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2010年07月29日

『映画女優 若尾文子』 四方田犬彦&斉藤綾子 (みすず書房)

映画女優 若尾文子 →bookwebで購入

 2003年に出た本の再刊である。初版が出た時に買おうかと思ったが、まだ若尾作品を十本くらいしか見ていなかったのでネタバレは困ると買うのを控えた。その後主要作品を一通り見たので(といっても現時点で35本にすぎないが)、さて読もうと思ったら入手できなくなっていた。読みたい本はすぐに確保しておくべきだと思い知った。

 本書は四方田犬彦氏と斉藤綾子氏の論文に30ページほどの著者二人による若尾文子インタビュー、全出演作159作品を網羅したフィルモグラフィーという構成をとっている。

 四方田氏の「欲望と民主主義」は若尾とコンビを組んだ増村保造の「肩ごし」に若尾の変貌を追い、最後に若尾と増村映画の関係を考えるという結構をとっている。

 映画評論にありがちの生硬な表現が目につくけれども、文章に力があるので一気に読んだ。見かけこそ高踏的だが、当時の撮影所体制や大映特有の事情、永田雅一の名言、巨匠たちの撮り方など、実に親切に背景を説明してくれている。日本映画の知識がなくてもよくわかるし、いろいろと教えられた。若干ネタバレはあるけれども、これから若尾作品を見ようという人は四方田論文を読んでいた方がいい。

 近代的個人を追及した増村映画の中で若尾がいかに魅力的に描かれているか、観念的に突っ走りがちな増村映画が若尾という生身の肉体をうることによっていかに成功したかを具体的に跡づけた後、四方田は若尾の本質は戦後民主主義社会が価値とした庶民性と欲望の両方を体現したことにあると結論づけている。

 この欲望と民主主義の結合こそが若尾の本質であり、それを他の神話的女優に求めることは、日本映画史では不可能なことといえる。原節子はこのいずれをも所有していない。吉永小百合には民主主義はあっても、欲望がない。山口百恵は鬱屈した欲望を隠しながらも、民主主義の無力を知り抜いている。ただひとり若尾文子だけが、この二つの要素を合わせもちながら、みずからの神話化に成功したといえるのだ。

 四方田説を乱暴に要約すると増村保造と若尾文子は戦後民主主義の同志であり、増村の意を呈した「巫女」になりきった時に成功したということになるだろうか。

 それに対して斉藤綾子氏の「女優は抵抗する」は若尾は増村の道具となることに抵抗しつづけたのであって、その抵抗が和歌の魅力の本質だとする。

 実は、増村の期待とは裏腹に彼女は〈巫女〉であり続けることはなかったのではないだろうか。いや、彼女がその役割に忠実でありながらも、密かに抵抗していたからこそ、若尾文子の増村映画における圧倒的な存在感や緊張感が生まれ、そのダイナミクスこそが増村=若尾作品の白眉だったのではないか。

 図式的な対比をしても意味がないので『清作の妻』に即して比較しよう。この映画は日露戦争当時の山村を舞台としており、村の模範青年だった清作(田村高廣)は妾あがりのお兼(若尾)と結婚するという不穏な設定である。清作は出征するが、名誉の負傷のおかげで一時帰郷が許される。村は歓迎に沸くが、帰隊する直前、お兼清作の戦死を恐れて五寸釘で彼の目を潰してしまう。お兼は村人からリンチを受け、法定で有罪を宣告されて刑務所に入れられるが、出所後、村の中で孤立した清作のもとに帰るという筋立である。

(斉藤氏によれば吉田弦二郎の原作と戦前の村田実監督による最初の映画化、増村版とでは結末に重大な違いがある。原作と村田版は清作と妻は周囲の白眼視に耐えきれずに自殺しするという新派悲劇的なメロドラマとして終わっていたが、増村版では自殺も逃げもせずに村で生きつづけるのだ。)

 四方田氏は清作が時を知らせる鐘という近代的労働秩序を導入しようとするなど、もともと村の因習的な共同体からは浮いた存在だったことに注目し、彼が自分の目を潰したお兼を離縁せずに妻として再び受けいれるのは彼女が近代的個人の先行者だと認めたからだとする。清作とその妻は早すぎた民主主義者だったというわけだ。

 一方、斉藤氏は妾奉公で大金を稼いで村に帰ってきたお兼が村共同体にとって危険な異分子である点を強調し、模範青年で体制の代弁者だった清作はそんなお兼と結婚し、失明という傷を負うことで体制に背を向けるようになったとする。清作は「男性言説と女性言説の葛藤する場」だったというわけだ。

 対照的な解釈で興味深いが、斉藤氏の文章はフェミニズム的というか、大学院生的というか、決して読みやすいものではない。たとえばこんな具合だ。

 私が直面した〈若尾文子的問題〉とでも言ったらいいのだろうか。それは、基本的にはテクストに提示されたドミナントな〈性〉の表象と観客の取る主体の位置づけポジショニングの問題だ。

 カタカナ語の中には不要なものが結構ありそうである。大学の紀要ならともかく一般向けの本として出す以上、もうちょっと書き方があるのではないか。

 さて、最後のインタビューであるが、若尾ファンにとってはたまらない。『赤線地帯』の撮影にはいる前に車に乗せられて吉原をこっそり見学に行ったとか、『からっ風野郎』に主演した三島由紀夫は増村に怒鳴られてよろこんでいたとか、水上勉は『越前竹人形』の玉枝には八千草薫がふさわしいといっていたとか、『泥の河』の話を断ったとか、さらっと語っているのだ。若尾文子主演だったらどんな『泥の河』になっていただろうか!

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