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『現代の哲学』 木田元 (講談社学術文庫) »

2009年12月28日

『西洋哲学史要』 波多野精一 (未知谷)

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 立花隆&佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』(文春新書)で木田元の『反哲学史』とともに哲学史の名著として紹介されていた本である。

 波多野精一は『基督教の起源』(岩波文庫)、『原始キリスト教』(岩波全書)で知られている宗教哲学者だが、本書の評価も高く、現在ではマルクス学者の牧野紀之氏による再話版(現代語訳)が版を重ねている。

 牧野氏の再話がどのようなものか、冒頭部分で見てみよう。まずオリジナル。

 西洋古代の哲學史は殆ど全く希臘哲學史といもいふべきものなり。只アリストテレース以後の時代に於て希臘の哲學思想は羅馬帝國に傳はりて其の人文の一大勢力をなしたるものの、其時すら創始原造の見とては殆ど無く、皆希臘に於て旣に唱へ出でられたるものを或は補充し或は通俗化したるものに過ぎざりき。

 きびきびした躍動感あふれる名文だと思うが、文語体に慣れていない人には敷居が高いだろう。牧野氏はこれを次のように現代日本語に移している。

 西洋古代の哲学史はほとんど完全にギリシャ哲学史と重なる、と言って好いと思います。たしかにアリストテレス以後の時代、ギリシャの哲学思想はローマ帝国に伝わってその文化の一大勢力となりましたが、その時でもローマで広まった思想には独創的な点がほとんどなく、皆ギリシャで既に唱えられたものを補充したり通俗化したりしたものにすぎませんでした。

 オリジナルの断定を「と言って好いと思います」とやわらげている分、躍動感が薄れたような印象があるが、明快な論旨はちゃんと受け継がれている。

 オリジナルは明治34年(1901年)に弱冠25歳だった波多野が書いている。いくら名著の評判が高いとはいえ、100年以上前に25歳の青年の書いたものがどれほどのものかという興味で読んでみたが、面白くてたちまち引きこまれた。

 哲学史は哲学の学説史という視野で完結する傾向があるが、波多野は時代背景を簡潔に紹介した上で、どういう課題に答えるためにその哲学が出てきたかという視点で叙述しているのである。

 ギリシア哲学はギリシア本土ではなく小アジアのギリシア植民都市で生まれたが、それは本土がいまだ未開だったのに対し、小アジアの植民都市は地中海貿易で諸国と交流し商業が栄えていたからだと説明している。プラトンの哲人政治説にしても、プラトンの時代のギリシアは国運衰退期にあたり、政治が乱れていたのであのような理想国家を説いたのだとしている。

 ここで全体の構成を紹介しておく。

古代哲学史

第1篇 アリストテレスにいたる迄のギリシャ哲学
第1章 ミレトス学派
第2章 生成の問題
第3章 生成の説明
第4章 開明時代の哲学
第5章 デモクリトスの唯物論とプラトンの観念論
第6章 アリストテレス
第2篇 アリストテレス以後のギリシャ哲学
第1章 倫理時代の哲学
第2章 宗教時代の哲学

中世哲学史

第1篇 教父時代の哲学
第1章 ニカイア会議以前の時代
第2章 ニカイア会議以後の時代
第2篇 スコラ哲学
第1章 スコラ哲学の発生
第2章 実在論と名目論
第3章 トマスとスコットゥス
第4章 スコラ哲学の衰頽

近世哲学史

第1篇 カント以前の哲学
第1章 過渡時代
第2章 イギリス経験論
第3章 デカルト
第4章 スピノザ
第5章 ライプニッツ
第6章 ロック
第7章 バークレー
第8章 ヒューム
第2篇 カント及びカント以後の哲学
第1章 カント
第2章 フィヒテ
第3章 シェリング
第4章 ヘーゲル
第5章 ヘーゲルの反対者
第6章 ヘーゲル派の分裂と唯物論の勃興
第7章 唯物論の反対者
第8章 一九世紀の英仏の哲学

 アリストテレスを古代哲学の頂点と評価するが、波多野は早くも共通感覚に注目している。

 これらの感覚を統合して事物全体の知覚を作ったり、諸々の感覚器官に共通な事物の関係とか時間的空間的な関係と運動の状態を看取したりするのは中央器官で、これはここの感覚器官とは別に備わります。アリストテレスはこれを「共通感覚」と呼び、その座は心臓にあるとしました。この中央器官にはさらに自覚の働きがありまして、外界の物を知覚するだけでなく、その知覚の働きを知覚する作用があります。外界の刺戟が去ってからも知覚に痕跡が「想像」として残るのはこの中央器官の働きによるのです。この想像が過去の知覚の模像である場合には、それは「想起」となります。

 意外だったのは哲学史では軽視されがちな古代後期から中世にかけての叙述が充実していることである。新プラトン派については「学者の宗教」と断った上でかなり立ち入った紹介をしているし、アウグスティヌス一辺倒になりがちな教父哲学についてはニケア信経確立以前の混乱期について一章をさき、正統信仰を脅かしたグノーシス主義に踏みこんでいる。また、ドゥンス・スコトゥスをトマス・アクィナスと対等に扱っている点も目を引く。1901年の時点でこういう本が日本で書かれていたとは驚くべきことだ。波多野の宗教哲学の本を読んでみたくなった。

 古代篇と中世篇は今読んでも新鮮だが、近世篇となるとちょっと古いかなという印象は否めない。もっとも古さも徹底すると面白くて、「ヘーゲルの反対者」としてヘルバルトとハルトマン、「唯物論の反対者」としてランゲ、フェヒナーといった今日では忘れられた哲学者を挙げている点は興味深い。

 波多野は宗教哲学者として名前が残っているが、本書の隠し味となっているのは宗教哲学とは正反対の唯物史観だと思う。唯物史観一辺倒だと賞味期限切れになるが、唯物史観的な見方を踏まえた上で、それを乗り越えようと努力したことが生気あふれる記述につながったのではないか。

 こういう素晴らしい本を現代に甦らせてくれた再話者の牧野氏には感謝したいが、現代的視点からの注をくわえるのは必要にしても、いささか出しゃばりすぎという印象がなくはない。巻末にマルクス主義についての紹介が再話者によって追加されているが、古色蒼然たる反映論で、百年前に書かれた本篇よりよほど黴臭いのである。

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