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2009年12月30日

『エピソードで読む西洋哲学史』 堀川哲 (PHP新書)

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 哲学者には奇人変人が多く、紀元前三世紀には珍奇なエピソードを集めたディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』のような無類に面白い本まで書かれたが、本書はもしかしたらその近代版を意識したのかもしれない。堀川哲氏はデカルトから現代のリチャード・ローティまで、30人以上の哲学者の学説と肩の凝らないのエピソードを平明な語り口で披露している。

 もちろん哲学者は最終的には残した著作で判断されなければならないが、本書のようにどうやって食べていたか、どんな学校で勉強したかにこだわって見ていくと、通常の哲学史では切りおとされているものがいろいろ見えてくるのである。

 デカルトはラ・フレーシ学院というイエズス会がやっていた全寮制のエリート校で勉強したが、生来体が弱く、学院長が親族だったこともあって、朝寝坊してよい特権があたえられた。若い頃、軍隊にはいったが、無給士官というお客様待遇だったので、費用一切を自分で賄うかわりに戦闘義務がなく、朝寝坊の習慣もつづけることができた。デカルトは母親から一生困らないだけの財産を受け継いだが、その財産をすべて現金に換え、当時経済大国だったオランダで投資をした。今でいう財テクである。デカルトは朝寝坊の生活をつづけたが、晩年、名声が災いしてスウェーデン宮廷に強引にまねかれ、極寒の地で早起きしなければならなくなった。デカルトはわずか三ヶ月で体調を崩し急逝した。

 デカルトのような財産に恵まれなかった哲学者は若い頃、貴族の家庭教師や大学の私講師で食いつないだが、家庭教師や私講師の生活がどんなものだったかも紹介されている。アダム・スミスは週15時間、カントは週20時間も授業をやっていたそうである。

 18世紀の初版部数は千部が相場だったが、スミスの『国富論』は半年で売りきったのでベストセラーとされたが、ヒュームの『人性論』はまったく売れなかった。ヒュームは真面目な本は売れなかったが、『道徳・政治論集』のような軽いエッセイ集はベストセラーになったという。ディドロが論文ではなく、小説の形で思想を表現したのは本をたくさん売って生活費を稼ぐ必要があったからだった。

 マルクスの妻のイェニーは世界的な家電メーカー、フィリップスの創業者一族につらなる名門の出だったが、マルクスは政治的に過激なので定職につけず、収入がなかった。

 収入もないのにマルクス家の生活は贅沢である。生活水準を落として、労働者階級並の生活で我慢しようなどとはけっして考えない。では、生活費はどうしたか。友人のエンゲルスが面倒をみたのである。こういうのはスピノザと似ている。

 生涯独身で質素に暮らしたスピノザと、お金持ちのお嬢様と結婚し、四人の娘と一人の隠し子をもうけたマルクスを一緒にするのはおかしいが、友人頼みは共通している。本書ではふれられていないが、マルクスもロンドンで事務員になろうとしたことはあった。しかし字が汚いのと計算が不得意だったので採用にはいたらなかった。

 下部構造が上部構造を決定するというマルクスの主張はマルクス自身については当たっているのかもしれない。

 19世紀以降、フランスの名だたる哲学者のほとんどは高等師範学校エコール・ノルマル・シュペリウールという超エリート校(学生は公務員待遇で給料が出る)の出身だが、そのこととフランスの現代思想の反体制傾向が関係していると堀川氏は書いている。

 なぜサルトルもボーヴォワールも、その後の世代の知識人たちにしても、リベラル・デモクラシーでOKとならなかったか、それにはさまざまな理由があるけれど、どうやら一つにはエコール・ノルマル(高等師範)特有の心理もありそうである。彼らは資本主義が嫌いだというよりも、大衆社会が嫌いであるらしいのである。
 サルトルたちもまた民衆が自立した自由で民主的な社会を望むわけである。しかしデモクラシーは実際のところは大衆民主主義というかたちでしか実現されることはない。そこには愚民政治的な要素はあるし、非知性的でだらいのない大衆文化が登場するわけだ。ディズニーランド、援助交際、「ケータイを持ったサル」の世界が登場するのである。これがまあ言ってみれば現実のデモクラシーの社会である。この社会を(吉本隆明のように)基本的に肯定できるかどうか、そこに知識人の真価が問われることになる。

全面的に首肯はできないが、一つの見方ではあるだろう。

 ここで目次を見ておこう。

第Ⅰ部 これがモダンだ(十七~十八世紀)

第一章 機械と神
デカルト、スピノザ
第二章 イギリス人の哲学
ホッブス、ロック、ヒューム
第三章 百科全書派とルソー
ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ルソー

第Ⅱ部 調和の快感(十八~十九世紀)

第四章 モダンの優等生
アダム・スミス、カント
第五章 歴史の哲学
ヘーゲル、マルクス、エンゲルス

第Ⅲ部 歴史の終わり(二十世紀)

第六章 超人と精神分析
ニーチェ、ルー・ザロメ、ハイデガー、フッサール、アレント、フロイト、ウィトゲンシュタイン、ラッセル
第七章 フレンチ・コネクション
サルトル、高等師範学校、ボーヴォワール、メルロ=ポンティ
第八章 コンピュータとDNA
ウィーナー、ドーキンス
第九章 リチャード・ローティのアメリカ
ローティ、チョムスキー、ロールズ

 御覧のようにアダム・スミスやローティに一章があてられるなど英米の哲学者が重視されている一方、ライプニッツ、フィヒテ、シェリングあたりは無視されており、総じてドイツの哲学者が弱い。それは中味についてもいえる

 英米哲学についても認識論で重要なバークリーは落ちていて、ロックやヒュームも認識論の面からではなく、社会契約説の面から評価されている。アダム・スミスがカントと同等か、それ以上に重視されていることからもわかるように、著者の関心は社会論にあり形而上学にはない。ロック、ヒューム、ルソーの社会系約説の比較はとても勉強になったけれども。

 20世紀についても同じで、英米哲学重視といっても、分析哲学にはほとんどふれず、ローティももっぱら社会運動家的側面からとりあげられている。

 面白い本ではあるが、これ一冊だと一面的になりかねない。岩崎武雄の『西洋哲学史』のようなドイツ哲学を中心とした本をあわせ読んだ方がいいだろう。

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