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2009年10月26日

『自壊する帝国』 佐藤優 (新潮文庫)

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 佐藤優氏は1987年にロシア語研修のためにモスクワ大学言語学部に留学した後、そのままモスクワに在勤する。途中、中断はあるが、モスクワ勤務は1995年まで7年8ヶ月にわたる。この間、1991年のソ連崩壊やエリツィン政権の成立があった。異例の長期モスクワ勤務は著者がつくりあげた人脈が必要とされた結果だろう。

 クレムリン内部だけでなく、独立派にまで人脈をもっていた著者が現場で目撃したソ連崩壊のドキュメントというだけでも重要だが、著者はソ連崩壊のような歴史的事件になると政治学や経済学では間にあわず、哲学や神学のレベルで受けとめる必要があると書いている。本書は思想の問題としてソ連崩壊を考えようとしているのである。自己の経験を思想レベルに昇華しようという努力が本書の特質となっている。

 著者がソ連=ロシアと係わるようになったのも神学がらみだった。著者は学部と大学院を通じて「プラハの春」の理論的指導者だったチェコの神学者、ヨゼフ・ルクル・フロマートカを研究するが、チェコ留学は困難だったので外務省に入省してチェコ語の現地研修を受けることを思いつく。ところが東欧研究から転じた外務省入省者には語学研修を終えるとやめてしまう者がすくなくなかったので、外務省は食い逃げを警戒して、著者をソ連課に配属しロシア語の研修を命じる。

 著者はまず英国陸軍語学学校でロシア語の基本を学ぶが、ここで重要な出会いがある。ロンドンでチェコ語書店「インタープレス」を経営する亡命チェコ人ズデニェク・マストニークの知遇をえたのだ。

 マストニークはBBCのチェコ語放送に係わったジャーナリストであり、チェコスロバキア政府が必要とする理工学書と引換に倉庫に眠っていた発禁本を引きとって西側に流通させていた。彼はこの事業を通じて東側の反体制知識人に人脈を広げ、情報活動にもかかわっていた。著者はマストニークからソ連東欧の知識人とのつきあい方を学び、情報活動のイロハを伝授される。著者が短期間で広い人脈を築くことができたのはマストニークの教えを受けたことが大きいだろう。

 その後、モスクワ大学言語学部で研修を受けることになるが、ソ連時代は西側の外交官に語学力をつけさせないために、教室でフリートークを装ったつるしあげをして学校に来るのが嫌になるように仕向けていたという。

 著者もつるし上げに嫌気がさして言語学部の授業には出なくなるが、代わりに哲学部の科学的無神論学科の聴講を申しこみ、ここでソ連社会の裏側に通じる入口を発見する。

 著者が神学部を選んだのは無神論を研究するためだったが、ミイラとりがミイラになるの喩え通りクリスチャンになった。もともとの興味が無神論だったので科学的無神論学科の門をたたいたのは自然のなりゆきといえよう。

 ところが、モスクワ大学の科学的無神論学科の無神論は建前だけで、実態は宗教哲学の研究拠点だったのだ(ソ連崩壊後は「宗教哲学科」と改称)。そこには19世紀ロシア文学から抜けだしてきたようなロシア・インテリゲンチャの生き残りが集まり、構造主義のような西欧の最新の思想もリアルタイムで研究されていた。もちろん、神学も構造主義もソ連では禁じられていたが、論文の最初と最後にマルクス・レーニンを引用して教条的な批判をやっておけば、真ん中の部分に研究成果を書きこむことはお目こぼしされていたという。

 科学的無神論学科のような危険な学科が許されていたのは共産党内部にロシアの知の伝統を守ろうという知識人がいたからである。

 ソ連では知識人は警戒されていた。ボルシェビキの初期の幹部はレーニンも含めて錚々たる知識人だったが、彼らはスターリン時代にほとんど粛清されてしまった。大学出のインテリは党官僚にはなれても、政治家にはしないというのが暗黙の了解だった。大学出でソ連共産党書記長になったのはゴルバチョフだけだった。

 インテリゲンチャは少数派で警戒される存在だったから、知を尊重する者どうし互いに助けあっていた。著者は科学的無神論学科のインテリゲンチャの信頼を勝ちえることで、ソ連社会の裏側に張りめぐらされたネットワークに乗ることができた。クレムリンの内部からバルト三国の独立派まで、幅広い交友をもつことができたのはそのためだし、八月クーデタの際のゴルバチョフ生存情報という最重要の情報をつかむことができたのもインテリゲンチャどうしの信頼のおかげだった。著者は生存情報を教えてくれた元ロシア共産党最高幹部のイリインにこう問いかける。

「あんな重要な秘密を、僕みたいな西側の、それも下っ端の外交官に教えてくれた理由はなんですか」
「人間は生き死にに関わる状況になると誰かに本当のことを伝えておきたくなるんだよ。真実を伝えたいという欲望なんだ」

 日本は良くも悪くも大衆社会なので知識人っぽい人はいても、階級としての知識人は存在しないが、ソ連時代を経てもロシアには厳然と存在していたわけだ。

 思想やインテリゲンチャの問題を別にしても、本書には現地を知った人だけが書ける貴重な知見にあふれている。ソ連崩壊後、雨後の筍のように誕生したおびただしい民主派政党のあきれた内情や、ジリノフスキープロレスの悪役のようなもので、その反ユダヤ主義は八百長にすぎないという。『罪と罰』の江川卓氏の謎解きで日本でも有名になった分離派がラトビアで密かに命脈をたもっていたというのも驚きである。

 『甦る怪物』は本書の続編でソ連崩壊二部作を構成している。また、『国家の崩壊』は別の視点からソ連崩壊を考察しており、あわせて読むと理解が深まるだろう。

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