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2010年05月31日

『誰も読まなかったコペルニクス』 ギンガリッチ (早川書房)

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 科学革命の端緒となったコペルニクスの『回転論』は1453年の初版が273部、1566年の第二版が325部残っているが、著者のギンガリッチは世界中を飛びまわって現物にすべてあたり、本の現状と来歴、補修の有無、書きこみを調べ、2002年に『コペルニクスの『回転について』の注釈つき調査』として出版した。本書はそのメイキングというべき本である。

 ギンガリッチが『回転論』を調べようと思いたったのはエジンバラ王立天文台でびっしり書きこみのある初版本を見つけたことにはじまる。アーサー・ケストラーは天文学の歴史を描いたベストセラー『Sleepwalkers』(日本ではケプラーの章だけが訳されている)で『回転論』を「誰も読まなかった本」と決めつけたが、書きこみがあるということは読んだ証拠である。しかも書きこみは宇宙論を述べた第一章ではなく、天文計算を解説した難解な第二章以降に集中していた。書きこみの主がヴィッテンベルク大学でレティクスの同僚だったエラスムス・ラインホルトだったことがわかると、ギンガリッチの好奇心に火がついた。ラインホルトが書きこんでいるなら、ティコ・ブラーエやケプラー、ガリレオも書きこみを残しているのではないか。書きこみを通して『回転論』が科学革命の渦中でどのように読まれ、どのような影響をおよぼしたのかがさぐれるのではないか。

 かくしてギンガリッチの『回転論』追跡の旅がはじまる。まずは滞在していた英国からはじめ、ヨーロッパ、アメリカ、エジプト、ソ連、中国にまで足を伸ばす(中国にはイエズス会の宣教師が皇帝への贈物として二部もちこんでいる)。アメリカにはコンピュータ化された稀覯書の目録があったが、これが当てにならなかった。入力するのは学生アルバイトなので、後世作られた初版の複製を誤って初版と登録している例が多かったのだ。

 モスクワの国立レーニン図書館には六冊あるはずだったが、六冊目はどうしても見る許可がおりない。ソ連崩壊後にわかったことだったが、ソ連軍がドイツから戦利品として奪ってきた本だったのである。

 ヨーロッパの田舎町の小さな図書館にまで初版本が眠っているというのは驚きだった。そうした図書館は管理がゆるいので盗難にあい、オークションに出品されるケースがある。ギンガリッチはオークションの目録でそれらしい本を見つけると図書館に連絡をとるが、小さいところでは迅速な措置がとれないという。オークション会社は後のトラブルを恐れ、『回転論』が出品されると事前にギンガリッチに鑑定を依頼するようになったということである。現存するすべての『回転論』を見ているわけだから、盗品ならすぐにわかるわけだ。

 オークションでは百万円を超える値段がつくので贋物や「ソフィスティケートされた本」と呼ばれる補修本がすくなくない。「ソフィスティケートされた本」とは欠損のある本物二冊から完全な一冊を作ったり欠損部分を複製で差し替えた本で、贋物とはいえないが値段は大幅に下がる。

 贋物や「ソフィスティケートされた本」を見破るためには印刷史や出版史の知識が不可欠となる。当時の本は仮綴じさえせず印刷した紙の束のまま販売したので装丁は一冊一冊異なり、決め手にはなりにくい。

 ポイントとなるのは紙だ。紙には製法上、鎖線と呼ばれる平行線の透かしがはいたが、印刷工房によっては意図的に透かしをいれている場合もある。『回転論』の初版を印刷したペトレイウスはPという透かしをいれていたので、真贋を判断する手がかりとなる。

 初版発行部数を推定する条もおもしろい。ガリレオの『天文対話』のように発行部数がわかっている本もあるが、『回転論』は初版も第二版も記録がない。ギンガリッチはペトレイウスの印刷工房の印刷能力を推定するところからはじめる。印刷の前日に紙を水でぬらし半乾きの状態で印刷していたとか、蘊蓄を思う存分披露してくれている。

 初版・第二版あわせて千部前後というのがギンガリッチの結論だが、とすると残存率は60%になる。この数字はニュートンの『プリンキピア』とほぼ同率だそうである。

 肝心の書きこみであるが、ティコ・ブラーエの書きこみを発見したとよろこんだのもつかの間、ギンガリッチのライバル学者(こういう超マニアックな分野にライバルがいること自体すごい)がまったく同じ書きこみのある本を見つけ、謎解きを迫られる条が前半の山場となる。

 まったく同じ書きこみが複数の本に異なる筆跡で見つかる例は他にもあった。どうも先生の書きこみを弟子が自分の本にそのまま書き写す習慣があったらしいのである。先人の書きこみに後の所有者が補足や反論の書きこみをしている例も多かった。本が貴重品だった時代、本の書きこみが知の共有手段として機能していたわけだ。

 電子書籍でも書きこみは可能だが、誰が書きこんだかを筆跡で確定するといったことができなくなる。電子書籍時代の幕開けをむかえるにあたって、紙の本の思いがけない使われ方を知っておくのは必要なことだろう。ギンガリッチはそんなことは考えていないだろうが、本書は時宜にかなった出版ではないかと思う。

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2010年05月30日

『コペルニクスの仕掛人―中世を終わらせた男』 ダニエルソン (東洋書林)

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 コペルニクスの『回転論』はレティクスという若い数学者との出会いがなかったら完成することも出版されることもなかったろうが、本書はそのレティクスの生涯を描いている。

 いくらコペルニクスが偉大にしても脇役の伝記まで本になり、邦訳されるのはなまなかのことではない。なにが書いてあるのだろうという興味で読みはじめたが、レティクスの波瀾万丈の人生にこれがルネサンス人なのかと思った。

 レティクスはルターが『95ヶ条の論題』で宗教改革をはじめる3年前の1514年にアルプス山麓のフェルトキルヒに生まれた。父親のゲオルグ・イセリンは著名な医師だったが、レティクス14歳の時に詐欺と窃盗の罪で斬首された上にイセリンという姓も抹消されてしまう。レティクスは母の姓であるド・ポリスをもちいるが、後にフェルトキルヒ一帯のローマ時代の属州名、レチアにちなんでレティクスと名乗るようになる。

 レティクスは父を失ったものの、母がイタリアの名家の出だったので学資に困ることはなく、チューリヒとヴィッテンベルクで最高のレベルの教育を受けることになる。

 ヴィッテンベルクはルターが『95ヶ条の論題』を発表した地であり、ルター派の拠点だった。ルターが教鞭をとっていたヴィッテンベルク大学はルターの右腕だったメランヒトンが指導していたが、レティクスはメランヒトンに数学の才能を見いだされ、卒業後、ただちに数学の講師に任命される。

 学者としては順風満帆のすべり出だしだが、レティクスには生来放浪癖があったようで、2年半で休暇を願いでて南ドイツを遍歴しニュールンベルクから生まれ故郷のフェルトキルヒまで足を伸ばす。レティクスはニュールンベルクでコペルニクスとその斬新な学説を知ったろうと考えられている。

 彼はヴィッテンベルクにもどるもののコペルニクスの学説が知りたくてたまらなくなり、またしても長期休暇を願い出てコペルニクスのいるフラウエンブルクに向かう。

 こうして1539年の春、65歳のコペルニクスと25歳のレティクスの出会いが実現し、2年間の共同作業の後、『回転論』が上梓の運びとなる。

 レティクスがライプツィヒ大学から破格の条件で招聘されたために、出版の実務はルター派の牧師のオジアンダーに託されたが、オジアンダーは太陽中心説は計算のための便宜的な仮説だとする序文を無断でつけくわえた。レティクスはもちろんコペルニクスの友人たちも怒ったが、結果的に見れば序文と題辞は『回転論』を宗教論争から救ったことになる(『回転論』は出版の70年後に禁書目録に載せられるが、これはケプラーが序文と題辞の筆者はオジアンダーであり、コペルニクスは太陽中心説を信じていたと明らかにしたためである)。

 レティクスがコペルニクスから引きついだのは太陽中心説だけではなかった。三角表の完成という大仕事も引きついでいたのである。

 惑星の緯度・経度を計算するには三角関数が必要だが、いちいち計算しては大変なので、あらかじめ計算した結果を載せた数表があると便利である。『回転論』には三角表の簡略版が載っていたが、レティクスはそれを1秒きざみで10桁まで計算した表に拡充しようとした。

 レティクスの後半生は三角表の完成に捧げられるが、計算量が厖大なので多数の計算士を雇わなければならない。彼は大衆向けの暦の出版を手がけ、その収益で三角表を作ろうとするが、暦の出版で負債をかかえて自転車操業におちいったようだ。

 そのストレスのせいかどうかはわからないが、レティクスは破廉恥事件を起こしてしまう。教え子を泥酔させて鶏姦行為を強制しようとしたと学生の父親から訴えられたのだ。レティクスは夜逃げ同然にライプチヒを出奔した。債権者の差し押え目録によると、彼は印刷済みの暦だけでなく大量の未使用の紙(200頁の四折版の本にして3000部相当)を仕事場に残していったという。

 レティクスは各地を遍歴した後、悪い評判の届いていないクラクフに落ち着き医師として再出発するが、コペルニクスの太陽中心説以上に危険なパラケルススの新医学に傾倒するあたり、ルネサンス人の面目躍如である。

 クラクフは数学のレベルが低く協力者がえられなかった上に、レティクスがパラケルススにのめりこんだので、三角表はなかなか進まなかった。

 晩年のレティクスは三角表をほとんど放棄していたが、学会は三角表を待望していた。ここでめぐりあわせのような出来事が起こる。ヴィッテンベルク大学で数学を学んでいたヴァレンチン・オットーという若い数学者がレティクスに教えを請いにやって来たのだ。オットーはかつてのレティクスのように師の仕事を引きついだ。

 オットーが三角表の出版にこぎつけるのはレティクスの死の22年後のことだったが、致命的な誤解があったことが明らかになる。レティクスは小数点以下10桁までの表を作るために15桁まで計算していたが、オットーは10桁までしか計算していなかった。0度や90度に近い角度では10桁まででは十分な精度が出ず、オットーの三角表は使いものにならなかったのである。

 オットーは改訂にとりかかろうとしたが、余力は残っていなかった。三角表に欠陥があることは表を献呈された選帝侯フリードリヒ四世の耳にもはいった。フリードリヒ四世は三角表の改訂をカルヴァン派の牧師ピチスクスにゆだねた。

 ピチスクスはオットーが引きついだレティクス資料の中から15桁までの計算結果を掘りだし、レティクスの生誕99年にあたる1613年ついに三角表の決定版を出版した。コペルニクス、レティクス、オットー、ピチスクスと四人の学者に引き継がれた三角表は20世紀まで使われつづけたということである。

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2010年05月29日

『コペルニクス―地球を動かし天空の美しい秩序へ』 ギンガリッチ&マクラクラン (大月書店)

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 オックスフォード大学出版局から出ている「科学の肖像」という科学者の伝記シリーズの一冊である。共著者のオーウェン・ギンガリッチはコペルニクスの権威であり、書誌学の怪物的達成というべき『誰も読まなかったコペルニクス』の著者でもある。

 邦訳にして150ページの小著であるし図版が多数はいっているので、あっという間に読みきってしまった。

 コペルニクスの伝記と学説については『回転論』の二つの邦訳の解説でもかなりの紙幅がさかれているし、コペルニクスの唯一の弟子、レティクスの生涯を描いた『コペルニクスの仕掛人』でもふれられているが、本書は生涯の物語と平行して地動説=太陽中心説の幾何学的概要が解説されている。

 本書はコロンブスの航海のニュースがとどいて沸きたつ1493年のヤギェーウォ大学からはじまる。当時20歳だったニコラウス・コペルニクスは兄のアンドレアスとともに三年次に在籍していた。

 彼が生まれる20年前にはグーテンベルクが活版印刷をはじめ、44歳の時にはルターが宗教改革の烽火をあげている。コペルニクスはヨーロッパが大きく変貌する時代に生きたのである。

 コペルニクスはヴィスワ河畔のトルニで生まれた。ヴィスワ河はクラクフやワルシャワとバルト海に面したグダニスクをつないでいたが、トルニはヴィスワ川水運の中心で、ハンザ同盟に加盟した商業都市だった。父はワルシャワから移ってきた成功した商人。母はトルニの大商人の娘で、母方の祖父は町の有力者だった。

 コペルニクスは10歳の時、父と死別するが、教会で出世街道を歩んでいた母方の伯父ルカス・ヴァッツェンローデが学資を出してくれた。コペルニクスが16歳の時、ルカス・ヴァッツェンローデはヴァルミアの司教に就任する。

 『コペルニクスの仕掛人』によると、ルカスは教育畑で出世しようとしたが、学校長の娘に私生児を産ませたために教育界にいられなくなり、教会に鞍替えしたという。司教になった後、私生児を町長に任命しているというが、私生児スキャンダルのために聖職者に転じるというのも面白い。

 コペルニクスはまずヤギェーウォ大学で学ぶが、初級と上級の天文学の講義を聞いたことが記録に残っている。上級ではプールバッハの『惑星の新理論』を学んだが、この本には周天円が天球に埋めこまれた構造が図示してある。コペルニクスはアルフォンソ天文表とレギオモンタヌス天文表を購入し、メモ用紙16ページとあわせて製本している(このメモ用紙には後に太陽中心説の原型となる図が描かれることになる)。

 司教は教会領の行政長官を兼ねており人事権をもっている。伯父のヴァッツェンローデ司教はヤギェーウォ大学を終えたばかりのコペルニクスを空席のできたヴァルミア聖堂参事会員に強引に押しこんだ。定収入のできたコペルニクスは翌年から四年間ボローニャ大学に留学して教会法を学ぶことになる。伯父はコペルニクスに自分と同じように教会で出世して欲しいと願ったのである。

 伯父はコペルニクスの兄のアンジェイも聖堂参事会員にするが、この兄はケストラーの『Sleepwalkers』によるときわめて問題のあった人物のようである(本書では暗示するにとどめられているが)。

 コペルニクスはボローニャでは天文学の教授ドメニコ・マリア・ダ・ノヴァラの家に下宿し観測助手をつとめた。出版されたばかりの『アルマゲスト要約』も購入しており、天文学に対する並々ならぬ関心がうかがえる。

 コペルニクスは権力よりも学問に関心があったようで、四年の学業を終えた後、医術の勉強をするという条件でさらに二年間パドヴァ大学に遊学する。当時の医術は占星術が不可欠だったから占星術も学んだはずである。

 30歳になったコペルニクスは帰国し、ヴァルミアで律修司祭となって教会の土地と財産を管理する仕事につくが、すぐに伯父のヴァッツェンローデ司教の補佐役兼侍医に抜擢され、司教の宮殿に出仕することになる。伯父は優秀なコペルニクスを自分の手元で後継者にしこもうと考えたのだろう。

 1504年に惑星が一ヶ所に集まる大会合があったが、この頃太陽中心説につながる着想をえたらしい。天文表といっしょに製本したメモ用ページには火星、木星、土星の周天円の半径が太陽の公転半径と等しいとした図が描かれているからだ。彼は1510年37歳の時に司教宮殿を出てに律修司祭の職務にもどり、3年後に自費で天文観測用の塔を建てている。伯父のもとをはなれるとは教会での出世の道を放棄したことを意味するだろう。

 この頃、コペルニクスは太陽中心説をまとめた小冊子を少部数筆写してクラクフの知人に送っている。今日「コメンタリオルス」として知られる覚書である(高橋憲一訳『コペルニクス・天球回転論』に併録)。

 1515年にプトレマイオスの『アルマゲスト』がはじめて刊行された。コペルニクスはそれまで『アルマゲスト要約』しか読んでいなかったと思われるが、『アルマゲスト』には天文計算のための多数のパラメータや表が掲載されており、「コメンタリオルス」で述べた太陽中心説を実証するには『アルマゲスト』に匹敵する体系を打ち立てなければならなかった。

 コペルニクスは職務のかたわら、天体観測をつづけ『回転論』となる原稿を書きたしていったが、学問の中心から離れた僻地に住んでいたので彼の革命的な学説に興味をもつ者はごく少数の友人だけだった。彼は近在で名医として知られるようになったが、天文学者だと知る者はほとんどいなかったろう。

 だが学問の世界は彼を忘れていなかった。太陽中心説は枢機卿や司教という高位の人の興味を惹き問い合わせの手紙があったが、コペルニクスは『回転論』の改訂をつづけるのみで発表にはいたらなかった。

 65歳の時に転機が訪れる。レティクスという若い数学者がコペルニクスの新説を知ってわざわざ教えを請いにきたのである。レティクスはコペルニクスのもとに2年間滞在して草稿の仕上げを手伝い、太陽中心説の概要を「ナラティオ・プリマ」という小冊子にまとめて学会に発表した。コペルニクスの新説はにわかに注目を集め『回転論』の出版が決まるが、レティクスがライプツィヒ大学に移ったために作業はルター派の神学者であるオジアンダーに託された。印刷の終わった『回転論』が届けられたのはコペルニクスの死の直前のことだった。

 なお『回転論』出版に尽力したレティクスについては『コペルニクスの仕掛人』に詳しい。

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『天体の回転について』 コペルニクス (岩波文庫)

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 地動説=太陽中心説をとなえ、科学革命の端緒となったコペルニクスの主著が岩波文庫のリクエスト再刊で書店にまたならぶようになった。みすず書房からは高橋憲一訳が出ているが、こちらは絶版である。紙の本で手にはいるのは今回が最後かもしれない。欲しい人は買っておいた方がいい。

 コペルニクス自身のつけた表題は『回転論』だったが、校正にあたったオジアンダーか版元が『天球回転論』に変えてしまった。コペルニクスは惑星は天球という透明な殻に固定されていると考えていたから、『天球回転論』でも間違ってはいない。岩波文庫の矢島祐利訳は『天体の回転について』になっているが、天体の回転にするのは無理である。

 矢島訳と高橋訳では底本が違う。矢島訳はコペルニクスの自筆原稿をもとにしたコワレ版によっているが、高橋訳は初版本をもとにした批判版によっている。初版は校正者のオジアンダーが太陽中心説を計算の便宜のための「仮説」と決めつけた序文をつけくわえているので評判が悪く、自筆原稿こそがコペルニクスの真意をあらわすと考えられてきた。だが、近年の研究によって自筆原稿は下書きであり、初版の異同と初版に付された正誤表はコペルニクス自身によるものであることがわかり、初版が優先されるようになった。

 系統の異なる底本にもとづく複数の邦訳があるのはありがたいが、どちらも全訳ではなく、六巻のうち第一巻のみの部分訳である(高橋訳は初版の30年前に書かれ、筆写本として流布した「コメンタリオルス」を併録)。

 第二巻以降には何が書かれているのだろうか。付録の内容目次によると第二巻は赤道・黄道・子午線の関係、第三巻は太陽の運動、第四巻は月の運動、第五巻は太陽と月以外の惑星の運動、第六巻は各惑星の緯度の計算について解説しているという。われわれは太陽中心説=思想革命ととらえがちだが、実際の本は惑星の位置を計算するための記述に大部分のページがさかれ、実際、ラインホルトのように本書にもとづく天文表も作られている。

 矢島訳では割愛されているが、扉の題辞がおもしろいので高橋訳から引用しよう。

 好学なる読者よ、新たに生まれ、刊行されたばかりの本書において、古今の観測によって改良され、斬新かつ驚嘆すべき諸仮説によって用意された恒星運動ならびに惑星運動が手に入る。加えて、きわめて便利な天文表も手に入り、それによって、いかなる時における運動も全く容易に計算できるようになる。だから、買って、読んで、お楽しみあれ。

 題辞の筆者はまたしてもオジアンダーだが、太陽中心説という「驚嘆すべき仮説」よりも星の位置を計算するための数表の方を売りにしていたのである。

 天文表に需要があったのは占星術のためだ。ギンガリッチの『誰も読まなかったコペルニクス』によると、自由七科に天文学が含まれていたのはなにをするにも占星術が必要だったからである。パトロンができたらホロスコープを作ってあげるくらいは大学で学んだ者のたしなみだったようだ。

 コペルニクスは天文家としてより医家として名声が高かったが、当時の医術は特に占星術と密接に結びついていた。臓器は対応する惑星の影響を受けていると考えられていたので、瀉血のタイミングを星の位置で決めるなど占星術の知識が不可欠だった。

 コペルニクスは若い頃ギリシア語の書簡集のラテン語訳を上梓したほどの人文主義者だったから、古代ギリシャの数学や天文学に通じていた。本書の第五章でも地球の自転や公転という考え方はピタゴラス派に先蹤があったことを指摘している。第十章は宇宙論の核心部分で、一番外側に恒星球、その内側に土星球、木星球、火星球……と同心球が入れ子になり、いよいよ中心に太陽が位置すると書く。

 そして眞中に太陽が靜止している。この美しい殿堂のなかでこの光り輝くものを四方が照らせる場所以外の何處に置くことができようか。或る人々がこれを宇宙の瞳と呼び、他の人々が宇宙の心と言い、更に他の人々が宇宙の支配者と呼んでいるのは決して不適當ではない。トリスメギトスは見える神と呼んだ。ソフォクレスのエレクトラはすべてを見るものと呼んだ。太陽は王樣の椅子に坐ってとりまく天體の家來を支配しているようなものである。

 いかにも人文主義的な文飾だが、無味乾燥な理詰めの文章の中に唐突に出てくるので異様な印象を受ける。コペルニクスは古代の太陽崇拝を復活させたという見方があるが、あるいはあたっているのかもしれない。

 コペルニクスは宇宙は天球という透明な殻が入れ子になってできているという天球説を信じていた。回転するのは天体ではなく天体を載せた天球なのである(矢島訳の表題は『天体の回転について』となっているが『天球の回転について』とすべき)。後のティコ・ブラーエは太陽と月が地球の周りをめぐり、他の惑星は太陽の周りをめぐっているという折衷説を提唱した。コペルニクスもその可能性を検討しているが、太陽の天球と火星の天球がぶつかるとして斥けている。

 コペルニクスはルネサンス人であって、その宇宙論は近代の幕を開いたにしても近代的ではなかったというべきだろう。

 本書には本文とほぼ同じ分量の解説が付されている。解説はコペルニクス小伝とコペルニクス以前の宇宙論、コペルニクスの影響にわかれるが、小伝に特色がある。最近の本ではふれられていないコペルニクス=ドイツ人説を紹介しているのである。

 コペルニクスの生まれたトルニはドイツ人の作ったハンザ同盟の都市であり、家系的には父方・母方ともドイツ系で日常的に話していたのもドイツ語だった。遊学時代はドイツ人の学生組合に属していた。しかし壮年時代はポーランド王の保護下にある教会領の行政官としてドイツ騎士団の侵略に対抗していた。国籍概念・民族概念が近代以降と異なるので難しいところだが、ドイツ系ポーランド人あたりが実情に近い。ドイツでは今でもドイツ人と見なされているそうである。

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