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2010年06月30日

『宇宙の神秘―五つの正立体による宇宙形状誌』 ヨハンネス・ケプラ- (工作舎)

宇宙の神秘―五つの正立体による宇宙形状誌 →bookwebで購入

 ケプラーが25歳の時に出版した処女作である。この本がチコ・ブラーエに認められ、共同研究者格(実質は助手)で招かれ、ケプラー三法則の発見につながっていく。ケプラーの三法則がなかったらニュートンの万有引力の理論もなかったわけで、科学史上きわめて重要な著作である。

 しかし……これは奇書である。仰々しい献辞と読者への序につづいてコペルニクスの宇宙論の要約がくる。次の第二章からが本論になるが、神学的かつ数秘術的な牽強付会の連続で、コペルニクスの『回転論』から70年もたってから、こんな本が書かれたとはとても信じられない。いや、これが当時の標準なのか。コペルニクスはあの時代にしては驚異的に近代的な頭をしていたらしい。

 コペルニクスの宇宙論では惑星は六だけで、地球は太陽から数えて三番目である。ケプラーにとってはこの地球の位置こそ神意のあらわれだった。というのも地球の内側には太陽・水星・金星、外側には火星・木星・土星とそれぞれ三つづつ天体が存在し、地球は宇宙の中心からはずれたとはいえ、特別席がわりあてられているからだ。

 ケプラーはなぜ惑星は六しかないのかと問いつづけ、とんでもない妄想に飛躍する。すべての面が同一の正多角形からできている立体を正立体というが、正立体は正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の五しかない。惑星が六しかないのは惑星を含んだ各天球殻の間に五の正立体がはいるからなのだとケプラーは結論する。

 神は、惑星を創造するとき、内側と外側が動く軌道によって飾られていないような正立体がもはや一つもなくなるまで、正立体を軌道に、軌道を正立体に、次々と内接させていった、と言うほかないのである。……中略……もし五つの正立体を、それぞれの立体のあいだに球を入れ、またいちばん外側と内側を球で閉ざすように相互に組み合わせたら、われわれはまさに六という数の軌道球を得るだろう。

 ケプラーによれば水星と金星の間には正八面体がくる。水星の天球殻はこの正八面体の内接球、金星の天球殻は外接球になる。同様にして金星と地球の間には正二十面体、地球と火星の間には正十二面体、火星と木星の間には正四面体、木星と土星の間には正六面体がはいる。おなじみのケプラー・モデルの図である。  本書の後半では各天球殻の大きさの比率が正立体の内接球と外接球の比率になっているかどうかが検証されている。土星と木星の比率以外は大体あっているとケプラーはいうが(本書時点ではケプラーには計算能力がなく、実際に計算したのは恩師のメストリンのよし)、訳注によるとケプラー全集を編纂したカプラーがコペルニクスの値で計算し直したところ、本書の数値は間違いが多く、実際はもっといい数値になるそうである。

 数値のずれをケプラーは天球殻の厚みで調整しようとしている。本書の時点では惑星の軌道が楕円形だということはわかっておらず周天円を必要としていたので、惑星を含む天球殻は周天円の直径分の厚みをもたなくてはならない。

 そうなると問題は地球である。コペルニクスの体系では地球は五重の周天円で運行していたが、さらに地球の天球殻は月の軌道も含みこまなくてはならない。

 月の軌道まで含むとなると、地球の天球殻は相当ぶ厚くなり、内接する正二十面体や外接する正十二面体にはみだしてしまうのである。  しかし、そのことによってはからずもケプラーの宇宙モデルの物理構造がはっきりした。ケプラーは書いている。

 ところで、月の軌道は、地球の軌道そのものの中に隠され閉じ込められていないと、〔地球軌道に〕隣接する正立体の広がりに圧迫され押しつぶされてしまうのではないか、と心配する必要はない。それというのも、これらの正立体を、ほかの立体の通行を阻むようなある素材でおおわれたものとして宇宙の中に立てるのは、不条理で途方もないことだからである。……中略……われわれが全くコペルニクスに賛成して運行するものとして考えているこの地球は、どんな梃子、どんな鎖、どんな天の綱によって、その軌道の中にはめこまれているのであろうか。そういうものがあるとすれば、それは、すなわち、地球の表面を取り囲んで住むわれわれ人間すべてが吸い込んでいるもの、空気にほかならない。われわれは手をもって、身体をもって、空気の中に入り込むが、だからといってそれを押しのけたり除去したりはできない。というのも、空気こそ、媒介として天体の影響力をその内にある物体に伝達するものだからである。……中略……たとえ月の小軌道が地球軌道〔の球殻〕からはみ出すとしても、〔火星軌道に内接する〕正十二面体もしくは〔金星軌道に外接する〕正二十面体に、月の小軌道の通過を妨げるどんなものがあるというのか。

 啞然とするしかないが、しかしここまで惑星の軌道の比率にこだわったからこそ、ケプラーは第三法則の発見にいたったのだ。

 ケストラーはケプラーはインドを発見しようとしてアメリカ大陸を発見したと評しているが、本書はさしづめインド往きの間違った海図にあたるだろう。若き日のケプラーは神の摂理の証明という見当はずれの方向に船出しながら、万有引力の法則の一歩手前に行きついた。しかも、死ぬまでそのことに気がつかず、自分は神の摂理を発見したと思いこんでいたのである。

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2010年06月29日

『ケプラー疑惑―ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録』 ジョシュア・ギルダー&アン=リー・ギルダー (地人書館)

ケプラー疑惑―ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録 →bookwebで購入

 1601年10月24日、チコ・ブラーエは亡命先のプラハで54歳で急死した。死因は尿毒症か尿路感染症とされてきたが、本書は水銀製剤による毒殺であり、下手人は共同研究者だったケプラーだと告発している。

 400年もたってなぜそんな話が出てきたのだろうか。発端は1991年にさかのぼる。ベルリンの壁崩壊後、チェコ・スロバキア新政府はブラーエの亡骸が眠る教会でブラーエを記念する式典を挙行し、出席したデンマーク大使にブラーエの口髭の一部を贈呈した。口髭はデンマークに持ち帰られ、死の直後からささやかれていた毒殺説を検証するために微量元素の検査をおこったところ、高濃度の水銀が検出された。

 この結果だけだったらまだ毒殺とは断定できない。ブラーエは錬金術にも造詣が深く、塩基性硫酸第二水銀を万能薬として製造していたので、知らず知らずのうちに水銀が体内に蓄積していた可能性があるし、また死の原因となった尿路感染症を治療するために水銀製剤を過剰摂取した可能性も否定できないからだ。

 ところが1996年になって最新のPIXE(粒子線励起X染分析)という技術によってブラーエの頭髪を検査したところ、死の13時間前に大量の水銀を摂取していることが判明した。水銀蓄積説はまちがっていたわけである。しかも鉄とカルシュウムの濃度も高まっていることもわかった。

 水銀と鉄を含む薬剤はブラーエの錬金術工房に存在していた。不溶性の塩基性硫酸第二水銀を製造する過程で作られる可溶性の硫酸第二水銀溶液で、それには還元剤として使われた鉄イオンが含まれていた。

 練達の錬金術師だったブラーエが猛毒とわかっている硫酸第二水銀溶液を誤飲するとは考えにくい。まして進んで飲むなどということはないだろう。

 ブラーエは10月13日の夜、夕食会から帰ってから尿の出ない病気で倒れ、苦しんだあげく11日後に亡くなっている。著者は13日の夕食会の前と死の前夜の23日に硫酸第二水銀溶液を混入したミルクを飲まされたのだと推理している。

 毒殺かどうかはともかくとして、なぜケプラーが犯人なのだろうか。

 著者があげる理由は三つに要約できるだろう。

 第一にデンマークから亡命後、ブラーエのもとからは助手が逃げだしてしまい、この時期ブラーエのもとには新参者のケプラーしか残っていなかったからである。

 第二にブラーエの死によって一番得をしたのはケプラーだからである。ケプラーは神聖ローマ帝国数学官という地位をブラーエから引きついだばかりか、ブラーエが40年以上かけて蓄積した精密な天体観測データを横領し、ケプラーの三法則を発見して後世に名を残した。

 第三にケプラーは悲惨な生い立ちで性格がねじ曲がり、何をするかわからない男だったからである。

 なんの予備知識もなしに本書を読んでいたら著者の推理を受けいれていたかもしれないが、ケストラーの本やケプラーの『宇宙の神秘』を読んでいたので相当無理のある結論のように感じた。

 確かに結果としてケプラーは得をしたが、当時はブラーエ家の食客にすぎず、帝国数学官になれるという保証はなかった。『宇宙の神秘』を上梓していたものの同書を評価してくれたのはブラーエと恩師のメストリンだけで、どこにも就職の口はなかった。帝国数学官に抜擢されなかったら、ブラーエを失ったケプラーは家族をかかえて路頭に迷うところだったのである。

 ブラーエをよく描きすぎている点も気になった。著者はブラーエの宇宙モデルを独創的と評価し、同様のモデルを発表したウルススを剽窃と決めつけているが、ブラーエのモデルはコペルニクスが一度検討して捨てた折衷案にすぎず、独創的でもなんでもなかった。ウルススが独立に考えだした可能性は十分あるし、そう解釈する人の方が多いのではないか。

 ケプラーが性格的に問題のある人物なのは確かだが、損と知りつつプロテスタントの信仰を守りつづけた頑固さといい、ガリレイに対する無防備な人のよさといい、どうも憎めないのである。完全犯罪をたくらむにしては不器用で正直すぎると感じるのはわたしだけだろうか。

 本書はなかなかおもしろい歴史推理だったが、憶測の域を出ていないと思う。

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2010年06月28日

『ヨハネス・ケプラー』 アーサー・ケストラー (ちくま学芸文庫) / 『The Sleepwalkers』 (Penguin)

ヨハネス・ケプラー―近代宇宙観の夜明け
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The Sleepwalkers
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 ケストラーの『ヨハネス・ケプラー』は科学史の本として異例のベストセラーとなった『The Sleepwalkers』(1959)の第四章の邦訳である。あまりにも面白かったので原著をとりよせて最初から読んでみた。

 「人間の宇宙観の歴史」と副題にあるように本書は古代バビロニアで天文観測がはじまった紀元前3000年から17世紀の科学革命までの五千年近い流れをあつかっているが、力点は近世の科学革命におかれている。全600ページのうち、古代ギリシアの宇宙観を述べた第一章「英雄時代」70ページ、ヨーロッパ中世の宇宙観を述べた第二章「暗黒の間奏曲」30ページに対して、コペルニクスを描いた第三章「臆病な聖堂参事会員」は100ページ、ケプラーを主人公にした第四章「分水嶺」は200ページ、ガリレオとニュートンを論じた第五章「道のわかれるところ」は90ページを占めている。

 最初の二章は科学革命の前ふりにすぎないが、イオニア学派とピタゴラス学派の驚くべき科学的知見を述べた部分は力がこもっている。アリスタルコスはコペルニクスと同じ太陽系モデルを作りあげていたし、アルキメデスはガリレオの直前まで達していた。ヒポクラテスとパラケルススを隔てる距離はただの一歩にすぎない。ところがこの一歩を越えるために1500年かかったのである。

 1500年も回り道をしなければならなかったのはプラトンとアリストテレスによって観念論が打ち立てられ、古代唯物論が忘れられてしまったからだとケストラーは断ずる。唯物論対観念論という図式で片づく問題だとは思わないが、本書のテーマは科学革命にあるので宿題にしておこう。

 いよいよ第三章だが『コペルニクス―地球を動かし天空の美しい秩序へ』などで思い描いてきたコペルニクス像とのあまりの違いに啞然とした。

 コペルニクスの兄のアンジェイに問題があるらしいことはギンガリッチの本や『回転論』の二種類の邦訳の解説でほのめかされていたが、ケストラーによると問題があるどころではなかった。

 アンジェイもまた伯父の司教のコネで聖堂参事会員という実入りのいい聖職につき大学にいくことができたが、同僚の聖堂参事会員から多額の借金をしたり、聖堂の公金を使いこんだりといった金銭スキャンダルもさることながら、イタリア留学からもどった時には梅毒に感染していた(記録では「癩病」となっているが、ケストラーは新大陸から持ちこまればかりの梅毒だろうと推測している)。

 梅毒が進行してとうとう顔にまで症状が出た。参事会はパニックにおちいり少額の年金と引き換えに辞任と市から退去を求めたが、アンジェイは馬耳東風、梅毒で崩れた顔で市を歩きまわり、参事会の席にまであらわれた。参事会はついに音を上げ、聖職者の身分を保証するとともに高額の年金をあたえることでイタリアに追い払った。

 ケストラーがこういう個人的スキャンダルをあばいたのはコペルニクスが太陽中心説の公表に及び腰だった理由をさぐるためだ。

 ガリレオが言ったことになっている「それでも地球は動いている」という台詞が有名なので、コペルニクスが『回転論』を長く篋底に秘めていたのも宗教裁判を恐れたのだろうと考えがちだが、この推定には根拠がない。確かに『回転論』は教皇庁によって条件付き禁書に指定されたが、それは初版刊行後70年以上たってからのことであり、ガリレオの巻き添えになったという面が強い。

 コペルニクスの太陽中心説は噂でローマに伝わり教皇の耳にも達していて、好意的にむかえられていた。シェーンベルク枢機卿はもっと詳しく教えてくれという書簡まで出している(『回転論』初版の冒頭に転載)。親友のギーゼ司教などは『回転論』を出版するように何度もせっついている。太陽中心説はすくなくともコペルニクスが生きている間は問題になる心配などなかったのだ。

 コペルニクスは何を恐れていたのか。ケストラーは世間の笑い物になることを恐れていたのだろうと述べている(実際、地動説が笑い物になっていたという記録がある)。

 聖職者にあるまじき恥さらしの兄をもったことで、青年時代のコペルニクスは世間的にも参事会の内部でも孤立していたろうし、嘲笑には人一倍敏感になっていたろう。ケストラーはコペルニクスをいじけてひねくれた人物として描いているが、晩年のダンティスク司教に対する非礼からするとこの描写には説得力がある(ダンティスク司教は悪役にされることが多いが、やり手の外交官出身だけに礼を失するようなことはしていない)。

 兄アンジェイはレティクスとの関係にも影を落としているとケストラーは述べている。社交的なレティクスにコペルニクスはアンジェイの面影を見たのではないかというのだ。また『回転論』に自分の名前が一度も言及されなかったのでレティクスはコペルニクスに裏切られたと思いこんでいた可能性も指摘している。

 確かにレティクスは多数の計算間違いをふくんだ『回転論』の改訂版を出すようにもとめられたのに手をつけずじまいだった。しかし『コペルニクスの仕掛人』では三角表の作業に労力をとられたこととパラケルスス医学への傾倒が原因だとしている。感情の行き違いがあったかどうかはわからないが、レティクスは各地を転々とした間もギーゼから託された『回転論』の手稿を保管しつづけ後世に残したのだから、師に対する敬意は失わなかったというべきだろう。

 さて本書の立役者というべきケプラーだが、コペルニクスに輪をかけた困った人物なのである。恩師のメストリンにあてた書簡がたくさん引用されているが、文面は自己憐憫と傲慢のかたまりで、こういう手のかかる弟子と文通をつづけたメストリンの忍耐力に感服した。

 ケプラーの生涯にはチコ・ブラーエとガリレオもからんでくるが、どちらも問題だらけの人物で苦笑しながら読みすすんだ。天才だからしょうがないともいえるが、あれくらい人格が歪んでいないと後世に残る仕事はできないのかもしれない。

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2010年06月27日

『コペルニクス革命』 トマス・クーン (講談社学術文庫)

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 パラダイム理論で知られるトマス・クーンが1957年に上梓した処女作である。クーンは本書の5年後、『科学革命の構造』でパラダイム理論を提唱し、科学史のみならず思想界に衝撃をあたえることになる。

 本書にも2ヶ所「パラダイム」という言葉が出てくるが、まだ実例という意味にしか使われておらず、パラダイム理論でいう「パラダイム」の意味には達していない。

 しかし「パラダイム」の萌芽はすでに見られる。「概念図式」である。

 本書は星をちりばめた天球という球体が地球を中心に回転しているという「二つの球」の概念図式から、無限の宇宙を無数の天体が重力の法則にしたがって運動しつづけるというニュートンの概念図式に移行する過程を段階を追って跡づけているが、この概念図式は単なる天文計測のための方便ではなく、世界における人間の位置を説明するという「心理的機能」をももっており、科学者であると否とをとわずさまざまな人々さまざまな分野に影響をおよぼしたと指摘する。クーンは書いている。

 科学者も非科学者も同様に、実際に星は人間の地上のすみかを対称形に囲んでいる巨大な球上の輝点なのだ、と信じていた。結果として、二つの球の宇宙論は何世紀もの間多くの人間に世界観、すなわち創造された世界での人間の位置を定義し、人間と神との関係に物理学的意味を賦与するもの、を実際に供給した。

 閉じた「二つの球」からニュートンの無限空間への移行は運動の説明から社会のありかたまで人間の思考のあらゆる分野の変革とからみあっていた。

 「二つの球」の概念図式はアリストテレスの目的論的自然学と不可分の関係にあった。アリストテレスの自然学では万物は五大元素からなり、各元素にはあるべき場所が決まっていて、運動は元素本来の場所にもどるために生じると考えられていた。手を離すと物が地面に落下するのは物の中に「地」元素が含まれているので「地」のあるべき場所=地球の中心に帰ろうとするためだし、炎が空に向かって燃えあがるのは「火」の元素の固有の場所が空にあるためだ。

 地上の世界は「地」「水」「火」「風」の四元素でできているが、天上世界は「エーテル」という第五元素のみでできていると考えられていた。一番外側の恒星をちりばめた天球の内側に土星を載せた透明な天球殻が密着し、その内側には木星の天球殻、さらに火星、太陽、金星、水星の天球殻がきて、一番内側に月の天球殻がくる。地上の世界とは月を載せた天球殻の直下にあたるので「月下の世界」と呼ばれる。アリストテレスの宇宙論をクーンは次のように要約している。

 アリストテレスは、月の天球の下側は宇宙を二つの完全に別々の領域、すなわちつまっている物質もまた支配している法則も異なる領域に分けている。人が住む地上界は多様性と変化、誕生と死、発生と堕落の世界である。対照的に、天上界は不滅と無変化の世界である。すべての元素のうちでエーテルだけが純粋でけがれがない。組み合わされた天球だけが、速度変化がなく、その占める空間が常に厳密に同一で、永久に元の位置へと戻ってくるという、自然かつ永遠の円運動を行なう。天球の実体および運動は天の不変性および尊厳と両立しうる唯一のものであり、天こそが地上の多様性および変化のすべてを作り出し支配している。

 太陽と月を除く惑星は時々逆方向に動いた。この逆行運動を説明するために周天円が考案された。惑星を載せた天球殻にはかなりの厚みがあり、惑星は天球殻の内部で厚み方向に円運動(周天円運動)をしているとしたのである。惑星が天球殻の厚みの中心から外側の領域で運動する期間は天球殻の回転方向と一致するので順行するが、内側の領域にはいった期間は天球殻の回転方向と逆方向になるので逆行して見える。しかも地球に近づくので明るくなるというわけだ。

 周天円システムを提案したのはアポロニオスとヒッパルコスだが、完成させたのはプトレマイオスだった。プトレマイオスは近地点や遠地点を説明するために副周天円を考え、さらに運動速度の変化を説明するためにエカントという架空の中心を作りだした。プトレマイオスが『アルマゲスト』で提案した天球殻システムは千年以上にわたって天文計算の基礎となり、惑星の位置の近似値を提供した。プトレマイオス以後の天文学者は計算結果を観測値により近づけるために周天円に周天円を重ねていき、プトレマイオスのシステムはしだいに複雑化していった。

 この流れに一石を投じたのがコペルニクスだが、注意しておきたいのはアリストテレス=プトレマイオスの地球中心説に対して太陽中心説を主張したのはコペルニクスが最初ではないということだ。古代ギリシアにはピタゴラス学派をはじめとする太陽中心説の流行があったし、ルネサンスになると新プラトン派の台頭とともに太陽中心説が復活した。だが太陽中心説をとなえたのはフィッチノのような詩人であって太陽賛歌・太陽崇拝に終始し、太陽中心の天文学にはつながらなかった。

 天文学者が太陽中心説に関心をもたなかったのには理由がある。周天円を何重にも重ねあわせたプトレマイオスの地球中心の数学モデルはきわめて精緻に組み立てられている上に、ある程度の精度の近似値を提供してくれたからである。より正確を期したいならさらに周天円を重ねて数学モデルを改良すればいいというのが当時の天文学者の考え方だったのだ。

 コペルニクスは改良ではなく革命を選んだ。彼は『アルマゲスト』の改良ではなく、太陽中心の数学モデルをゼロから作りあげた。クーンは『回転論』で重要なのは太陽中心説を定性的に描写した第一巻ではなく、定量的な説明を試みた第二巻以降だとしているが、新たな数学モデルの構築が決定的だったのだ。

 もっとも『回転論』の数学モデルは成功しているとはいえない。逆行を説明するための周天円は不要となったものの、惑星の軌道を円とした上にエカントを排除したので周天円は依然として必要なままだった。コペルニクスは『コメンタリオルス』の時点では周天円は34ですむと目論んでいたが、実際に『回転論』を書きすすめていくうちにどんどん増えていき、最終的には『アマルゲスト』よりも多くなってしまった。それだけ周天円を増やしても近似の精度が多少上がった程度で、格段に正確になったわけではなかった。太陽中心説を裏づけるデータが出てくるのは『回転論』刊行後半世紀以上たってからなのである。

 コペルニクスが地球中心説を棄てて太陽中心説を選んだのは観測値が理由ではなかった。ではなぜ彼は太陽中心説を選んだのか。

 ここからが本書の読みどころで、ジャン・ビュリダンというスコラ哲学者がインペクトゥス理論という形で慣性の原理に近い認識に達していたとか、その弟子のニコル・オレームはガリレオの『天文対話』の議論を先取りしていたとか、科学革命の背景が次々と明らかにされる。スコラ哲学が科学の進歩を阻害したなどという見方は間違っていたのだ。

 パラダイム理論は濫用され気味だが、もともとは科学史の地道なケーススタディから生まれたものだった。そのことを確認できたことも本書の大きな収穫である。

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