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2010年03月28日

『いかにしてともに生きるか ―コレージュ・ド・フランス講義 1976-1977年度』 バルト (筑摩書房)

いかにしてともに生きるか ―コレージュ・ド・フランス講義 1976-1977年度 →bookwebで購入

 フランスにはコレージュ・ド・フランスという毛色の変わった学校がある。入学試験も卒業証書もなく、知的好奇心のある人は誰でも無料で自由に受講できるのだ。

 というと市民講座のようなものかと思うかもしれないが、市民講座とは格が違う。創立は1530年でフランソワ一世の時代。教授陣は世界的に名の知られた学者で、最近ではレヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ジャック・モノーがいた。ちょっと前だとメルロー=ポンティ、レイモン・アロン、ポール・ヴァレリーがいたし、歴史をさかのぼればキュリー夫人の夫のジョリオ・キュリーやミシュレもそうだった。市民サービスなどは一切考えずに、世界最高の学者が最先端の研究成果を世に問う場所なのである。

 コレージュ・ド・フランスの教授になることはその分野でフランス最高の権威と認められるに等しいが、面白いのはアカデミズムと微妙に対立関係にあることだ。

 たとえば、ベルクソンである。ベルクソンは20世紀前半を代表する哲学者だったが、アカデミズムの世界では長らく異端あつかいされ、ソルボンヌでは教授になれなかった。そのベルクソンを教授にむかえたのがコレージュ・ド・フランスなのである。

 コレージュ・ド・フランスとアカデミズムとの微妙な関係は設立の経緯から来ているのかもしれない。コレージュ・ド・フランスの前身はフランソワ一世が1530年に設立した王立教授団だが、フランソワ一世はレオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンであったことからもわかるようにルネサンスの自由な学問を保護した開明的な君主であり、王立教授団の創設には教会と結びついたソルボンヌの権威を削ごうとする狙いがあった。王権によって教権と対抗する権威を作りだそうとしたのである。

 ロラン・バルトはミシェル・フーコーの推挙でコレージュ・ド・フランス教授に選ばれ、1977年1月から亡くなるまでの4年間「文学記号学」の講義とセミナーを主宰したが、彼にとってはコレージュ・ド・フランス教授が一番おさまりのいいポストだったかもしれない。

 バルトは大学院大学にあたる高等研究院の教授としてアカデミズムの一角に地位を占めていたが、大学教授資格アグレガシオンも博士号ももっていなかった(フランスでは大学で教えるにはアグレガシオンが必要)。だから院生しか教えることができないのに、博士論文の指導はできないという中途半端な立場だった。さらにまた『ラシーヌ論』をめぐるバルト=ピカール論争のしこりもあった。

 アグレガシオンをとれなかったのは20代を結核療養所ですごしたからだが、博士号をとらなかったのは自分の選択だった。バルトは『モードの体系』を博士論文として書きはじめたものの、途中で論文のスタイルで書くことに嫌気がさし、彼一流の文体で書き直してエッセイとして出版した。記号学の大きな成果が退屈な論文調ではなく、ちょっとお洒落な、きびきびした名文で書かれたのは読者にとっては幸いだったけれども。

 バルトのコレージュ・ド・フランス教授就任は文学的な事件だった。文壇のスーパースターになっていたバルトの講義を聞こうと世界中から聴衆が押し寄せ、一番大きな教室でもはいりきらず、もう一つの大教室に急遽スピーカーを設置する破目になった(二教室体制は最後までつづいたそうだ)。

 1977年1月7日におこなわれた開講講義はすぐに出版され、『文学の記号学』として邦訳されているが、本講義の方は遺族の意向でCD版が出たのみで活字化はされていない(現在入手可能なのはCD-ROM版。なお、権利関係が不明なのでリンクはしないが、ネットを探せばmp3で公開しているサイトがある)。

 ところが2002年になって講義ノートの出版が許され、三巻本として上梓された。本書はその第一巻の邦訳であり、1977年1月12日から5月4日までの初年度の講義14回分のノートをおさめる。

 バルトの講義は流れるようで即興で喋っているようだったというが(録音を聞いた印象もそうである)、実際は綿密にノートをつくってほぼ原稿通りに読みあげ、脱線や余談はあまりなかったそうである(邦訳では脱線や余談は訳注で補われている)。

 初年度のテーマは「いかにしてともに生きるか」で、アトス山の独居修道士の生活を紹介したラカリエールの著書に触発されたものだという。講義は23の断章にわかれ、Akèdia(虚脱状態)から Xéniteia(異国での滞在)までアルファベット順に並べられている(当初13回の予定が14回になったので、最後の断章は Utopia だが)。

 修道院というと厳格な規則と時間割でがんじがらめにされ、窮屈な共同生活を営むところと決まっているが、そのような修道院(共住修道院)ができたのは四世紀末にすぎない。それ以前の修道士は山の洞窟や砂漠、矌野で独居生活をおくり、一人孤独のうちに神とむきあっていた。バルトは書いている。

一切が4世紀に決せられたことがわかるだろう。少なくともこの年代をおさえておくことで、事態がはっきり理解できるという印象がある。独居修道生活を一新するものとしての共住修道院は、キリスト教を迫害される(殉教者たちの)宗教から国家の宗教へ、つまり「非=権力」(無権力)から「権力」へと移行させた逆転とまったく同時代のものなのである。テオドシウス帝の勅令の年、380年は、ひょっとしたら私たちの属する世界の歴史において最も重要な年(そして隠蔽された年、なにしろ誰も知らないのだから)かもしれない。

 アトス山には独居修道士の伝統が残っており、普段は一人で修道生活を送り、週一回集まって共同で儀式をおこない、一週間の手仕事の成果と引換に食物など生活必需品を受けとるというゆるい信仰共同体が維持されている。バルトはこのゆるやかな関係を「イデォリトミー」と呼んでいる。

野生のイデォリトミー(エジプト、アントニオス):いかなる組織もなし。唯一の共同体的行為:毎週の共同儀式、仕事(ござ)とパンの直接交換。この野生状態は、官僚制度が存在せず、国家権力の萌芽も、個人と小グループのあいだの物象化、制度化、モノ化されたいかなる関係も存在しないことによって厳密に定義づけられる。
共修制の誕生:相接して同時に、ごく萌芽的なものとはいえ、官僚制装置の誕生。執行部:週番制。

 バルトは多分に理想化されたこのイデォリトミーという概念を縦糸にして、抑圧をともなわない共同体が可能なのかをトーマス・マンの『魔の山』 、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』、サドの『ソドムの百二十日』、ゴールディングの『蠅の王』、ジッドの『ポワチエの監禁された女』などを材料に考察していく。

(最後の『ポワチエの監禁された女』は未読だが、実の母に25年間監禁されつづけた女性の話で、1901年に実際にあった実話にもとづいている。監禁されていた女性は監禁が長期にわたった結果、監禁状態を受けいれてしまい、救出を拒否するまでになっていたという。)

 本書を読みながら、わたしは安部公房のことを思っていた。そして、なぜここで『砂の女』や『友達』にふれないのだろうとやきもきした。

 まったく言及していないところをみると、バルトは安部を読んだことがないのだろうが(日本贔屓のバルトのことだから、読んでいたら言及したはずである)、バルトの講義は安部公房的な問題圏を何度も横切っているのだ。

 バルトは1876年にマラルメ、マルクス、ニーチェ、フロイトがスイスで出会う可能性について語っているが、わたしはバルトと安部公房のありえたかもしれない出会いの方が気になった。もし安部公房と出会っていたら、この講義はもう一段深いものとなっていただろう。

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