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2010年02月28日

『グーテンベルクからグーグルへ ―文学テキストのデジタル化と編集文献学』 シリングスバーグ (慶應義塾大学出版会)

グーテンベルクからグーグルへ ―文学テキストのデジタル化と編集文献学 →bookwebで購入

 昨年の出版界はGoogle Book Search問題で揺れに揺れた。11月になって公開書籍の範囲を英語圏に限定するという新和解案が出て一気に熱がさめたものの、それまでは黒船来襲もこうだったのではないかというほどの騒ぎで、たいして内容のない似たようなシンポジュウムや研究会があちこちで開かれた。

 たまたまその渦中で出版されたのが本書である。題名が題名だし、帯に「Googleショックの本質を衝く必読書!」とあったのを真に受けて買った人がずいぶんいたようである。

 しかし本書はGoogle問題とは関係がない。本書は『新しいカフカ』で紹介されていた編集文献学という新しい学問の日本最初の翻訳である。Googleがやっているのは単に紙の本を画像で公開し、出版社や書店に代わって購読料を徴収して著作権者に配るだけだが、著者のシリングスバーグが考えているのははるかに先のことである。作品本文の推敲の過程をWeb技術で再現し、同時代批評や関連作品、背景知識をリンクした統合学術ナレッジサイトをどう構築するか、そしてさらに理想的なナレッジサイトであっても、あるいは理想的であればあるほど何が失われるかである。

 シリングスバーグの提唱するナレッジサイトの雛形はすでにネット上にいくつも存在する。たとえばジョージア大学のRossetti Archive。ここではロセッティの刊行したさまざまな版本を画像版テキスト版で閲覧し、関連する絵画作品を見ることもできる。Googleと決定的に違うのはテキスト版はXMLでマークアップされており、書誌学的情報が埋めこまれていることだ(Googleには書誌学的観点が欠落しており、本文の信頼性は最初から考慮外である)。

 あるいは『アンクルトムの小屋』と関連情報を提供するヴァージニア大学のUncle Tom's Cabin & American Culture。ここの関連情報は前史と後史にわかれ、前史には「キリスト教文書」、「センチメンタル文化」、「奴隷制反対文書」、「黒人扮装ミンストレル芸能」がならび、後史には同時代の書評やこの作品がきっかけとなった二次創作や論争がリンクされている。

 シリングスバーグはナレッジサイトの可能性を認め、XMLが編集文献学の重要な手段となるだけでなく、経済的理由からも学術出版が電子メディアに移行せざるをえない現実を指摘するが(彼が編纂したサッカレーの『虚栄の市』の史的批判版はわずか300部しか印刷されなかった!)、技術的細部にはまったく立ち入らない。

 技術面で唯一シリングスバーグがふれるのはページ区切をどう表現するかという問題である。

 作家は校正段階でページの字配りを意識して原稿を手直しすることがすくなくない。文学作品はテキストだとはいっても、紙のページという単位は無視できない。重要な古典だと初版や再版でページがどのように区切られていたかという情報が記号で本文中に書きこまれている。ところがHTMLやXMLではページの区切をマークアップすることができない。HTMLやXMLはパラグラフやリストアイテムの集合として記述される。紙のページはあるパラグラフやリストアイテムの途中からはじまり、別のパラグラフやリストアイテムの途中で終わるが、HTMLやXMLは「階層のオーバーラップ」を構造的に許さないので、パラグラフやリストアイテムという構造と紙のページの区切という構造を共存させることはできないのだ。

 もっとも、ルールの問題だから、この制限は近い将来解決されるだろう。

 しかし、ルールをいじっただけでは解決しない問題もある。シリングスバーグはディジタルでは掬いきれない紙の本の手ざわりや重さ、匂いに注目する。どんなに技術が進歩しても、物体としての本に電子的に接近することはできない。ないものねだりの極論かもしれないが、本という形態は電子メディアで汲みつくせない奥行を有しているのである。

 本書は電子メディア革命を推奨する一方、限界を確認するという両義的な姿勢で書かれているが、訳者解説は徹底して後ろ向きであり、ほとんど反革命といっていい。

 訳者の明星聖子氏は『1冊でわかるカフカ』でも本文より刺激的な解説を書いたが、困ったことに今回も訳者解説の方が本文よりも刺激的で面白いのである。

 明星氏はカフカの研究のためにドイツに留学し、はからずも編集文献学という最先端の学問と出会った顛末を自虐的に語る。ここまで自虐しなくてもと思うのだが、コンピュータ時代に遭遇した文系バカの典型である「文学研究者」の悲喜劇として語られているのでボヤキが普遍性を帯びてくる。

 編集文献学者は、いわば最前線で建前をかなぐりすてて、制度の保守管理にあたっているソルジャーである。私は、なろうことなら、「文学」という甘い柔らかいシーツにくるまって、できるだけ長く後衛の位置でまどろんでいたいのである。
 だが、非常に悲しいことに、平和な時間はもう長くは続かない。制度への危機がすぐそこまで迫っているからである。もし、その制度を守りたいのであれば、誰もが前線へ駆り出されてしまう悲劇的な時間が近づいている。制度のありようと直結する基盤の部分に、世界的規模で、大変化が生じているからだ。

 大変化とはもちろんコンピュータ化の大波である。文学全集が全滅し、個人全集の紙の本での出版が不可能になりつつある現状では学術的なテキストは採算がとれるはずはなく、出版社が手がける可能性はほとんどなくなっている。となると文学研究者自身がどこかから補助金をもらってきて採算度外視で作るしかないではないか。

 これからの文学研究者はXMLに一家言をもち、スクリプト言語の一つも自由にあやつれないようではやっていけないのだ。Google程度でおたおたしている暇はないのである。

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