« 2009年11月 | メイン | 2010年01月 »

2009年12月31日

『哲学史講義』上中下 ヘーゲル (河出書房新社)

哲学史講義 上巻
→bookwebで購入
哲学史講義 中巻
→bookwebで購入
哲学史講義 下巻
→bookwebで購入

 哲学史をまとめて読んでいるうちに哲学が発展していくというストーリーに異和感をもつようになり、発展臭さがあまりない堀川本熊野本や年表形式で発展ストーリーと無縁な『年表で読む哲学・思想小事典』を新鮮に感じるようになった。

 岩崎本の序論にあるように、哲学の歴史を単なる列伝ではなく理性の発展の歴史としてとらえ、一つの学問にしたのはヘーゲルである。発展ストーリーの是非を考えるなら、どうしても張本人のヘーゲルの哲学史に当たらなければならないだろう。

 幸いヘーゲルの『哲学史講義』にはわかりやすいと評判の長谷川宏訳がある。前から読みたいと考えてきたが、この機会に読んでみることにした。上中下三巻、総ページ数1350ページ余の大冊で、なんとか最後まで読み終わった。

 確かにヘーゲルの本とは思えないくらい読みやすいが、それでも難物であることに変わりはない。

 『哲学史講義』は三つの部分からできている。

  1. 哲学者の伝記
  2. 哲学者の思想内容
  3. 発展段階の概観

 伝記部分は要するに伝記だからすらすら読める。発展段階の概観も尾根から見はるかす部分なのでわかりやすい。問題は思想内容で、絡みあった藪を山刀で打ち払い、かきわけていくような体力勝負だ。

 山刀が必要になるのはヘーゲル論理学の用語が蔓のように絡まりあっているからである。「否定」や「抽象的」、「概念」といった言葉がしきりに出てくるが、これらはすべてヘーゲル語であって、普通の「否定」や「抽象的」、「概念」ではない。他人の思想内容を無理矢理自分の用語で絡めとろうとしているのだから、もとの思想の難解さにヘーゲル論理学の難解さがくわわる。しかし、もとの思想の知識があればヘーゲル論理学の思考パターンが透けて見えてくるという利点がある。特に哲学史の本をまとめて読んだ後だったので、思ったよりも理解しやすいという印象があった。

 たとえば運動を否定したゼノンのパラドックスの条で運動とは「否定性と連続性の統一」という、いかにもヘーゲル的な表現が出てくる。このままではわけがわからないが、ちょっと先で次のように敷衍されている。

 わたしたちが一般に運動について話すとき、わたしたちは、物体がある場所にあり、つぎにはべつの場所にあるという。が、運動している物体はもはや第一の場所にはないし、いまだ第二の場所にもない。どちらか一方にあるとすれば、それは静止していることになる。二つの場所のあいだにある、というのも正確ないいかたではない。二つの場所のあいだのある場所にあることになって、おなじ困難が生じるからです。だが、運動するということは、この場所にあると同時にこの場所にないことである。それが空間および時間の連続性ということであり、それによってはじめて運動が可能になるのです。

 この説明がゼノンのパラドックスの解決になっているかどうかはともかくとして、ヘーゲル論理学のわかりやすい説明になっているのは御覧のとおりだ。

 ヘラクレイトスの「なる」を説明した条でははからずもヘーゲル論理学の核心を語っている。

 「なる」はまだ抽象的なものですが、しかし同時に具体への第一歩、すなわち、対立する観念の最初の統一体です。対立する存在と非存在は、「なる」という関係のなかでは静止せず、生き生きとうごくことを原理とします。……中略……だから、ヘラクレイトスの哲学は過去の哲学ではない。その原理はいまも不可欠で、わたしの『論理学』でも、はじまりのところ、「存在」と「無」のすぐあとに位置をしめています。「ある」(存在)と「あらぬ」(非存在)は真理なき抽象概念であり、「なる」こそが第一の真理だ、ということを認識するには、大きな洞察力が必要です。分析的思考は、「ある」と「あらぬ」をべつべつにして、どちらも真にして有効なものと考えます。ところが、理性は一方のうちに他方を、一方のうちに他方がふくまれることを認識し、――こうして、絶対的な全体は「なる」と定義されるのです。

 ヘーゲルは「真理とは、「なる」過程のこと」という言い方もしている。ヘーゲル論理学というか、ヘーゲル弁証法を勉強したいなら『論理学』より本書の方がはるかにとっつきやすいかもしれない。

 ここで目次を掲げておく。まず、上巻。

序論

  1. 哲学史とはなにか
  2. 哲学史と哲学以外の領域との関係
  3. 哲学史の時代区分、資料、論じ方

東洋の哲学

  1. 中国の哲学
  2. インドの哲学

第一部 ギリシャの哲学

はじめに
七賢人
時代区分


第一篇 タレスからアリストテレスまで

第一章 タレスからアナクサゴラスまで

  1. イオニアの哲学
  2. ピタゴラスとピタゴラス派
  3. エレア学派
  4. ヘラクレイトスの哲学
  5. エンペドクレス、レウキッポス、デモクリトス
  6. アナクサゴラス

第二章 ソフィストからソクラテス派まで

  1. ソフィストの哲学
  2. ソクラテスの哲学
  3. ソクラテス派

 哲学史とはなにかを論じた条は一番面白かった。ヘーゲルによれば「哲学史の全体が内部に必然性のある一貫したあゆみ」であり、「哲学史上のどの哲学も必然的なものであったし、いまなお必然的なものであり、したがって、どれ一つとして没落することなく、すべてが一全体の要素として哲学のうちに保存されている」としている。ただ、こういうことが言えるのは自己展開する絶対精神を認めた場合のことである。

 東洋の哲学を論じた条はずっと興味があったが、東洋を頭から幼稚と決めつけている上に、ブッダと老子を混同していてがっかりした。知らないことは書かなければいいのに、世界のすべてを理解しなければならないという強迫観念がヘーゲルらしいところだろうか。

 「第一章 タレスからアナクサゴラスまで」はヘーゲル流の発展ストーリーで完全制圧していて、本人としては得意なのだろう。

 「第二章 ソフィストからソクラテス派まで」のソクラテスを論じた条は自己へかえっていく意識と共同体が視野にはいってくる。『精神現象学』ではどうなっていただろうか。

 意外だったのは『雲』でソクラテスを笑いものにしたアリストファネスを「冗談の底にはまじめなポリスへの思いが横たわっている」と絶賛していることだ。『雲』は読んだことがあるが、そんな高級な喜劇ではない。

 次は中巻である。

第一部 ギリシャの哲学


第一篇 タレスからアリストテレスまで(つづき)

第三章 プラトンとアリストテレス

  1. プラトンの哲学
  2. アリストテレスの哲学

第二編 独断主義と懐疑主義
  1. ストア派の哲学
  2. エピクロスの哲学
  3. 新アカデメイア派の哲学
  4. 懐疑派の哲学

第三編 新プラトン派
  1. フィロン
  2. カバラとグノーシス主義
  3. アレクサンドリア派の哲学

 プラトンの条は力がこもっているのはわかるが、かなり無理があるのではないか。『エンチクロペディ』よろしく「弁証法」、「自然哲学」、「精神の哲学」にわけて論じており、「弁証法」を代表する作品として『ピレポス』、『ソフィスト』、『パルメニデス』、「自然哲学」を代表する作品として『テアイテトス』、「精神の哲学」を代表する作品として『国家』を論じている。この中では『国家』しか読んだことがないので「弁証法」と「自然哲学」は留保するが、プラトンの理想国家批判はいかにもヘーゲルである。

 すなわちプラトンの国家観はギリシアの発展段階(個の原理が確立せず、共同体の原理こそがすべての基礎をなす)にもとづくもので「どんな人も自分の時代をとびこえることはできない」のだから、近代的な視点から批判するのは見当はずれな見解をうむだけだというのだ。

 そう言いながらも、こう批判している。

 そもそも一つの理想が理念ないし概念の力によって真なる内容をもつとき、それは幻ではなく、真理です。そして、そのような理想は余計なものでも無力なものでもなく、現実的なものです。真の理想は実現されるべきものではなく、現実そのものであり、唯一の現実である。――そのことが第一に信じられなければなりません。ある理念が実現するには立派すぎるとすれば、それは理念そのものにいたらないところがある。プラトンの国家が幻であるとすれば、それはその国家をうけいれるほどには人類が立派ではないからではなく、立派に見える国家が人類にとって欠けるところがあるからです。

プラトンをうまくヘーゲル化できなかったので、面倒くさくなって滔々と自説を開陳したということだろうか。

 アリストテレスも『エンチクロペディ』に準じた論じ方をしているが、こちらはプラトンの条よりも無理がなく、説得力があるように感じた。

 「第二編 独断主義と懐疑主義」と「第三編 新プラトン派」は読んだことのない哲学者ばかりだが、発展ストーリーにうまくはまっていると思った。専門家の評価は別かもしれないが。

 中巻を読むのは骨だったが、下巻は一番面白かった。まず、目次。

第二部 中世の哲学

はじめに

第一篇 アラビアの哲学
  1. 議論派の哲学
  2. アリストテレスの注釈家たち
  3. ユダヤ人の哲学者たち

第二篇 スコラ哲学
  1. スコラ哲学とキリスト教の関係
  2. 歴史的概観
  3. スコラ派全体の一般的立場

第三篇 学問の復興
  1. 古代研究
  2. 哲学独自のこころみ
  3. 宗教改革

第三部 近代の哲学

はじめに

第一篇 ベーコンとベーメ
  1. フランシス・ベーコン
  2. ヤコブ・ベーメ

第二篇 思考する知性の時代

第一章 形而上学の時代

  1. 第一部門(デカルト、スピノザ、マルブランシュ)
  2. 第二部門(ロック、グロティウス、ホッブス、カドワース、プーフェンドルフ、ニュートン)
  3. 第三部門(ライプニッツ、ヴォルフ、通俗哲学)

第二章 移行期

  1. 観念論と懐疑主義(バークリー、ヒューム)
  2. スコットランド派の哲学(リード、ビーティ、オズワルド)
  3. フランスの哲学

第三篇 最新のドイツ哲学
  1. ヤコービ
  2. カント
  3. フィヒテ
  4. シェリング
  5. むすび

 「第二部 中世の哲学」の「はじめに」では原罪の意外な解釈が出てくる。ヘーゲルは「人間が生まれつき悪だ」というのは苛烈すぎるとし、こう述べている。

 原罪の観念をわたしたちのことばでいえば、人間のうまれつきの素朴なありかたは、神を前にした本来のありかたとはちがうもので、本来のありかたを実現しなければならないことが、まさに原罪を負っていることです。

 まさか智慧の林檎を食べたのは人間の本来の姿からの逸脱だと言っているわけではないだろうが、思いきったことを言うものだ。

 「第一篇アラビアの哲学」は固有名詞の羅列で終わっているが、近世西洋哲学の発展がアラビア哲学に負っていることをいち早く認めていたことだけでも評価すべきかもしれない。

 「第二篇スコラ哲学」では形式論理に終始したスコラ哲学を徹底的に罵倒しているが、注目すべきはスコラ哲学を生んだのはゲルマン民族の民族性だとしている点だ。ヘーゲルは自らもその一員であるゲルマン民族の野蛮さをこきおろすが、そこには後段につながる伏線が仕こまれている。

 この民族[ゲルマン]のうちには無限の苦痛、途方もない苦悩がうずまいていて、そのありさまは十字架上のキリストにも比すべきものです。かれらはこのたたかいをもちこたえねばならなかったので、たたかいの一面をなすのが哲学ですが、最初は外からおそいかかった哲学が、やがて精神の内部に位置づけられる。この未開民族は野蛮な鈍感さをしめしつつも、心や心情には深いものがあって、そこに精神の原理がはいりこむと、精神と自然のたたかいがどうしてもはげしい苦痛をもたらさないではすまない。

 ゲルマン民族が内包し、苦しんでいた矛盾から宗教改革と近代哲学が立ち上がってきたという見立てがヘーゲルの哲学史の肝になっているようである。

 野蛮で愚鈍だが、内心に敬虔な魂をもったゲルマン民族の代表者としてヘーゲルが最大の評価をあたえているのはベーメである。ベーメは「はじめてのドイツの哲学者」とされ、ベーコンやデカルトと同格かそれ以上に重く位置づけられている。Ich(わたし)と Nichts(否)にひっかけた Ichts という造語を堕天使ルチフェルとからめて考察した条は鬼気迫るものがあり、シェリングの『人間的自由の本質』に通ずるものがある。

 デカルトのことは千年の迂回の後に「哲学の土台をあらたにつくりだした英雄」と持ちあげているが、主体への回帰を評価しているだけで本心ではそんなに買っていないのではないか。

 意外だったのはスピノザに対する冷たい扱いである。近代哲学の中心に位置するとか、スピノザ主義にあらずんば哲学にあらずと書きながら、冷たく突きはなした書き方になっていて、ベーメに対する熱っぽい語り口とは対照的である。

 デカルトやスピノザに較べれば、英国の経験論者の方が共感をこめて語られている。ヘーゲルはベーコンを思いのほか買っているし、ロックに対しては罵詈雑言を浴びせる一方で個体性への注目を評価している。デカルトやスピノザが独断論的なのに対し、ベーコンやロックは外物にぶつかり、格闘し、乗り越えるという「経験」を重視しているからだろう。

 「第三篇 最新のドイツ哲学」はカントからフィヒテ、シェリングにいたるドイツ観念論を論じており、ヘーゲル哲学史の白眉というべき部分である。勝利者の傲慢さか、はっきり言って上から目線で書いている面がなきにしもあらずだが、先輩哲学者に真剣勝負を挑んでいて、思想のドラマの大団円をみる思いがする。

→上巻を購入

→中巻を購入

→下巻を購入

『年表で読む哲学・思想小事典』 フォルシェ- (白水社)

年表で読む哲学・思想小事典 →bookwebで購入

 哲学史関係の記事を年代順にならべた「読む事典」で、紀元前2300年頃のエジプト神学の誕生からドゥルーズ=ガタリの最後の共著『哲学とは何か』(1991)までをカバーしている。

 書店で本書を手にとった時、たまたま開いたのが529年にユスティアヌス帝がアカデメイアを閉鎖させた記事だった。そこにはこうあった。

 この年は古代哲学が終わりを告げる象徴的な年となる。
帝国のまとまりを維持するためには、宗教的統一が必要であった。そこで皇帝は、反キリスト教的なギリシア哲学者たちに対して教育活動を禁止した。彼はギリシアの方々の哲学学校を閉校させ、その後それらの財産を没収した。
ダマスキオス、シンプリキオス、エウラミオス、プリスキアノス、ヘルミアス、ディオゲネス、イシドロスといった六人の哲学者たちはペルシアに亡命し、五三二年にはメソポタミアのハランに定住した。この地はその後、イスラーム文化に対する〔ギリシア哲学の〕中継基地の役割を果たすことになる。

 6世紀にアカデメイアが900年余の歴史を閉じたことは知っていたが、それがユスティアヌス帝の哲学禁止令の一環であり、アカデメイア以外の哲学学校も閉鎖されていたとは知らなかった。しかも哲学者たちがペルシアに亡命してイスラム圏に哲学を移植したことまで書いてある。これは「買い」だと思った。

 原著はフランスのクセジュ文庫から古代・中世篇と近代篇の二分冊で出ているが、日本版は一冊にまとめ、堅牢なハードカバーで出た。値段ははるが、手もとにおいて長く使うにはこの方がありがたい。

 西洋哲学だけでなく、東洋やイスラム圏、ビザンチン圏の思想・宗教上の事件や世界史的な事件も載っている。ぱらぱらめくって拾い読みしていたが、面白くてつい何ページもつづけて読んでしまう。たとえば、アナクシマンドロスが謎めいた言葉を書きつけた頃、ペルシアではゾロアスター教が開教され、イスラエルでは第二イザヤの「主の僕の歌」や『ヨブ記』が書かれていた。中国で孔子が諸国を遊説していた頃、ギリシアではアイスキュロスやソフォクレスが悲劇を書いていた。ストアのゼノンがストア派を創始した頃、アレクサンドリアでは図書館の建設がはじまり、七十人訳聖書が翻訳されつつあった。

 錯覚にも気づかせてくれる。ストア派は普通の哲学史だとエピクロス派とこみでオマケのように語られるだけだが、本書にはストア派関係の項目が頻出し、紀元前3世紀から紀元後2世紀まで500年以上つづいた一大思想運動だったことがわかる。

 新プラトン派は教父哲学の前が定位置なので、プロティノスはキリスト教以前の人のように思いこんでいたが、なんとオリゲネスよりも後だったのである。ということはグノーシス主義よりもずっと後だ。グノーシス主義は新プラトン派の影響を受けたように書いた本があるが、そんなことはありえないのだ。

 ここで目次を紹介しておく。

第1章 哲学の創始者たち

  1. <始まる>ということの意味の問題
  2. 場所の問題―哲学はどこで始まったのか
  3. 目安となる時代
  4. 年代確定の問題―哲学の重要な創始者たち

第2章 理性の時代


第3章 大転換

  1. 歴史的遠近法による転換
  2. 古代の連続性

第4章 再開と再生の時代

  1. 中世は<暗黒時代>なのか、<未知の時代>なのか
  2. 中世の年代確定の問題―輪郭の揺らぐ中世
  3. 場所の問題―哲学は各地を放浪する

第5章 ルネサンス哲学―実り多いが曖昧な時期


第6章 古典期の哲学


第7章 啓蒙の時代


第8章 十九世紀―哲学と科学


第9章 哲学の二十世紀

 熊野本岩崎本を読んで、発展ストーリーで整理することに疑問をもったが、本書を読んでいくと発展ストーリーが多くの錯覚をうむということがよくわかる。本書は哲学史にありがちな錯覚を避ける上でも役に立つ。

→bookwebで購入

2009年12月30日

『西洋哲学史』 岩崎武雄 (有斐閣全書)

西洋哲学史 →bookwebで購入

 学生時代に読んで感銘を受けた本である。本書は1952年に初版が出て以来、半世紀以上にわたって版を重ねているロングセラーであり、簡にして要を得た哲学史として定評がある。今回、書店で健在なことを発見し、おおと声をあげた。

 本書は1961年と1975年に改訂されているが、1975年改訂では冒頭に「哲学史とは何か」という序論が追加されている。わたしは熊野純彦氏の『西洋哲学史』の感想を書いた際、哲学には発展などということがあるのかという疑問を述べたが、本書の序論はまさにこの問題をあつかっているのである。

 岩崎はヘーゲルによってはじめて哲学史は学問になったと認める一方、絶対精神の展開というヘーゲル流の形而上学を捨て去っても「なおかつ哲学史のうちに哲学思想の展開を見ることができるのみならず、むしろそう見るべきではないかと考える」と断言する。核心部分を引けばこうである。

 哲学者自身がたとえそれ以前の哲学と対決するという意識を持たず、ひたすら自己の思索によって新しい哲学思想を持つにいたったとしても、もしその新しい哲学思想が何らかの時代的意義を持つものでないとしたら、すなわちそれがそれ以前の哲学思想の持つ限界を乗り越えるという意味を持っていないとしたら、それは多くの人々にその意義を認められることはないであろう。そしてまた哲学史のうちに残ることもなく消えてしまうであろう。……中略……私はもとより哲学史上における思想の展開が論理的に必然的なものであったということを主張しようとするものではないが、少なくとも哲学史上に残ってくる哲学はそれ以前の哲学の限界を何らかの意味で越えてゆくという意味を持っているのであり、この意味で哲学史のうちには一貫した思想の展開が存すると考えるのである。

 岩崎の考え方を一言でいえば適者生存説の哲学版になるだろう。後世に残った哲学は残らなかった哲学を「越えている」というが、この場合の「越える」ことは前代の思想を否定しつつ保存することだとは限らない。前代の思想とはまったく無関係な思想が残ったら、それまでの伝統は途切れてしまう。後代の思想がそれまでの思想を内側に保持しつづけないとしたら、単なる流行の交代であって発展とはいえないだろう。絶対精神抜きの哲学史は成立するのだろうか。

 発展史観の問題は釈然としないが、今回岩崎本を読みかえして気がついたことがある。

 まず、目次を示そう。

序論 哲学史とは何か


第1編 古代哲学

第1章 創始期の哲学
  1. ミレトス学派
  2. エレア学派およびヘラクレイトス
  3. ピュタゴラス学派および多元論者
第2章 アテナイ期の哲学
  1. ソフィスト
  2. ソクラテス
  3. プラトン
  4. アリストテレス
第3章 ヘレニズム・ローマ時代の哲学

第1期 倫理時代

  1. ストア学派
  2. エピクロス学派
  3. 懐疑派

第2期 宗教時代

  1. ピロン
  2. 新プラトン学派

古代哲学の概観


第2編 中世哲学

第1章 教父哲学
  1. 護教家
  2. アレクサンドリアの学校
  3. アウグスティヌス
第2章 スコラ哲学
  1. 初期のスコラ哲学
  2. 中期のスコラ哲学
  3. 後期のスコラ哲学

中世哲学の概観


第3編 近世哲学

第1章 過渡時代の哲学
  1. 文芸復興期の哲学
  2. 自然科学確立期の哲学
第2章 17世紀の哲学
  1. デカルト
  2. ホッブス
  3. スピノザ
第3章 啓蒙時代の哲学
  1. ライプニッツおよびヴォルフ
  2. ロック
  3. バークリ
  4. ヒューム
第4章 カントの哲学
第5章 ドイツ観念論の哲学
  1. フィヒテ
  2. シェリング
  3. ヘーゲル
第6章 ヘーゲル以後の哲学

第1期 19世紀前半の哲学

  1. ショーペンハウアー
  2. ヘルバルト
  3. フォイエルバッハ
  4. コント

第2期 19世紀後半以降の哲学

  1. 実証主義的傾向
  2. 批判主義的傾向
  3. 非合理主義的傾向

近世哲学の概観

 波多野精一の『西洋哲学史要』の目次と比較してみるとわかるが、両者はよく似ているのである。新カント派時代の哲学史という大枠が共通している以上、似てくるのは当たり前だが、古代と中世の部分ではドゥンス・スコトゥスの条のように論旨の運びまで似ている箇所があったり、グノーシス主義のように見出しだけで実質的な中味のとぼしい箇所があったりする。

 プラトンとアリストテレスについては掘りさげた考察がおこなわれているが、古代編と中世編のそれ以外の話題については岩崎本は波多野本の強い影響下で書かれたらしい。

 もっとも本書の本領は近世編にあり、とりわけカントからヘーゲルにいたるドイツ観念論を祖述した条は岩崎本の独擅場で、今回読み直して多くを教えられた。ドイツ観念論をこんなにわかりやすく、魅力的に紹介した本は他に思いつかない。

 進化史観できれいにまとまりすぎているという印象はなくはないが、本書は伝統的な哲学史としてはもっとも完成度の高い本ではないかと思う。今後も哲学史の古典として長く読みつがれていくだろう。

→bookwebで購入

『西洋哲学史』上 熊野純彦 (岩波書店)
『西洋哲学史』下 熊野純彦 (岩波書店)

西洋哲学史 上巻
→bookwebで購入
西洋哲学史 下巻
→bookwebで購入

 ヘーゲルは『哲学史講義』の最初の部分で哲学史は単なる私見の陳列室であってはならず、発展する体系でなければならないと述べているが、ヘーゲル的な絶対精神が説得力を持たなくなった今日、発展ストーリーで整理する方がおかしくはないだろうか。

 哲学史ではヒュームの懐疑論に答えるためにカントが超越論哲学を編みだしたとか、カントの二元論を克服するためにフィヒテ、シェリングをへてヘーゲルが登場したというようなストリーが語られるが、ヒュームの提起した問題は本当にカントによって解決されたのだろうか。ヘーゲルの弁証法はカントの二元論を止揚したのだろうか。すくなくともカントによってヒュームが不要になったわけでも、ヘーゲルによってカントを読む意味がなくなったわけではないだろう。

 そもそも哲学の発展などということがありうるのだろうか。もし発展がないなら、歴史上の学説を陳列しただけの哲学史こそが望ましいのではないか。

 熊野純彦氏の『西洋哲学史』を読みながら、そのような疑問が頭に浮かんだ。

 急いでお断りしておくが、熊野氏は哲学には発展はないなどという暴論を主張しているわけではない。熊野氏の本はいい意味で陳列室的な哲学史なので、私が勝手に上記のような妄想をめぐらしただけである。

 熊野本が陳列室的だというのは二つの理由による。まず、新書判で上下巻あわせて500ページという限られた分量なのに、50人近い哲学者を原典のさわりを引用しながら紹介している点。

 概念的な説明だけだったら発展しているように見えたかもしれないが、原典の引用が並ぶと、それぞれが哲学史上の名だたる本だけに存在感が強烈で、とても発展の図式にはおさまりきらないのである。

 第二に学説の紹介にあたり、同時代の文脈から説明するだけでなく、時代を越えた反響にまでふれている点。

 ヘラクレイトスの条ではヘーゲルのヘラクレイトス解釈が引かれているし、古代原子論の提出した真空の問題ではデカルトとガッサンディの真空論争が言及されている。アンセルムスの神の存在論的証明ではデカルトやカント、ヘーゲルだけでなく、フレーゲの二階述語論理まで呼びだされる。ドゥンス・スコトゥスでは「想像的誤読」と断った上でだが、ドゥルーズの存在の一義性をめぐる議論が紹介されている。

 熊野本は一見バランスのとれた優等生的な哲学史に見えるが、中味を読んでみるとスリリングな刺激的な本である。

 ここで目次を紹介しよう。まず、上巻。

古代から中世へ

第1章 哲学の始原へ
タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス
第2章 ハルモニアへ
ピタゴラスとその学派、ヘラクレイトス、クセノファネス
第3章 存在の思考へ
パルメニデス、エレアのゼノン、メリッソス
第4章 四大と原子論
エンペドクレス、アナクサゴラス、デモクリトス
第5章 知者と愛知者
ソフィストたち、ソクラテス、ディオゲネス
第6章 イデアと世界
プラトン
第7章 自然のロゴス
アリストテレス
第8章 生と死の技法
ストア派の哲学者群像
第9章 古代の懐疑論
メガラ派、アカデメイア派、ピュロン主義
第10章 一者の思考へ
フィロン、プロティノス、プロクロス
第11章 神という真理
アウグスティヌス
第12章 一、善、永遠
ボエティウス
第13章 神性への道程
偽ディオニシオス、エリウゲナ、アンセルムス
第14章 哲学と神学と
トマス・アクィナス
第15章 神の絶対性へ
スコトゥス、オッカム、デカルト

 「ハルモニアへ」では万物流転はミレトス学派の共通の前提だという指摘がある。「知者と愛知者」ではソクラテスは「無知の知」を主張したことはなく、そもそも「無知の知」は論理的におかしいという見方が有力だとある。「生と死の技法」ではストア派の論理学の現代性にふれている。

 「古代の懐疑論」はあまりとりあげられることのないマイナーな哲学者の話で面白かった。「神という真理」ではデカルトの方法的懐疑の原型がアウグスティヌスにすでにあると指摘し、さらに時間論について踏みこんだ解説をくわえている。

 「一、善、永遠」はボエティウスを詳しく紹介していて、上巻では一番面白かった。「哲学と神学と」はトマス・アクィナスをあつかった章だが、アリストテレスの『霊魂論』の能動知性説をめぐる論争が興味深かった。「神の絶対性へ」ではオッカムよりもスコトゥスを大きくとりあげている。最近はスコトゥスの方が評価が高いようである。

 次は下巻である。

近代から現代へ

第1章 自己の根底へ
デカルト
第2章 近代形而上学
スアレス、マールブランシュ、スピノザ
第3章 経験論の形成
ロック
第4章 知識への反逆
バークリー
第5章 モナド論の夢
ライプニッツ
第6章 経験論の臨界
ヒューム
第7章 理性の深淵へ
カント
第8章 言語論の展開
コンディヤック、ルソー、ヘルダー
第9章 自我のゆくえ
マイモン、フィヒテ、シェリング
第10章 同一性と差異
ヘーゲル
第11章 批判知の起源
ヘーゲル左派、マルクス、ニーチェ
第12章 理念的な次元
ロッツェ、新カント学派、フレーゲ
第13章 生命論の成立
ベルクソン
第14章 現象の地平へ
フッサール
第15章 語りえぬもの
ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、レヴィナス

 「経験論の形成」ではロックの想定した論敵はデカルトではなく、ケンブリッジ・プラトン主義者だったという指摘し、生得観念やタブラ・ラサ説に話をつなげている。「モナド論の夢」ではライプニッツと易経の関係までふれている。

 「知識への反逆」はバークリー論だが、下巻ではここが一番面白かった。「経験論の臨界」ではドゥルーズのヒューム解釈が俎上に載せられている。

 「言語論の展開」は啓蒙主義時代をあつかうが、よくある百科全書とか英国かぶれといった視点ではなく、当時流行した言語起源論という視点が新鮮だ。バークリー論とともに下巻の白眉だろう。

 「自我の行方」はフィヒテとシェリングをあつかった章だが、この両所よりもマイモンというリトワニア出身のユダヤ人哲学者の方に紙幅をさいている。ドイツ観念論という難物をあつかうにしては分量が短すぎて何がなんだかわからない。もっと詳しい解説が読みたい。

 「理念的な次元」はフレーゲの数学基礎論の仕事にふれている。最後の章の「語りえぬもの」ではハイデガー、ウィトゲンシュタイン、レヴィナスにくわえてデリダまで出てくるが、この長さでは無茶である。

→上巻

→下巻

『エピソードで読む西洋哲学史』 堀川哲 (PHP新書)

エピソードで読む西洋哲学史 →bookwebで購入

 哲学者には奇人変人が多く、紀元前三世紀には珍奇なエピソードを集めたディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』のような無類に面白い本まで書かれたが、本書はもしかしたらその近代版を意識したのかもしれない。堀川哲氏はデカルトから現代のリチャード・ローティまで、30人以上の哲学者の学説と肩の凝らないのエピソードを平明な語り口で披露している。

 もちろん哲学者は最終的には残した著作で判断されなければならないが、本書のようにどうやって食べていたか、どんな学校で勉強したかにこだわって見ていくと、通常の哲学史では切りおとされているものがいろいろ見えてくるのである。

 デカルトはラ・フレーシ学院というイエズス会がやっていた全寮制のエリート校で勉強したが、生来体が弱く、学院長が親族だったこともあって、朝寝坊してよい特権があたえられた。若い頃、軍隊にはいったが、無給士官というお客様待遇だったので、費用一切を自分で賄うかわりに戦闘義務がなく、朝寝坊の習慣もつづけることができた。デカルトは母親から一生困らないだけの財産を受け継いだが、その財産をすべて現金に換え、当時経済大国だったオランダで投資をした。今でいう財テクである。デカルトは朝寝坊の生活をつづけたが、晩年、名声が災いしてスウェーデン宮廷に強引にまねかれ、極寒の地で早起きしなければならなくなった。デカルトはわずか三ヶ月で体調を崩し急逝した。

 デカルトのような財産に恵まれなかった哲学者は若い頃、貴族の家庭教師や大学の私講師で食いつないだが、家庭教師や私講師の生活がどんなものだったかも紹介されている。アダム・スミスは週15時間、カントは週20時間も授業をやっていたそうである。

 18世紀の初版部数は千部が相場だったが、スミスの『国富論』は半年で売りきったのでベストセラーとされたが、ヒュームの『人性論』はまったく売れなかった。ヒュームは真面目な本は売れなかったが、『道徳・政治論集』のような軽いエッセイ集はベストセラーになったという。ディドロが論文ではなく、小説の形で思想を表現したのは本をたくさん売って生活費を稼ぐ必要があったからだった。

 マルクスの妻のイェニーは世界的な家電メーカー、フィリップスの創業者一族につらなる名門の出だったが、マルクスは政治的に過激なので定職につけず、収入がなかった。

 収入もないのにマルクス家の生活は贅沢である。生活水準を落として、労働者階級並の生活で我慢しようなどとはけっして考えない。では、生活費はどうしたか。友人のエンゲルスが面倒をみたのである。こういうのはスピノザと似ている。

 生涯独身で質素に暮らしたスピノザと、お金持ちのお嬢様と結婚し、四人の娘と一人の隠し子をもうけたマルクスを一緒にするのはおかしいが、友人頼みは共通している。本書ではふれられていないが、マルクスもロンドンで事務員になろうとしたことはあった。しかし字が汚いのと計算が不得意だったので採用にはいたらなかった。

 下部構造が上部構造を決定するというマルクスの主張はマルクス自身については当たっているのかもしれない。

 19世紀以降、フランスの名だたる哲学者のほとんどは高等師範学校エコール・ノルマル・シュペリウールという超エリート校(学生は公務員待遇で給料が出る)の出身だが、そのこととフランスの現代思想の反体制傾向が関係していると堀川氏は書いている。

 なぜサルトルもボーヴォワールも、その後の世代の知識人たちにしても、リベラル・デモクラシーでOKとならなかったか、それにはさまざまな理由があるけれど、どうやら一つにはエコール・ノルマル(高等師範)特有の心理もありそうである。彼らは資本主義が嫌いだというよりも、大衆社会が嫌いであるらしいのである。
 サルトルたちもまた民衆が自立した自由で民主的な社会を望むわけである。しかしデモクラシーは実際のところは大衆民主主義というかたちでしか実現されることはない。そこには愚民政治的な要素はあるし、非知性的でだらいのない大衆文化が登場するわけだ。ディズニーランド、援助交際、「ケータイを持ったサル」の世界が登場するのである。これがまあ言ってみれば現実のデモクラシーの社会である。この社会を(吉本隆明のように)基本的に肯定できるかどうか、そこに知識人の真価が問われることになる。

全面的に首肯はできないが、一つの見方ではあるだろう。

 ここで目次を見ておこう。

第Ⅰ部 これがモダンだ(十七~十八世紀)

第一章 機械と神
デカルト、スピノザ
第二章 イギリス人の哲学
ホッブス、ロック、ヒューム
第三章 百科全書派とルソー
ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ルソー

第Ⅱ部 調和の快感(十八~十九世紀)

第四章 モダンの優等生
アダム・スミス、カント
第五章 歴史の哲学
ヘーゲル、マルクス、エンゲルス

第Ⅲ部 歴史の終わり(二十世紀)

第六章 超人と精神分析
ニーチェ、ルー・ザロメ、ハイデガー、フッサール、アレント、フロイト、ウィトゲンシュタイン、ラッセル
第七章 フレンチ・コネクション
サルトル、高等師範学校、ボーヴォワール、メルロ=ポンティ
第八章 コンピュータとDNA
ウィーナー、ドーキンス
第九章 リチャード・ローティのアメリカ
ローティ、チョムスキー、ロールズ

 御覧のようにアダム・スミスやローティに一章があてられるなど英米の哲学者が重視されている一方、ライプニッツ、フィヒテ、シェリングあたりは無視されており、総じてドイツの哲学者が弱い。それは中味についてもいえる

 英米哲学についても認識論で重要なバークリーは落ちていて、ロックやヒュームも認識論の面からではなく、社会契約説の面から評価されている。アダム・スミスがカントと同等か、それ以上に重視されていることからもわかるように、著者の関心は社会論にあり形而上学にはない。ロック、ヒューム、ルソーの社会系約説の比較はとても勉強になったけれども。

 20世紀についても同じで、英米哲学重視といっても、分析哲学にはほとんどふれず、ローティももっぱら社会運動家的側面からとりあげられている。

 面白い本ではあるが、これ一冊だと一面的になりかねない。岩崎武雄の『西洋哲学史』のようなドイツ哲学を中心とした本をあわせ読んだ方がいいだろう。

→bookwebで購入

2009年12月29日

『反哲学入門』 木田元 (新潮社)

反哲学入門 →bookwebで購入

 本書は題名からして『反哲学史』とかぶっているが、中味も完全にかぶっている。異なるのは『反哲学史』が大学の講義を元にしているのに対し、本書は哲学とは縁遠い若い女性編集者に語った録音を原稿に起こし、新潮社のPR誌『波』に連載した点である。『反哲学史』も驚異的にわかりやすかったが、本書はそれ以上にわかりやすい本を目指しているのである。

 結果はどうか?

 わたしの見るところ、デカルト以降は本書の方がいいが、古代・中世をあつかった前半部分は前著の方がよかったと思う。

 急いでつけくわえておくが、本書は前著の二番煎じにならないように、前半部分にも新しい論点が追加されている。ギリシア土着の自然観と日本土着の自然観がよく似ているという指摘は前著にもあったが、本書では丸山眞男の「歴史意識の『古層』」(『忠誠と反逆』所収)に出てくる、世界のさまざまの民族の宇宙創成神話が「なる」「うむ」「つくる」という三つの動詞のどれかに分類できるという説を引き、ギリシアと日本の土着の自然観がともに「なる」系なの対し、プラトンはセム民族の「つくる」系の自然観を持ちこんだとしている。ちなみに西欧の「自然」という言葉の語源となったラテン語の natura は「うむ」系だそうである。

 芽生え生長していく、おのずから「なる」自然から生命力を奪い、「つくられる」自然、材料としての自然に置き換えたところに哲学的思考の本質があるとするのがニーチェにはじまる哲学批判の流れである。

 「なる」「うむ」「つくる」という分類は面白いが、その点を考慮しても本書の前半部分は前著におよばないような感想をもった。前著がそれだけみごとに書かれているからだが、それだけでなく、本書の前半部分はちょっと崩しすぎではないかという印象を受けるのだ。

 一方、近代をあつかった後半部分は本書の方が断然いい。前著は講義が元だけに学期末が迫ってきて駆け足になり、十分展開しきらなかった憾みが残ったが、本書は数学化された自然の成立を実にすっきり説明しており、「主観」と「客観」という言葉が近代にまって逆転した顚末などほとんど名人芸を見る思いがする。

 また最終章は「反哲学」の大成者であるハイデガーにまるまるあてており、「反哲学史」がようやく完結したという手応えをもつことができた(推測だが、木田氏自身、前著の後半部分には満足していなかったので、本書の企画に乗ったということはないだろうか)。

 勝手なことを言うと、前著の1~6章の後に本書の4章以降をつなげ、序文で「なる」「うむ」「つくる」の三類型にふれた本を作れば、最強のハイデガー系哲学史になるのではないか。

 最後に目次を載せておく。

第1章 哲学は欧米人だけの思考法である
第2章 古代ギリシアで起こったこと
第3章 哲学とキリスト教の深い関係
第4章 近代哲学の展開
第5章 「反哲学」の誕生
第6章 ハイデガーの二十世紀

→bookwebで購入

『反哲学史』 木田元 (講談社学術文庫)
『現代の哲学』 木田元 (講談社学術文庫)

反哲学史
→bookwebで購入
現代の哲学
→bookwebで購入

 『反哲学史』は立花隆&佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』(文春新書)で波多野精一の『西洋哲学史要』とともに哲学史の名著として紹介されていたが、すごい本である。こんなにわかりやすく、しかも核心を素手で摑みとってきたような哲学史が日本語で書かれるようになったのだ。

 著者は日本の哲学者には珍らしい波瀾万丈の前半生を送っているが、そのこととざっくばらんな語り口は無関係ではないだろう。

 『反哲学史』という表題はケレンのようだが、決してケレンではない。「反哲学」という言葉を使いはじめたのはメルロ=ポンティだったが、メルロ=ポンティがそのようなことを言いだした背景には「西洋哲学」が決して普遍的な真理ではなく、非常に偏った一種病的ともいえる思考様式にすぎないとするニーチェ以来の「哲学」批判の潮流がある。ハイデガーの「存在の忘却」批判も、構造主義の西洋中心主義批判も、デリダの脱構築も、後期フッサールの「生活世界」への還帰もこの流れに棹さすものといえる。「反哲学」は現代思想の本流なのである。

 著者はプラトン以来の「哲学」とは「この現実の自然の外になんらかの超自然的原理を設定し、それに照準を合わせながらこの自然を見てゆこうとする特殊なものの考え方、思考様式」であり、自然を植物のようにおのずから芽生え生長する「フュジス」としてとらえたギリシア土着の考え方とは異質だと指摘する。科学が自然を死物視する非ギリシア的な「哲学」という思考様式の上に立脚していることは見やすいが、問題はなぜこのような思考様式が生まれたかだ。

 ハイデガーやデリダは「哲学」の起源を秘教的な言葉で語ったが、著者はプラトンがギリシア本来の考え方に逆らって「哲学」を編みださなければならなかった事情をアテネの没落とソクラテスの刑死という時代状況から説明している。自然の内なる生命力を肯定するギリシア土着の考え方にしたがう限り、ポリスのコントロールはできない。ポリスをコントロールし、ソクラテスの刑死のような衆愚政治に歯止めをかけるには世界を被造物ととらえるセム系の考え方に切り替える必要がある。あまりにもわかりやすすぎて拍子抜けしないではないが、なるほどと思う。

 プラトンの編みだした「哲学」はアリストテレスによって一旦はギリシア土着の考え方に引きもどされるが、超自然的原理から自然を説明するという根本は変わることはなく、キリスト教に合流することになる。

 「哲学」は近代の科学革命の流れの中で新たな展開をはじめ、自然を数量化してとらえる力学的自然観となって全世界を席巻するようになった。

 本書は力学的自然観の完成と19世紀末に表面化したそのほころびまでをあつかっている。以下に本書の目次を示す。

第1章 ソクラテスと「哲学」の誕生
第2章 アイロニーとしての哲学
第3章 ソクラテス裁判
第4章 ソクラテス以前の思想家たちの自然観
第5章 プラトンのイデア論
第6章 アリストテレスの形而上学
第7章 デカルトと近代哲学の創建
第8章 カントと近代哲学の展開
第9章 ヘーゲルと近代哲学の完成
第10章 形而上学克服の試み
後期シェリングと実存哲学
マルクスの自然主義
ニーチェと「力への意志」の哲学
終章 十九世紀から二十世紀へ

 第6章までは間然するところのない叙述であるが、第7章以降、駆け足になってテンションが下がったような印象がある。大学の講義を元にした本なので、学期末にあわせて話を急いだのだろうか。そこが本書の唯一の不満である。

 この目次構成を見ると、新田義弘氏の名著、『哲学の歴史』(講談社現代新書)と似ていると思う人がいるかもしれない。どちらもニーチェ以来の「哲学」批判の流れの中で書かれた本なので似てくるのは当然だが、木田氏はハイデガー、新田氏は後期フッサールに依拠しているので、視角はかなり異なる。より深く理解したい人は両著を読みくらべるといいだろう。

 『反哲学史』は19世紀末までしかカバーしておらず、20世紀については『現代の哲学』を読んでほしいとある。そこで読んでみたが、『現代の哲学』は『反哲学史』の単純な続編ではなかった。

 『反哲学史』は1995年刊行だが、『現代の哲学』はそれより四半世紀前の1969年に刊行されていたのである。『現代の哲学』といっても、1969年時点での「現代の哲学」であり、構造主義は最後の章でわずかにふれられる程度、ポスト構造主義にいたっては影も形もない。文章は若書きで今ほどわかりやすくはないし、肝腎の「反哲学」の視点も明確には出てこない。

 『現代の哲学』に『反哲学史』の続編を期待するとがっかりするが、読み進むうちに本書には別のよさがあることに気がついた。

 どのような構成になっているのか、目次を示そう。

序 理性の崩壊
1 20世紀初頭の知的状況
1 科学の危機
2 人間諸科学をめぐる問題
3 現代哲学の課題
2 人間存在の基礎構造
1 事象そのものへ――生活世界への還帰
2 世界内存在(一)――物理的構造と有機的構造
3 世界内存在(二)――シグナル行動とシンボル行動
4 世界内存在(三)――フッサール
5 世界内存在(四)――ハイデガー
6 情動の現象――サルトル
3 身体の問題
1 心身の関係(一)――幻影肢のばあい
2 心身の関係(二)――心身の区別と統一
3 身体的実存(一)――精神盲のばあい
4 身体的実存(二)――シンボル機能の基盤
5 性的存在――フロイト
4 言語と社会
1 言語(一)――話者への還帰
2 言語(二)――ことばのもつ実存的意味
3 言語(三)――ソシュール
4 相互主観性(一)――サルトルとメルロ=ポンティ
5 相互主観性(二)――ヴァロン
6 人間と社会構造――レヴィ=ストロースとマルクス
7 状況と自由――意味の発生と意味付与
5 今日の知的状況
1 マルクス主義哲学の問題(一)――レーニン主義と西欧マルクス主義
2 マルクス主義哲学の問題(二)――人間主義と構造主義
3 構造主義――レヴィ=ストロース、ラカン、フーコー
4 構造と人間

 本書は現象学の視点からというか、身体論の延長で言語を考察した本なのである。メルロ=ポンティは動物行動学や人類学、児童心理学の成果を大胆にとりこみ、ハイデガーもユクスキュルの環境世界論の影響を受けていたが、本書も科学の知見を積極的に参照している。

 構造主義の流行以降、言語を数学的なシステムと見る見方が主流になった。ポスト構造主義は言語=システム観を批判したものの、数学的なシステムにおさまりきらない余剰に注目したにすぎず、言語=システム観から抜けきれていない。

 本書を読んで、メルロ=ポンティ的な身体論から言語に接近する方法は決して古びていないと再認識した。構造主義以後の言語観しか知らない人は本書から得るものが大きいだろう。

→『反哲学史』

→『現代の哲学』

2009年12月28日

『西洋哲学史要』 波多野精一 (未知谷)

西洋哲学史要 →bookwebで購入

 立花隆&佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』(文春新書)で木田元の『反哲学史』とともに哲学史の名著として紹介されていた本である。

 波多野精一は『基督教の起源』(岩波文庫)、『原始キリスト教』(岩波全書)で知られている宗教哲学者だが、本書の評価も高く、現在ではマルクス学者の牧野紀之氏による再話版(現代語訳)が版を重ねている。

 牧野氏の再話がどのようなものか、冒頭部分で見てみよう。まずオリジナル。

 西洋古代の哲學史は殆ど全く希臘哲學史といもいふべきものなり。只アリストテレース以後の時代に於て希臘の哲學思想は羅馬帝國に傳はりて其の人文の一大勢力をなしたるものの、其時すら創始原造の見とては殆ど無く、皆希臘に於て旣に唱へ出でられたるものを或は補充し或は通俗化したるものに過ぎざりき。

 きびきびした躍動感あふれる名文だと思うが、文語体に慣れていない人には敷居が高いだろう。牧野氏はこれを次のように現代日本語に移している。

 西洋古代の哲学史はほとんど完全にギリシャ哲学史と重なる、と言って好いと思います。たしかにアリストテレス以後の時代、ギリシャの哲学思想はローマ帝国に伝わってその文化の一大勢力となりましたが、その時でもローマで広まった思想には独創的な点がほとんどなく、皆ギリシャで既に唱えられたものを補充したり通俗化したりしたものにすぎませんでした。

 オリジナルの断定を「と言って好いと思います」とやわらげている分、躍動感が薄れたような印象があるが、明快な論旨はちゃんと受け継がれている。

 オリジナルは明治34年(1901年)に弱冠25歳だった波多野が書いている。いくら名著の評判が高いとはいえ、100年以上前に25歳の青年の書いたものがどれほどのものかという興味で読んでみたが、面白くてたちまち引きこまれた。

 哲学史は哲学の学説史という視野で完結する傾向があるが、波多野は時代背景を簡潔に紹介した上で、どういう課題に答えるためにその哲学が出てきたかという視点で叙述しているのである。

 ギリシア哲学はギリシア本土ではなく小アジアのギリシア植民都市で生まれたが、それは本土がいまだ未開だったのに対し、小アジアの植民都市は地中海貿易で諸国と交流し商業が栄えていたからだと説明している。プラトンの哲人政治説にしても、プラトンの時代のギリシアは国運衰退期にあたり、政治が乱れていたのであのような理想国家を説いたのだとしている。

 ここで全体の構成を紹介しておく。

古代哲学史

第1篇 アリストテレスにいたる迄のギリシャ哲学
第1章 ミレトス学派
第2章 生成の問題
第3章 生成の説明
第4章 開明時代の哲学
第5章 デモクリトスの唯物論とプラトンの観念論
第6章 アリストテレス
第2篇 アリストテレス以後のギリシャ哲学
第1章 倫理時代の哲学
第2章 宗教時代の哲学

中世哲学史

第1篇 教父時代の哲学
第1章 ニカイア会議以前の時代
第2章 ニカイア会議以後の時代
第2篇 スコラ哲学
第1章 スコラ哲学の発生
第2章 実在論と名目論
第3章 トマスとスコットゥス
第4章 スコラ哲学の衰頽

近世哲学史

第1篇 カント以前の哲学
第1章 過渡時代
第2章 イギリス経験論
第3章 デカルト
第4章 スピノザ
第5章 ライプニッツ
第6章 ロック
第7章 バークレー
第8章 ヒューム
第2篇 カント及びカント以後の哲学
第1章 カント
第2章 フィヒテ
第3章 シェリング
第4章 ヘーゲル
第5章 ヘーゲルの反対者
第6章 ヘーゲル派の分裂と唯物論の勃興
第7章 唯物論の反対者
第8章 一九世紀の英仏の哲学

 アリストテレスを古代哲学の頂点と評価するが、波多野は早くも共通感覚に注目している。

 これらの感覚を統合して事物全体の知覚を作ったり、諸々の感覚器官に共通な事物の関係とか時間的空間的な関係と運動の状態を看取したりするのは中央器官で、これはここの感覚器官とは別に備わります。アリストテレスはこれを「共通感覚」と呼び、その座は心臓にあるとしました。この中央器官にはさらに自覚の働きがありまして、外界の物を知覚するだけでなく、その知覚の働きを知覚する作用があります。外界の刺戟が去ってからも知覚に痕跡が「想像」として残るのはこの中央器官の働きによるのです。この想像が過去の知覚の模像である場合には、それは「想起」となります。

 意外だったのは哲学史では軽視されがちな古代後期から中世にかけての叙述が充実していることである。新プラトン派については「学者の宗教」と断った上でかなり立ち入った紹介をしているし、アウグスティヌス一辺倒になりがちな教父哲学についてはニケア信経確立以前の混乱期について一章をさき、正統信仰を脅かしたグノーシス主義に踏みこんでいる。また、ドゥンス・スコトゥスをトマス・アクィナスと対等に扱っている点も目を引く。1901年の時点でこういう本が日本で書かれていたとは驚くべきことだ。波多野の宗教哲学の本を読んでみたくなった。

 古代篇と中世篇は今読んでも新鮮だが、近世篇となるとちょっと古いかなという印象は否めない。もっとも古さも徹底すると面白くて、「ヘーゲルの反対者」としてヘルバルトとハルトマン、「唯物論の反対者」としてランゲ、フェヒナーといった今日では忘れられた哲学者を挙げている点は興味深い。

 波多野は宗教哲学者として名前が残っているが、本書の隠し味となっているのは宗教哲学とは正反対の唯物史観だと思う。唯物史観一辺倒だと賞味期限切れになるが、唯物史観的な見方を踏まえた上で、それを乗り越えようと努力したことが生気あふれる記述につながったのではないか。

 こういう素晴らしい本を現代に甦らせてくれた再話者の牧野氏には感謝したいが、現代的視点からの注をくわえるのは必要にしても、いささか出しゃばりすぎという印象がなくはない。巻末にマルクス主義についての紹介が再話者によって追加されているが、古色蒼然たる反映論で、百年前に書かれた本篇よりよほど黴臭いのである。

→bookwebで購入