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2010年04月30日

『新日本人の起源』 崎谷満 (勉誠社)

新日本人の起源 : 神話からDNA科学へ →bookwebで購入

 著者の崎谷氏はもとはウィルス学が専門ということだが、日本人の成り立ちをさぐるために、分子遺伝学、人類学、言語学までを射程におさめ、京都大学の伝統である学際的なとりくみをおこなっている研究者である。本書も第一章はDNA、第二章は文化、第三章は言語とアプローチを変えている。

 崎谷氏は2003年の『日本列島の人類学的多様性』以来、日本人の起源論を精力的に発表し、2008年には一般向けの『DNAでたどる日本人10万年の旅』(以下、『10万年の旅』)を上梓したが、同書執筆中にY染色体の研究が急速に進んだために、あらためて本書『新日本人の起源』を書いたということである。

 『10万年の旅』は現在絶版になっているが、『新日本人の起源』には『10万年の旅』にないような画期的な発見が盛りこまれているのだろうか? 素人目には大筋は変わっていないように思えたが、専門家が見れば違うのかもしれない。

 しかし、記述面では明らかな違いがある。『10万年の旅』では「縄文人」が複数の起源をもつ多様な集団であることを示すためか、「縄文系の人々人」とか、「縄文系ヒト集団」としたものの、弥生人については「渡来系弥生人」と呼んでいた。ところが『新日本人の起源』では「渡来系弥生人」という呼称を排したのみならず、「縄文人」「弥生人」という呼称の批判に多くの紙幅がさかれているのである。

 「縄文人」「弥生人」がなぜいけないのだろうか? 「縄文人」「弥生人」とくくってしまうと、その集団の中の多様性が見えなくなってしまうというのが理由の一つだが、それ以上に特筆されているのは「縄文人」「弥生人」という名称が多地域進化説を前提にしており、人種の違いを含意して差別的だからという理由だ。

 多地域進化説とは百万年前にアフリカを出た原人が世界各地に散らばってネアンデルタール人や北京原人になり、そのままコーカソイドやモンゴロイドに進化したとする説である。ミトコンドリアのイヴ仮説が出てアフリカ単一起源説が有力になった後も、各地で独自に進化した旧人との混血があり、それが民族差になったのではないかとする説が根強く残っているのである。

 二重構造モデルを提唱した埴原和郎氏によれば縄文人は北上してきた南方旧モンゴロイド、弥生人は南下してきた北方新モンゴロイドであり、人種的な違いがあることになる。ところがミトコンドリアDNAやY染色体、成人T細胞白血病やピロリ菌の研究が進んだ結果、新旧モンゴロイドという対立概念そのものが否定されてしまった。

 南から大量の人口移動があったという説も否定されている。氷河時代、ニューギニアとオーストラリアの間にサフル大陸と呼ばれる陸塊があって多数の人口を擁していたが、温暖化でサフル大陸が沈むと北方へ大量の人口が流出した。それが日本までやってきて縄文人になったとされていたが、南からの流れは思いのほか細く、せいぜいフィリピンのあたりまでしか来ていなかったことがわかっている。縄文人南方起源説は完全な誤りである。

 いわゆる「縄文人」の中核をなすD系統はもともとは華北にいて、漢民族に追われて西に向かったD1がチベット人の中核になり、東に向かったD2が縄文人の中核になったらしい。縄文人はチベット人と兄弟関係にあり、むしろ北方起源というべきだ。

 一方「弥生人」の中心のO2系統は長江流域で水稲栽培をしていた人々で、長江文明の担い手だったらしい。長江文明が漢民族に滅ぼされた結果、O2系統の人々は四散し、南に向かってベトナムに逃げこんだのがO2a、北に向かって日本に逃げこんだのがO2bだという。弥生人はベトナム人と兄弟だったわけで、南方起源は彼らの方だったのである。

 弥生時代、数十万人から百万人規模の大量移民があったとされてきたが、現在では小グループがさみだれ式にやってきたという見方が有力のようである。秦に滅ぼされた呉・越の遺民がボートピープル化して日本に流れ着いたということだろう。

 二重構造モデルによればアイヌ人と琉球人は弥生人の大量流入によって南北に分断された縄文人の末裔であり、同一起源とされたが、近年の研究ではそうした見方は否定されている。琉球の先住民は南方系の漁撈民だったが、南九州から多くの移住者が農耕をもちこんだ結果、言語的にもDNA的にも南九州と非常に近くなった。他方、アイヌ人の方はオホーツク文化と近縁の集団もいれば、本土と近縁の集団もいるというように多様な人々の集まりで、言語的には非常に古いシベリアの言語を今日まで保存していると考えられるようになった。

 『10万年の旅』では日本語の成り立ちについては弥生人の渡来で言語が交代したとする見方を否定し、縄文語が弥生系言語の影響を受けて日本語となったという小泉保氏の『縄文語の発見』に似た成立史を推定していた。『新日本人の起源』でも大筋は同じだが、「日本語」という括りを斥け、「琉球語」、「九州語」、「西日本語」、「東日本語」に解体し、「アイヌ語」と同列に並べて多言語共存を強調した書き方になっている。

 たった一年で多言語性に大きくシフトしたのは東日本の基層集団にテュルク系、モンゴル系、トゥングース系のみならず、ウラル系の集団が思いのほか多く含まれており、言語的に単なる縄文語の地域差とは言えない可能性が出てきたからということかもしれない(微妙な書き方なので、この解釈があっているかどうかはわからない)。

 本書は最新の知見が盛りこまれた得がたい本だが、一般向けの本ではなくかなり敷居が高い。過去の自著への引照が多いのも論旨をわかりにくくしている(『10万年の旅』を読んでいたので、おおよそのことはわかったが)。

 民族や言語のルーツをさぐる試みは政治性を帯びざるをえないが、次の条は心して読むべきだろう。

 さらに歴史的に、東アジアでは漢民族の膨張が極端なまでの文化的、言語的、民族的単一化を引き起こしてきた。それと対照的に、海で守られたこの日本列島において、DNA、文化、言語の多様性が維持されてきたのは奇跡のような幸運であった。その自らの内の多様性を厭って、自ら進んで中華文明の支配下に身を置き、自らを否定しようとする行為は問題である。この日本列島内部の多様性、そして東アジアとのDNA、文化、言語の本質的な違いとその意義を、もう一度よく理解する必要がある。

 『Y染色体からみた日本人』と同様の結論である。やはり日本人は大陸の負け組の集まりだったらしい。

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『Y染色体からみた日本人』 中堀豊 (岩波科学ライブラリー)

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 ミトコンドリアDNAが母系で受け継がれるのに対し、Y染色体は父系で受け継がれる。ミトコンドリアDNA解析は過去10万年の人類の移動を明らかにしたが、正確には女性の移動なので、ヨーロッパ人のアメリカ大陸侵略のような男性主体の移動は検知することができない。男性の移動を明らかにするにはY染色体の解析が必要である。

 本書は2005年発行とやや古いが、Y染色体の研究者による日本人の起源論である(2009年時点の研究は崎谷満氏の『新日本人の起源』を参照のこと)。

 Y染色体による民族のルーツ探しの本としてはブライアン・サイクスが『イブの七人の娘』の姉妹編として書いた『アダムの呪い』があるが、読みすすむにつれ鬱になった。

 女性は妊娠によってしかDNAを残せないのに対し、男はその場限りのセックスで子孫を残せるので、Y染色体はミトコンドリアDNAよりも寡占が起きやすい。ミトコンドリアDNAのハプロタイプを図であらわすとクラスターがきれいに並ぶのに対し、Y染色体のクラスターは不揃いで不規則だ。大半のY染色体は途中で失われ、少数のY染色体のみが栄えるというのがY染色体の現実なのだ。サイクスの本には900年前に死んだサマーレッドという武将のY染色体が40万人に、チンギス汗のY染色体は1600万人に受け継がれているとか、南アメリカのインディオのY染色体はヨーロッパ系ばかりだとか、恐ろしいことがたくさん書いてある。

 きっとその類の話だろうと心して読みはじめたのであるが、意外にも日本人のY染色体は攻撃的でも侵略的でもなかった。

 日本人の起源については縄文人の基層の上に稲作文化をもって渡来した弥生人がくわわり、混血したという二重構造モデルが定説化していたが、Y染色体でも縄文人と弥生人という二大グループは一応確認できた。弥生系の中核をなすOb1は中国に多いクラスタから派生しているのに対し(中国では絶滅している)、縄文系の中核であるD2はアジア人の祖形に近い古いタイプらしく、日本と朝鮮に見られる他は、近縁のD1がチベット人に残っているにすぎない。Y染色体の系統図では縄文系と弥生系は相当離れているのである。

 それにくわえて縄文系の中核であるD2の男性は精子の濃度が低く(!)、無精子症になりやすいことがわかった。

 常識的に考えれば縄文人は侵略された側であり、その上に精子濃度が低いとなれば現代日本人のY染色体は弥生系一色になっていてもおかしくはないだろう。ところがそうはなっておらず、都市部では縄文系・弥生系ともほぼ同頻度なのだという。

 そうなった理由は二つある。まず、弥生人侵略説は誤りだったこと。弥生人は百万人規模で押し寄せていたとされていたが、DNA解析の結果、渡来した弥生人はすくなく、しかも少人数づつさみだれ的にやってきたことがわかった。第二に精子濃度の季節変動が縄文系と弥生系では逆になっていたこと。

 縄文系D2の男性は1~6月生まれが多く、弥生系の中核をなすOb1の男性は7~12月生が多いという結果が出たので精子濃度の月変化を調べたところ、縄文系D2は秋から冬が濃度が高く春になって急落するのに対し、弥生系Ob1は春から夏にかけて濃度が高く秋に急低下することがわかった。

 縄文系D2と弥生系Ob1は受精させやすい時期がずれていたのだ。

 著者は最後にこうまとめている。

 日本の男性は大陸の落ちこぼれである。一度目の落ちこぼれである縄文人と、二度目の落ちこぼれである弥生人が、互いを滅ぼしてしまうことなく共存したのが現代日本の男性たちである。まさに、窓際族同士仲良く机を並べて、極東の小島で自然の恵みを享受し、自然に従って生きてきた。互いの言葉も融合させてしまった。

 うーむ、妙に説得力がある。複雑な気分である。

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2010年04月29日

『日本人になった祖先たち』 篠田謙一 (NHKブックス)

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 母系で伝えられるミトコンドリアDNAで日本人の成り立ちをさぐろうという本である。

 この分野ではブライアン・サイクスの『イブの七人の娘』というベストセラーがあるが名著があるが、ヨーロッパ人に多い七つの変異型ハプロタイプしかとりあげておらず、日本人を含む東アジアに多いハプロタイプは付録で言及されるだけだった。英国の人類学者が英国の読者のために書いた本だから当たり前といえば当たり前だが。

 本書は日本の人類学者による日本人のミトコンドリア・ハプロタイプを考察した本で、十章にわかれる。第一章から第四章まではミトコンドリアDNAと人類遺伝学の解説だが、自信のなさそうな書き方でおもしろくない。オッペンハイマーの『人類の足跡10万年全史』あたりを読んだ方がいい。

 第五章は日本人に見られる12のハプロタイプの紹介で、それぞれの分布からそのハプロタイプが生まれたと推定される地域と年代を推定している。サイクスの本ではハプロタイプをもった最初の女性に名前をつけ、境遇を小説仕立てで語っていたが、本書はそこまでの洒落っ気はなく、地味な科学解説書のスタイルである。

 第六章から第八章まではミトコンドリア・ハプロタイプから日本人の重層的な成り立ちを考察しており、本書の中心部分である。著者は古人骨のDNA解析を手がけている人なので、古人骨関係の記述が充実している。第九章はミトコンドリアDNAが母系の系譜であるのに対し、父系の系譜であるY染色体からみた日本人の起源をあつかう。第十章はまとめである。

 日本人の起源については旧石器時代に南から島伝いに日本列島にはいってきて定着した縄文人を基層に、朝鮮半島から稲作文化をもって弥生人が侵入してきて、徐々に混血して現代日本人が成立したという二重構造モデルがほぼ定説となっていた。弥生人は数十万人規模ではいってきたので縄文人は南北の辺境や山間部に追いやられ、言語も弥生系に変わったという説もあった。琉球人とアイヌ人は縄文人の直系で同根という見方も有力だった。

 ミトコンドリアDNAでも縄文人と弥生人という二系統は確認されたが、従来の説をくつがえす発見もあった。縄文人は南方から北上してきた東南アジア系の人々とされてきたが、ミトコンドリアDNAの解析によれば縄文人は複数のルーツを持ち、南から来た人々少数派で、多数派は東北アジア系の人々だったことがわかった。

 縄文人が朝鮮半島南部に進出していたことも判明した。縄文人と同じDNAをもつ人は現代でも朝鮮半島南部にすくなからずいるのである。弥生人の渡来前から北九州と朝鮮半島南端は共通の文化圏だったらしい。

 ミトコンドリアDNAで見る限り、従来考えられていたよりも弥生人の影響は限定的で、縄文人を引きついでいる人が多いことがわかったが、これは弥生人侵略説を否定するものではない。ミトコンドリアDNAは母系でのみ伝えられるので、男ばかりの弥生人集団が土着の縄文人の女性に子供を産ませても同じ結果になるからである。実際、アメリカ大陸の先住民の場合、ミトコンドリアDNAはアメリカ系のままだが、Y染色体はヨーロッパ系が圧倒的だという。

 弥生人が暴力的にはいりこんできたのかどうかは父系で伝わるY染色体を見なければわからない。結果は縄文人と目されるY染色体が効率で存在していることがわかった。弥生人は平和裡に定着したらしい(崎谷満『新日本人の起源』と中堀豊『Y染色体からみた日本人』により詳しい記述がある)。

 日本国内のサンプル数は決して十分とはいえず、日本周辺の少数民族にいたっては調査の空白が多いということだから、これで確定ではないが、ミトコンドリアDNAによって明らかになったことは予想以上に多い。今後の研究が期待される。

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『人類史のなかの定住革命』 西田正規 (講談社学術文庫)

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 縄文時代を人類学の視点から研究してきた碩学による論集である。原著は1986年に出たが、2006年に講談社学術文庫にはいっている。松木武彦氏の『進化考古学の大冒険』でも大きくあつかわれていたが、有名な本らしく、おもしろくて一気に読んでしまった。

 おりおりに書かれたエッセイや論文を集めた本なのでスタイルはさまざまだが、三つの部分にわけることができる。

 第一章「定住革命」から第二章「遊動と定住の人類史」、第三章「狩猟民の人類史」、第四章「中緯度森林帯の定住民」、第五章「歴史静態人類学の考え方」までは定住革命に関する論考。第六章「島浜村の四季」と第七章「「ゴミ」が語る縄文の生活」、第八章「縄文時代の人間―植物関係」は西田氏がフィールドにした福井県島浜村の縄文遺跡を手がかりにした縄文論。第九章「手型動物の頂点に立つ人類」と第十章「家族・分配・言語の出現」は書下ろしの人類起源論であり、定住革命のエピソード1である。

 巻頭に置かれた「定住革命」はコロンブスの卵というか、みごとな価値転換をおこなった目の醒めるような論考だ。下手な要約をするより西田氏の水際だった文章を引こう。

 定住化の過程について、それを支えた経済的基盤は何であったかとのみ問う発想の背景には、遊動生活者が遊動するのは、定住生活の維持に十分な経済力を持たないからであり、だから定住できなかったのだ、という見方が隠されている。すなわちここには、遊動生活者が定住生活を望むのは、あたかも当然であるかのような思いこみが潜んでいるのである。
 だが考えてもみよ。人類は、長く続いた遊動生活の伝統のなかで、ヒト以前の遠い祖先からホモ・サピエンスまで進化してきたのである。とすれば、この間に人類が獲得してきた肉体的、心理的、社会的能力や行動様式は遊動生活にこそ適したものであったと予想することもできる。そのような人類が遊動生活を捨てて定住することになったのである。とすれば、定住生活は、むしろ遊動生活を維持することが破綻した結果として出現したのだ、という視点が成立する。

 まさにその通りだろう。遊動生活に適応するように進化してきた人類にとって定住は幸福な生活どころかストレスであり、そのストレスを緩和するために発明されたのが文明だと西田氏はたたみかける。

 定住苦痛論は二章以下で周到に肉づけされている。わたしは素人なので一々の当否はわからないが、どれも十分説得力があるように読んだ。

 つづく島浜村遺跡を中心とする縄文論は交響曲でいえば緩徐楽章で、怒濤の展開の後にほっと息がつける。

 中休みの後、ふたたび怒濤の展開がはじまる。今度は動物の進化史全般を背景にした人類起源論である。

 西田氏はルロワ=グーランの示唆を受けて動物を手型動物と口型動物にわける。口型動物は霊長類以外のほとんどの動物で、攻撃・採食・餌の運搬・育児・身体清掃・毛づくろいを口でおこなう。もちろん、哺乳類だけでなく魚類、両生類、爬虫類、鳥類も口型動物である。

 それに対して手型動物というか霊長類はこうした作業を口だけでなく、手でもおこなう。霊長類の中でも原猿類やサル類は口を使う比率が高いが、類人猿ではより手を使うようになり、人類にいたって手の使用が頂点に達するというわけだ。

 人類が脳を巨大化できたのは頭を振りまわさなくてもよくなったからだという指摘は意表をつかれた。脳が重くなると頭を動かしにくくなるだけでない。頭を激しく動かすと脳が損傷を受けるのだ。脳は豆腐のように軟らかで、壊れやすいのである。

 手型動物となった人類は漸新世以降大型化してきたヒヒなどオナガザル類に対抗するために石や棍棒を持ち歩いたと著者は推定する。初期人類はヒヒと同じくらいの大きさで、生活圏が重なるヒヒと競合関係にあったらしい。

 ちょうどいい石や棍棒はどこにでも転がっているわけではないから、持ち歩くしかない。加工をくわえたとなれば、なおさらだ。石は肉食獣の食べ残しの骨を砕くのに、棍棒は地中の根や昆虫を掘りおこすのに使うが、振りまわせば武器になる。石と棍棒という得物が初期人類と他の動物の関係を変えただろうと著者はいう。

 だが、武器は他の動物に対してだけでなく、仲間に対しても使うことができる。石や棍棒は鋭利な犬歯以上の凶器となる。石と棍棒を持ち歩くようになった初期人類は集団内に危険をかかえこんでしまったのだ。

 著者は人類が言語を発達させたのは仲間どうしの殺しあいを避けるためではないかと空想する。

 人類は、満身の怒りを言葉に託し、それを投げつけて、暴力を回避することができる。「口より先に手が出る」ということがあるが、多くは口のけんかで済ますことができるのである。そんためにぜひとも必要な言葉は、アホ、バカ、マヌケ、カス、ボケナス、シニソコナイといった類のものである。……中略……棍棒や石を持ち歩き、大きな破壊力を手にした人類社会が発達させたであろう原初的な言語は、現代のわれわれの言語活動になぞらえて言うなら、挨拶やムダ話、罵倒や非難などの場面で使う「安全保障のための言語」活動であっただろう。

 ダンパーは霊長類の毛づくろいは集団を維持する上で不可欠なコミュニケーションであり、ヒトの言語は毛づくろいコミュニケーションの延長で発達したという説を唱えたが(『ことばの起源』)、西田氏のアホ、バカ、マヌケが言語の起源だという説はその先を行っており、まさにコロンブスの卵である。

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2010年04月28日

『進化考古学の大冒険』 松木武彦 (新潮選書)

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 「進化考古学」とは聞きなれない言葉だが、著者流にとらえなおした認知考古学のことだそうである。もともとは発表を意図しない勉強ノートだったというが、論文と違って奔放というか連想のおもむくまま無防備に思いつきを語っていて刺激的だ。

 松木氏は学生時代に出会った史的唯物論の影響で考古学に興味をもったと明言しているが、農耕の評価などどう考えても史的唯物論とはあいいれない。マルクス主義を奉じる学者から批判されたと戸惑い気味に書いているが、逆の立場なのだから攻撃されて当たり前だ。

 順に見ていこう。

 第一章「ヒトの基本設計―進化考古学とは何か」はホモ・サピエンスがどのように誕生したかで、旧石器時代前期と中期をあつかう。

 初期人類は肉食獣が食べ残した骨を食料にしていたとする島泰三氏の『親指はなぜ太いのか』とミズン(本書ではマイズンと表記)の『心の先史時代』を参照しながら、オスのセックスアピールの場は身体から石器作りや装身具作りのワザ(文化)に移ったのではないかという魅力的な仮説を引きだす。

 第二章「美が織りなす社会―ホモ・エステティクスの出現」はこれを受けて、美の認知は原人段階ですでに生まれていたのではないかという仮説が述べられる。というのも旧石器時代前期の石器には実用には必要ないほどの左右対称性や表面の研磨が見られるからだ。

 いくら物証があっても原人が美を感じるというのはピンと来ないが、松木氏は美は情報の縮減に成功した際に脳にあたえられる報酬だとしている。

 ヒトの脳は、環境の中の複雑な現象を一定の秩序やカテゴリーに当てはめて整理することによって、思考のコストを節約している。情報の縮減ないしは体制化と呼ばれるこの作業に成功したとき、脳は報酬として快感をえるようにできている。聴覚では、協和音やメロディやリズムの感知がこれに当たる。音の体制化である。また、物事が起こるときの一定の規則、すなわち因果関係を経験の中から発見しようとすることも、情報の整理による縮減という点で、同じ脳の働きに根ざすものである。

 美の認知もまた生存に有利だから生じたというわけだ。そういうことなら原人が美を感じてもおかしくないかもしれない。

 第三章「形はなぜ変化するのか―縄文から弥生へ」は縄文土器の変化を例に、流行のように変化していくモードの層から変化しないスタイルの層を分離し、スタイルの層を支えているのが集団の文化的約束事スキーマにほかならないことを指摘する。

 文化的約束事スキーマが変われば古いスタイルは消滅して新しいスタイルが生まれることになる。松木氏は縄文から弥生への移行は縄文人から弥生人への交代ではなく、文化的約束事スキーマの変化ではないかと示唆している。

 第四章「狩猟革命と農耕革命―現代文明社会の出発点」は定住から農耕がうまれた経緯をたどるが、従来の考古学が農耕の開始(新石器革命)を人類の一大転機と評価するのに対し、西田正規氏の『人類史のなかの定住革命』を援用して、むしろ定住の方が重要だとしている。

 新石器革命以後、戦争や遠隔地交易が盛んになったのは農耕によって生産力が飛躍的に増大したからだと説明されてきたが、松木氏は西田説によりながら、何万年も遊動生活をおくり遊動生活に適応してきた人類が急に定住しなければならなくなったことが原因だとする。

 第五章「われら倭人なり―民族の誕生」は民族集団が形成されるプロセスを倭人を例に考察するが、レンフルーの『先史時代と心の進化』でも語られたコッシナの民族考古学の再評価という微妙な話柄にふれている。

 第六章「ヒトはなぜ巨大なモノを造るのか―人類史のなかの古墳時代」はモニュメントの建設を手がかりに国家の問題に踏みこんでいる。『先史時代と心の進化』と問題意識が重なるので、詳しく読みくらべるとおもしろいだろう。

 第七章「文字のビッグバン―国家形成の認知考古学」は国家論であり、古墳が作られなくなったのは日本が文字社会に移行したからだという仮説が述べられている。

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『先史時代と心の進化』 コリン・レンフルー (ランダムハウス講談社)

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 本欄では以前、ミズンの『心の先史時代』と『歌うネアンデルタール』をとりあげたが、認知考古学をより広い視点から見直すために本書を読んでみた。

 著者のレンフルーはケンブリッジで長く教鞭をとった世界的な考古学者で、『考古学―理論・方法・実践』という浩瀚な入門書が邦訳されている。

 本書は二部にわかれる。

 第一部「先史時代の発見」は18世紀のポンペイ発掘から現代にいたる考古学の歴史で、「先史時代」という概念がどのように生まれ、変遷してきたかを目配りよく紹介している。

 多種多様な出土品を整理するために、進化論と地質学の影響のもと、石器時代・青銅器時代・鉄器時代という三分類が生まれ精緻化されていき、ゴードン・チャイルドの『ヨーロッパ文明の曙』(1925)と『文明の起源』(1936)によって集大成されるが、そこにはナチスに加担したとして悪名高いグスタフ・コッシナの文化史的アプローチがとりいれられていること、チャイルドの提唱した「新石器革命」がマルクス主義の史的唯物論から着想されていたことをレンフルーは見逃さない。

 一歩一歩発展してきた考古学は第二次大戦後、科学の進歩と植民地の独立で飛躍期をむかえる。

 科学の進歩とは放射性炭素C14による年代測定や湖底コアや氷床コアの分析、DNA解析のような手法があいついで開発されたことである。なかでもC14革命の衝撃は決定的だった。相対的な年代しかわからなかった考古学に絶対年代という物差しをもたらしたからだ。エジプトやメソポタミア、インダス、中国、新大陸の年表を書き換えただけでなく、遠隔地の年代が比較できるようになった。世界規模の先史学がようやく可能になったのである。

 植民地の独立も影響が大きい。考古学は欧米の研究者がずっと担い手だったが、独立によって自国の過去に関心が生まれ、地元の研究者が育つようになった。

 新興国の中には社会主義陣営にくわわった国がすくなくなかったが、そうした国では史的唯物論が先史時代への関心をかきたてた。史的唯物論の先史時代論はモーガンの『古代社会』(1877)の焼き直しにすぎなかったが、先史時代に注目させたという意味では十分功績があったのである。

 第二部「心の先史学」から認知考古学にはいっていくが、レンフルーは認知考古学の初期の達成であるミズンの所論とは別の立場をとっている。

 ミズンによれば原人・旧人段階の人類の脳は特定分野の処理に特化したモジュールの集まりだったために、骨を道具の素材にするといった簡単なことが思いつけなかったが(骨の判別は博物学的知能、道具の加工は技術的知能が担当)、ホモ・サピエンスになるとモジュールを隔てていた仕切がとりはらわれ、分野をまたいで融通がきくようになったとする。ミズンはこの能力を認知的流動性と呼んでいる。

 レンフルーは最近の神経科学はモジュール仮説を支持する証拠を見つけておらず、ホモ・サピエンスに移行する時に遺伝子がどのように変化する必要があるのかもわかっていないと疑問を呈した上で以下のように述べている。

 これについては、人類初期に社会集団を、実際の姿に沿って、霊長類の社会システムの進化という視点から考えるアプローチが非常に有望である。人類への移行を推し進めたと思われる、より強力な社会的相互作用がホミニドの間で徐々に発達していく過程については、ロビン・ダンパーが著書『ことばの起源――猿の毛づくろい、人のゴシップ』で詳しく論じている。前期および中期旧石器時代の考古学的記録は、現在この視点から検討されることが多くなっている。今では通説として、完全な文法構造を持った言語が発達したことで、狩猟採集者の集団は環境に適応する上で非常に大きな利点を得たと考えられている。このように、この場合は進化論的アプローチが有効なのである。

 旧人からホモ・サピエンスが誕生した種形成段階では遺伝子変化と文化の発達が共進化していたというわけである。

 レンフルーはさらに「ホモ・サピエンス・パラドックス」と呼ぶ謎を提起し、真に重要なのは種形成段階ではなくその後だとする。

 ホモ・サピエンスは15万年から10万年前にアフリカで誕生し、6万年前にアフリカ外に拡散したと考えられているが、遺伝子的には現代のわれわれと同等だったはずなのに、彼らは依然として旧石器時代中期の生活をつづけていた。新石器革命がはじまったのはようやく1万年前にすぎない。

 どんなに遅くとも出アフリカの起きた6万年前には現在と同様の知能をもっていたはずであり、6万年前の子どもをタイムマシンで現代に連れてくれば、普通の現代人に育つことだろう。それなのに農耕と牧畜をはじめるまでになぜ5万年もかかったのか? レンフルーはこれをホモ・サピエンス・パラドックスと名づける。

 体格や皮膚の色の面では人類のゲノムは変化しつづけたが、行動面はもはや遺伝子が決める段階は終わっており、学習のみによって身につける段階にはいっていた。ゲノムの変化が重要でなくなった段階をレンフルーは「構築段階」と呼び、認知考古学はこちらに注目すべきだとしている。

 新石器革命はどのように起こったのか?

 マルクス主義の史的唯物論をはじめとして、以前は安定した農耕システムが確立されてから定住がはじまったとする説が一般的だったが、現在では農耕より定住の方が早かったことがわかっている。海産物などが豊富な場所でまず定住がはじまり、社会関係が複雑化していった結果、認知能力が発達し、耕作の開始をふくむ新石器革命にいたったというわけだ。

 レンフルーは新石器革命から階級分化、価値概念の発生、文字の発明までをやや駆足で概観していくが、認知能力の進化を単に脳内の出来事とするのではなく、社会関係と物質表現という視点からとらえるという方法論で一貫している。

 300ページ足らずの本なのでやや食い足りなくもあるが、目配りよくコンパクトにまとまった好著だと思う。

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