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2010年05月29日

『コペルニクス―地球を動かし天空の美しい秩序へ』 ギンガリッチ&マクラクラン (大月書店)

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 オックスフォード大学出版局から出ている「科学の肖像」という科学者の伝記シリーズの一冊である。共著者のオーウェン・ギンガリッチはコペルニクスの権威であり、書誌学の怪物的達成というべき『誰も読まなかったコペルニクス』の著者でもある。

 邦訳にして150ページの小著であるし図版が多数はいっているので、あっという間に読みきってしまった。

 コペルニクスの伝記と学説については『回転論』の二つの邦訳の解説でもかなりの紙幅がさかれているし、コペルニクスの唯一の弟子、レティクスの生涯を描いた『コペルニクスの仕掛人』でもふれられているが、本書は生涯の物語と平行して地動説=太陽中心説の幾何学的概要が解説されている。

 本書はコロンブスの航海のニュースがとどいて沸きたつ1493年のヤギェーウォ大学からはじまる。当時20歳だったニコラウス・コペルニクスは兄のアンドレアスとともに三年次に在籍していた。

 彼が生まれる20年前にはグーテンベルクが活版印刷をはじめ、44歳の時にはルターが宗教改革の烽火をあげている。コペルニクスはヨーロッパが大きく変貌する時代に生きたのである。

 コペルニクスはヴィスワ河畔のトルニで生まれた。ヴィスワ河はクラクフやワルシャワとバルト海に面したグダニスクをつないでいたが、トルニはヴィスワ川水運の中心で、ハンザ同盟に加盟した商業都市だった。父はワルシャワから移ってきた成功した商人。母はトルニの大商人の娘で、母方の祖父は町の有力者だった。

 コペルニクスは10歳の時、父と死別するが、教会で出世街道を歩んでいた母方の伯父ルカス・ヴァッツェンローデが学資を出してくれた。コペルニクスが16歳の時、ルカス・ヴァッツェンローデはヴァルミアの司教に就任する。

 『コペルニクスの仕掛人』によると、ルカスは教育畑で出世しようとしたが、学校長の娘に私生児を産ませたために教育界にいられなくなり、教会に鞍替えしたという。司教になった後、私生児を町長に任命しているというが、私生児スキャンダルのために聖職者に転じるというのも面白い。

 コペルニクスはまずヤギェーウォ大学で学ぶが、初級と上級の天文学の講義を聞いたことが記録に残っている。上級ではプールバッハの『惑星の新理論』を学んだが、この本には周天円が天球に埋めこまれた構造が図示してある。コペルニクスはアルフォンソ天文表とレギオモンタヌス天文表を購入し、メモ用紙16ページとあわせて製本している(このメモ用紙には後に太陽中心説の原型となる図が描かれることになる)。

 司教は教会領の行政長官を兼ねており人事権をもっている。伯父のヴァッツェンローデ司教はヤギェーウォ大学を終えたばかりのコペルニクスを空席のできたヴァルミア聖堂参事会員に強引に押しこんだ。定収入のできたコペルニクスは翌年から四年間ボローニャ大学に留学して教会法を学ぶことになる。伯父はコペルニクスに自分と同じように教会で出世して欲しいと願ったのである。

 伯父はコペルニクスの兄のアンジェイも聖堂参事会員にするが、この兄はケストラーの『Sleepwalkers』によるときわめて問題のあった人物のようである(本書では暗示するにとどめられているが)。

 コペルニクスはボローニャでは天文学の教授ドメニコ・マリア・ダ・ノヴァラの家に下宿し観測助手をつとめた。出版されたばかりの『アルマゲスト要約』も購入しており、天文学に対する並々ならぬ関心がうかがえる。

 コペルニクスは権力よりも学問に関心があったようで、四年の学業を終えた後、医術の勉強をするという条件でさらに二年間パドヴァ大学に遊学する。当時の医術は占星術が不可欠だったから占星術も学んだはずである。

 30歳になったコペルニクスは帰国し、ヴァルミアで律修司祭となって教会の土地と財産を管理する仕事につくが、すぐに伯父のヴァッツェンローデ司教の補佐役兼侍医に抜擢され、司教の宮殿に出仕することになる。伯父は優秀なコペルニクスを自分の手元で後継者にしこもうと考えたのだろう。

 1504年に惑星が一ヶ所に集まる大会合があったが、この頃太陽中心説につながる着想をえたらしい。天文表といっしょに製本したメモ用ページには火星、木星、土星の周天円の半径が太陽の公転半径と等しいとした図が描かれているからだ。彼は1510年37歳の時に司教宮殿を出てに律修司祭の職務にもどり、3年後に自費で天文観測用の塔を建てている。伯父のもとをはなれるとは教会での出世の道を放棄したことを意味するだろう。

 この頃、コペルニクスは太陽中心説をまとめた小冊子を少部数筆写してクラクフの知人に送っている。今日「コメンタリオルス」として知られる覚書である(高橋憲一訳『コペルニクス・天球回転論』に併録)。

 1515年にプトレマイオスの『アルマゲスト』がはじめて刊行された。コペルニクスはそれまで『アルマゲスト要約』しか読んでいなかったと思われるが、『アルマゲスト』には天文計算のための多数のパラメータや表が掲載されており、「コメンタリオルス」で述べた太陽中心説を実証するには『アルマゲスト』に匹敵する体系を打ち立てなければならなかった。

 コペルニクスは職務のかたわら、天体観測をつづけ『回転論』となる原稿を書きたしていったが、学問の中心から離れた僻地に住んでいたので彼の革命的な学説に興味をもつ者はごく少数の友人だけだった。彼は近在で名医として知られるようになったが、天文学者だと知る者はほとんどいなかったろう。

 だが学問の世界は彼を忘れていなかった。太陽中心説は枢機卿や司教という高位の人の興味を惹き問い合わせの手紙があったが、コペルニクスは『回転論』の改訂をつづけるのみで発表にはいたらなかった。

 65歳の時に転機が訪れる。レティクスという若い数学者がコペルニクスの新説を知ってわざわざ教えを請いにきたのである。レティクスはコペルニクスのもとに2年間滞在して草稿の仕上げを手伝い、太陽中心説の概要を「ナラティオ・プリマ」という小冊子にまとめて学会に発表した。コペルニクスの新説はにわかに注目を集め『回転論』の出版が決まるが、レティクスがライプツィヒ大学に移ったために作業はルター派の神学者であるオジアンダーに託された。印刷の終わった『回転論』が届けられたのはコペルニクスの死の直前のことだった。

 なお『回転論』出版に尽力したレティクスについては『コペルニクスの仕掛人』に詳しい。

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