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2010年03月31日

『書くこと、ロラン・バルトについて』 スーザン・ソンタグ (みすず書房)

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 本書は2004年に亡くなったスーザン・ソンタグが生前最後に出版した評論集 "Where the Stress Falls"(2001) の前半部分の邦訳である(邦訳はページ数の関係で二分冊にわかれている)。

 表題からするとバルトを論じた本のような印象を受けるが、バルトを論じた「書くこと、ロラン・バルトについて」は240ページ中40ページしかない。しかし、一番読みごたえのあるのがバルト論であるのは間違いない。

 間もなくバルトの没後30年なのでバルトを回顧した文章が目につくようになったが、「書くこと、ロラン・バルトについて」はバルトの死の記憶も生々しい1981年に発表されている。

 発表場所はちょっと変わっていて、"Selected Writings of Roland Barthes" という選文集の解説としてである。

 アメリカでは錚々たる大家が大学の教科書用に編纂した廉価な選文集が多数出ているが、同書もそうした一冊で、ソンタグは解説だけでなく作品の選定もおこなっている(現在は Vintage classics で入手可能)。

 ソンタグはバルトの文業が日記にはじまり(ジッドの日記論)、日記に終わる(『偶景』に収められることになる「パリの夜」)という対称性に注目しているが、彼女の選んだ選文集もジッドの日記論ではじまり、「パリの夜」の抜粋で終わっている。本論中で言及される作品は全部もしくは一部が選文集にはいっている。つまり、純粋な評論というより、あくまで選文集の解説として書かれているのである。

 ソンタグの評論は抜身の刀のような鋭さが身上だが、本論に関する限り、鋭さは抑え気味で、バルトをフランス・モラリストの系譜に位置づけようとしたり、フォルマリズム運動を解説したり、バルトの前にフランス文壇に君臨していたサルトルとの比較をおこなったりと、きわめて啓蒙的である。記述もソンタグとは思えないくらいバランスがとれていて、安心して読める。彼女は書こうと思えば、こういう優等生的な文章も書けたのだ。

 優等生的ではあるが、バルトの突然の死と近い時期に書かれただけに、バルトに対する思いは熱く表出している。ソンタグのバルトに対する思いは格別だったようだ。

 ソンタグはコレージュ・ド・フランスの講義を聴講していたか、すくなくとも内容を知っていたらしい。以前、英語で読んだ時はなぜヴァレリーを何度も引きあいに出すのだろうと訝しんだが、今回、講義ノートを読んで疑問が氷解した。バルトはそれまでほとんど触れたことのないヴァレリーを講義の中で何度も言及していたのである。

 ソンタグは1957年のパリ留学を生涯で一番重要な経験と語っている。当時のパリは構造主義の流行前夜で、バルトは『零度のエクリチュール』で一部で注目を集めはじめていた。アメリカにもどったソンタグは『反解釈』で一挙に文壇の寵児となるが、「反解釈」というスローガンは「零度のエクリチュール」の換骨奪胎にほかならない。

 ソンタグも泉下の人となって6年がたとうとしている。バルトとソンタグ、20世紀を代表する二人の偉大な批評家の仕事をふりかえる時期が来ている。

 最後になったが、訳文はすばらしい日本語になっている。できたら『反解釈』もこの訳者に訳し直してもらいたいと思う。

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『ロラン・バルト 最後の風景』 ジャン・ピエール・リシャール (水声社)

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 ロラン・バルトとジャン・ピエール・リシャールはわたしがもっとも敬愛する批評家である。そのリシャールがバルトを論じた本を書いたというのだから、わたしにとっては大事件だ。ヌーヴェル・クリティックから構造主義批評、さらにはポスト構造主義へと変貌をくりかえしたバルトをヌーヴェル・クリティックにとどまったリシャールがどう料理するか――フランスの批評に関心のある人にとっても絶対に見逃せないカードだろう。

 ページをぱらぱらめくったところ、バルトがコレージュ・ド・フランスでおこなった講義、とりわけ『小説の準備』の話が中心になっているようなので、ぶ厚い三巻本を読んでから本書にとりかかった。

 感想は……十分準備した上で読みはじめたはずだが、予想以上の難物だった。リシャールとバルトはかなり読みこんでいるつもりだったが、それでも難しいのである。

 難解な理由は本書が下書き段階にとどまっていることにある。

 リシャールとバルトはヌーヴェル・クリティックの中でも「テーマ批評」と呼ばれる方法論を大成した両巨頭だ。バルトは『ラシーヌ論』を最後に「テーマ批評」から離れたが、リシャールは「テーマ批評」をつらぬき、今回もバルトを「テーマ批評」で腑分しようとしている。だが、肝心なところでやめてしまっているのだ。交響曲でいえば主題の提示だけで、展開部がないのである。

 リシャールはバルトから「粘りつくもの」への嫌悪とか「モアレ」の偏愛といったテーマを引きだしているが、その次の段階として、「粘りつくもの」や「モアレ」がバルトのテキストでどう実現しているかを具体的に引用し、バルト自身のテキストに語らせなければならない。ところが、それをやっていないのである。

 バルトを暗記するくらい読んでいる人ならともかく、ほとんどの読者は「粘りつくもの」とか「モアレ」と言われてもぽかんとするだけだろう。  テーマの発見は直観によるしかないが、発見したテーマを実証し、展開するのは体力勝負になる。「テーマ批評」の真似ごとをやっているのでわかるが、とにかく時間と手間がかかるのである。テーマの実証と展開は一番おもしろい部分でもあるが、リシャールには「テーマ批評」を最後までやりとげる体力がもう残っていないのかもしれない。

 どうか本書で「テーマ批評」とはこんなものかとは思わないでほしい。幸いテーマの実証と展開を模範的にやり通したリシャール全盛期の傑作、『マラルメの想像的宇宙』が訳されているので、どうかそちらを読んでから判断してほしい。

 本書は「テーマ批評」としては下書きにすぎないが、リシャールの発見した「粘つくもの」と「モアレ」というテーマは筋がいいと思う。まっさきに頭に浮かんだのは『表徴の帝国』の天麩羅論のくだりだ。

 音楽の世界では先人の主題を使った変奏曲がよく書かれているが、リシャールの発見したテーマを展開させてみるのもおもしろいかもしれない。

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2010年03月30日

『ロラン・バルトの遺産』 マルティ&コンパニョン&ロジェ (みすず書房)

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 2010年はバルトの没後30年にあたるが、三人の弟子の文章を集めた本が出版された。『ロラン・バルトの遺産』である(本書は日本で独自に編集されたもので、この通りの本がフランスで出ているわけではない)。

 三人の著者はバルトが亡くなった時、25歳から31歳だった。彼らは20代で晩年のバルトに出会い、親しく教えを受けたのである。

 三人のうち一人はコレージュ・ド・フランス教授、もう一人は高等研究院教授と、かつてバルトが占めていた地位を襲っている。彼らがその地位についたのはバルトの死から20年以上たってからだから、バルトから譲られたわけではなく、実力で勝ちとったのである。バルトは立派な弟子を育てたといえるだろう。

 まず、エリック・マルティの「ある友情の思い出」(2006)である。マルティは『シャトレ哲学史』で知られるフランソワ・シャトレの甥で、21歳の時にバルトと出会い高等研究院のセミナーに出席することを許され、後に個人秘書のようなことまでしている。

 マルティはバルトの雑事を手伝うために毎日のようにバルトのアパルトマンに通い、夕食をともにしていたようだ。回想はきわめて濃密かつ親密で、ひょっとしたらそういう関係かという疑いが誰しも浮かぶと思うが、終わり近くになって以下のような文章が出てきた。

 しかしながら、師自身が同性愛者であるというのは、弟子の性的傾向がなんであれ、よいことだと思う。なぜなら、師との関係がつねにきわめてリビドー的(知識欲の)となるからである。エロスロゴスの混同が、たとて軽くとも実際にあるかぎりは。知識が、たとえ間接的にであれ、欲望をになっているかぎりは。

 師と弟子のあいだには何も起こらない。しかし、それでもふたりは、エロスとロゴスが声を、ときおり視線を、ときには身ぶりをかわしあう領域に生きているのである。

 親密ではあるが、あくまで精神的な関係にとどまっていたというわけである。バルトは『偶景』に男娼漁りの日々をあけすけに書いているが、マルティは師のそうした夜の顔はまったく知らなかったという。

 夜の顔を知らなかったのが事実にしても、秘書と言うか雑用係としてバルトの身近にいた人だけに覗き見趣味はこの文章がもっとも満足させてくれる。

 フーコーと一時仲たがいしたのはバルトがフーコーの恋人と親しげに会話したのをフーコーが嫉妬したからだとか、ドゥルーズとバルトは馬があったが、バルトが新哲学派について書いた好意的な文章が公開されると、新哲学派に批判的なドゥルーズから呼びだしをうけたとか。それにしても、構造主義とかポスト構造主義といっても、フランス現代思想のお歴々はみんな同じサークルの仲間だったことがよくわかる。

 ゴシップはともかく、マルティの回想でもっとも重要なのはバルトの母と小説の準備を語ったくだりだろう。たとえば、こんな具合だ。

 非常につよく感銘をうけたので、彼女に会うたびに彼女の言うことにとくに注意するようになったのだが、それは、緩徐がバルトと同じ言葉づかいえ話していたということだった。なんと言えばよいのだろうか。彼女の口にすることすべてのなかに、「バルト」的ないくつかの言葉や抑揚、口調、精神があったのである。あたかも、ほんとうに彼女はまさしく母語であり、バルトはそこから汲みとって書いているかのようだった。いちばんふしぎなのは、その言葉づかいや精神は、もっとも単純な語のなかに感じられるということだった。そして、さようならと言うときの首のかしげかただけにも、『恋愛のディスクール』の一節を読むように見出せるのだった。

 この見方は非常に説得力がある。多分、その通りなのだろう。

 さて、二番目はアントワーヌ・コンパニョンの「ロラン・バルトの<小説>」である。この論考は「架空の書物」をテーマにした2001年の国際集会で発表された後、リール第三大学の紀要に掲載された。バルトが最晩年に構想して果たせなかった<小説>は書かれざる書物の一つとして文学史に記録されるようになったわけである。

 バルトは『新生』という小説のプランを立てていたが、ついに書くことなく終わってしまったというのが大方の見方だが、コンパニョンはそれをくつがえしバルトは<小説>をすでに書いていると主張する。晩年の三部作『彼自身によるロラン・バルト』、『恋愛のディスクール・断章』、『明るい部屋』がバルトの<小説>だというのである。

 根拠とするのは『小説の準備』で、三部作はそこで論じられる<小説>の条件をすべて満たしているというのだ。『小説の準備』はこれから書かれる<小説>を考察したわけではなく、すでに書かれていた<小説>の考察だという逆転の発想である。

 見方としては面白いが、説得力があるか問いと微妙なところだ。

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『喪の日記』 バルト (みすず書房)

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 バルトはサリトリウムで1943年から『ミシュレ全集』の抜き書きをはじめたが、その時使ったのがインデックス・カードだ。バルトは以後、メモや原稿の執筆をカードでおこなった。短い断章形式にはカードが向いているが、カードが断章形式をうながした面もあるかもしれない。1980年に亡くなった時には一万三千枚のカードが残されていたが、そのうち三二〇枚は「喪の日記」というタイトルで日付順に束ねられていたという。

 「喪の日記」カード群は1977年10月26日――バルトの母が亡くなった翌日――にはじまり、ほぼ二年間書きつがれた。バルトは最愛の母を失った悲しみを『明るい部屋』の執筆で克服する。「喪の日記」カード群はバルトの二年間の「喪の仕事」の記録だが、わざわざまとめておいたのは執筆の材料にしようという意図があったのかもしれない。

 バルトの遺稿は1996年、異父弟ミシェル・サルゼドによって現代出版史資料館に寄贈されたが、カードについては内容がきわめてプライベートという理由で公開が禁止されている。

 ただ「喪の日記」カード群については内容の重要さと没後30年近くたったということで遺族が公開を了承し、2009年2月、現代出版史資料館学芸員のナタリー・レジェがテキストに起こして刊行された。その邦訳が本書である。

 バルトは失恋の悲しみを『恋愛のディスクール・断章』という傑作に昇華させたが、本書は(すくなくともそのままの形では)公開を予定しない日記であるから、ナマな言葉が書きつづられており昇華とは縁遠い。遺族が公開を躊躇ったのもわかる気がする。

 驚いたのは悲しみ一辺倒かと思ったら、いきなりエロチックな文章が出てくることだ。

 母の死の翌日の日付のカードにはこうある。

新婚初夜という。
では、はじめての喪の夜は?

 その次の日はこうだ。

「あなたは女性のからだを知らないのですね?」
「わたしは、病気の母の、そして死にゆく母のからだを知っています。」

 母を異性として意識しているということだろうか。弟子のエリック・マルティの回想(『ロラン・バルトの遺産』所収)によるとバルトの母は母性的なところはまったくなく、80歳をすぎても娘々した女性だったらしい。

 バルトは11月頃、母の少女時代の写真を発見し、『明るい部屋』として結実する写真論を書くことを思いたつが、そのことをうかがわせる記述は1977年中には見当たらない。写真論の構想が出てくるのは翌年の3月になってからである。

――「写真」についての本にとりかかる自由な時間を(遅れをなくして)早く見つけたいと思う(数週間前から気持ちをたえず確かめている)。つまり、この悲しみをエクリチュールに組みこむことだ。

 書くことがわたしのなかで愛情の「鬱滞」を変え、「危機」を弁証法化して行く、という信念と、おそらくは確証がある。

 その一ヶ月後にはこれから書く本は母の「記念碑」にすると決意を述べている。

 思い出すために書く? 自分が思い出すためではなく、忘却がもたらす悲痛さと闘うためだ。忘却が、絶対的なものになるであろうかぎりは。――やがては――どこにも、だれの記憶にも、「もやはいかなる痕跡もなくなってしまう」ということ。

  「記念碑」をつくる必要がある。
  彼女ガ生キタコトヲ忘レルナ

 もっとも、本の準備には一年以上かかり、実際に執筆をはじめたのは翌年の「小説の準備Ⅰ」の講義が終わってからだった。執筆開始直前の時期のカードから引く(文中のMは異父弟のミシェル)。

 わたしは後世に残ることなど、いっさい気にかけずに生きている。死んだあとも読まれないなどとは、まったく望んでいない(ただ金銭的にはMのためになりたいと思うが)。完全に消滅することを全面的に受け入れており、「記念碑」を残したいとは全然思わない――だが、マムもそうなってしまうということには耐えられない(彼女は書いたものを残さなかったので、彼女の思い出は完全にわたし次第だからであろう)。

 いやはや怪物的なマザコンである。マザコンもここまで徹すると、芸術を生みだすということだろうか。『明るい部屋』という本の途方もなさがすこしだけわかったような気がした。

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2010年03月29日

『小説の準備 ―コレージュ・ド・フランス講義 1978-1979年度と1979-1980年度』 バルト (筑摩書房)

小説の準備 ―コレージュ・ド・フランス講義 1978-1979年度と1979-1980年度 →bookwebで購入

 講義ノートの三巻目は1978-1979年度と1979-1980年度の二年分をおさめる。最後の二年間の講義は「小説の準備Ⅰ」、「小説の準備Ⅱ」というひとつづきの内容だからである。

 批評家のバルトがなぜ「小説の準備」というテーマを選んだのだろうか。

 バルトは1977年10月25日、最愛の母親を亡くす。極度のマザコンだったバルトは『喪の日記』にあるように悲嘆にくれ絶望の淵をさまよったが、二年目の『<中性>について』の講義の準備によってかろうじて自分を支えたらしい。

 転機となったのは母の少女時代の写真を発見したことだった。幼い母の写真に魂を揺さぶられたバルトは母の思い出を写真論としてまとめることを思いたち、一年余の熟成期間をへて『明るい部屋』を一気呵成に書きあげる。

 読んだ方はおわかりと思うが、『明るい部屋』は知的で冷静な批評の体裁をとりながらも、きわめて内密でプライベートで、内的な熱を感じさせる、なんとも分類のしようのない異様な書き物である。

 『喪の日記』の中でバルトは写真論は母の記念碑にするのだと決意を書いているが、この準備の過程でバルトは小説を書くことを思いついたらしい。

 かくして三年目と四年目の講義は小説を書くという行為の腑分にあてられることになった。バルトは『恋愛のディスクール・断章』で失恋体験を微速度撮影で解剖してみせたが、それと同じことを小説執筆についてやろうとしたのかもしれない。四年目の講義が終了した直後、交通事故で不慮の死を遂げているので、小説は『新生』という題名と数枚のメモができたところで終わったけれども。

 三年目にあたる「小説の準備Ⅰ」は講義ノート三巻の中で一番密度が高い。実際の講義でノートにない余談や脱線があった場合は訳注で補足してあるが、三年目は補足がほとんどない。ノートがそのまま完成された文章になっているのである。『明るい部屋』に向かってエネルギーを高めていく時期にあたるせいだろうか、気合のはいり方が尋常ではない。

 バルトは『神曲』の「人生の道半ば」という詩句に触発されて来し方を次のようにふりかえる。

私は主体の検閲に苦しみすぎた世代に属している:ある場合は実証主義的な道(文学史において要求される客観性、文献学の勝利)によって、ある場合はマルクス主義の道(今ではもはやそう見えないかもしれないが、これは私の人生において重要なものだ)によって→主体性の幻影のほうが、客観性の欺瞞よりはまだいい。主体の想像界のほうが、その検閲よりはまだましである。

 フランスの批評用語で書かれているのでわかりにくいかもしれないが、平たくいえばアイデンティティの一貫性にこだわるのはやめようということである。そして実際、従来の立場を覆すようなことを言いだす。

私は長いあいだ、<書く意志>それ自体というものがあると信じてきた。書くというのは自動詞だと――今ではその確信が薄れている。おそらく、書く意志=何かを書く意志なのだ→<書く意志>+<対象>。

 昔からの読者としては話が違うじゃないかと言いたくなるが、自我も主体性も放りだしたバルトは怖いものなしである。

 では批評から足を洗って小説家に転身するのかというと、記憶力が貧弱なのでそれは無理だと言いだす。長い物語が作れないとなると、どうするのか。方法はある。現在をスケッチすることだ。

 一瞬一瞬の出来事を書きとめた断章をバルトは「偶景」と呼び、それを標題とした本まで上梓している。

(「偶景」は同書の訳者、沢崎浩平の造語で、原語は偶発事やささいな出来事を意味する incident という普通の名詞である。わたしは意をとって「写生文」と訳してもいいのではないかと思うがどうだろう)。

 バルトは偶景の手法を深めるための補助線として俳句を持ちだす。バルトは仏訳した66句の俳句(英訳からバルト自身がフランス語に重訳した句もある)を印刷して受講者に配付し、それをもとに講義を進めている。「小説の準備Ⅰ」の2/3は俳句論にあてられている。

 ヨーロッパの言語に訳された俳句は五七五という韻律が消えてしまうので、もっぱら三行に改行された三行詩として享受されている。志太野坡の「行雲をねてゐてみるや夏座敷」という句はこんな具合になる。

寝転がって
流れる雲を見る
夏の部屋

 バルトは改行で生まれる余白が重要なのだ、東洋の芸術は余白の芸術なのだなどと書いているが、本来の俳句は改行はしないのが普通だ。日本人としては応対に困る。バルトは俳句を論じようとしているのではなく、偶景という手法を深めるためのヒントをもらおうとしているわけだから、これでいいわけだが。

 的外れは的外れでも、おもしろい指摘もある。バルトは季語の重要性を強調した後、俳句の偶然性について語りだす。

俳句とは、主体を取り囲むような仕方で不意に訪れるもの(偶然性、極小のできごと)である――ただし主体はこの束の間の、移ろいゆく取り囲みによてしか存在せず、自らが主体であるとも言えない(個別化≠個人)→したがって、偶然性よりもむしろ、状況について考察すること。……中略……提起されるのは取り囲みだけで、対象は蒸発して状況の中に吸収されてしまう:対象を取り囲むもの、それは一瞬の時である。

 最後の部分ではジョイスのエピファニーとの比較をおこなっているが、こうした飛躍はあくまで偶景という手法を深めるためである。

 さて、四年目の「小説の準備Ⅱ」だが、<書く意志>から<書く力>へたどると宣言するものの、今度はマラルメの書物論の方に話がそれていく。

 マラルメは必然にしたがって構築された究極の「書物」を構想し、「世界は一冊の書物にいたるために作られている」と語ったが、他方で偶然まかせの気ままなつぎはぎでつくられた冊子を「アルバム」と呼んでいる。

 実際に彼が書いたのは折りふしの詩であり時評や雑文だった。彼の文集が必然とは裏腹の<<divagation>>(彷徨、無駄話、戯言)と題されたのは意味深長である。

 バルトは「書物」と「アルバム」はどちらが長持するかと問う。

書物とアルバムのあいだに葛藤があるならば、結局のところ強いのはアルバムのほうであり、残るのはそちらのほうであるということがわかるだろう:……中略……書物はじっさい、残骸に、不安定な廃墟になることを運命づけられている;それは水につけて軟化した角砂糖のようなものだ:ある部分は崩れ落ちるが、別の部分は立ったままで、直立し、結晶になり、純粋に輝きながら残る。
書物のうちで残るもの、それは引用である:つまり他の場所に移送された断章、地形である。

 古代の散逸したテキストは他のテキストに引用されるという形で残るケースが多い。ばらばらに散種された「書物」はもはや「書物」としての全体性を失い、「アルバム」と化す。「アルバム」は偶然的な断片の綴れ織りであるだけに強いのである。

 バルトは『失われた時をもとめて』は周到に構成された「書物」などではなく、断章の寄せあつめである「アルバム」だと指摘し、自分が目指す小説も「アルバム」になるだろうと語る。

 この後、いよいよ執筆行為の分析がはじまると思いきや、仕事部屋や時間割といった周辺的な話にそれていき、中心に位置するはずの執筆行為は空白のまま残される。この講義は『小説の準備』であって、『小説のディスクール・断章』ではなかったのだ。

 小説が書けない理由として、バルトは記憶力の不足の他に嘘が書けないからと語っているが、嘘を書かないと言えば「私小説」ではないか。日本でいう写生文に限りなく近い「偶景」といい、晩年のバルトは日本的な発想に相当影響されていたらしい。

 もっとも、まったく言及していないことからすると「私小説」は知らなかったのではないかと思う。もしバルトが「私小説」を知っていたなら、「私小説」を書いただろうか。どんな理論的展開を見せただろうか。

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『<中性>について ―コレージュ・ド・フランス講義 1977-1978年度』 バルト (筑摩書房)

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 コレージュ・ド・フランスでの二年目の講義ノートである。講義は1978年2月18日から6月3日まで13回にわたっておこなわれたが、第一日目に断っているように講義の準備をはじめようとする時期にバルトは母を亡くしている。

 『彼自身によるロラン・バルト』を読んだ人ならおわかりのように、バルトはきわめつけのマザコンであり、母にべた惚れし、母以外の女性にはまったく興味がなかった。そういう重症のマザコン男が母と死別したのだから、悲しみに打ちひしがれ気力を失ったことは想像にあまりある(悲しみから立ちなおろうとした記録が『喪の日記』として残されている)。

 二年目の「<中性>について」というテーマは一年目の講義が終わった直後に事務局に提出していたの変更することはできないが、母の死をへて「中性」の意味あいが変わってしまったとバルトは語る。

<中性>について語ろうとする主体は、もはやそれについて語ろうと決意した主体とは同じではありえない→当初は、闘争の解除についてお話しすることが問題だったし、これからお話しすることは、やはりそのことである。なぜなら、コレージュの掲示を変えることはできないからだ。しかし、梗概と方法をお伝えしたこの言説のなかに、わたしは自分自身、今日、束の間、ある別の音楽を聞いている。どのような音楽なのか。次のようにして、この音楽の住まう領域、彼方を位置づけてみよう。つまり、最初の疑問から分離した第二の疑問として、最初の<中性>の背後にかいま見える第二の<中性>として。

 第二の<中性>についてふれるに、そもそも<中性>という言葉がなにを意味するかについて確認しておきたい。

 日本語で<中性>というと男性でも女性でもない中性という意味にとられやすい。特にバルトの場合ゲイであることをカミングアウトしているので、そう受けとる人はすくなくないだろう。

 だがそれは「零度のエクリチュール」を「凍りつくエクリチュール」とうけとるのと同じで、まったくの誤解である。バルトが「わたしは<中性>Le neutre を、範列の裏をかくものと定義する」と語っているように、<中性>と訳された Le neutre は中立とかニュートラルという意味であって、対立を回避し、やりすごすところに重点がおかれている。

 なぜバルトは<中性>というテーマを選んだのだろうか? 初年度のバルトは「いかにしてともに生きるか」という標題で抑圧のない共同体は可能かと問うた。二年目はそれを受けて、抑圧のない言語活動の可能性を考えようとしたのである。

 言語は分類であり、単語は対立によってなりたっている。言語で語った瞬間、われわれは対象を対立の一方と決めつけ、分類表に、つまりは範列に押しこめてしまう。言語とは本質的に抑圧的なのである。

 さらに他者とコミュニケーションしようとする場合は両者の力関係がからんでくる。コミュニケーションの過程でわれわれは自分自身でありつづけること、アイデンティティを押しつけられる。なによりも自我の一貫性がもとめられ、強固な自我をもつことがよしとされる。自我の一貫性があいまいだとうさんくさい奴と決めつけられ、しまいには狂人に分類される。

 バルトは分類を回避する言語活動の理念型として懐疑主義と否定神学と禅と老荘を援用する。

 「正当な信仰は言葉を経由する」とボシュエが語ったように教会は言葉を使って祈れと命じ、神秘主義者の沈黙に敵意を向ける。これに対して懐疑主義者は沈黙で答える。懐疑主義者の沈黙は単なる口の沈黙ではなく、「思考」「理性」の沈黙である。

 懐疑主義は分類からの退却だが、否定神学は未分化なものに積極的な意義を見出す。バルトはシレジウスの詩句を引く。

あらゆる形<あらゆる色>を失いなさい、そうすればあなたは神と等しくなるだろう、
あなたの空は、静かな安らぎのうちに、あなた自身と等しくなるだろう。

 さらに禅と老荘は未分化を肯定するのみならず、攻勢に転じる。バルトは鈴木大拙の公案の紹介と岡倉天心の『茶の本』によりながら、言語の裏をかくコミュニケーションの可能性について語っている。

<中性>は、目印と目印とのあいだに適切な距離を保つという微妙な実践となるだろう:<中性>=間隔(空隙をつくりだすこと)。それは異化や、距離を置くことではない。という、きわめて重要な日本の概念:時間、空間の間隔こそが、時間性、空間性を決定している:それらを決定しているのは、積み重ねでも、「過疎化」でもないのだ。

 日本人にとってはこそばゆくもあるが、これはあくまで 『記号の国』の日本像と同じバルトの夢想であって、そのことはバルト自身が何度も念を押している。

 禅や老荘をもちあげているといっても、バルトはフリッチョフ・カプラのように東洋神秘主義に淫しているわけではない。バルトが公案の突飛な戦略になみなみならぬ関心をいだくのは西洋の抑圧的な思考から逃れるためであって、東洋に真理が隠れているなどというニューエイジの物理学者のようなナイーブな期待はもっていないのだ。

 だから、バルトは無我の境地を実体化したり崇めたてまつったりはしない。公案はあくまでずらしであり、言語体系の揺さぶりであって、真理に通じる道ではない。公案で獲得した自由は西洋的自我を相対化するために用いられる。バルトはヴァレリーの『テスト氏』について語っている。

今日ヴァレリーの作品において時代遅れのようにみえるのは、自我である。というのも、自我が心理的(観念論的)実体とみなされているからだ。しかし実際には、ヴァレリーは自我を一つの異常、異常性として扱っている→テスト:流行ではこの主知主義的錯乱を理解できないために、ますます周辺的に見える、極度の周辺性の記述→絶対的に、反画一主義の本。わたしが話そうとしている意識、そしてテスト氏のなかには、完全に魔法にかけられたような自我との関係、自我による捕獲がある。

 バルトは自我の権化とされてきたテスト氏を自我の脱構築として評価しているのである。

 さて、いよいよ第二の<中性>である。当初、バルトが講義で語ろうとしたのは言語体系をやりすごし、アイデンティティのくびきをすりぬけるような<中性>だった。ところが母の死を経験して、そうした<中性>の背後に別の<中性>が垣間見えるようになったという。

 バルトはそれをパゾリーニの「ある絶望的な活力」という詩とダンテの『新生』を引きながら、生きる意欲と区別された「生命力」と表現している。それが何かは三年目の講義『小説の準備』を待たなければならない。

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2010年03月28日

『いかにしてともに生きるか ―コレージュ・ド・フランス講義 1976-1977年度』 バルト (筑摩書房)

いかにしてともに生きるか ―コレージュ・ド・フランス講義 1976-1977年度 →bookwebで購入

 フランスにはコレージュ・ド・フランスという毛色の変わった学校がある。入学試験も卒業証書もなく、知的好奇心のある人は誰でも無料で自由に受講できるのだ。

 というと市民講座のようなものかと思うかもしれないが、市民講座とは格が違う。創立は1530年でフランソワ一世の時代。教授陣は世界的に名の知られた学者で、最近ではレヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ジャック・モノーがいた。ちょっと前だとメルロー=ポンティ、レイモン・アロン、ポール・ヴァレリーがいたし、歴史をさかのぼればキュリー夫人の夫のジョリオ・キュリーやミシュレもそうだった。市民サービスなどは一切考えずに、世界最高の学者が最先端の研究成果を世に問う場所なのである。

 コレージュ・ド・フランスの教授になることはその分野でフランス最高の権威と認められるに等しいが、面白いのはアカデミズムと微妙に対立関係にあることだ。

 たとえば、ベルクソンである。ベルクソンは20世紀前半を代表する哲学者だったが、アカデミズムの世界では長らく異端あつかいされ、ソルボンヌでは教授になれなかった。そのベルクソンを教授にむかえたのがコレージュ・ド・フランスなのである。

 コレージュ・ド・フランスとアカデミズムとの微妙な関係は設立の経緯から来ているのかもしれない。コレージュ・ド・フランスの前身はフランソワ一世が1530年に設立した王立教授団だが、フランソワ一世はレオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンであったことからもわかるようにルネサンスの自由な学問を保護した開明的な君主であり、王立教授団の創設には教会と結びついたソルボンヌの権威を削ごうとする狙いがあった。王権によって教権と対抗する権威を作りだそうとしたのである。

 ロラン・バルトはミシェル・フーコーの推挙でコレージュ・ド・フランス教授に選ばれ、1977年1月から亡くなるまでの4年間「文学記号学」の講義とセミナーを主宰したが、彼にとってはコレージュ・ド・フランス教授が一番おさまりのいいポストだったかもしれない。

 バルトは大学院大学にあたる高等研究院の教授としてアカデミズムの一角に地位を占めていたが、大学教授資格アグレガシオンも博士号ももっていなかった(フランスでは大学で教えるにはアグレガシオンが必要)。だから院生しか教えることができないのに、博士論文の指導はできないという中途半端な立場だった。さらにまた『ラシーヌ論』をめぐるバルト=ピカール論争のしこりもあった。

 アグレガシオンをとれなかったのは20代を結核療養所ですごしたからだが、博士号をとらなかったのは自分の選択だった。バルトは『モードの体系』を博士論文として書きはじめたものの、途中で論文のスタイルで書くことに嫌気がさし、彼一流の文体で書き直してエッセイとして出版した。記号学の大きな成果が退屈な論文調ではなく、ちょっとお洒落な、きびきびした名文で書かれたのは読者にとっては幸いだったけれども。

 バルトのコレージュ・ド・フランス教授就任は文学的な事件だった。文壇のスーパースターになっていたバルトの講義を聞こうと世界中から聴衆が押し寄せ、一番大きな教室でもはいりきらず、もう一つの大教室に急遽スピーカーを設置する破目になった(二教室体制は最後までつづいたそうだ)。

 1977年1月7日におこなわれた開講講義はすぐに出版され、『文学の記号学』として邦訳されているが、本講義の方は遺族の意向でCD版が出たのみで活字化はされていない(現在入手可能なのはCD-ROM版。なお、権利関係が不明なのでリンクはしないが、ネットを探せばmp3で公開しているサイトがある)。

 ところが2002年になって講義ノートの出版が許され、三巻本として上梓された。本書はその第一巻の邦訳であり、1977年1月12日から5月4日までの初年度の講義14回分のノートをおさめる。

 バルトの講義は流れるようで即興で喋っているようだったというが(録音を聞いた印象もそうである)、実際は綿密にノートをつくってほぼ原稿通りに読みあげ、脱線や余談はあまりなかったそうである(邦訳では脱線や余談は訳注で補われている)。

 初年度のテーマは「いかにしてともに生きるか」で、アトス山の独居修道士の生活を紹介したラカリエールの著書に触発されたものだという。講義は23の断章にわかれ、Akèdia(虚脱状態)から Xéniteia(異国での滞在)までアルファベット順に並べられている(当初13回の予定が14回になったので、最後の断章は Utopia だが)。

 修道院というと厳格な規則と時間割でがんじがらめにされ、窮屈な共同生活を営むところと決まっているが、そのような修道院(共住修道院)ができたのは四世紀末にすぎない。それ以前の修道士は山の洞窟や砂漠、矌野で独居生活をおくり、一人孤独のうちに神とむきあっていた。バルトは書いている。

一切が4世紀に決せられたことがわかるだろう。少なくともこの年代をおさえておくことで、事態がはっきり理解できるという印象がある。独居修道生活を一新するものとしての共住修道院は、キリスト教を迫害される(殉教者たちの)宗教から国家の宗教へ、つまり「非=権力」(無権力)から「権力」へと移行させた逆転とまったく同時代のものなのである。テオドシウス帝の勅令の年、380年は、ひょっとしたら私たちの属する世界の歴史において最も重要な年(そして隠蔽された年、なにしろ誰も知らないのだから)かもしれない。

 アトス山には独居修道士の伝統が残っており、普段は一人で修道生活を送り、週一回集まって共同で儀式をおこない、一週間の手仕事の成果と引換に食物など生活必需品を受けとるというゆるい信仰共同体が維持されている。バルトはこのゆるやかな関係を「イデォリトミー」と呼んでいる。

野生のイデォリトミー(エジプト、アントニオス):いかなる組織もなし。唯一の共同体的行為:毎週の共同儀式、仕事(ござ)とパンの直接交換。この野生状態は、官僚制度が存在せず、国家権力の萌芽も、個人と小グループのあいだの物象化、制度化、モノ化されたいかなる関係も存在しないことによって厳密に定義づけられる。
共修制の誕生:相接して同時に、ごく萌芽的なものとはいえ、官僚制装置の誕生。執行部:週番制。

 バルトは多分に理想化されたこのイデォリトミーという概念を縦糸にして、抑圧をともなわない共同体が可能なのかをトーマス・マンの『魔の山』 、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』、サドの『ソドムの百二十日』、ゴールディングの『蠅の王』、ジッドの『ポワチエの監禁された女』などを材料に考察していく。

(最後の『ポワチエの監禁された女』は未読だが、実の母に25年間監禁されつづけた女性の話で、1901年に実際にあった実話にもとづいている。監禁されていた女性は監禁が長期にわたった結果、監禁状態を受けいれてしまい、救出を拒否するまでになっていたという。)

 本書を読みながら、わたしは安部公房のことを思っていた。そして、なぜここで『砂の女』や『友達』にふれないのだろうとやきもきした。

 まったく言及していないところをみると、バルトは安部を読んだことがないのだろうが(日本贔屓のバルトのことだから、読んでいたら言及したはずである)、バルトの講義は安部公房的な問題圏を何度も横切っているのだ。

 バルトは1876年にマラルメ、マルクス、ニーチェ、フロイトがスイスで出会う可能性について語っているが、わたしはバルトと安部公房のありえたかもしれない出会いの方が気になった。もし安部公房と出会っていたら、この講義はもう一段深いものとなっていただろう。

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