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2009年10月31日

『ぼくらの頭脳の鍛え方』 立花隆&佐藤優 (文春新書)

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 分類からいうと読書案内ということになろうが、副題に「必読の教養書400冊」とあるように、すぐに役に立つ本ではなく、教養というか知の基礎体力をつけるための指南書である。

 同じ方向の本としては立花氏の東大での講義をまとめた『脳を鍛える』や週刊文春の「私の読書室」をまとめた三冊の読書案内がある。まだ読んでいないが、佐藤氏の『功利主義者の読書術』も同じだろう(わざわざ「功利主義」を謳っているのは例によって逆説に違いない)。

 本書には四つの百冊リストが掲載されている。一つは立花氏、佐藤氏の書棚から選んだ百冊で、ざっとみたところ絶版本が半分近くあるのではないか。もう一つは書店で買える文庫と新書から選んだ百冊で、半年ぐらいは注文すれば入手できるだろう。

 この四つのリストをもとに対談が進んでいくが、第二章あたりからどんどん脱線していく。『ロシア 闇と魂の国家』の佐藤氏は猫をかぶっている印象だったが、本書は立花氏が相手なので行儀の悪い話がふんだんに出てくる。

 たとえば佐藤氏は政治の本質は中江兆民のキンタマ酒だという。

佐藤 昔、赤坂の料亭で、鈴木宗男さんの前で「おしめ換えてくれ」とやる東大卒のキャリア官僚がいた(笑)。お腹を出すことによって、政治家に無限の忠誠を誓うんです。若い国会議員でも、「先生の前では隠すものはありません」と言って、素っ裸になって、オチンチンを股にはさんで、山本リンダの「こまっちゃうナ」を歌っている場面も見ました。こういう官僚、政治家たちの姿を見たので、中江兆民のキンタマ酒がやはり政治の本質だと思うんです。

 佐藤氏は外務省幹部から毛嫌いされているようだが、こんな場面を見られていたら煙たくなるのも当然だ。

 喫茶店は陰謀の温床になるのでスターリンはつぶしたが、バルト三国には残っていたので独立運動の拠点になったという話も興味深い。立花氏が今の東京は昔ながらの喫茶店が全滅したが、スターバックスやドトールでは陰謀をめぐらす雰囲気がないとまぜっかえすと、佐藤氏はmixiに喫茶店の機能が移転したのではないかと指摘する。mixiで知りあった人たちがオフで公民館で会合するというのがこれからの陰謀のスタイルだというのだ。

 雨宮処凜氏と勝間和代氏はどうも誤解していたようだ。彼女たちの本にはあいかわらず食指が動かないが、世に言われているほど軽薄な人ではないらしい。意外だったのは土井たか子氏が皇室を認めていたことだ。バカ左翼の典型と思いこんでいたが、現行憲法は欽定憲法の改定という立場であり、護憲にしても九条だけの護憲ではなく、象徴天皇制を定めた一~八条すべての護憲だそうだ。最近、福島瑞穂党首がまともな発言をしていると話題になっているが(鳩山氏や岡田氏があまりにも幼稚なので、それとの比較でましに見えるだけかもしれないが)、社会主義協会ガチガチだった旧社会党を一応社民政党にしたのは土井氏の功績なのかもしれない。

 佐藤氏の事件に懲りて、外務省が有能なノンキャリアが生まれないようにシステムを変えたという話には呆れた。情報活動にあたっていた国際情報局を格下げして人数と予算を減らし、さらに三年ルールを作ってノンキャリアもどんどん動かすようにした。これでは人脈などつくれず、外交戦が戦えるわけがない。実際日本は外交戦に負けつづけているというが、省内秩序と外務省の省益を守るにはこれが一番なのだそうである。

 『国家の罠』に担当検事から役人はほどほどにやっていればいいのだと言われた佐藤氏が「それじゃ外交ができない」と反論すると、「そういうことはできない国なんだよ。日本は」と決めつけられる条があったが、どうも事態はもっとひどいことになっているらしい。日露の要人が会談するとロシア政府の公式ホームページに発言記録が掲載されるが、日本側発言には「通訳されたまま」という断り書きがついていることが多いのだという。これは日本の外交官による通訳のロシア語がひどくて理解不能という意味で、日本語にそのまま訳すと「あんたさん、ロシアの大統領さんだった。あたい、日本の首相だった。そのとき、二人話して、うまくいった。うまくいったのは何? それ、戦略的行動の計画ね」という感じだそうである。

 「通訳されたまま」という断り書きがついているかどうかは多少ともロシア語の知識があればわかるから、この指摘の通りなのだろう。日本はもうお終いだ。

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『ロシア 闇と魂の国家』 亀山郁夫&佐藤優 (文春新書)

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 『カラマーゾフの兄弟』の新訳で一般読書界にも知られるようになった亀山郁夫氏との対談本である。

 亀山氏も佐藤氏も今ではジャーナリズムのスターであるが、もともとロシア語業界というマニアックで狭い世界の住人だけに、『罪と罰』のソーニャの聖書というディープな話題にいきなりつっこんでいく。

 ソーニャがもっていた革装の聖書については故江川卓氏が古い訳だったことをつきとめ、分離派ラスコーリニキィの影響説の傍証としたが、分離派の共同体の中で育った「黒い大佐」ことアルクスニスをよく知る佐藤氏は分離派は動物の革を教会にもちこむことを嫌うから、江川説は無理だと指摘する。そして当時の聖書はいつでも換金できる高価な商品だったので、ソーニャは財産保全か投機のために革装の聖書をもっていた可能性があるとつづける。いざという時のために純金の十字架を身につけておくようなものだろう。

 こういう話にぞくぞくするかどうかで、本書を楽しめるかどうかが決まる。わたしはぞくぞくする方なので舌なめずりしながら読んだが、佐藤氏に実学の知識を期待する人にとっては無用の本かもしれない。

 無用の話をつづける。ソ連時代はインテリにとっては息苦しかったが、庶民にとっては幸福な時代だったらしい。スターリン時代はいつ収容所送りになるかわからない緊張感があり、フルシチョフ時代もその緊張感が残っていたが、ブレジネフ時代になると規律がゆるみ、一日三時間しか働かなくても食うには困らない「甘い腐臭」のただよう社会ができあがる。ウォッカでへろへろに酔った時の陶酔感とか、ユーフォリアの時代とか、貧しい平等とか、両氏はさまざまに形容して思いいれたっぷりに語り、亀山氏にいたっては「あの時代のソ連なら、住んでも悪くない」とまで述べている。

 ブレジネフ時代が一種の「黄金時代」だったことについては『国家の崩壊』に冷静な分析がある。オイルショックの結果、産油国であるソ連には潤沢なオイルマネーがはいるようになったが、ブレジネフ政権は肉とウォッカとパンの価格をひきさげ、国民にたらふく食わせて飲ませる愚民政策をとっていたというのである。愚民政策の時代を本書では手放しで賞賛し、懐かしがっているわけで、両氏ともすっかりロシア人の気分になっているようだ。

 キリスト教の美徳であるケノーシスがロシアでは集団主義と融合して独特の発展をとげているという指摘も興味深い。ケノーシスは「謙遜」とか「へりくだり」と訳されることが多いが、ロシア的なケノーシスに佐藤氏は「他者のための奉仕」、「まこと心」、亀山氏は「おバカさん」という日本語をあてている。欧米人には日本の「神風の精神」は理解不能だが、ロシア人はドイツとの大祖国戦争をケノーシスで戦ったので理解できるというのである。中国や韓国・北朝鮮が靖国に神経をとがらせるのに、同じ隣国でありながらロシアが不問に付しているのはケノーシスのためではないかという。

 本書は佐藤氏の著作の中では密教系に属する本だろう。深い話が読めて満足だったけれども、誤解を招きそうな部分もすくなくない。

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2009年10月30日

『なぜ私は生きているか』 フロマートカ (新教出版社)

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 佐藤優氏が私淑するチェコの神学者、ヨゼフ・ルクル・フロマートカの自伝である。佐藤氏自身が翻訳しているが、佐藤氏の本のようにすらすら読めるわけではない。本文わずか140ページだが、読みきるのに三日かかった。

 本書が読みにくいにはいくつか理由がある。

 まず第一にチェコの歴史・地理を知っている読者向けに書かれていることである。わたしは本文から読みはじめたが、いきなりプロテスタントが山の中に立て籠もる話が出てきて面食らった。よほどチェコに詳しい人でない限り、まず巻末の解説を熟読した上で本文にかかった方がいい。

 第二に自伝とは言い条、具体的な話があまり出てこないこと。生い立ちと経歴にふれているのは最初の30ページだけで、それ以降は抽象的な時代分析に終始している。まるで牧師の説教のようなのだ。

 第三に「プラハの春」に向かう時期に書かれたとはいえ、共産党政権とソ連に対して非常に気をつかった書き方になっていること。留保に留保をかさね何重にも逃げをうっているので、読んでいて苛々してくる。

 たとえば、第二次大戦後のソ連による東欧侵略についてはこう書かれている。

 東ヨーロッパすなわちソ連とのチェコスロバキアの同盟は、私見によるならば、戦前の過ち、戦争の惨禍の不可避の結果であり、ソ連で実現した社会革命の到達目標であった。大戦中のソ連国民の惨禍は筆舌につくし難い。ソ連国民の犠牲者は数えきれないほどである。戦間期にソ連が国際社会から排除されていたことを忘れてはならない。新秩序建設におけるソ連の権利は、ソ連国民が血で払った勝利に基づいている。ソ連は戦争を強いられ、またソ連のエルベ川への進撃は、支配をもくろむ攻撃的傾向から生じたのではなく、生死を賭けた闘争の結果である。さらに、最も困難な危機の際に、チェコスロバキア国民は西欧諸国から見捨てられ、ナチス・ドイツの手に渡されたことを忘れることはできない。

 「支配をもくろむ攻撃的傾向から生じたのではなく」などと書いてあると、バルト併合やポーランド分割はどうなのだと茶々をいれたくなるが、もちろん、フロマートカはそんなことは百も承知のはずである。こういう書き方しかできなかったということはわかるが、それにしてもソ連に気を使いすぎではないか。「赤い神学者」という批判ももっともかと思わないではない。

 真意のとりにくい折れ曲がった文章をたどるのは気分が滅入るが、我慢して読みすすんでいくと、二枚腰のつよさがだんだんとわかってくる。ソ連に迎合しているのは表面だけで、その下には不屈の精神が底光りしているのである。フロマートカはキリスト教のめざすものと共産主義のめざすものは同じであり、キリスト教がやるべきことを怠っていたから共産主義が代わりにやったとくりかえすが、これは迎合すると見せかけて共産主義をキリスト教に呑みこもうとしているのではないか。そう考えると、次の条などは感動的だ。

 教会は、常に動いている信徒の共同体であり、そして信徒は聖なる慈愛に満ちた神に向かってへりくだって行くのである。教会は、人間の強さと弱さのすべての中で、喜びと絶望の中で、人間を忘れたことは決してない。このことによってわれわれは、無防備なところからわれわれを十字架の陰へと導いて下さる方が最終的勝利者であり、今後も最終的勝利者であることを信じることができるのである。

 神学のことはわからないが、共産主義政権と妥協しながらも信念を貫こうとした学究がここにいるということは感得できる。

 こういう人がどんなドストエフスキー論を書いたのだろうか。読んでみたいものである。

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『神学部とは何か』 佐藤優 (新教出版社)

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 「非キリスト教徒にとっての神学入門」という副題がついているが、佐藤優氏が母校の同志社大学で非キリスト教徒の学生に神学に関心をもってもらうためにおこなった講演がもとになっており、神学がいかにおもしろいか、神学部の勉強がいかに役に立ったかが力説されている。あろうことか現存する六つの大学の神学部の入学案内がコラムとして挿入されていて、卒業生の行き先なども書かれている。

 神学部の客引きをはじめたのかと思ったが、そういう面は確かにあるものの、すくなくとも第一章「神学とは何か」に関する限り、学問論として出色の文章となっている。

 最初に「神学は虚学である」と宣言しているのがうまい。「虚学」というのは著者による造語で「見えない事柄を対象とする知的営為」をさし、普通の学問=実学の「実」を土台でら支えるのが「虚」の部分であり、ヨーロッパでは神学部がないと university(綜合大学)を名乗れないとたたみかける。

 著者によると哲学や文学は神学と比べるとまだ「実学」なのだそうである。その証拠として著者は神学の二つの特徴をあげる。「神学では論理的整合性の低い方が勝利する」ことと「神学論争は積み重ねられない」ことである。

 文学は微妙だが、哲学については論理的整合性の高い方が勝つし、三千年にわたってつみかさねられてきた哲学史が厳然と存在する。哲学は間違いなく学問といえる。ところが神学は「論理的に正しい者が負けて、間違っている者が政治的に勝利する」傾向がある上に、同じような論争が数百年周期でくりかえされる。無駄というならこれほど無駄な営みはないだろう。

 神学がそうなる理由を著者は「絶対的な結論が出ない問題について議論している」からだと喝破する。それは神学は真理の探求ではないと言っているに等しい。神学論争とは真理に到達するための論争ではなく論争のための論争であり、神学的思索もまた思索のための思索だろう。しかし、真理を求めない学問に何の意味があるのだろうか。

 著者はだから神学は役に立つと開き直る。人間は有限で、いつかは死ぬ。人生とは何かと考えても、答えは出るはずがない。人生とは何かを考えなければならなくなった時に、答えのない思索をくりかえしてきた神学こそが役に立つというわけだ。

(実にみごとな弁証法で、こういう黒を白といいくるめる技術を身につけるには神学が一番だという見本を見せてくれている。)

 神学の四分類(聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学)が簡潔に紹介してあるのはありがたい。佐藤氏によってにわかに知られるようになった「組織神学」とは言語学における共時言語学のようなものらしい。

 第二章「私の神学生時代」の最初と最後は『私とマルクス』と『自壊する帝国』の二番煎じでどうということはないが、真ん中の部分はボンヘッファー、カール・バルト、フロマート力という現代を代表する神学者の仕事を紹介していて勉強になる。ナチスが「ドイツ的キリスト者」という国家教会運動を推進していたとか、興味の引かれる話が出てくる。

 第三章「神学部とは何か」は神学業界の話で、これがおもしろい。

 前半は欧米の、後半は日本の業界事情で、全共闘運動以降、日本の神学は聖書神学一辺倒になり、組織神学が著しく縮小したことを「神学が本来持っていたはずの大事なものを落としてしまった」と批判している。

 部外者もそれは感じている。田川健三氏の影響が大きいと思うが、非キリスト教徒の目にはいる神学書は聖書神学の本ばかりで、組織神学という分野があることを佐藤氏の本ではじめて知ったという人は多いと思う(わたしもその一人だが)。

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2009年10月29日

『野蛮人のテーブルマナー』 佐藤優 (講談社)
『「諜報的生活」の技術』 佐藤優 (講談社)

野蛮人のテーブルマナー
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「諜報的生活」の技術
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 昨年8月に休刊した若者向け雑誌「KING」の連載を二冊にまとめた本である。佐藤優氏は右から左まで来るものは拒まずで仕事を引き受けていると聞くが、こんな軟らかい雑誌にまで書いていたのである。

 中味であるが、エッセイの回と座談の回がある。エッセイの回は女にもてるにはどうしたらいいかとか、ビジネスで出し抜くにはという切口で味つけがしてあるが、大体が二番煎じ、三番煎じである。ネタの使い回しだが、「KING」の読者にとってははじめて読む話だったはずで、若者への啓蒙は日本の国益にかなったことだろう。

 『野蛮人のテーブルマナー』だが、エッセイは時間の無駄でも座談は面白い。

 まず「AV業界に学ぶ組織論」。対談相手は連載の仕掛人の小峯隆生氏だが、意外に深いことをかたりあっている。AV嬢は賞味期限一年で入れ換わっているが、入れ換わることがAV嬢本人にとっても、AV業界にとってもプラスなのだという。一人のAV嬢が不世出のスターになると癌細胞化してしまい、AV業界を駄目にしてしまう。これは官僚機構にもいえて、アメリカの大統領制は官僚機構が癌細胞化するのを防ぐ仕組なのだそうである。

 鈴木宗男氏との「外交は究極のビジネススクール」という対談では次の発言が面白かった。

佐藤 終身雇用のよかった点は、年功序列だから組織として生き残るという発想があった。しかし、新自由主義の下ではチームとして強くなったら自分が楽になるという発想がないから、後輩を育成することもしない。後輩を育てればライバルとなり自分の身が危うくなる、と考えてしまう。さらには自分を守るには、他の社員の足を引っ張ればいい、となってしまう。

 河合洋一郎との対談ではCIA設立に係わった人物を主人公にした映画『グッド・シェパード』を俎上にのせているが、主人公の息子がピッグス湾の情報を漏らしたというのは目くらましだという情報のプロならではの見方を披露している。

 『「諜報的生活」の技術』のエッセイ部分は体系的に書こうとしていて、前著よりはいい。Osint(文書諜報)を解説した回では鈴木琢磨氏の『テポドンを抱いた金正日』を文書諜報の傑作と賞賛している。

 連載の最終回では組織が駄目になった時の徴候が具体的に書かれている。電話が鳴っても誰もとらなくなり、電話をとっても官職や氏名を名乗らなくなるのだそうである。もしかしたら休刊間際の「KING」編集部のことを暗に言っているのかもしれない。

 こちらの座談部分では鈴木宗男・田中森一・筆坂秀世という脛に傷をもつ大物が顔をそろえた座談会が豪華である。佐藤氏は筆坂事件は共産党が階級政党から国民政党へ脱皮する過程で起きたと分析する。簡単にいうと労働者たたきあげの幹部が新世代の党官僚には鬱陶しかったわけである。

 裁判官は法廷の供述より検事調書の方を高く評価するそうだが、そんなことになっているのは日本人は人前では本音を言わず、密室でなら本当のことを喋るというコンセンサスが法曹界にあるからなのだそうである。

 本書で一番読みごたえがあったのは村上正邦との対談である。村上氏はKDD事件で「国策捜査」の対象となり、74歳にして実刑判決を受けたが、逮捕前に議員辞職をしたために検事はやりたい放題だったそうである。『国家の罠』では担当検事は紳士的にふるまっていたが、あれは佐藤氏が休職中の国家公務員だったかだ、無位無官の人間に対しては検事は無礼かつ卑劣になるのだそうだ。

 筆坂氏との「歴史の見方が変わる諜報的読書術」では『蟹工船』をとりあげていて、若者に受けていそうな部分が具体的に指摘されているが、わたしにはどこがおもしろいのかわからない。この対談で面白かったのは日本共産党が共産主義社会は「21世紀の早い時期」に実現すると宣伝していることに対する以下のコメントだ。

筆坂 不破哲三さんが僕に言ったことがありますよ。「21世紀の早い時期」だから「まだ50年ある」とね(笑)。

 AV女優の夏目ナナとの対談では厳格なワッハーブ派を国教とするサウジアラビアの王族が買春できるからくりを解説した部分が面白かった。イスラムでは妻は四人もてるが、あえて三人だけにしておいて、四人目は売春婦と「時間結婚」するのだそうである。

 『国家の崩壊』で理論的に語られていた「ユーラシア主義」について「世界帝国はあきらめ、ヨーロッパと手を結んだ地域帝国を目指すこと」とAV女優にもわかるようにまとめていた。

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『国家の崩壊』 宮崎学&佐藤優 (にんげん出版)

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 突破者こと宮崎学氏が主宰する研究会で、ソ連崩壊について佐藤優氏が八回にわたって講演した内容をまとめた本である。毎回、宮崎氏の前ふりがあり、それに答える形で話がはじまるが、宮崎氏の部分はピントが呆けており無視して差し支えない。

 ソ連崩壊前後については『自壊する帝国』と『甦る怪物 』という重量級の本があるので、どうせ二番煎じだろうと書店でぱらぱらめくってみたが、両著にない話が散見するではないか。これはと思って読んでみたところ、読んで正解だった。

 『自壊する帝国』と『甦る怪物』は回想録であり、自分が見聞したままを地べたを這いまわるような虫の視点に徹している。混乱の現場に手持ちカメラで突っこんでいくような迫力があるが、引いた視点をあえて避けていたのか、全体像が見えにくい憾みがあった。

 本書ではレーニンからプーチンにいたるソ連=ロシアの歴史、とりわけ民族問題の歴史が鳥瞰されている。地を這う虫の視点から、突然、大空から見下ろす鳥の視点に切り替わったようなもので、既読の話題が出てくると、あれはそういう意味だったのかという知的なカタルシスがある。

 西ウクライナのガリツィアがソ連崩壊の発火点となったことは『甦る怪物』で詳しく解説されていたが、本書にはヤコヴレフ政治局員がらみの因縁話が出てくる。理性の奸知というか、なんとも皮肉な話である。

 本書にあって回想録二部作にない話柄としては行儀の悪い話がある。佐藤氏の回想録に登場するのはロシア・インテリゲンチャの最良の部分なので、行儀の悪い話はあまり出てこない。独立派のバリケードの中で乱交がおこなわれていたとか、最優秀の女子学生がマフィアの情婦になったとか、リガのサーシャが高校時代に恩師の女教師と男女の関係になり、同棲をはじめたといったエピソードが出てきても、魂に訴える悲しい話として語られているので行儀が悪いという印象にはならなかった。

 それに対して本書には行儀が悪いというか、ぶっちゃけた話がどんどん出てきて、その面でもカタルシスがある。本書では労働者やマフィアが生き生きと描かれているが、一番面目をほどこしたのはエリツィンである。

 回想録二部作に登場したエリツィンは、著者と直接のつきあいがなかったせいか、人間味がほとんど感じられなかった。本書ではエリツィンは「地頭のいい男」として魅力的に描かれていて、ゴルバチョフのようなええかっこしいが負けるのは当たり前と思えてくる。

 本書の後半ではソ連=ロシアに底流するユーラシア主義に紙幅がさかれているが、それに関連してスターリンの再評価がおこなわれていることも注目したい。スターリンの本は一冊も読んだことがないが、意外にもレーニンに匹敵するインテリだったらしい。スターリンの本は今では入手が難しいが、なかなか面白そうである。

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2009年10月28日

『甦る怪物 ― 私のマルクス ロシア篇』 佐藤優 (文藝春秋)

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 表題からすると『私のマルクス』の続編のようだが、実際は『自壊する帝国』の続編である。

 前著は歴史の現場に立ち会った人の証言として圧倒的な迫力があったが、本書では崩壊の必然性が本格的に考察されるとともに、崩壊の瓦礫の下からせりあがってきたロシアの底力が描きだされている。表題にいう「甦える怪物」とは新生ロシアにほかならない。

 本書はソ連崩壊の翌月、モスクワ大学哲学部宗教史宗教哲学科(かつての科学的無神論学科)のポポフ助教授からプロテスタント神学の講義を依頼されるところからはじまる。

 哲学部というと日本の感覚では浮き世離れした変人の集まりという印象だが、ソ連では最優秀のエリートを養成する学部だった。ソ連では政治学はブルジョワの学問として禁止されていたので、科学的共産主義学科が西側でいう政治学科に相当し(ソ連崩壊後に政治学科に改称されている)、共産党エリートの登竜門となっていた。著者と関係の深い科学的無神論学科は発禁書にアクセスすることができるので非常に倍率が高く、優秀な学生が集まっていたという。

 逆に法学部は卒業してもうまみがないので(ソ連時代、弁護士には離婚訴訟くらいしか仕事がなかった)、成績の悪い学生がいくところだった。ゴルバチョフは法学部の出身である。

 本書の前半は「プロテスタント神学」を受講した教え子たちの物語である。学生だからといって侮ってはいけない。著者の授業にはソ連崩壊を象徴するような「濃い」学生が集まっていたのである。

 たとえば、アフガン帰還兵のアルベルト。著者はアルベルトを通してアフガン戦争の実態をはじめて知るが、われわれ読者にとっても衝撃的な内容である。

 また、核開発の拠点となっていた秘密閉鎖都市出身のナターシャ。彼女の父親は核物理学者で特権階級の暮しをしていたが、ソ連崩壊で収入と誇りをなくし、人格が壊れていった。彼女は著者の依頼する翻訳の仕事で一家を支えつづけるが、それでは追いつかなくなり、研究者の道をあきらめてマフィアの愛人に身を落とす。

 こういう修羅場をくぐった世代が官僚や政治家となって今のプーチン=メドヴェージェフ政権を支えているのである。

 佐藤氏は月60万円の在外勤務手当のうち、千ドルで学生にアルバイトを依頼したり教材を無料で配布したりしたそうだが、実に有効な使い方をしてくれたと思う。蓄財しか考えない外務省職員が煙たがるわけだ。

 本書の後半は民族学研究所の学者たちとの交友記だが、こちらも学者だと侮ってはいけない。ソ連では表向きは民族問題は解決したことになっていたが、崩壊後の混乱で明らかなように解決などしておらず、もっともデリケートな問題だった。当然、少数民族に関する情報が集積している民族学研究所は、ソ連時代、西側の外交官は絶対に近づけない聖域で、ソ連崩壊後も研究所出身者が民族政策を策定する枢要な地位についた。

 プロテスタント神学の専門家という学者の顔をもつ著者は民族学研究所の門をたたき、一人のインテリゲンチャとして信頼を得て、自由に出入できる資格をあたえられる。

 いりくんだ話なので本書を読んでほしいが、ソ連崩壊の最大の原因は民族問題、それもイスラム問題にあったようである。ソ連にとって致命傷となったアフガニスタン侵攻にしても侵攻せざるをえない事情があり、しかもそれはソ連建国にさかのぼる根深い事情だったのである。

 『自壊する帝国』と『甦る怪物』をつづけて読んで、わたしのソ連=ロシア観は根底から変わった。ロシアは底が知れない。

 なお、『国家の崩壊』はソ連崩壊とロシアの再生を『自壊する帝国』・『甦る怪物』の二部作とは別の角度から考察しており、あわせて読むと理解が深まるだろう。

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2009年10月27日

『私のマルクス』 佐藤優 (文藝春秋)

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 佐藤優氏の思想的自伝である。いくら『国家の罠』がすごい本だからといって、自伝を書くのは30年早いんじゃないかと思ったが、これはこれで腹にこたえる読物になっていた。

 両親の経歴にはじまり、生い立ちから高校時代、同志社大学神学部入学と進んでいくが、そのすべてが「濃い」のである。

 たとえば高校時代。生徒会と文芸部と応援団(!)をかけもちしたというだけでも常人ではないが、高校一年の夏休みにはチェコのペンフレンドを訪ねて東欧の一人旅に出ているし、二年の時には社青同向坂派に加入してマルクス主義文献の学習会に通い、教会にも顔を出している。

 キリスト教とマルクス主義は佐藤氏の思想的バックボーンだが、このミスマッチな組みあわせのルーツは母親にあったようだ。佐藤氏の母は沖縄出身で、第二次大戦中、女学生ながら電話交換手や看護士として軍にしたがい、あわや自決というところまでいったという。戦後、キリスト教の洗礼を受ける一方、後に社会党の県会議員になる兄の影響で熱烈な社会党支持者となる。

 十代にしてキリスト教とマルクス主義という二大思想をかかえこんだ著者は無神論の研究を志し、そういう無茶苦茶なことをやりたいなら同志社の神学部しかないといわれて同志社の門をたたくことになる。

 同志社大学は東京の大学からは想像もつかないくらい「濃い」大学で、「同志社ガラパゴス」と呼ばれているほどだそうである。その同志社の中でもとびきり「濃い」のが神学部だった。

 これまでに読んだ佐藤氏の本はモスクワとか外務省とか東京拘置所といった異世界が舞台だったが、本書は大学が主な舞台となっているのでやけに生々しく、むせかえるような体臭がもわっと襲ってきた。絶対にかかわりあいになりたくないタイプである。

 佐藤氏は神学部自治会が不法占拠位していた「アザーワールド」と呼ばれる研究室にいりびたるが、神学部の教授会はこの不法占拠を黙認していた。

 あるとき野本真也神学部教授が私たちに「神学には秩序が壊れている部分が絶対に必要なんです。だから神学部にアザーワールドのような、既成の秩序にはまらない場所と、そういう場所で思索する人たちが必要なんです」といっていたが、これはレトリックではなく、神学部の教授たちは、あえて通常の規格には収まらない神学生たちの活動場所を保全していたのである。

 理屈はいくらでもつけられるだろうが、要するに血の気の多い学生が集まっていたということである。血の気の多い学生は左翼運動で騒いでいても、最後はクリスチャンになると牧師でもある教授たちは見切っていた。佐藤氏も洗礼を受けて正式のクリスチャンになっている。

 氏のライフストーリーはどうでもいいし、労農派マルクス主義にも興味はないが、面白い知見がそこここにちりばめられている。

 マルクスの文体が三回変わり、『ドイツ・イデオロギー』以降はタルムード的になるというのはその通りだろう。マルクスはアジア的生産様式を低く見ていなかったのに、ソ連の公式イデオロギーは「アジア的」に否定的な意味あいをつけくわえたというのは知らなかった。ソ連のイデオロギー官僚はそういう改変をする一方、アジア的生産様式を評価したメモを全集に収録して、インテリゲンチャとしての使命を果たしているという。

 田川健三と廣松渉については突きはなした見方をしているが、宇野弘蔵には賛辞を捧げている。宇野が労農派の流れから出てきたということもあるが、経済学を純化するために唯物史観を経済学の外にくくり出した理論構成が、キリスト教とマルクス主義を結合するのに具合がいいということもあるようだ。

 著者が学部と大学院を通じて研究対象にし、外務省にはいるきっかけともなったフロマートカと東欧神学に関する記述には力がはいっている。

 西欧ではカトリック内改革運動とされるフス派の運動は、東欧では宗教改革の第一期に位置づけるそうだ。カール・バルトの弁証法神学が19世紀の自由主義神学と連続しているという見方が東欧では当たり前になっているという指摘もへえーである。佐藤氏が訳したフロマートカの自伝を読みたくなった。

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2009年10月26日

『自壊する帝国』 佐藤優 (新潮文庫)

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 佐藤優氏は1987年にロシア語研修のためにモスクワ大学言語学部に留学した後、そのままモスクワに在勤する。途中、中断はあるが、モスクワ勤務は1995年まで7年8ヶ月にわたる。この間、1991年のソ連崩壊やエリツィン政権の成立があった。異例の長期モスクワ勤務は著者がつくりあげた人脈が必要とされた結果だろう。

 クレムリン内部だけでなく、独立派にまで人脈をもっていた著者が現場で目撃したソ連崩壊のドキュメントというだけでも重要だが、著者はソ連崩壊のような歴史的事件になると政治学や経済学では間にあわず、哲学や神学のレベルで受けとめる必要があると書いている。本書は思想の問題としてソ連崩壊を考えようとしているのである。自己の経験を思想レベルに昇華しようという努力が本書の特質となっている。

 著者がソ連=ロシアと係わるようになったのも神学がらみだった。著者は学部と大学院を通じて「プラハの春」の理論的指導者だったチェコの神学者、ヨゼフ・ルクル・フロマートカを研究するが、チェコ留学は困難だったので外務省に入省してチェコ語の現地研修を受けることを思いつく。ところが東欧研究から転じた外務省入省者には語学研修を終えるとやめてしまう者がすくなくなかったので、外務省は食い逃げを警戒して、著者をソ連課に配属しロシア語の研修を命じる。

 著者はまず英国陸軍語学学校でロシア語の基本を学ぶが、ここで重要な出会いがある。ロンドンでチェコ語書店「インタープレス」を経営する亡命チェコ人ズデニェク・マストニークの知遇をえたのだ。

 マストニークはBBCのチェコ語放送に係わったジャーナリストであり、チェコスロバキア政府が必要とする理工学書と引換に倉庫に眠っていた発禁本を引きとって西側に流通させていた。彼はこの事業を通じて東側の反体制知識人に人脈を広げ、情報活動にもかかわっていた。著者はマストニークからソ連東欧の知識人とのつきあい方を学び、情報活動のイロハを伝授される。著者が短期間で広い人脈を築くことができたのはマストニークの教えを受けたことが大きいだろう。

 その後、モスクワ大学言語学部で研修を受けることになるが、ソ連時代は西側の外交官に語学力をつけさせないために、教室でフリートークを装ったつるしあげをして学校に来るのが嫌になるように仕向けていたという。

 著者もつるし上げに嫌気がさして言語学部の授業には出なくなるが、代わりに哲学部の科学的無神論学科の聴講を申しこみ、ここでソ連社会の裏側に通じる入口を発見する。

 著者が神学部を選んだのは無神論を研究するためだったが、ミイラとりがミイラになるの喩え通りクリスチャンになった。もともとの興味が無神論だったので科学的無神論学科の門をたたいたのは自然のなりゆきといえよう。

 ところが、モスクワ大学の科学的無神論学科の無神論は建前だけで、実態は宗教哲学の研究拠点だったのだ(ソ連崩壊後は「宗教哲学科」と改称)。そこには19世紀ロシア文学から抜けだしてきたようなロシア・インテリゲンチャの生き残りが集まり、構造主義のような西欧の最新の思想もリアルタイムで研究されていた。もちろん、神学も構造主義もソ連では禁じられていたが、論文の最初と最後にマルクス・レーニンを引用して教条的な批判をやっておけば、真ん中の部分に研究成果を書きこむことはお目こぼしされていたという。

 科学的無神論学科のような危険な学科が許されていたのは共産党内部にロシアの知の伝統を守ろうという知識人がいたからである。

 ソ連では知識人は警戒されていた。ボルシェビキの初期の幹部はレーニンも含めて錚々たる知識人だったが、彼らはスターリン時代にほとんど粛清されてしまった。大学出のインテリは党官僚にはなれても、政治家にはしないというのが暗黙の了解だった。大学出でソ連共産党書記長になったのはゴルバチョフだけだった。

 インテリゲンチャは少数派で警戒される存在だったから、知を尊重する者どうし互いに助けあっていた。著者は科学的無神論学科のインテリゲンチャの信頼を勝ちえることで、ソ連社会の裏側に張りめぐらされたネットワークに乗ることができた。クレムリンの内部からバルト三国の独立派まで、幅広い交友をもつことができたのはそのためだし、八月クーデタの際のゴルバチョフ生存情報という最重要の情報をつかむことができたのもインテリゲンチャどうしの信頼のおかげだった。著者は生存情報を教えてくれた元ロシア共産党最高幹部のイリインにこう問いかける。

「あんな重要な秘密を、僕みたいな西側の、それも下っ端の外交官に教えてくれた理由はなんですか」
「人間は生き死にに関わる状況になると誰かに本当のことを伝えておきたくなるんだよ。真実を伝えたいという欲望なんだ」

 日本は良くも悪くも大衆社会なので知識人っぽい人はいても、階級としての知識人は存在しないが、ソ連時代を経てもロシアには厳然と存在していたわけだ。

 思想やインテリゲンチャの問題を別にしても、本書には現地を知った人だけが書ける貴重な知見にあふれている。ソ連崩壊後、雨後の筍のように誕生したおびただしい民主派政党のあきれた内情や、ジリノフスキープロレスの悪役のようなもので、その反ユダヤ主義は八百長にすぎないという。『罪と罰』の江川卓氏の謎解きで日本でも有名になった分離派がラトビアで密かに命脈をたもっていたというのも驚きである。

 『甦る怪物』は本書の続編でソ連崩壊二部作を構成している。また、『国家の崩壊』は別の視点からソ連崩壊を考察しており、あわせて読むと理解が深まるだろう。

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『国家の罠』 佐藤優 (新潮文庫)

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 先日、最高裁で有罪が確定した元外務省主任分析官、佐藤優氏の手記である。

 本書は右から左までさまざまな立場の人に絶賛されたベストセラーであり、今さら感があるが、読むタイミングを逃していたので(みんなが読んでいる本を手にとるのは若干抵抗があるのである)、有罪が確定した機会に読んでみた。

 面白いとは聞いていたが聞きしに勝る面白さで、密度の高い文章が550頁つづくのに二日で読みきった。その後も佐藤氏の本を読みつづけ、主要な本を一通り読みおえたので、ここでまとめて感想を書いておきたい。

(一つのテーマでまとめて感想を書くことについて、キャンペーンをやらせているのではないかと「書評空間」事務局に苦情があったそうだが、まったくの誤解である。テーマを決めて感想を書くのは1998年以来ネットでつづけているわたしの流儀なので御容赦いただきたい。選書の方針については拙サイトの10月24日付エディトリアルに述べたので、興味のある方は読んでほしい。)

 著者は同志社大神学部と同大学院を卒業後、外務省にノンキャリアで入省し、崩壊前後のソ連で情報収集に成果をあげたが、本省にもどって北方領土返還交渉にあたった後、鈴木宗男事件に連座して逮捕されている。容疑は背任と偽計業務妨害だったが、著者は「国策捜査」による冤罪だとした。「国策捜査」という言葉は本書によって広まったといってよい。

 本書は基本的に弁明の書なので、背任容疑の対象となったロシア情報の収拾活動の実態や偽計業務妨害容疑の対象となった北方領土の現状、さらには外務省やロシア政界の内情まで踏みこんで語っており、興味が尽きない。

 著者はソ連=ロシアの情報収集で抜群の成果をあげ「異能の外交官」とか「外務省のラスプーチン」と呼ばれるようになるが、この情報収集が世界的なレベルなのである。ソ連時代からクレムリンの奥深に出入できる人脈を作りあげ、八月クーデターではゴルバチョフの生存情報を世界で最も早くつかんでいる。エリツィン政権になるとモスクワ大学で教鞭をとるようになり、エリツィン元大統領の最側近三人のうち二人の信頼を勝ちえて執務室の奥のプライベートルームにまで出入できるようになっている。ソ連崩壊の引金となったリトアニア独立の際には独立派が立て籠もったバリケードの内側と外側の橋渡しをし、独立後、リトアニア政府から独立に貢献した64人の外国人の一人として勲章を授与されている。

 驚くべき話が次から次へと出てくるが、思想レベルに昇華されているので自慢話臭さはない。後に出た本を読むとわかる、そもそも本書に書かれている見聞はほんの一部にすぎず、これでも抑えに抑えて書いているのだ。

 本書の中核部分は512日におよんだ拘置所生活と、そこでくりひろげられた取調検事との攻防である。容疑者と検事の攻防というと『罪と罰』を連想するが、ラスコーリニコフはどう見ても西村検事の方だ。

 わたしは「国策捜査」は著者の造語と思いこんでいたが、実際は特捜部の内部用語のようである。逮捕の当日、著者に「本件は国策捜査だから逃げられない」と言いわたしたのは取調にあたった西村尚芳検事だったのである。

 「国策捜査」について著者と西村検事は迫真の議論を展開するが、西村検事の見解はこうだ。

「あなたを捕まえた理由は簡単。鈴木宗男に繋げる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです」

 国策捜査=国家による冤罪と受けとる人が多いと思うが、西村検事によればそれは違う。

「冤罪なんか作らない。だいたい国策捜査の対象になる人は、その道の第一人者なんだ。ちょっとした運命の歯車が違ったんで塀の中に落ちただけで、歯車がきちんと嚙み合っていれば、社会的成功者として賞賛されていたんだ。そういう人たちは、世間一般の基準からするとどこかで無理をしている。だから揺さぶれば必ず何かでてくる。そこに引っかけていくのが僕たちの仕事なんだ」

 揺さぶれば出てくるということは揺さぶらなければ出てこないということでもある。公訴権の濫用だけでも問題なのに、著者によれば特捜部の検事自身が政治的濫用を認めているわけだ。本当にこんなことを言ったのだとしたら恐ろしいことである(名誉棄損で告訴されていないところをみると、実際にそういう発言があったのだろう)。

 西村検事は国策捜査は時代を変えるために必要と述べているが、これはあくまで著者との応酬の中で作り上げられていった理屈であって、特捜部全体のコンセンサスではないだろう。第三者的にみれば特捜検事は政権トップによる政敵つぶしの片棒をかつがされているわけで、時代を変えるためという名分は後知恵か、汚れ仕事から目をそらすための自己弁護にすぎないのではないか。

 西村検事は著者との関係を保つために、通常では考えられないさまざまな便宜を供与したようである。検事としてやりすぎではないかと思うが、特捜部は西村検事の判断を支持しつづけ、一審では公判もまかせている(筋の悪い事件なので引き受け手がいなかったのかもしれないが)。一段落したところで水戸地検に栄転しているが、自由に腕をふるわせ仕事を評価してくれる上司をもった西村検事を著者は「うらやましい」と書いている。

 文庫のための「あとがき」では、オランダ大使に転出後、外国生活をつづけて逮捕をまぬがれた東郷和彦元欧亜局長が5年ぶりに帰国し、二審で著者の側に立った証言をおこなった経緯が記されている。それはそれで結構なことだが、東郷氏は祖父の代からの外交官でキャリア組だから、ノンキャリアの著者とは外務省のあつかいが違うことも押さえておいた方がいい。

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2009年10月21日

『ルードウィヒ・B』 手塚治虫 (潮出版社)

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 『ル-ドウィヒ・B』は「コミックトム」に1987年6月号から1989年2月号まで連載された未完の長編である。2月号が店頭にならんだ一ヶ月後、手塚治虫は61年の生涯を閉じている。『ル-ドウィヒ・B』は手塚の絶筆作品の一つとなった。

 「コミックトム」は「希望の友」を前身とする創価学会系の子供向け雑誌で、横山光輝は『三国志』を15年、『項羽と劉邦』を5年の長きにわたって連載した。手塚も『ブッダ』を12年間連載している。ベートーヴェンの前半生を描いた『ル-ドウィヒ・B』は『ブッダ』につづく伝記漫画で、もし手塚が長生きしていたらベートーヴェンの全生涯をカバーした大河漫画になっていただろう。

 講談社全集版では二巻にわけて収録されているが、ハードカバー一冊の潮出版版で読んだ。この版では冒頭の七頁がカラーで印刷され、巻末にウィーンのベートーヴェン旧居を訪ねた絵入りエッセイと萩尾望都による解説が付されている。

 ベートーヴェンについては多くのエピソードが伝わっており、伝記作家は材料に事欠かないが、手塚はドラマに緊迫感をもたせるためか、生涯を通した敵役――フランツ・クロイツシュタイン公爵を登場させている。

 『アマデウス』のサリエリのような役回りだが、サリエリは実在の人物であるのに対し、クロイツシュタイン公爵は手塚の創作である。モデルになった人物もちょっと思い浮かばないが、強いてモデルをあげるとしたら仏伝の敵役、提婆達多だろうか(『ブッダ』ではダイバダッタとして登場)。

 『ブッダ』のダイバダッタは逆恨みの権化だったが、フランツ・クロイツシュタイン公爵はそれに輪をかけた逆恨み男である。ルードウィヒという名前の孔雀のせいで母親が死んだと思いこみ、ベートーヴェンの名前がルードウィヒだという理由だけで執拗に意地悪をくりかえすのだ。ベートーヴェンにふりかかる災難はすべて公爵の差し金とされており、難聴になったことまで彼の責任になっている。

 いかにも漫画的なドラマ作りだが、史実のベートーヴェンは嫌みの固まりのような男だったので、これくらい強烈な敵役をぶつけないと読者の共感を呼べないと判断したのかもしれない。

 フィクションの中におなじみのエピソードを巧みに織りこんでいるが、残念なことに終わりに近づくにしたがってストーリー展開がざつになっていく。ハイドンとのからみなどはもっと描き方があったと思うが、手塚には余力が残っていなかったのだろう。

 もっとも病状的に一番きつかったと思われる時期に、クロイツシュタイン公爵家にベートーヴェンを撮影したビデオテープ(!)が残っていたという設定で、コマ割りで見せるという遊びをやっている。手塚はアニメの大作を作る一方で実験的なアニメを作りつづけたが、亡くなる直前の時期でも実験を試みていたのはすごい。

 ベートーヴェンが30歳になり「月光ソナタ」を作曲したところで終わっているが、30歳になってもベートーヴェンは子供のままの顔で描かれている。『ブッダ』でもずっと子供の顔のままで、成道してからやっと大人の顔(老人の顔?)になったが、ベートーヴェンもいずれ大人の顔に描かれたのではないか。それは放蕩者の甥が出てくるあたりだろうか、完全に聴力を失ったあたりだろうか。

 未完で終わったのは残念だが、描かれなかった後半を想像するという楽しみもある。

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『ネオ・ファウスト』1&2 手塚治虫 (講談社)

ネオ・ファウスト1
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ネオ・ファウスト2
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 手塚が三度試みた『ファウスト』の漫画化の最後で、絶筆作品の一つでもある。

 亡くなる前年の1988年1月から「朝日ジャーナル」に連載をはじめ、同年11月11日号で第一部が完結している。一ヶ月あけて12月9日号から第二部にかかったが、第二回で中絶した(講談社版全集下巻は第二部の最後に七頁目までできていた第三回の絵コンテを掲載し、「あとがきにかえて」には同年9月に朝日カルチャーセンターでおこなった講演から本作に関する部分を抜粋している)。

 今回の舞台は学園紛争で騒然としていた1970年の日本だ。ファウストにあたる一ノ関博士は70歳の老学究で、メフィストはヒッピー・ファッションに身を包んだ妖艶な美女である。マルガレーテにあたるまり子は博士の大学の学生で、兄が公安刑事なのに学生運動に心を寄せているが、坂根という得体の知れない助手とつきあっている。

 死の前年に描きはじめられたとは思えないくらい力のこもった出だしで、まり子もメフィストも色っぽく描かれている。一ノ関博士の貫禄もなかなかのものである。

 博士はスト中の大学の研究室で、あと30年生きられたら宇宙の真理を解き明かせるのにと嘆くが、そこにまり子に化けたメフィストが登場し、博士に余命が5分しかない、宇宙の真理が知りたければ今すぐ契約書にサインしろと迫る。

 博士は5分で死ぬなら真理を知ったところで無意味だ、それくらいなら20歳に若返らせろと条件をつける。メフィストは承諾する。

 契約が成立するやメフィストは博士を股にはさんで時間をさかのぼり、博士が20歳だった1920年に向かうが、博士が暴れたために1964年に不時着し、それからすこし先に進んで1958年4月1日に落ち着く。

 1958年4月1日は売春防止法が施行された日である。メフィストは閑散とした赤線に博士を連れていき、最後の稼ぎをしようとする売春婦に老いた身のまま挑ませ、敗北感を味わわせる。老いのつらさを思い知った博士は胎児の黒焼きから作った怪しげな若返りの秘薬を飲み干すが、薬が強すぎたために若返えったはいいが、すべての記憶を失ってしまう。

 こうして20歳に若返った博士は1958年以降の昭和史を別の人間として生きなおすことになるが、別の人間というのが1970年のくだりで登場したある人物で、タイムパラドックスものの趣向をとっている。

 1958年から1970年にかけての日本は高度成長期だったから、いくらでも話を膨らませることができたはずだが、未発に終わった東京湾干拓事業が出てくるくらいで、あっさり1970年までもどってしまう。第一部の後半は明らかにストーリー展開を急いでおり、前半の緻密さがなくなっている。手塚に時間があったら、話がもっと広がっただろう。

 第一部と第二部の間の一ヶ月間のブランクは手塚が胃癌で倒れ、緊急入院した時期にあたるようだ。入院中は危篤状態になったとも伝えられているが、そんな状態にもかかわらず第二部を開始した手塚の漫画に賭ける意欲には脱帽するしかない。

 「あとがきにかえて」には、ギリシャ神話の世界にはいっていく条を地球の歴史を古生代から地球誕生へと遡行していく旅におきかえるという構想が明かされている。この構想が実現していたら『ネオ・ファウスト』は『火の鳥』に匹敵するスケールをもちえたかもしれない。かえすがえすも残念である。

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2009年10月20日

『ライオンブックス(5)』 手塚治虫 (講談社)

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 講談社全集版では「ライオンブックス」シリーズ第五巻として収録されているが、中味は1971年に「少年ジャンプ」に連載された『百物語』である。

 手塚治虫はゲーテの『ファウスト』を三度漫画化したが、『百物語』は二度目にあたる。舞台は江戸時代の東北地方に移され、主人公のファウストは一塁半里という下級武士、メフィストフェレスは娘に化けた妖狐として登場する。一塁半里という名前ははハインリヒ(半里)・ファースト(一塁)の語呂合わせで、変身後は不破臼人ファウストと名乗るようになる。完全に時代劇に換骨奪胎されていて、作品の完成度は三つの中では一番高い。

 物語は勘定方の下っ端の一塁半里がお家騒動に巻きこまれ、切腹させられるところからはじまる。一塁は武士とはいっても剣術はさっぱりの意気地なしで、死ぬのが怖くてたまらず、風神の屏風に「死なないでいいんならタマシイを売ってもいいからよォ」と愚痴る。

 それを聞いていたむく犬が切腹の場に駆けこんでくる。むく犬は一瞬狐の正体をあらわしたかと思うと妖艶な娘の姿をとり、スダマと名乗る。スダマはタマシイとひきかえに三つの願いをかなえてやろうと一塁にもちかける。

 切腹しないですむのだから否も応もない。一塁は「たっぷり人生を楽しむ」、「天下の美女を手にいれる」、「一国一城のアルジになる」ことを条件にタマシイを売る契約を結ぶ。

 あわやのところで命拾いした一塁はイケメンに変身し、不破臼人と名前を変えるが、剣術は弱いままだ。スダマに苦情をいうが、三つの願いに「強くなる」を入れなかったのが悪いと突き放される。

 実の娘に恋されたり、恐山に巣くう玉藻前という女妖怪に精を抜かれそうになったりと不破はバカをくりかえすが、いざかなってしまうと欲望は虚しい。彼は努力をして剣術を修行するようになり、人間的に成長していく。スダマはそんな不破に引かれるようになる。

 修行の甲斐があったのか、物語の大詰では不破は晴れ晴れと腹を切る。不破の骸から抜けだした魂をスダマは一度は抱きとり、いとおしそうに頬ずりするが、最後は悪魔の掟を破って解放してやる。この場面はただただ美しい。

 原作では自分がかつて裏切って絶望の淵に突き落としたマルガレーテの許しがファウストに救いをもたらしたが、『百物語』では修行で煩悩を克服していく不破の姿にスダマ=メフィストがほだされるのだ。

 キリスト教徒は別として一般の日本人には原作が高らかに歌いあげる恩寵は理解の外ではないか。知識としてわかったつもりになっても、腑に落ちることはないと思う。1950年版の『ファウスト』ではとってつけたような救いで終わっていたが、あれがウソであることは手塚自身よくわかっていただろう。

 救いをリアリティのあるものにするために、手塚が選んだのは煩悩と解脱という仏教的な救済譚に換骨奪胎することだった。『ファウスト』の二度目の漫画化を時代劇に仕立てたのは必然だったのである。

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2009年10月19日

『ファウスト』 手塚治虫 (講談社)

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 ゲーテの『ファウスト』の漫画化で、1950年に書下ろし作品として発表された。大人の読む文学作品を漫画にした例はそれまでなく、後の世界名作漫画ブームの先駆けとなったといわれている。

 手塚治虫は『ファウスト』を三回漫画化している。本作と1971年連載の『百物語』、絶筆の一つとなった1988年連載開始の『ネオ・ファウスト』である。ファウストは手塚が生涯追求しつづけたテーマとされている。

 いつかは読もうと思っていて今回ようやく読んだのであるが、有名なエピソードは一応抑えているものの、原作とは別物で、「どこがファウスト?」というのが第一印象だった。これだったら『罪と罰』の方がまだ原作の匂いを伝えている。

 原作ではメフィストは人間に理性をもたせることの是非を神と議論し、理性の権化であるファウストを悪の道に引きずりこめるかどうかという賭を神にもちかけるが、手塚版のメフィストは孫悟空のように天上界で大暴れして捕まり、傲慢の鼻をへし折るために下界に送られる。そんなに力があると思うならファウストを悪の道に引きこんでみろというわけだ。原作はファウストが試される話だったのに、手塚版ではメフィストの力が試される話にひっくり返っている。

 手塚版ではファウストの影が薄い。理由ははっきりしている。ファウストに悪事を犯させないからだ。

 原作では若返ったファウストは酒場で乱暴狼藉をはたらき、清純なマルガレーテを妊娠させ、あろうことか彼女に嬰児殺しの罪をかぶせて獄死させてしまう。そういう裏切りをおこなったファウストが最期はマルガレーテに救われるのである。マルガレーテのエピソードを割愛したら『ファウスト』ではなくなるではないか。子供向けでは刺激が強すぎるということかもしれない。

 ファウストの影が薄い一方で、メフィストは可愛らしい黒犬の姿で登場して大活躍する。手塚は主人公をメフィストに変えているのだ。

 「あとがき」を読んで謎が解けた。手塚はエルショフの原作によるソ連製アニメ『せむしの仔馬』を見て感銘を受け、その影響が決定的だったというのである。

 「せむしの仔馬」の美術デザインの影響が、この「ファウスト」には、かなり顕著にあらわれています。また、設定もかなり「せむしの仔馬」的です。まず、悪魔のメフィストフェレスは、この作品では終始黒犬で登場しますが、原作ではご存知のとおり、最初のくだりにちょいと出てくるだけです。つまり、「せむしの仔馬」のイワン少年と仔馬のコンビネーションが、この作品ではファウストと黒犬という関係になっているのです。ファウストが黒犬にまたがって空を飛ぶところなんか、これはもう完全に「せむしの仔馬」です。

 『火の鳥』も『せむしの仔馬』の影響を受けているそうだし、最晩年には『青いブリンク』として『せむしの仔馬』の再アニメ化にとりくんでいる。手塚が生涯追いつづけたのは『ファウスト』ではなく、『せむしの仔馬』だったということか。

 講談社全集版『ファウスト』には「赤い雪」が併録されている。

 「赤い雪」は1955年に「少女の友」に連載された中編で、赤い雪が降った日に生まれたばかりに魔女あつかいされてきた少女が歌の才能を発揮し、王子様と結婚してめでたしめでたしとなる話だが、ソ連製アニメ『氷の女王』の影響が濃厚である。

 この作品が「ファウスト」に併録されたのはソ連製アニメという括りからだろうと思われる。手塚治虫におけるソ連製アニメの影響はきちんと論じられる必要がありそうだ。

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2009年10月18日

『罪と罰』 手塚治虫 (講談社)

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 手塚治虫は1952年に医師免許を取得してから大阪から東京に居を移し、プロの漫画家として八面六臂の活動をはじめるが、ちょうどその頃、書下ろし作品として執筆したのが本作である。

 ドストエフスキーの漫画化だが、同じ原作ものにてしても1950年の『ファウスト』は当たったのに、こちらはさっぱり売れなかったらしい。

 それでも年齢の高い読者の受けは非常によかったそうで、「これほど学生やおとなの読者から、おほめの言葉をいただいたものはありませんでした」と述懐している。

 世評がいいのは知っていたが、まだ漫画が子供向けの娯楽だった時代に描かれた『罪と罰』はたいしたことあるまいとたかをくくっていた。今回はじめて読んだが、なかなかやるじゃないかというのが第一印象だった。

 長大な原作をたった130ページにまとめたのだから、大胆な省略と改変がおこなわれている。神学的な議論は跡形もなく削られ、ラスコーリコフの葛藤は犯行が発覚するかもしれないというサスペンスに単純化されている。

 はっきり言って原作とは別物だが、首尾一貫した作品になっているのはさすがである。

 ただ、どうしょうもなく古い部分もある。

 原作では悪徳資本家だったはずのスヴィドリガイロフが手塚版では颯爽たる革命家になっており、クライマックスではラスコーリニコフに金持ちの側につくか労働者の側につくか決断を迫り、ついには労働者を扇動して武装蜂起に踏み切る。『戦艦ポチョムキン』のオデッサの階段のようなコマも出てくる。

 最後にラスコーリニコフが群衆から孤立するのは同じだが、原作では魂の問題に目覚めて孤立したのに対し、手塚版では革命についていけない遅れた人間として民衆からはじき出されている。

 ドストエフスキーは『悪霊』で革命家グループを狂信的なテロ集団として描いたが、『罪と罰』でも革命運動に対する懐疑が濃厚である。ところが手塚治虫は『罪と罰』を原作とは正反対の革命礼賛漫画にしているのだ。

 手塚が革命運動を本気で礼賛していたとは思えない。なぜ魂の問題が革命の問題にすりかわってしまったのだろうか。

 推測だが、手塚が革命礼賛のポーズをとった背景には、まだ市民権をえていなかった漫画を一生の仕事として選んだことが関係しているのではないか。当時は左翼全盛時代だったから、革命礼賛のポーズをとっていれば漫画家でも文化人としてあつかってもらえると思ったのではないか。

 そもそも『罪と罰』を漫画化するという無茶な企画自体、漫画をなんとかして芸術として認知させたいという下心が働いていなかったとはいえまい。若い人には想像もつかないだろうが、この作品が描かれたのはそういう時代だったのである。

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2009年10月17日

『雑巾と宝石』 手塚治虫 (講談社)

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 先日、名画座で「襤褸と宝石」という1936年のハリウッド映画を見た。自尊心に振りまわされる男女をコミカルに描いた痛快なコメディで、すっかりファンになってしまった。

 書店の手塚治虫コーナーを物色していると、どこかで見たようなタイトルを見つけた。本書、『雑巾と宝石』である。表紙が洋画っぽいし、ひょっとしたら『襤褸と宝石』の漫画化か。セロファンで中味がわからなかったが、とにかく買ってみることにした。

 読んでみると――1955年から1969年にかけてサラリーマン向け週刊誌に掲載された作品を集めた短編集だった。「あとがき」によると、表題作の「雑巾と宝石」は確かに『襤褸と宝石』の原作小説にあやかったものだったが、手塚が興味をもったのは邦題の「襤褸」と「宝石」という対比だけで、中味はまったくの別物だったのである。

 表題作の「雑巾」はヒロインの地味なOL、「宝石」は男前のスター俳優をあらわしている。普通だったら出会うはずのない二人が交通事故で出会うわけだが、自動車に頭をぶつけると醜女が美人に変わり、男前の俳優が醜男に変わるという設定で行き違いのコメディになっている。美醜にこだわる世間をからかった風刺的な作品である。

 1957年の連載で、手塚としてははじめての「ヤングもの」である。続編を依頼されるほど人気があったそうだが、今読んでどうだろうか。

 表題作以外の感想も簡単に書いておく。

「第三帝国の崩壊」

 1955年に「漫画読本」に発表。「モダンタイムス」風の独裁者風刺漫画。コマ割を使わない実験的な手法が見どころか。

「昆虫少女の放浪記」

 1955年に「漫画読本」に発表。アリに体液を吸わせて共存するアリマキの少女を売春婦に見立て、売春防止法とからめた風刺漫画。

「スター・ダスト」

 1965年に「漫画読本」に発表。UFOが排泄物を地球に落としていくが、その中から宝石が見つかるという星新一にありそうな話。

「日付健忘線」

 1967年に「漫画読本」に発表。国境にこだわる大人をからかった風刺漫画。小島功のお色気マンガをかなり意識している。

「アポロはなぜ酔っ払ったか」

 1969年に「漫画読本」に発表。これも小島功風の色っぽい絵である。奈良林ならぬ奈良森先生に人生相談するという趣向で、ホステスに振りまわされた男の悲哀を描く。

「われ泣きぬれて島と」

 1966年に「漫画読本」に発表。船から身投げした男が絶海の孤島に漂着して生きのびる話に水爆実験をからめている。初期のモンキーパンチの絵柄に似ている。

「やぶれかぶれ」

 1966年に「漫画サンデー」に発表。絶対に墜落しない飛行機を作ったら着陸もできなくなっていた。それをどう着陸させるかに、女性をどう落とすかをからめたギャグ漫画。

「怪談雪隠館」

 1969年に「漫画サンデー」に発表。手塚本人がカンヅメになるために山奥の旅館に泊まるが、そこはアダムス・ファミリーのような化物家族が経営する宿だったというオチ。

 こんな作品まで描いていたのかという驚きがある。劇画誕生以前の大人向け漫画がどんなものだったか知りたい人には貴重な作品集だろう。

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2009年10月16日

『鉄の旋律』 手塚治虫 (講談社)

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 表題作の中編と短編二編を収録した作品集である。

 まず、「鉄の旋律」。「増刊ヤングコミック」に1974年6月から半年にわたって連載されたどろどろの復讐譚である。米原秀幸によって『Dämons』としてリメイクされていることで知られているが、まったく救いがない。

 檀の妹の亜理沙は檀の親友でエディというイタリア系アメリカ人の好青年と婚約する。檀は渡米して盛大な結婚式に出るが様子がおかしい。それもそのはず、エディはマフィアの御曹司だったのである。

 檀はたまたま目撃した殺人事件をFBIに証言するが、ファミリーの係わった事件だったために裏切者と決めつけられる。エディに助けを求めるが、彼は冷たく突き放すだけだ。檀は荒野で両腕をトロッコで切断され放りだされる。

 檀は復讐を誓うが、両腕を失って何ができるというのか。そんな時、彼はスラムでベトナム復員軍人のバーディと知りあう。バーディは両脚を失っていたが、ロボットのような松葉杖のおかげで常人を越えた力を発揮していた。

 驚いたことにその松葉杖は単なる鋼鉄の棒で、何のしかけもなかった。バーディはPK(念動力)で松葉杖をあやつっていたのだ。

 檀はバーディにマッキントッシュ博士を紹介してもらい、死に物狂いでPK能力の訓練を受け、鋼鉄製の義手を自由自在にあやつれるようになる。

 エディと亜理沙はファミリー企業の日本進出のために日本にもどっていたので、檀も彼らを追って日本にもどる。いよいよ復讐にとりかかろうとした矢先、彼が眠っている間に義手が勝手に復讐をはじめたことを知る。彼の潜在意識が知らないうちに義手を動かしていたのだ。鋼鉄の固まりの義手が意識のコントロールをはずれて動きだす恐怖。結末は徹底して暗い。「鉄の旋律」は「鉄の戦慄」でもあるだろう。

 「白い幻影」は1972年に「女性セブン増刊号」に発表された短編。連絡船の沈没でヒロインは恋人の則夫とともに海に投げだされる。彼女は救助されるが、則夫は行方不明になる。

 自分だけ助かったという罪悪感のためか、彼女の目には則夫の最期の姿が焼きつき、幻影を振り払うことができない。彼女は則夫の幻影とともに生きることを選び、独身のまま老境をむかえる。

 ある日、昔の海難事故で記憶喪失になったという初老の男が妻とともに訪ねてくる。唯一記憶に残っている少女を探しているのだという。彼女は心当たりはないと答え、心の中で則夫の幻影に別れを告げる。すべては彼女の一人相撲で、彼女は人生を棒に振ったわけだ。

 「レボリューション」は1973年に「漫画サンデー」に発表された怪談話で人格転換をあつかう。これもまた救いがない。

 『ブラック・ジャック』で復活する前の低迷期の作品だけに三編とも暗いが、このようなところまで突きつめていたから『ブラック・ジャック』のヒューマニズムに奥行が生まれたのではないか。

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2009年10月15日

『奇子』1-3 手塚治虫 (講談社)

奇子1
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奇子2
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奇子3
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 奇子と書いてアヤコと読む。アヤカシのアヤだろう。

 「ビッグコミック」に1972年1月から1年半にわたって連載された長編で、最初の構想では『カラマーゾフの兄弟』のような大河漫画になるはずだったが、ヒロインの数奇な生い立ちを語り終え、いよいよというところで終わっている。未完で終わったのは残念だが、現状でも十二分に読みごたえがある。

 奇子は青森の大地主天外作右衛門の次娘として生まれたが、それは表向きで、本当は作右衛門が長男の嫁のすえに産ませた子供だった。長男の市郎は天外家の財産を独占させるという口約束を信じて、妻を父親にさしだしていたのだ。

 物語は次男の天外仁朗がフィリピンの捕虜収容所から復員してくるところからはじまる。仁朗は収容所で生きのびるために米軍の内通者になったが、復員後もGHQのエージェントをつづけており、労働運動家の殺害に関与する。返り血を浴びた仁朗は血まみれの服を洗っているところを奇子に見られてしまう。

 労働運動家を殺した手口が、その直後に起きた国鉄の下山総裁事件(作中では霜山総裁)の手口と酷似していたことから、警視庁が注目するところとなり東京から刑事が派遣されてくる。

 スキャンダルを恐れた天外家は親族会議を開き、奇子を死んだことにして土蔵の中の座敷牢に閉じこめることを決める。奇子は6歳から23歳までの17年間、座敷牢の中で暮らすことになる。

 一族のどろどろあり、近親相姦あり、政治的陰謀あり、裏社会の駆引ありで、手塚流の劇画路線の集大成の観があるが、『地球を呑む』から4年たっているだけに手塚流の劇画スタイルを確立しており、完成度が違う。

 ヒロインの奇子がエロチックなのである。『地球を呑む』のゼフィルや『人間昆虫記』の十枝子のヌードはダッチワイフのようにしか見えなかったが、成長した奇子はぞくっとするほど色っぽく肌の火照りが伝わってくる。もし続編が描かれていたが、奇子は十枝子以上の悪女ぶりを発揮していたことだろう。

 奇子が十枝子の後身と考えられる理由はもう一つある。一仕事終えた十枝子は故郷の村に帰り、亡母の蠟人形に全裸になって甘えかかるが、亡母はどう見ても老婆の姿であって、母子というより祖母と孫にしか見えない。

 奇子は長男の嫁が産んだ子供なので、戸籍上の母親は祖母の年齢にあたり、しかも十枝子の年の離れた母そっくりなのである。

 十枝子が亡母の蠟人形に甘えるのは胎内回帰願望といっていいが、奇子は座敷牢育ちのために、何か不安なことがあるとすぐに箱の中にはいってしまう。奇子は十枝子に輪をかけた胎内回帰願望の持主なのである。

 手塚はなぜ強烈な胎内回帰願望をもった悪女をヒロインにすえたのだろう。男が胎内回帰願望をもつならわかるが、女性の胎内回帰は珍らしい。

 わたしの妄想かもしれないが、奇子と十枝子は単なる女性キャラクターではなく、手塚のアニマだったのではないか。手塚は自分の傷ついたアニマを癒すために、胎内回帰で元気をとりもどすヒロインを造形したのではないか。

 『奇子』のラストは炭の貯蔵穴というまさに胎内そのものの密室空間が舞台になるが、彼女はここで第二の誕生を経験する。もし彼女が手塚のアニマだとしたら、手塚は傷ついたアニマの再生を描いたのかもしれない。

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2009年10月14日

『空気の底』 手塚治虫 (秋田書店)

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 「プレイコミック」に1968年から1970年にかけて読みきり連載の形で発表した短編を一冊にまとめたものである。『地球を呑む』と同時期の製作で、この後に『人間昆虫記』がつづく。

 大都社版、講談社全集版、秋田書店版の三種類があるが、一番収録作品の多い秋田書店版で読んだ。劇画調の暗い話ばかりで玉石混淆だが、傑作もすくなくない。

「処刑は三時に終わった」

 元ナチス親衛隊の中尉はユダヤ人虐待で処刑されようとしていたが、すこしも動じない。彼はユダヤ人の天才科学者から時間延長剤という秘薬を手に入れており、処刑の瞬間に逃げだせると思っていたのだ。

 ところが、思わぬ計算違いが……。

 切れ味のいい結末だが、想像すると恐ろしい。

「ジョーを訪ねた男」

 南部出身のガリガリの人種差別主義者の大尉が戦闘で重傷を負い、部下の黒人兵の心臓をもらって生き延びる。黒人の心臓で生かされているという事実を隠すために、事実を知っている遺族のところに口封じにいくが、心臓以前に輸血用の血液は黒人が売血した血だと教えられ愕然とする。輸血用の血液を持ちだすところが医学部出身の手塚の面目躍如だ。

「夜の声」

 休日に乞食になって息抜きをする青年実業家が悪漢に追われたユリという少女を助ける。彼女が好きになった実業家は自分の会社であることを隠して、秘書に応募するように勧める。彼は秘書となったユリに結婚を申しこむが……。

 ユリは手塚が初期に描いていた女の子の顔で、いかにも純朴だが、前科者であることを告白した後はほんのちょっとの変更で、蔭のある表情に。

「野郎と断崖」

 妄想を見せるという崖に迷いこんでしまった脱獄囚の話。残虐無道な犯罪者の心の奥底にもやさしい純なものが残っている。

「グランドメサの決闘」

 西部のガンマンの復讐譚が実はもう一回り大きな復讐譚になっていた。西部開拓時代の終わりという時代の変化で、一捻りしたのが効いている。

「うろこが崎」

 公害もののホラーだが、手塚が売春島に興味をもっていたというのが面白い。

「暗い窓の女」

 近親相姦に悩む男が医者の友人に別の人間にしてくれと懇願する。別の人間になれば妹と結婚できるというのだが、そんなことは出来るはずもなく、物語は悲劇に終わる。近親相姦を医学の問題と考えているところが手塚の限界か。

「そこに穴があった」

 敵対する組の人間を殺し、追われているヤクザが不時着した小型機のパイロットを図らずも助けてしまい、時の人になる。復讐を恐れたヤクザは助けたパイロットに高飛びを助けてくれるように頼むが……。

 凛々しいパイロットの変貌がショッキングだ。

「わが谷は未知なりき」

 ウォード・ムーアの「新ロト記」の後日譚のような話。

「猫の血」

 田舎回りの映画興行師が猫神崇拝の村で美しい娘を見そめ、強引に頼みこんで結婚する。彼は妻を近代的な女に教育するために東京に出るが……。

 ヒロインの猫娘が魅力的に描かれている。映画館の中で村人の目が猫のように光る光景を映像化したら不気味だろう。

「電話」

 内ゲバ事件をヒントにした話。漫画好きの赤学派のリーダーのところに、深夜、未知の女性から電話がかかってきてデートに誘われる。

 待ちあわせ場所に行ってみると、待っていたのは凄まじいブス。誘った女性は対立する青学派の女性活動家で、一ヶ月前に死んだといわれる。

 からかわれたと思ったが、また同じ女性から電話がかかり……。

 この時点で、内ゲバを単なるネタに使っているのは珍らしい。主人公の読んでいる漫画がつげ義春だというのが興味深い。

「カメレオン」

 学生運動でゲバ棒をふりまわしながら、卒業したとたん、企業戦士に化ける世渡りのうまい人種を、手のこんだ復讐劇で本当のカメレオンにしてしまう手塚マジック。

「聖女懐妊」

 土星の衛星チタンの基地で一人観測する南川には女性ロボットという伴侶がいた。二人の仲むつまじい暮しはフォボスの刑務所を脱獄してきた囚人たちによって破壊される。南川は殺され、女性ロボットは酷使されるが、彼女の体にある異変が……。

「カタストロフ・イン・ザ・ダーク」

 事故を防ごうと思えば防げたのに、何もしなかった人気DJが罪悪感から自滅する話。

「ロバンナよ」

 一番いい。人里離れた家で妻と暮らす旧知の天才科学者を訪ねる。科学者はロバンナというロバを可愛がっており、ロバンナもなついている。

 病気で出てこなかった妻は深夜、ロバンナを殺そうとする。夫は妻は狂っているといい、妻は夫は動物しか愛せない不能者だという。

 ところが天才科学者はまったく別の真相を告白する。一口にいえば「蝿男」のロバ版だが、ラスト、妻は科学者とロバンナを殺すために家を爆破する。

「二人は空気の底に」

 冒頭、熱帯魚の水槽の中で愛しあっているグッピーの雌雄が、人間の投げいれた煙草の吸殻で死ぬエピソードが語られる。

 核戦争で人類が滅亡した後、全自動の宇宙旅行用カプセルの中で生き残った。

 男女二人の物語はグッピー同様の悲劇で終わる。

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2009年10月13日

『人間昆虫記』 手塚治虫 (秋田書店)

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 「プレイコミック」に1970年から翌年にかけて連載された長編漫画である。講談社版全集では上巻下巻にわかれているが、ハードカバーで一冊本の秋田書店版「手塚治虫・傑作選集」で読んだ。値段は講談社版とほぼ同じだが、造本がしっかりしていて版型がひとまわり大きい。

 十村十枝子という女性が先輩を食い物にしてのしあがっていくという女版ピカレスクである。

 彼女はまず女優として頭角をあらわし演出に手を広げ、グラフィック・デザインで世界的な賞をとり、小説を書いて芥川賞を受賞する。大企業の重役夫人におさまったかと思うと、海外で写真家として名声を博するという具合である。

 彼女は多彩な才能を発揮するが、実は模倣の才能だけでオリジナリティはなく、評価された仕事も先輩の構想段階の作品を盗んだ結果にすぎない。盗まれた方は腑抜けのようになって落ちぶれるか、彼女を恨みながらも崇拝しつづけるか、盗作を言いたてて崇拝者に殺されるか、悲惨な末路をたどる。

 色と慾にまみれたいかにも劇画的な題材を手塚流の丸っこい絵柄で描いているので、かなり異和感があった。

 手塚の絵は少年漫画の時代からエロティシズムが隠し味になっていたが、そこはかとないエロティシズムだったからよかったので、エロスを前面に出すとなると別である。十枝子は一仕事終えると、隠れ家にしている田舎の家で亡母を形どった蠟人形に全裸になって甘えるが、ヌードの絵がさっぱりエロチックではないのだ。1970年前後の手塚は劇画ブームにすりよろうと無理をしていたという見方があるが、この作品については一理あると思う。

 『地球を呑む』よりは劇画が板についてきたが、エロチックな場面はまだ成功しているとはいえないし、十枝子の勝ち誇った表情もどうかなと思う。だが時おり見せる悔しそうな表情や、見捨てられたような空虚な表情は可愛らしくも魅力的である。

 手塚は悪の魅力を描こうとしたが、悪に徹しきれない弱さの部分で十枝子はようやくリアリティをもちえた。ピカレスクものとしては不徹底である。手塚がヒューマニズムの枠を越えるには手塚劇画の最高傑作『奇子』を待たなければならない。

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2009年10月12日

『地球を呑む』1&2 手塚治虫 (講談社)

地球を呑む1
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地球を呑む2
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 今年は手塚治虫の生誕80周年にあたり、江戸東京博物館で「手塚治虫展」があったり、「鉄腕アトム」がハリウッドで「ATOM」としてリメイクされたり、新しい文庫全集の刊行がはじまったりとにぎやかである。

 「手塚治虫展」を見たが、原画の迫力にうなった。線の躍動感と切れ味のよさは印刷ではわからない。しかも高いレベルが晩年まで持続しているのである。

 作品の拡がりもすごいが、展示を見ていてあることに気がついた。1960年代末に青年向けコミック誌が一斉に創刊され手塚も狩りだされるが、この時期の手塚漫画を読んでいなかったのである。中学から高校の頃で漫画離れしていた時期に当たっていたこともある。それだけではなく、このあたりの手塚漫画は低迷していたとされており、当時話題になることがすくなかったこともあるだろう。

 評価が低いにしてもなぜ低いのか気になり、この機会に読んでみた。まずは「ビッグコミック」創刊号から連載のはじまった『地球を呑む』である。

 第二次大戦中、アメリカ兵が南太平洋の島で異世界に迷いこみ、謎の美女に出会うというラファティの「崖が笑った」のような出だしである。「崖が笑った」はまだ訳されていなかったはずだが、ちょっと似すぎている。ハガードの『洞窟の女王』を南太平洋に置き換えたような、両者のもとになる作品があったのかもしれない。

 謎の美女はゼフィルといい、アメリカ兵は彼女の写真をもって逃げだすが、その写真はアメリカ兵をとらえた二人の日本兵のものとなる。以上が「プレリュード」である。

 この後、舞台は現代の日本に移り、南太平洋の島からやってきたゼフィルが世界企業をあやつって国際的な陰謀をしかける。その陰謀をさぐるために日本兵の息子の五本松が調査を依頼される。男という男はゼフィルの魅力に負けてしまい、言いなりになるが、五本松は酒以外に慾というものがなく、ゼフィルにたぶらかされることはない。こうなるとゼフィルは心穏やかではなく、なんとかして五本松を籠絡しようとするうちに、逆に五本松に引かれはじめる。

 ゼフィルのたくらむ陰謀であるが、法律の大もとである自己同一性と経済の大もとである貨幣を一挙に破壊し、世界を原始時代にかえそうという途方もないほら話なのである。一応復讐譚の体裁をとっているが、現代文明の破壊という結果は動機とくらべて巨大すぎる。こんなほら話は漫画でしか成立しない。

 「あとがき」で手塚は青年コミックという新しいジャンルをはじめるにあたり、他の作家は読切短編を依頼されたのに自分だけ長編という注文に戸惑い、不満だったと書いている。そして危惧したとおり物語がひろがりすぎてしまい、中だるみに陥ったので、一時読切形式に変えたと書いている。

 上巻から下巻の変わり目、12~14章のことを言っているのだろうが、主筋の枠を越えて暴走していき、むしろ一番の読みどころになっている。特に13章の贋家族のエピソードは独立の短編としても傑作である。この暴走部分がなかったら、凡作で終わっていただろう。

 お色気や世界経済をいれたのは大人の鑑賞に耐える漫画を模索していたからだろうが、とってつけたような感を否めない。この作品の読みどころはむしろ中盤の漫画的なはみ出しにあって、まとまりのなさが最大の魅力になっていると思う。

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