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2010年07月31日

『淡島千景―女優というプリズム―』 鷲谷花&志村三代子編 (青弓社)

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 昨年新文芸座の淡島千景特集のおりにおこなわれたトークショーで彼女の生の話を聞いた。高齢の映画人のトークショーは何度も聞いてきたが、なかなか言葉が出てこなかったり記憶があやふやだったり、中にはぼけているのではという人もいたが、淡島千景は違った。85歳という年齢にもかかわらず打てば響くように答えを返す頭の回転の速さに舌を巻いた。記憶も確かで、活字に起こせばそのまま文章になるような折り目正しい日本語に驚嘆した。おそらく本書のインタビューもほとんど話したそのままなのではないだろうか。

 わたしは『夫婦善哉』さへ見ていなかったので淡島千景を特に意識したことはなかったが、この特集で代表作をまとめてみてファンになった。

 本書は第一部に300ページ近い淡島千景のインタビューと編者たちのコラム、第二部に淡島をよく知る淡路恵子氏と垣内健二氏(母子二代にわたる淡島のマネージャー)のインタビューと森繁久也氏の談話をおさめ、巻末に詳細な年譜を付している。

 淡島は宝塚出身ということと関西を舞台にした映画が多いので関西人というイメージがあったが、日本橋生まれのチャキチャキの江戸っ子である。実家は羅紗問屋で芸能界につながりはなかったが、末弟の中川雄策は永田雅一の紹介でディズニープロで修行しアメリカのアニメ界で一家をなしたという。

 昭和9年の東京宝塚劇場のこけら落としを見て宝塚に夢中になり、宝塚いりするがデビューは昭和16年。関西一円の駐屯地に慰問に出かける毎日だった。軍隊の慰問公演なのに追っかけがいたというのだから、さすが宝塚である。

 宝塚では演出家や脚本家が出征したので、長年事務をやっていたような人が脚本を書いたり演出をしたりしていた。戦後もしばらく指導者不在がつづいたので物たりなく思っていたところ、月丘夢路から映画は教えてもらえるので面白いといわれ映画界いりを決意したという。

 映画界いりで動いたのはファンの垣内田鶴だった。彼女は女実業家であり、後に大松博文からバレーボールの選手を預けられるような女丈夫だったから松竹と専属契約を結ぶ際にも一流の監督と組ませることという破天荒の条件を押しこんだ。渋谷実監督の作品でデビューしたらずっと渋谷組の俳優としてあつかわれるのが普通だった時代、淡島はこの契約条項のおかげで名だたる監督の作品に出演することができた。

 インタビューはデビュー作となった『てんやわんや』から代表作について聞くパートにはいるが(なぜか『シベリア超特急』まではいっている)、さわりの部分を上映しながら話を聞いている。場面説明とスチール写真はついているが、この本の読者でもすべて見ている人はなかなかいないだろうから話題になっている場面を集めたDVDがついたらどんなによかっただろう(録音もCD化してつけてくれたらもっといい)。

 読めば読むほど見ていない作品が多くて欲求不満がつのってくる。またどこかで淡島千景特集をやってくれないだろうか。

 インタビューの間にはさまれたコラムであるが、にわか淡島ファンとしてはたじろぐようなディープな内容である。「宝塚娘役スタートしての淡島千景と手塚治虫『リボンの騎士』」は従来、宝塚の男役をモデルにしたとされるサファイアが実は淡島千景をモデルにしていたという考證で、景迷のいたりといったところか。「淡島千景と獅子文六」は今では忘れられたに等しい大作家の業績に光をあてた好文章で文六作品を読んでみたくなった。「渋谷実『もず』と淡島千景」は評価がいまひとつの『もず』の再評価の試みだが、直前に『女優 岡田茉莉子』で『もず』騒動の顚末を読んでいたので、騒動にまったくふれないのはいかがなものかと思った。「二階の女の闘争」は時代劇論で、時代劇にとっては淡島は異分子だったという指摘が新鮮だった。

 淡島千景ファン第一号を自認する淡路恵子氏のインタビューは宝塚時代の淡島が熱っぽく語られていて貴重である。共演作も多いが、別の角度からの証言なので面白い。現マネージャーの垣内健二氏のインタビューは文字通り舞台裏の話で、映画会社との駆引や母田鶴の築いた人脈、稽古場での淡島千景などこれもおもしろい。

 巻末の年譜は労作だが、欲をいえばフィルモグラフィーと索引もほしかった。

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2010年07月30日

『女優 岡田茉莉子』 岡田茉莉子 (文藝春秋)

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 『映画女優 若尾文子』の中で四方田犬彦氏は若尾文子と対置できる女優がいるとしたら、それは岡田茉莉子だと言下に語っている。なるほど二人はともに昭和8年の東京生まれで女学校時代に地方に疎開し、世情の混乱が一段落してから東京にもどると相次いで銀幕デビューを飾り、日本映画全盛時代を支える大女優になるとよく一致している。ところがデビュー以前の生い立ちと撮影所体制崩壊後の処し方は正反対だ。若尾はすばらしい企画をことごとく断りテレビと舞台に転進するのに対し、岡田は映画監督の吉田喜重と結婚し、経済的に苦しい独立プロの活動を支えつづけるのである。

 最初の研究書でも両者は好対照を見せる。若尾文子は大学の映画研究者二人の論文集発刊にあたって億劫そうにインタビューに応じただけだが、岡田茉莉子は400ページ近い大冊をみずから書き下ろしているのである。しかも全16章のうち最初の5章は自伝だが、フリーになる決意をして以降は映画論、監督論、そして岡田茉莉子論を兼ねるようになるのだ。

 岡田茉莉子が「日本のヴァレンチノ」と呼ばれた岡田時彦の娘であることはよく知られている。夭折した美男スターの忘れ形見という立ち位置は中川翔子と似ているが、ショコタンがあくまで庶民顔のアイドルで下積みを経験しているのに対し、岡田は神がかった美貌と遅れてきた七光りで映画スターになることを運命づけられていたともいえる。

 本書は赤ん坊の頃、叔母の出演していた宝塚の舞台に乳母車に乗せられて出演する冒頭にはじまり、大いなる自慢話、巨大なナルチシズムの産物といえなくはないが、岡田はあたえられたスターの座から離れ映画の表現者として自分の人生を選び直しているので自慢話くささがない。

 岡田はデビュー10年目に100本出演記念作として『秋津温泉』をみずからプロデュースし、生涯の伴侶となる吉田喜重監督と出会うことになる(『秋津温泉』は今年ようやく見たが岡田の美貌に圧倒された)。

 吉田監督の影響なのかどうかはわからないが、フェミニズム論者のような視点も出てきて女優の手すさびどころか一本立ちの映画論になっていて本格的である。

 惜しむらくは日本映画全盛時代のメロドラマと凋落後のとんがった映画に二分され、若尾文子のような後世に残る傑作がすくないように思えるが、自らの筆で巨匠たちの横顔を書き残してくれたのは貴重である。

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2010年07月29日

『映画女優 若尾文子』 四方田犬彦&斉藤綾子 (みすず書房)

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 2003年に出た本の再刊である。初版が出た時に買おうかと思ったが、まだ若尾作品を十本くらいしか見ていなかったのでネタバレは困ると買うのを控えた。その後主要作品を一通り見たので(といっても現時点で35本にすぎないが)、さて読もうと思ったら入手できなくなっていた。読みたい本はすぐに確保しておくべきだと思い知った。

 本書は四方田犬彦氏と斉藤綾子氏の論文に30ページほどの著者二人による若尾文子インタビュー、全出演作159作品を網羅したフィルモグラフィーという構成をとっている。

 四方田氏の「欲望と民主主義」は若尾とコンビを組んだ増村保造の「肩ごし」に若尾の変貌を追い、最後に若尾と増村映画の関係を考えるという結構をとっている。

 映画評論にありがちの生硬な表現が目につくけれども、文章に力があるので一気に読んだ。見かけこそ高踏的だが、当時の撮影所体制や大映特有の事情、永田雅一の名言、巨匠たちの撮り方など、実に親切に背景を説明してくれている。日本映画の知識がなくてもよくわかるし、いろいろと教えられた。若干ネタバレはあるけれども、これから若尾作品を見ようという人は四方田論文を読んでいた方がいい。

 近代的個人を追及した増村映画の中で若尾がいかに魅力的に描かれているか、観念的に突っ走りがちな増村映画が若尾という生身の肉体をうることによっていかに成功したかを具体的に跡づけた後、四方田は若尾の本質は戦後民主主義社会が価値とした庶民性と欲望の両方を体現したことにあると結論づけている。

 この欲望と民主主義の結合こそが若尾の本質であり、それを他の神話的女優に求めることは、日本映画史では不可能なことといえる。原節子はこのいずれをも所有していない。吉永小百合には民主主義はあっても、欲望がない。山口百恵は鬱屈した欲望を隠しながらも、民主主義の無力を知り抜いている。ただひとり若尾文子だけが、この二つの要素を合わせもちながら、みずからの神話化に成功したといえるのだ。

 四方田説を乱暴に要約すると増村保造と若尾文子は戦後民主主義の同志であり、増村の意を呈した「巫女」になりきった時に成功したということになるだろうか。

 それに対して斉藤綾子氏の「女優は抵抗する」は若尾は増村の道具となることに抵抗しつづけたのであって、その抵抗が和歌の魅力の本質だとする。

 実は、増村の期待とは裏腹に彼女は〈巫女〉であり続けることはなかったのではないだろうか。いや、彼女がその役割に忠実でありながらも、密かに抵抗していたからこそ、若尾文子の増村映画における圧倒的な存在感や緊張感が生まれ、そのダイナミクスこそが増村=若尾作品の白眉だったのではないか。

 図式的な対比をしても意味がないので『清作の妻』に即して比較しよう。この映画は日露戦争当時の山村を舞台としており、村の模範青年だった清作(田村高廣)は妾あがりのお兼(若尾)と結婚するという不穏な設定である。清作は出征するが、名誉の負傷のおかげで一時帰郷が許される。村は歓迎に沸くが、帰隊する直前、お兼清作の戦死を恐れて五寸釘で彼の目を潰してしまう。お兼は村人からリンチを受け、法定で有罪を宣告されて刑務所に入れられるが、出所後、村の中で孤立した清作のもとに帰るという筋立である。

(斉藤氏によれば吉田弦二郎の原作と戦前の村田実監督による最初の映画化、増村版とでは結末に重大な違いがある。原作と村田版は清作と妻は周囲の白眼視に耐えきれずに自殺しするという新派悲劇的なメロドラマとして終わっていたが、増村版では自殺も逃げもせずに村で生きつづけるのだ。)

 四方田氏は清作が時を知らせる鐘という近代的労働秩序を導入しようとするなど、もともと村の因習的な共同体からは浮いた存在だったことに注目し、彼が自分の目を潰したお兼を離縁せずに妻として再び受けいれるのは彼女が近代的個人の先行者だと認めたからだとする。清作とその妻は早すぎた民主主義者だったというわけだ。

 一方、斉藤氏は妾奉公で大金を稼いで村に帰ってきたお兼が村共同体にとって危険な異分子である点を強調し、模範青年で体制の代弁者だった清作はそんなお兼と結婚し、失明という傷を負うことで体制に背を向けるようになったとする。清作は「男性言説と女性言説の葛藤する場」だったというわけだ。

 対照的な解釈で興味深いが、斉藤氏の文章はフェミニズム的というか、大学院生的というか、決して読みやすいものではない。たとえばこんな具合だ。

 私が直面した〈若尾文子的問題〉とでも言ったらいいのだろうか。それは、基本的にはテクストに提示されたドミナントな〈性〉の表象と観客の取る主体の位置づけポジショニングの問題だ。

 カタカナ語の中には不要なものが結構ありそうである。大学の紀要ならともかく一般向けの本として出す以上、もうちょっと書き方があるのではないか。

 さて、最後のインタビューであるが、若尾ファンにとってはたまらない。『赤線地帯』の撮影にはいる前に車に乗せられて吉原をこっそり見学に行ったとか、『からっ風野郎』に主演した三島由紀夫は増村に怒鳴られてよろこんでいたとか、水上勉は『越前竹人形』の玉枝には八千草薫がふさわしいといっていたとか、『泥の河』の話を断ったとか、さらっと語っているのだ。若尾文子主演だったらどんな『泥の河』になっていただろうか!

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2010年07月26日

『パターン、Wiki、XP ~時を超えた創造の原則~』 江渡浩一郎 (技術評論社)

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 「都市はツリーではない」で建築界のみならず現代思想にも大きな影響をあたえたクリストファー・アレグザンダーの思想がコンピュータの世界で継承され発展したことを跡づけた本で、ニューアカ時代にアレグザンダーの名前を知った者としては驚きの連続だった。

 若い人にはアレグザンダーもニューアカ(ニューアカデミズム)もなじみがないだろう。

 日本がバブル景気に突入した1980年代半ば、難解な現代思想がブームになったことがあった。発端は浅田彰氏の『構造と力』(1983)だった。ドゥルーズやデリダといったフランスの思想家を紹介した難解な本だったが、スキゾとパラノという二分法がわかりやすかったせいか、思想書の枠を越えたベストセラーになった。従来の重厚長大型のマジメ思想がパラノで、ポスト構造主義のスピーディーでエネルギッシュな非マジメ思想がスキゾというわけである。

 直接の出典は『アンチ・オイディプス』という乱暴な本だったが、それをさらに乱暴に要約したのがスキゾとパラノの二分法で、マジメをバカにする当時のバブル気分に乗って大流行した。

 スキゾとパラノはリゾームとツリーとも言い換えられた。単一の原理から整然と枝わかれしていく従来型の学問がツリーで、雑草がランナーを伸ばしてはびこっていくのがリゾームだ。

 ツリーの欠陥を都市論の分野で実証したとしてもてはやされたのがアレグザンダーだった。整然とした都市計画で作られた人工都市はツリー状の構造をしていて住みにくいが、雑然とした自然都市はセミラティスという構造をしていて住みやすいというわけだ。柄谷行人氏の『隠喩としての建築』(全集版は1979年版とはかなり違うようである)、市川浩氏の『「中間者」の哲学』などを思いだす。

 バブル崩壊とともにニューアカのブームは去り、アレグザンダーの名前も聞かなくなった。そのアレグザンダーに今回思いがけない形で再会したのである。

 著者の江渡浩一郎氏はコンピュータ内で人工生物を作るなどの研究をしているという。本書はもともとWikiの起源を探るために書きはじめたそうだが、源流へ遡るうちにアレグザンダーに行きついたのだ。

 第1部「建築」はアレグザンダーの来歴と思想を紹介するが、柄谷氏や市川氏の本に出てくるアレグザンダー像とは相当違う。1985年に日本でアレグザンダーの設計したキャンパスが作られていたこともはじめて知った。

 施主はアレグザンダーの思想に惚れこんで新しく建設する高校キャンパスの設計を依頼したということだが、どうもセミラティス構造の全体像が事前に描けると誤解していたらしい。アレグザンダーの都市計画は都市が増殖していく際のルールをパターンランゲージという形で規定するだけであって、セミラティス構造は自然増殖の結果にすぎない。ツリー構造なら事前に全体像が描けるが、セミラティス構造の設計図は原理的にありえない。

 アレグザンダーの設計した高校キャンパスは不幸な結果に終わり(建設から20年後の状況について福島ちあき氏の論文がある)、日本でアレグザンダーの名前が急速に忘れられる一因になったようである。

 第2部「ソフトウェア開発」はアレグザンダーのパターンランゲージが畑違いともいえるプログラミングの世界に移植され発展していく経緯が語られる。わたしは大昔Delphiというプログラミング言語をいたずらしたことがあったのでどうにかついていけたけれども、XP(エクストリーム・プログラミング)にいたっては今回はじめて知った。プログラミングの経験のない人にはわかりにくいかもしれないが、ツリーとセミラティスの対立に単純化したニューアカ的アレグザンダー理解に一番欠落しているのはこのあたりである。

 第3部「Wiki」はWikiエンジンの誕生の経緯をたどるが、こんな前史と紆余曲折があったとは知らなかった。

 現在、Wiki=Wikipediaと受けとる人がほとんどが、WikipediaとはWikiエンジンで作られた百科事典エンサイクロペディアであって、Wikiエンジンとは別物である。本書が論じているWikiとは第一義には Wikiエンジンのことであって、Wikipediaには一章が割かれるにすぎない(Wikipediaについては本欄ではアスリーヌ編『ウィキペディア革命』(岩波書店)と山本まさき&古田雄介『ウィキペディアで何が起こっているのか』(オーム社)をとりあげている)。

 インターネットの世界でおなじみの伽藍とバザールエリック・レイモンドという二分法はツリーとリゾームの二分法と似ていると思っていたが、本書でやはり直接的な継承関係があったことが明かとなった。

 それにしても日本で一時の流行として消費された思想がアメリカのコンピュータ界では真剣に受けとめられ、こんな果実を産んでいたのである。日本は何をやっていたのか。

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2010年07月23日

『アーキテクチャの生態系』 濱野智史 (NTT出版)

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 2ちゃんねるやMIXI、ニコニコ動画など日本で独自に進化したアーキテクチャに積極的に意義を見いだそうという本である。世界標準からはずれた日本独自のアーキテクチャはガラパゴス的と揶揄されることが多いが、本書は戦闘的なガラパゴス賛歌であり、ここまで徹底すると爽快感がある。

 最初に理論的な枠組が解説してあってアーキテクチャとは「環境管理型権力」だとあるが、仕掛けに制約されるということを思想の言葉で語っただけであって、面倒くさければいきなり第三章の2ちゃんねる論に飛んでかまわない。本書の読みどころは総論ではなく具体的な各論である。

 濱野氏が各論の最初に2ちゃんねるを選んだのは梅田望夫氏の『ウェブ進化論』(ちくま新書)との対決を鮮明にするためだ。梅田氏は個に立脚したアメリカのblog言論を称揚し匿名に隠れた2ちゃんねる的言論を斬って棄てたが、濱野氏はこの二分法がインテリにありがちの日本社会後進論の蒸し返しだと批判する。濱野氏は否定的にあつかわれることの多いコピペが情報伝達手段として機能していると分析し、「匿名」という言葉の価値を逆転してみせる。

 西村氏のネットコミュニティの設計思想は、初めは本来自由に人々が集まってつくられたウェブ上の「アソシエーション」が、時が経つにつれて排他的で閉鎖的な「コミュニティ」へと変質することを避ける、という点に主眼が置かれています。いってみればそれは、「ネット<コミュニティ>の設計論」というよりも、「ネット上でいかにして<都市空間>をつくるのか」に関する問題なのだというべきでしょう。事実、都市空間は「顔の見えない」「匿名的な」人々が集まる空間であり、だからこそ多様な人々を抱えることができる。かつ、絶えず成員の出入りが生じている。たしかにそれは、2ちゃんねるのような雑多で猥雑なウェブ上の巨大空間を形容するにふさわしいように思われます。

 2ちゃんねるこそ「都市的=匿名コミュニケーション」の場として洗練されたものだというわけだ。

 わたしははてなダイアリーのキーワードリンク機能やニコニコ動画のコメント機能を鬱陶しいと感じてきたが、濱野氏はここでも果敢に価値逆転を試みている。

 はてなダイアリーではキーワードとして登録されている言葉を書きこむと勝手にリンクされてしまうが、自発的な操作が必要なblogのトラックバックは見ず知らずの他人に話しかけるようなものなのに対し、不可抗力的に他者の書きこみと関連づけられるキーワードリンク機能は日本人の国民性に適合していると評価する。

 ニコニコ動画では他人がつけたコメントがテロップとして流れていき、しばしば画面が見えなくなるほどだが、濱野氏は同期という視点からTwitterやセカンドライフと比較し、ニコニコ動画のコメント機能こそは実際は同時に見ているのではないにもかかわらず同時に見ているかのようなライブ感覚を作りだしており、「いま・ここ性」の複製装置になっていると絶讃している。

 わたしははてなダイアリーやニコニコ動画はあいかわらず鬱陶しいとしか思えないが、そういう見方もあるのかと感動した。

 ケータイ小説についても携帯電話の操作のミクロ的描写が心理描写になっていると指摘し、「操作ログ的リアリズム」と名づけている。

 つまり『恋空』という作品は、そのときケータイをどのような「判断」や「選択」に基づいて使ったのかに関する「操作ログ」の集積としてみなせるのではないか。そして読者の側は、そうした「操作ログ」を追跡することを通じて、その場その場での登場人物たちの心理や行動を「リアル」だと感じることができるのではないか。

 その通りに違いない。この分析には盲点を突かれた。

 濱野氏の指摘は鋭いが、「操作ログ的リアリズム」はケータイ小説の本質ではないだろう。というのは「操作ログ的リアリズム」は一般の小説にもとりこめるからである。わたしが知らないだけですでにとりこんでいる作品もあるかもしれない。

 ケータイ小説の本質は速水健朗氏の『ケータイ小説的。』の感想で指摘したようにヤンキー・テキスト群を母胎にするところにあると思う。

 本書は目が覚めるような指摘が多いが、唯一不満をいえば間テキスト性という視点が抜け落ちている点である。おそらく2ちゃんねるやはてなダイアリー、ニコニコ動画にも特有の間テキスト性があるのだろう。そこまで分析を広げてほしかった。

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2010年07月20日

『ケータイ小説的。』 速水健朗 (原書房)

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 ケータイ小説のブームは2006年の『恋空』をピークに鎮静したが、現在でも固定ファンに支えられて結構な部数が出るという。落ちつくべきところに落ちついたということか。

 わたしはケータイ小説には興味はなかったが、佐々木俊尚氏の『電子書籍の衝撃』に活字に縁のなかった地方のヤンキー層が活字の面白さに目ざめたのがあのブームだったと指摘してあるのを読んで、なるほどそういうことだったのかと思った。

 ただ、あまりにも腑に落ちすぎる指摘だったので、本当にそうなのか確認したくて関連本を読んでみることにした。

 まず手にとったのは同じ佐々木氏の『ケータイ小説家』(小学館)だが途中で放りだした。

 『恋空』の美嘉氏をはじめとする十人のケータイ作家のルポルタージュ集だが、ケータイ小説そのままの文体で書いてあるのである。対象となる作品のさわりが引用されているが、引用と地の文の区別がわからなくなるくらい似せてある。

 文芸批評には擬態ミメティック批評という手法があるが、擬態批評として成功しすぎたためにこの本はケータイ小説の短編集のようになってしまい、ルポルタージュとして破綻している。固有名詞はほとんどなく、抽象的な葛藤や罪や苦悩が語られるだけで、個人も家庭も情景も見えてこない。パラパラめくったら最後まで同じ調子だった。

 次に手にとったのはケータイ小説をいち早く一般読書界に紹介した本として有名な本田透氏の『なぜケータイ小説は売れるのか』(ソフトバンク新書)である。

 ケータイ小説の沿革から特質、Yoshi氏の果たした役割まで手際よく紹介してくれているが、途中からケータイ小説に肩入れしはじめ、伝道師のような熱っぽい口調に変わってくる。

 では心底ケータイ小説をリスペクトしているのかというと、そうは読めないのである。本田氏はパソコンでインターネットに接続するPC人種と携帯電話で接続するケータイ人種を対比し、PC人種は頭が良く自意識が発達しているので物事を相対化してニヒリズムにおちいるが、ケータイ人種は紋切型の物語に「安い涙」を流して癒されて幸福になると、妙な論法でケータイ小説の読者を持ちあげている。本田氏のいうケータイ人種とは要するにヤンキーのことであるが、ヤンキーは素朴で単純だから見え透いたフィクションを「実話」と思いこんで感動するのだと言っているに等しい。大衆小説とは呼ばずに「大衆芸能」と呼ぶのも誉めているのかバカにしているのか。

 改行の多さを余白の美学で救おうとしたり「大きな物語が失われた」などと牛刀理論を持ちだしたり、あの手この手でケータイ小説を評価しようとしているが、心の底からケータイ小説を楽しめないインテリの自分を言い訳しているようにしか読めなかった。

 佐々木氏も本田氏もケータイ小説の担い手を地方のヤンキーと見る点で共通しているが、ヤンキーをバカにしてはいけないというインテリの贖罪意識のゆえか、無理なケータイ小説礼讃を自らに強いる結果になったという印象を受けた。

 三冊目に手にとったのは速水健朗氏の『ケータイ小説的。』だが、これは目さめるような論考である。

 速水氏もケータイ小説の担い手がヤンキーだという見方を踏襲するが、ヤンキー集団は無文字社会ではなく、特有のテキストの蓄積があるという事実を指摘し、ケータイ小説の背後に広がる間テキスト性の多層的な網の目に光をあてている。

 それは浜崎あゆみの歌詞であり、『NANA』や『ホットロード』のような少女漫画であり、赤木かん子氏が「リアル系」と名づけた不幸表明ノンフィクション群であり、おびただしいヤンキー雑誌やレディース雑誌である。『恋空』をはじめとする一時期のケータイ小説が浜崎あゆみの本歌どりになっていて、浜崎あゆみの本歌を知らなければ何が書いてあるのかさへわからないという指摘には蒙を開かれた。ヤンキーにはヤンキーの活字文化があったのだ。ケータイ小説とは膨大なヤンキー・テキスト群の突端部だったのである。

 ケータイ小説にレイプや不治の病が「実際にあった話」というふれこみでお約束のように登場することについては虚言癖という極論を含めてさまざまな議論があるが、速水氏は『ティーンズロード』という投稿誌に掲載される手記群との関係に注目する。こうした手記も「実際にあった話」と語られているが、実態は誇張された不幸自慢であり読む方も最初からわかって読んでいるという。不幸自慢テキスト群と切りはなしたらケータイ小説の「リアル」を見誤ることになる。西原理恵子の「自伝」作品群も同じ文脈で読んだ方がいいだろう。

 新谷周平氏が発見した「地元つながり」の輪とフリーターの関係も目を開かれた。地方には東京と電車を忌避する「地元つながり文化」が厳然と存在し、その相互扶助の輪につながっている限りフリーターでも生活していけるのだという。フリーター=失業=転落は東京の発想で地方では違うというわけだ。ケータイ小説は「地元つながり文化」が電子書籍という新しいチャンネルを得て噴出しはじめたということでもあるらしい。

 佐々木氏は自作が百万部を越えるベストセラーになったのに上京も小説家になることも考えないケータイ小説家に感服しきりだったが、「地元つながり文化」に照らせばありがたがるほどのことではない。

 速水氏は2005年5月のあるエンターテイメント小説とあるケータイ小説の都道府県別販売数の比較をしているが、エンターテイメント小説が東京が突出して多く(全売上の20%以上)、神奈川、愛知、千葉とつづくのに対し、ケータイ小説は愛知が一番多く、福岡、兵庫、北海道、静岡とつづき、東京はようやく6位にすぎない。しかも読書家の集まる都心の大型書店やPCユーザーの多いアマゾンではまったく売れない代わりに、幹線道路沿いに展開するTSUTAYAやGeoのような郊外型複合書店でよく売れている。こうした場所がヤンキーの「地元つながり」文化圏と重なることはいうまでもない。

 残念なことに速水氏でさへも最後にはインテリの贖罪意識に走ってケータイ小説を「被差別文化」と擁護しはじめ、「旧弊社会の側から、これは俗悪で程度の低いもの」と決めつけられるという「何度も繰り返されてきた歴史」に話をもっていくが、さてどうだろうか。

 推理小説やSF、漫画、アニメは「俗悪で程度の低いもの」と決めつけられた歴史をもつが、推理小説には江戸川乱歩、SFには小松左京、漫画とアニメには手塚治虫がいた。乱歩も小松も手塚も第一級の知識人であって、その作品は時代が変わっても読みつがれている。ケータイ小説は乱歩も小松も手塚も生みだしてはいない。ケータイ小説は所詮投稿欄の延長にすぎず推理小説やSF、漫画、アニメと肩をならべる日が来ることはないだろう。

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2010年07月18日

『電子図書館』 長尾真 (岩波書店)

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 現在の国会図書館館長長尾真氏が1994年に上梓した本の新装版である。発刊当時はまったく話題にならなかったが、昨年あたりから長尾構想がらみで注目されるようになり復刊が待たれていた。

 長尾構想とは2008年4月の日本出版学会の講演で明らかにされたもので、公共図書館が有償でデジタル図書の貸出をおこなうとする提案である(本書の「新装版にあたって」に略述されている)。私案とはいえ国会図書館館長という立場の人の発言だけに図書館関係者や出版関係者、電子アーカイブの関係者の間で大きな反響を呼んだ。

 複写権センターのようなNPOを介するとはいえ公共図書館が購読料を徴収するという大胆なビジネスプランに当初は反発一色だったが、Google騒動を期に流れが変わり長尾構想でGoogleに対抗しようという声まで出はじめている。

 今回はじめて読んだが、16年前にこれだけの構想を発表していた先駆性に驚かされたものの、話題にならなかったのもわかる気がした。日本で個人がインターネットに接続できるようになったのは本書が出版される前年のことで、一般にはまったくなじみがなかった。当時読んでいたとしたら、Xanaduと同じ絵に描いた餅としか受けとならなかったと思う。刊行が数年遅れていたらもっと評判になっていたかもしれない。

 時代を先取りしている面がある一方、アポロ後に一昔前の月SFを読んだ時のようなアナクロニズムも感じないではない。MOSAICやgopherといったなつかしい言葉と再会したこともあるが、正しい予見もあれば見誤りもあるのである。

 著者が見誤った最大のものは検索エンジンの可能性だろう。全文検索サービスは当時すでに存在していたが、ほとんど使いものにならなかったから評価しないのも無理はない。検索エンジが使えるようになったのはGoogle以後なのである。

 Googleが検索精度を飛躍的に高めることに成功したのはWebページの格づけに集合知を導入したことによる。本書には集合知の概念はなく、目次を検索対象にしろとか、司書が情報のガイド役をつとめるなどと書いてある。ネット情報より司書の方が信頼できるような書きぶりだが、そんなバカな話はない。まったく不案内な分野なら司書も役に立つかもしれないが、ちょっと専門的な問題になるとまるで使えない。国会図書館のリファレンスもそうである。ギンガリッチの本によると欧米にはすごい司書がいるらしいが、日本ではそういう司書には出会ったことがない。ネット情報の方がはるかに役に立つ。

 著者は「新装版にあたって」でも検索エンジンとネット情報には低い評価しかあたえていない。このあたりが限界なのだろうか。

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2010年07月16日

『電子書籍の基本からカラクリまでわかる本』 洋泉社mook編集部 (洋泉社)

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 電子書籍に関するムックだが、よく出来ている。

 まず小飼弾氏と池田信夫氏の巻頭対談。小飼氏はiPhoneアプリで著書を三冊出版し7000部以上販売している実績があり、池田氏は電子書籍出版会社アゴラブックスを立ちあげている。取材者ではなく当事者の立場なので話がいちいち具体的だ。この対談を読むだけでも本書は買う価値がある。

 PART.1 はiPadとKindleの使い方のカラー図解だが、A5版見開きなのでなかなか見やすい。新書判ではこういうことはできない。

 PART.2 は西田宗千佳氏による電子書籍の基礎知識だが、『iPad vs. キンドル』のダイジェスト版といっていいだろう。前史が省かれている分、記述が浅くなっているが、これで十分という人もいるはずだ。

 PART.3 は飯塚真紀子氏と石川幸憲氏によるアメリカの電子書籍事情のレポートだが、わたし自身の興味としてはここが一番面白かった。

 飯塚氏の「出版社化するアマゾンと自費出版を目指す著者」はプロの作家がアマゾンで自主出版をはじめた現状を伝えている。素人作家の例は佐々木俊尚氏の『電子書籍の衝撃』で紹介されていたが、現実はここまで進んでいたのである。

 石川幸憲氏の「米国の新聞業界はどのようなデジタル戦略を描いているか」は『メディアを変えるキンドルの衝撃』の後半部分のダイジェストだが、同書のおいしい部分はこの記事で尽くされているかもしれない。

 PART.4 は電子書籍の普及で日本の出版業界がどう変わるかをシミュレートしているが、目新しい情報はなかった。電子書籍の原価計算らしきものがあるが、固定費をパーセントであらわしているのはおかしい。初版部数の概念にとらわれているのだとしたら、電子書籍がまったくわかっていない。

 PART.5 は電子書籍の未来だが、どうやって儲けるかという視点に終始しているのでつまらない未来図しか描けていない。アクセシビリティや古典の電子化にまで視野を広げないと電子書籍の可能性は見えてこないのではないか。

 キーパーソンのインタビューが見開き一面か二面にまとめられて随所に挿入されているが、来賓挨拶みたいなもので内容はあまりない。ただのにぎやかしだろう。

 ムックなので玉石混淆だが、巻頭対談とPART.2、PART.3はそれぞれ単行本一冊近い中味がある。お買い得である。

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2010年07月14日

『電子書籍元年』 田代真人 (インプレスジャパン)

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 出版社サイドからの電子書籍論である。著者は新聞社の技術職、ファッション誌の編集者、ビジネス書専門出版社のサイトの責任者などをへてクロスメディアという会社で独立した人である。最近はアゴラブックスという電子書籍の会社を立ちあげたよし。

 副題に「iPad&キンドルで本と出版業界は激変するか?」とあるが、たいして変わらないというのがおおよその趣旨のようであるが、電子書籍について多少とも知識のある人は退屈に感じるだろう。類書を読んでいたり、IT関係のニュースサイトをよく覗いてる人は最初の四章は飛ばして第五章から読みはじめるといい。本の原価計算を公開して、電子書籍でどれくらい値段が下がるかを検討しているからである。『電子書籍の基本からカラクリまでわかる本』にも原価計算が出てくるが、固定費であるはずの組版費や出版社経費をパーセントであらわすなど変な計算をやっている。

 電子化しても値段はあまり変わらないという結論になるが、この計算にはつっこみをいれたくなる人もいるだろう。本書をたたき台にしていろいろな試算をぶつけたら面白いかもしれない。

 原価計算はお遊びだが、本書の一番の読みどころは第六章「だれもが書籍を出版できる時代」にある。表題だけ見ると佐々木俊尚氏の本と同じ自費出版礼賛のようだが、実は反語であって本書の核心は「著者だけで文章の責任がとれるのか?」という問いかけにある。

 出版社の利権を守りたいがための脅しと受けとる人がいるかもしれないが、決してそうではない。著者は名誉棄損と著作権侵害を例にあげているが、公の場で発言すると怖いことがいろいろあるのである。トラブルは現実にあって、そういう時に盾になってくれるのが出版社なのである(その代わり執筆段階や校正段階で「助言」があるわけだが)。

 片隅はいえ出版界に身を置いているのでいくつか実例を見てきたが、出版のトラブルはネットの炎上の比ではない。言論を甘く見ると本当に怪我をする。

 言いにくい問題にふれた点は評価したいが、疑問に感じる点がないではない。著者は出版社も編集者も印刷会社も取次も街の書店も古書店も、規模が縮小するとはいえ特色を出せば生き残れると力説しているが、本当にそうだろうか。

 出版社と編集者と古書店が工夫次第で生き残れるのはその通りだろう。しかし印刷会社はプラットフォームを構築できるDNPと凸版の二強以外は難しいのではないか。取次には相当厳しい局面が待っていそうな気がする。電子取次という業態ができても現在の取次が横すべりできるわけではないし、万が一横すべりしたとしても営業マンは不要になる。町の書店はもっと厳しい。電子書店で商売になるのは上位一位と二位くらいで、セレクトショップはマニアックな読者がはじめるだろう。町の書店が電子書店に乗りだすのは無理だ。

 著者はそんなことは百も承知で、右往左往する業界の仲間を力づけるために本書を書いたのかもしれないが、気休めは気休めである。

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2010年07月13日

『メディアを変えるキンドルの衝撃』 石川幸憲 (毎日新聞社)

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 著者の石川幸憲氏は在米のジャーナリストだがIT系のライターではない上に、本書は今年の1月という不運な時期に出ていて iPadは最初と最後に「噂」として言及されているにすぎない。表題に Kindle をうたっているものの、Kindleに多大な影響をあたえたソニーのLIBRIéにふれておらず、記述の浅さは否めない。Kindleについて知りたかったら西田宗千佳氏の『iPad vs. キンドル』を読んだ方がいい。

 では読む価値がないかといえば、そんなことはない。今回、電子書籍関係の本をまとめて読んだが、一番教えられるところが多かったのは本書だった。

 まだ海のものとも山のものともわからない電子書籍が騒がれるのは日本の場合は出版危機があるからだが、アメリカの場合は新聞危機だ。日本の新聞社も相当危ないが、トリビューンなど長い歴史を誇る名門新聞社があいついで倒産し、2009年だけで1万5千人のジャーナリストが失業した。天下のニューヨークタイムスまでが十億ドルの負債で危うく倒産しかけている。アメリカでは新聞の大淘汰時代がはじまっているのだ。

 アメリカの新聞は日本と違って地元密着のローカル紙ばかりなので、ドル箱だった三行広告をcraigslist.orgとGoogleに奪われて経営危機に陥ったというような説明はさんざん読んできたが、ローカル紙中心ということとニューヨーク・タイムスの十億ドルの負債がどう結びつくのかがわからなかった。お恥ずかしい話だが、背景を知らなかったのでニュースが読めていなかったのである。

 本書によるとアメリカには1400もの新聞があるが平均発行部数は4万部で25万部以上の大新聞は3%にすぎない。成功した実業家が社会奉仕のために創刊した地元密着のローカル紙がほとんどで、かつては儲け主義とは無縁な手堅い経営をしていた。

 アメリカで日本のような全国紙が生まれなかったのはメディア集中排除規制によるところが大きい。巨大資本が言論を独占しないように歯止めがかけられていたわけだ。

 ところが1990年代に規制が緩和され、おりからの好況で広告料がどんどんはいってくると新聞は儲かる産業と注目を集める。ウォールストリートから資金がどんどん流れこみ、ハーストやマードックだけでなくニューヨーク・タイムスやトリビューンのような老舗新聞社もローカル紙やローカル局、ケーブルTVの買収に走り、メディアコングロマリットとなった。1990年代のアメリカは新聞バブルの時代だったのである。

 日本のマスコミで羨望をこめて語られるアメリカの調査報道は新聞バブルのおかげだった。調査報道というと1973年から4年にかけてのワシントン・ポストのウォーターゲート事件の追求が有名だが、ウッドワード記者とバーンステイン記者は何ヶ月もウォーターゲートにかかりっきりになっていたわけではなかった。花形記者が一つの事件を一年がかりで取材してピューリッツァ賞をとるような贅沢が許されるようになったのも1990年代になってからだそうである。

 しかし新聞バブルはインターネットの普及で破裂し金融危機が追い打ちをかける。アメリカの新聞社は総収入の80%を広告に依存していたが、2005年に494億ドルだった広告収入はわずか4年で半減する。新聞チェーンは傘下のローカル紙に経費削減を厳命しリストラを断行するが、紙面は貧弱になり読者が離れていく。

 本書の後半ではインターネット事業に乗りだした新聞社の右往左往が語られるが、貧すれば鈍するで裏目裏目に出る。課金をめぐるニューヨーク・タイムスの迷走などは本書でようやく全貌がわかった。1990年代のバブルがなければアメリカの新聞業界はもっとましな対応ができていたかもしれない。

 本書には古い新聞人の典型というべきワシントン・ポストのピンカス記者と新しい潮流に乗りだそうとしているSkiff社のフックスバーグ社長のインタビューがおさめられている。

 ピンカス記者はNPO化の動きをバカげたことと一蹴する。外部の介入を招くだけでなく新聞を趣味化させるというわけだ。同じ系列の新聞・雑誌・テレビ局の記者がホワイトハウスに常駐するのは無駄なのでまとめるべきだとか、広告をとるために社交欄を充実させろといった経営寄りの発言もあるが、それだけ現状が厳しいのだろう。

 フックスバーグ社長によればハーストは10年前から電子ペーパーのE Ink社を支援していたという。Kindleやソニーのリーダーなど既成の端末は本をモデルにしているので表示が画一的だが、新聞はブランドが命なのでその新聞社独特のフォントやレイアウトをそっくり再現しなければいけないと語っていた。

 アメリカの新聞業界は固有の事情をかかえているとはいえ、インターネット対応では日本と共通する問題がたくさんある。電子書籍の今後を読むためには騒動から一歩引いてアメリカの先行例を考えるところからはじめた方がよさそうだ。本書はそのための手引きとなってくれるだろう。

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2010年07月12日

『電子書籍の衝撃』 佐々木俊尚 (ディスカヴァー・トゥエンティワン)

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 佐々木俊尚氏の本なので期待したが、最初の200ページはかったるい。楽曲のオンライン配信で激変した音楽業界をモデルに電子書籍後の出版業界の行く末を考えようという趣旨だが、手持ちの材料とオンライン情報で書いたのか、文章にリアリティが感じられないのだ。

 電子書籍端末やビジネスモデルについては西田宗千佳氏の『iPad vs. キンドル』の方がはるかにわかりやすいし、音楽業界と出版業界の平行関係がどこまでいえるのかも疑問だ。マドンナとプリンスはCDからライブに軸足を移したといわれているが、小説家は朗読会では食べていけない。

 もっとも面白い話題は結構ある。ISBNを個人で実際にとってみるとか、収支を公開しているミュージシャンのまつきあゆむ氏とアメリカの素人作家のV.J.チェンバース氏を材料に個人配信事業をシミュレートするとか。電子書籍の自費出版を考えている人にはすぐに役に立つ内容だろうが、それ以外の人は飛ばしてもいいかもしれない。

 ちなみにチェンバース氏は60万円の売上に対して経費44万円、差引16万円の収益だそうである。紙の自費出版が完全なもちだしだったことを考えれば、年に16万円でも利益が出ているのは立派なものだ。

(アマゾンを使った自主出版にはプロ作家も乗りだしており現実はもっと進んでいるようである。このあたりは洋泉社mookの『電子書籍の基本からカラクリまでわかる本』の飯塚真紀子氏のレポートに詳しい。)

 本書でおもしろいのは日本の出版業界の現状を批判した第四章以降である。

 佐々木氏は統計の数字をあげながら「若者の活字離れ」が錯覚で、本を読まなくなったのはむしろ50代以上であることを明らかにし、ケータイ小説がなぜ売れたかという問題に切りこんでいく。

 今さらケータイ小説なんてと思ったが、活字と縁のなかった地方のヤンキーが「お互いがつながりたい」という強いコンテキストの中で読み書きしているのがケータイ小説だという指摘にはほほうと思った。ブームが去ったとはいえケータイ小説が紙の本の形態でも一定数売れつづけているのは読者と作者を結ぶコミュニケーション・ツールになっているからで、だから金箔押しにするなど記念品化しないと売れないそうである(佐々木氏はケータイ小説家を取材した本を出している)。

 終章「本の未来」はこのコンテキストという言葉がキーワードになる。未来の話だけに抽象的で曖昧模糊とした書き方で非常にわかりにくいが、読者が細分化されていくので広く浅い影響をあたえる有名人に代わって少数者に深く濃い影響をあたえるマイクロインフルエンサーが力を持つようになっていくということらしい。

 この予想が妥当かどうかはわからないが、直近の話題に終始する電子書籍本の洪水の中で曲がりなりにも未来のビジョンを出してくれた点は評価したい。

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2010年07月11日

『iPad vs. キンドル』 西田宗千佳 (エンターブレイン)

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 iPad騒動をきっかけに日本でも電子書籍が改めて注目されるようになり、関連本が雨後の筍のように出版されている。

 電子書籍には大蔵経や四庫全書のような人類の遺産をデジタル時代にどう継承するかとか、紙の本から疎外されていたさまざまな障害をもった人たちにどう知識を届けるかといった大きな問題があるのに、どの本もハードウェアの紹介と書籍流通の話に終始しているのは残念だが、電子書籍を受けいれる段階にようやく達したことを考えれば仕方のないことなのかもしれない。

 さて本書であるが、わたしが読んだ六冊の中では抜群の出来だった。電子書籍の本を一冊だけ読みたいというなら躊躇なく本書を推薦する。内容がハードウェアと書籍流通に限られているのは他の本と同じだが、本書は直接取材して書いているだけにリアリティが違うのである(類書にはネット情報を切り貼りしただけのようなものがすくなくない)。

 本書はまずアマゾンのKindleをとりあげるが、Kindleの3年前にKindleとほぼ同等のハードウェアを日本で発売しながら失敗したソニーのLIBRIéと対比しながら話を進めているので、Kindleの成功の理由がよくわかる。

 ソニーは日本でのビジネスの先が見えるとアメリカに転進し再起をはかるが、当事者に聞いているだけに悔しさが伝わってくる。

 次はiPadだが、ジョブズ自身のデモを紹介してアップルの狙いは単なる電子書籍端末ではなく、リビング用端末だと指摘する。なるほど、なるほど。

 第三章は Expand Book 以来の電子書籍の歴史、第四章はアメリカでの電子書籍市場の実態を紹介し、いよいよ最後の章で日本に押し寄せている電子書籍の波の実態が語られるが、業界の入り組んだ利害関係を考えると頭が痛くなる。

 歴史的な流れを踏まえたバランスのとれた記述であり、電子図書館の長尾構想まで視野におさめている点は特筆したいが、ひとつ気になったことがある。ソニーは電子書籍のフォーマットとして世界標準になりつつあるEPUBに早い段階から注目し普及を後押ししていたという条だ。

 それが事実なら、ソニーはなぜAdobeをせっついてEPUBの規格に縦書とルビを押しこんでおかったのだろう。日本市場への捲土重来を期すなら真っ先にやっておかなければならなかったことではないか。著者にはその点を突っこんでもらいたかった。

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