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2010年04月28日

『進化考古学の大冒険』 松木武彦 (新潮選書)

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 「進化考古学」とは聞きなれない言葉だが、著者流にとらえなおした認知考古学のことだそうである。もともとは発表を意図しない勉強ノートだったというが、論文と違って奔放というか連想のおもむくまま無防備に思いつきを語っていて刺激的だ。

 松木氏は学生時代に出会った史的唯物論の影響で考古学に興味をもったと明言しているが、農耕の評価などどう考えても史的唯物論とはあいいれない。マルクス主義を奉じる学者から批判されたと戸惑い気味に書いているが、逆の立場なのだから攻撃されて当たり前だ。

 順に見ていこう。

 第一章「ヒトの基本設計―進化考古学とは何か」はホモ・サピエンスがどのように誕生したかで、旧石器時代前期と中期をあつかう。

 初期人類は肉食獣が食べ残した骨を食料にしていたとする島泰三氏の『親指はなぜ太いのか』とミズン(本書ではマイズンと表記)の『心の先史時代』を参照しながら、オスのセックスアピールの場は身体から石器作りや装身具作りのワザ(文化)に移ったのではないかという魅力的な仮説を引きだす。

 第二章「美が織りなす社会―ホモ・エステティクスの出現」はこれを受けて、美の認知は原人段階ですでに生まれていたのではないかという仮説が述べられる。というのも旧石器時代前期の石器には実用には必要ないほどの左右対称性や表面の研磨が見られるからだ。

 いくら物証があっても原人が美を感じるというのはピンと来ないが、松木氏は美は情報の縮減に成功した際に脳にあたえられる報酬だとしている。

 ヒトの脳は、環境の中の複雑な現象を一定の秩序やカテゴリーに当てはめて整理することによって、思考のコストを節約している。情報の縮減ないしは体制化と呼ばれるこの作業に成功したとき、脳は報酬として快感をえるようにできている。聴覚では、協和音やメロディやリズムの感知がこれに当たる。音の体制化である。また、物事が起こるときの一定の規則、すなわち因果関係を経験の中から発見しようとすることも、情報の整理による縮減という点で、同じ脳の働きに根ざすものである。

 美の認知もまた生存に有利だから生じたというわけだ。そういうことなら原人が美を感じてもおかしくないかもしれない。

 第三章「形はなぜ変化するのか―縄文から弥生へ」は縄文土器の変化を例に、流行のように変化していくモードの層から変化しないスタイルの層を分離し、スタイルの層を支えているのが集団の文化的約束事スキーマにほかならないことを指摘する。

 文化的約束事スキーマが変われば古いスタイルは消滅して新しいスタイルが生まれることになる。松木氏は縄文から弥生への移行は縄文人から弥生人への交代ではなく、文化的約束事スキーマの変化ではないかと示唆している。

 第四章「狩猟革命と農耕革命―現代文明社会の出発点」は定住から農耕がうまれた経緯をたどるが、従来の考古学が農耕の開始(新石器革命)を人類の一大転機と評価するのに対し、西田正規氏の『人類史のなかの定住革命』を援用して、むしろ定住の方が重要だとしている。

 新石器革命以後、戦争や遠隔地交易が盛んになったのは農耕によって生産力が飛躍的に増大したからだと説明されてきたが、松木氏は西田説によりながら、何万年も遊動生活をおくり遊動生活に適応してきた人類が急に定住しなければならなくなったことが原因だとする。

 第五章「われら倭人なり―民族の誕生」は民族集団が形成されるプロセスを倭人を例に考察するが、レンフルーの『先史時代と心の進化』でも語られたコッシナの民族考古学の再評価という微妙な話柄にふれている。

 第六章「ヒトはなぜ巨大なモノを造るのか―人類史のなかの古墳時代」はモニュメントの建設を手がかりに国家の問題に踏みこんでいる。『先史時代と心の進化』と問題意識が重なるので、詳しく読みくらべるとおもしろいだろう。

 第七章「文字のビッグバン―国家形成の認知考古学」は国家論であり、古墳が作られなくなったのは日本が文字社会に移行したからだという仮説が述べられている。

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