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2010年05月30日

『コペルニクスの仕掛人―中世を終わらせた男』 ダニエルソン (東洋書林)

コペルニクスの仕掛人―中世を終わらせた男 →bookwebで購入

 コペルニクスの『回転論』はレティクスという若い数学者との出会いがなかったら完成することも出版されることもなかったろうが、本書はそのレティクスの生涯を描いている。

 いくらコペルニクスが偉大にしても脇役の伝記まで本になり、邦訳されるのはなまなかのことではない。なにが書いてあるのだろうという興味で読みはじめたが、レティクスの波瀾万丈の人生にこれがルネサンス人なのかと思った。

 レティクスはルターが『95ヶ条の論題』で宗教改革をはじめる3年前の1514年にアルプス山麓のフェルトキルヒに生まれた。父親のゲオルグ・イセリンは著名な医師だったが、レティクス14歳の時に詐欺と窃盗の罪で斬首された上にイセリンという姓も抹消されてしまう。レティクスは母の姓であるド・ポリスをもちいるが、後にフェルトキルヒ一帯のローマ時代の属州名、レチアにちなんでレティクスと名乗るようになる。

 レティクスは父を失ったものの、母がイタリアの名家の出だったので学資に困ることはなく、チューリヒとヴィッテンベルクで最高のレベルの教育を受けることになる。

 ヴィッテンベルクはルターが『95ヶ条の論題』を発表した地であり、ルター派の拠点だった。ルターが教鞭をとっていたヴィッテンベルク大学はルターの右腕だったメランヒトンが指導していたが、レティクスはメランヒトンに数学の才能を見いだされ、卒業後、ただちに数学の講師に任命される。

 学者としては順風満帆のすべり出だしだが、レティクスには生来放浪癖があったようで、2年半で休暇を願いでて南ドイツを遍歴しニュールンベルクから生まれ故郷のフェルトキルヒまで足を伸ばす。レティクスはニュールンベルクでコペルニクスとその斬新な学説を知ったろうと考えられている。

 彼はヴィッテンベルクにもどるもののコペルニクスの学説が知りたくてたまらなくなり、またしても長期休暇を願い出てコペルニクスのいるフラウエンブルクに向かう。

 こうして1539年の春、65歳のコペルニクスと25歳のレティクスの出会いが実現し、2年間の共同作業の後、『回転論』が上梓の運びとなる。

 レティクスがライプツィヒ大学から破格の条件で招聘されたために、出版の実務はルター派の牧師のオジアンダーに託されたが、オジアンダーは太陽中心説は計算のための便宜的な仮説だとする序文を無断でつけくわえた。レティクスはもちろんコペルニクスの友人たちも怒ったが、結果的に見れば序文と題辞は『回転論』を宗教論争から救ったことになる(『回転論』は出版の70年後に禁書目録に載せられるが、これはケプラーが序文と題辞の筆者はオジアンダーであり、コペルニクスは太陽中心説を信じていたと明らかにしたためである)。

 レティクスがコペルニクスから引きついだのは太陽中心説だけではなかった。三角表の完成という大仕事も引きついでいたのである。

 惑星の緯度・経度を計算するには三角関数が必要だが、いちいち計算しては大変なので、あらかじめ計算した結果を載せた数表があると便利である。『回転論』には三角表の簡略版が載っていたが、レティクスはそれを1秒きざみで10桁まで計算した表に拡充しようとした。

 レティクスの後半生は三角表の完成に捧げられるが、計算量が厖大なので多数の計算士を雇わなければならない。彼は大衆向けの暦の出版を手がけ、その収益で三角表を作ろうとするが、暦の出版で負債をかかえて自転車操業におちいったようだ。

 そのストレスのせいかどうかはわからないが、レティクスは破廉恥事件を起こしてしまう。教え子を泥酔させて鶏姦行為を強制しようとしたと学生の父親から訴えられたのだ。レティクスは夜逃げ同然にライプチヒを出奔した。債権者の差し押え目録によると、彼は印刷済みの暦だけでなく大量の未使用の紙(200頁の四折版の本にして3000部相当)を仕事場に残していったという。

 レティクスは各地を遍歴した後、悪い評判の届いていないクラクフに落ち着き医師として再出発するが、コペルニクスの太陽中心説以上に危険なパラケルススの新医学に傾倒するあたり、ルネサンス人の面目躍如である。

 クラクフは数学のレベルが低く協力者がえられなかった上に、レティクスがパラケルススにのめりこんだので、三角表はなかなか進まなかった。

 晩年のレティクスは三角表をほとんど放棄していたが、学会は三角表を待望していた。ここでめぐりあわせのような出来事が起こる。ヴィッテンベルク大学で数学を学んでいたヴァレンチン・オットーという若い数学者がレティクスに教えを請いにやって来たのだ。オットーはかつてのレティクスのように師の仕事を引きついだ。

 オットーが三角表の出版にこぎつけるのはレティクスの死の22年後のことだったが、致命的な誤解があったことが明らかになる。レティクスは小数点以下10桁までの表を作るために15桁まで計算していたが、オットーは10桁までしか計算していなかった。0度や90度に近い角度では10桁まででは十分な精度が出ず、オットーの三角表は使いものにならなかったのである。

 オットーは改訂にとりかかろうとしたが、余力は残っていなかった。三角表に欠陥があることは表を献呈された選帝侯フリードリヒ四世の耳にもはいった。フリードリヒ四世は三角表の改訂をカルヴァン派の牧師ピチスクスにゆだねた。

 ピチスクスはオットーが引きついだレティクス資料の中から15桁までの計算結果を掘りだし、レティクスの生誕99年にあたる1613年ついに三角表の決定版を出版した。コペルニクス、レティクス、オットー、ピチスクスと四人の学者に引き継がれた三角表は20世紀まで使われつづけたということである。

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