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2010年01月30日

『ロリータ、ロリータ、ロリータ』 若島正 (作品社)
『乱視読者の新冒険』 (研究社)

ロリータ、ロリータ、ロリータ
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乱視読者の新冒険
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 『ロリータ』を新訳した若島正氏の『ロリータ』論である。

 若島氏は『乱視読者の新冒険』の第Ⅳ部にナボコフについて書いた文章を集めており、最初の伝記作家、アンドリュー・フィールドの蹉跌という切口からナボコフの家父長性を論じた「失われた父ナボコフを求めて」、エドマンド・ウィルスンとの仲たがいの背景に探偵小説があったのではないかという仮説を述べた「ナボコフと探偵小説」、ジョイスとナボコフのすれ違い(二人は現実に二度会っている)からナボコフの限界にふれた「虹を架ける――『フィネガンズ・ウェイク』と『ロリータ』」、パソコンの検索機能を枕に『ロリータ』の言葉遊びを論じた「電子テキストと『ロリータ』」のような好文章がならんでいる。

 それぞれおもしろいけれども、折々に書かれた雑文であり、本格的な論考とはいいにくい。

 一方、『ロリータ、ロリータ、ロリータ』は題名の通り最初から最後まで『ロリータ』について書かれた純度百パーセントの『ロリータ』論である。表紙がにぎやかだが、これは各国語版の『ロリータ』の表紙をコラージュしたからで、国によってニンフェットのイメージが異なることが一目瞭然でわかる(各国語版の表紙はLibrary Thingでも見ることができる)。

 『ロリータ』は1962年のキュブリック版、1997年のエイドリアン・ライン版と二度映画化されているが、若島氏は映画化という視点から試掘孔を掘っていく。映画化が特権的な視点となるのはナボコフが映画的手法を意識した作家であることもあるが、それ以上に決定的なのはナボコフ自身による脚本があるからである。

 キュブリックは映画化にあたりナボコフ自身に脚本を依頼したが、あまりにも長すぎたので採用されることはなかった(クェイル殺しからはじめるというアイデアだけはナボコフのものだという)。しかし、没になった脚本は短く改稿された上で "Lolita : A Screenplay" として出版されており、さらにドイツでは改稿前の長いバージョンの脚本までが出版されているのである。

 映画を切口にすると、小説の本文を二本の映画と長短二つのバージョンの脚本と比較することができるのだ。

 本書はページ数の関係からか、ヘイズ夫人とハンバート・ハンバートが出会う場面しか論じられていないが、一つの場面の分析だけでもこの視点が大きな可能性をもっていることが納得できる。

 本書が次にとりあげるのはアメリカの大衆文化の暗黙の引用である。これがすごい。香水「タブー」の広告にはじまり、固有名詞のもじり(煙草のキャメルが同じ駱駝を意味する「ドロール」に化けるなど)、映画、ジュークボックスの中のヒット曲にいたるまで洗いだされ、時間のズレが仕こまれていたことが明らかにされる。

 『ロリータ』における大衆文化の大きさがいかに重要か、若島氏は次のように書いている。

 『ロリータ』のおもしろさというかおかしさの大きな部分は、教養にあふれてはいても結局のところ頭でっかちのハンバートが、アメリカという卑俗な新世界で、映画スタアになることを夢見ているおよそ教養とは無縁な普通の女の子ロリータにいかれてしまうというところにあるのだから。そこでは、文学的言及の代わりに、アメリカ口語の実例や新聞雑誌の広告の珍妙な文句などが氾濫することになる。それは文学的引用に対して絶妙なバランスを保ちながら散りばめられているのである。それがこおうえなくおかしい。高尚であるはずの文学作品が、これくらいマッドなまでに滑稽でもかまわないのだろうかと心配になるほどおかしい。だから、『ロリータ』がハイ・モダニズムに連なる作品だという人に対しては、わたしはどうしても『ロリータ』の低俗ロウな笑いを強調してみたくなるのだ。

 ナボコフは確かに文学に淫した作家だが、こと『ロリータ』に関するかぎりアメリカの大衆文化に淫していたのだ。ちょうどハンバート・ハンバートがロリータに首ったけになったように。文学偏重の『ロリータ』観は改めるべき時にきていたのである。

 本書では代表的な批評についてふれている。若島氏がもっとも注目すべき批評としてあげているのはリチャード・ローティの「カスビームの床屋」とマイケル・ウッドの「ロリータの言語」の二つであり、困った傾向としてあげているのはリンダ・カウフマンに代表されるフェミニズム批評の横行だが、わたしが一番興味を引かれたのはドローニンの修正説である。

 修正説については若島版『ロリータ』の注釈で言及されていたが、ロリータはエルフィンストーンの病院で死んでいて、それ以降はすべてハンバート・ハンバートの妄想だと解釈するのである。

 エルフィンストーンの病院からロリータが姿を消した後、ハンバート・ハンバートの語りは異様にテンションが高くなっていくが、ロリータに逃げられたからではなく、ロリータが死んでしまい、その現実から逃れるために虚構の物語を構築しようとしているというわけだ。

 ドローニンはこの驚天動地の説を精緻に論証し、一定の支持をえているということだが、肝心の "Nabokov's Time Doubling" という論文は年報に出たきりで、論集などに再録された形跡がないのだ(探し方が悪いのかもしれないが)。

 ドローニンの説は大いに気になるが、原文は見つかりそうにない。若島氏は『アーダ』の新訳で手一杯のようだから、誰か翻訳してくれないだろうか。

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