の年金がおりるように骨を折ってくれるが、聖秘蹟会の横槍で空手形に終る。

 クリスティーナ女王の誘いを受け入れたのも食うに困ったからだ。宮廷人になるのに従僕なしでは格好がつかないと、親切な友人が給料自分持ちで従僕をつけてくれたが、いざストックホルムに行ってみると精力絶倫の女王に毎朝精を吸いとられ寿命を縮める……という具合である。

 デカルト家はデカルト生前は貴族ではなかったこと、デカルトがルネ・デカルト・デュ・ペロンと名乗っていたこと(ただし「ペロンの騎士」ではなく「ペロンの領主」と訳すべきだろう)、緑色の衣服を好んでいたことはもっとも権威ある伝記とされるロディス=レヴィスの『デカルト伝』で確認したところ事実だった。

 となると他の話はどうなのか気になるところだが、結論をいうとフィクションだった。デカルトが食いつめていた事実はなかったし、父親に見捨てられていたわけでもない。

 薔薇十字団については『デカルトの暗号手稿』によると関係はあったという見方が最近は有力なようである。しかしル・ヴァスール邸に集まった知識人が団員などということはありえないし、オランダ各地に団員がいたわけでもない。薔薇十字団はいろいろ尾鰭がついて話が大袈裟になっているが、実際はごく小さな集まりだったようである。

 最初から小説と断っているものに史実と違うと言ってもしょうがないが、なまじ新事実をとりいれているだけに始末が悪い。デカルトに関する事実が十分知られていない状況でこういう面白すぎる本が翻訳されるのはいかがなものだろう。

→bookwebで購入

2010年09月26日

『ケプラーの憂鬱』 ジョン・バンヴィル (工作舎)

ケプラーの憂鬱 →bookwebで購入

 現代アイルランドの作家、ジョン・バンヴィルによるケプラーの伝記小説である。バンヴィルは本作の前後に『コペルニクス博士』(白水社、絶版)と『ニュートン書簡』(未訳)という科学者の生涯に取材した小説を書いていて「科学革命三部作」と称している。

 バンヴィルは実験的なポストモダン作家として知られており、解説によると本作にもいろいろな仕掛けがあるということだが、仕掛けに関係なく(仕掛けにもかかわらず)、おもしろい小説である。

 ケストラーの『ヨハネス・ケプラー』では生きるのに不器用な頑固者として描かれていたが、こちらのケプラーは所帯やつれし、悪臭のたちこめる中世の街路を不機嫌に歩きまわる。濃いのである。

 物語は1600年2月、ティコ・ブラーエの亡命先の城館にケプラー一家が到着するところからはじまる。

 ケプラーは貧しい生まれながら大公の慈悲で大学を卒業し、グラーツの修道院付属学校の数学教師におさまる。給料は安かったが天文暦の予言でトルコ軍の侵攻を適中させ(当時の数学者は占星術師をかねていた)、天啓のようなひらめきで書いた『宇宙の神秘』という最初の著書を出版し、持参金つきのバルバラという伴侶もえて息子も生まれた。ところが子供は生後60日で死に、ルター派の信仰に固執したためにグラーツを追放される。妻の父親はケプラーを助けるどころか形だけでもカトリックに改宗しろと口うるさく要求してくる。

 妻のバルバラはもっと口うるさかった。バルバラはケプラーと結婚する以前に二人の夫と死別しており、前夫との間にできたレギーナという娘をつれて嫁いできていたが、彼女の方が収入が多かったのでケプラーは頭が上らない。

 そんな時に届いたのがティコから手伝わないかという誘いの手紙だった。ティコはプラハに亡命中だったので、ティコのもとで働くには勝手のわからぬボヘミアに行かなければならなかったが、妻子をかかえているケプラーにはそんなことを言っている余裕はなかった。

 ティコのもとでもそんなにうまい話はなかった。ティコは慇懃無礼を絵に描いたような男で約束の給料は払ってくれず、ケプラーが信奉するコペルニクスの体系を目の敵にしていた。ティコの城館はティコ一族の他、道化の小人や怪しげなとりまきでごったがえし、いらだったケプラーはしょっちゅう癇癪をおこす。

 ティコの突然の死で思いがけず帝国数学官の職がまわってくるが、ケプラーの鬱々とした日々はその後もつづく。皇帝は給料を値切った上にろくに支払わず、占星術を信じなくなっていたケプラーに占星術の託宣を強要する。帝国数学官の豪勢な衣装で故郷に錦を飾ったものの、母親には鼻であしらわれ弟たちも知らん顔。長兄の出世をよろこんだのは知恵遅れの弟くらいだった。

 ケプラーの生きがいは宇宙の真理の探求と義理の娘のレギーナの成長だけだったが、彼女はさっさと結婚し、バルバラが死ぬと遺産をめぐってケプラーに口汚い手紙をよこすようになる。

 晩年になっても憂鬱は晴れない。ルター派の信仰を守るために職を失ったこともあるというのに、そのルター派から破門されたのだ。おまけに儲かりもしない民間療法をやっていた母親が魔女の嫌疑で裁判沙汰になり、ケプラーは母親を救うために奔走する。最後の大仕事として『ルドルフ表』として長く使われることになる天文表を出版しようとするが、リンツ陥落で印刷途中で焼けてしまい、ウルムでゼロから版を組みなおすことになる。

 身体の不調と不平不満をこぼしながら後世に残る仕事をなしとげ、82歳の天寿をまっとうしたのだから、これはこれで立派な生涯である。近代はこの憂鬱な男によって開かれたのだ。

→bookwebで購入