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2009年09月27日

『信長殺し、光秀ではない』 八切止夫 (作品社)

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 高柳光壽『明智光秀』がまともな歴史研究の古典なら、こちらは陰謀説の古典である。八切止夫氏はトンデモ歴史の大家で、上杉謙信女性説などの珍説奇説で知られている。

 謙信女性説でこりていたが、谷口克広氏の『検証本能寺の変』で諸悪の根源のような言われようだったので、逆に興味をもった。藤本正行・鈴木眞哉両氏による『信長は謀略で殺されたのか』でも最大限の罵倒を浴びせられている。錚々たる研究者にこれだけ目の敵にされているとなると、何かありそうな気がしてくる。で、この機会に読んでみた。

 著者は最初に「ノンフィクション・ノベル」だと断っているが、書きぶりはどう見ても歴史エッセイで、小説ではない。強いて小説的というなら、本能寺の変を考証した章の間に現代のマカオに南蛮史料を探しにいった旅行記の章をはさむ書き方が小説でよく使われるカットバックの手法にあたるだろうか。

 著者が本能寺の変に興味をもったのは学生時代のことである。当時、モラエス研究家のT.H.先生(花野富蔵氏?)の研究室でアルバイトをしていたが、ある時、T.H.先生から「信長を殺したのは光秀ではない。ちゃんと目撃者もいる」とモラエスが書いていることを教えられる。その言葉が気になり、以来23年間、本能寺の変の研究をつづけたという。

 考証部分ではいきなり光秀にはアリバイがあると断定する。根拠は公卿の日記で、光秀が在京したのは午前9時から午後2時までであり、光秀が京都にあらわれた頃には本能寺の変はあらかた終わっていたというわけだ。

 そして夜、光秀は坂本城にもどったのだから、変の前夜は坂本城にいたはずだと決めつけ、丹波から一万三千の兵を率いてきたのは光秀以外の人間だとたたみかける。

 単独犯行による暗殺事件ではないのだから、現場にいなかったことがアリバイになるとは思えないが、丹波勢一万三千の謎でぐいぐい押していくので、いぶかりながらも先を読んでしまう。

 丹波勢の謎で思わせぶりに長々と引っ張っるが、終わり近くになって、なんのことはない、丹波勢を率いていたのは斎藤利三だと明かされる。長宗我部問題で切羽詰まっていた利三は光秀に無断で丹波勢を動員し、信長と信忠の二人を屠りさった。謀反という既成事実ができてしまったので、光秀は利三の書いたシナリオに乗るしかなかったというわけである。

 斎藤利三が暴走したという味つけがしてあるが、これは要するに現在有力な長宗我部説である。

 陰謀説の首魁にしてはあまりにも普通の結論で、おやおやと思ったが、これで終わりではなかった。最後の最後になって、斎藤利三を操っていたのは信長の正室の奇蝶(帰蝶)だったという落ちがつくのである。奇蝶の後半生はほとんどわかっておらず、どうとでもいえるだけに説得力はないが。

 斎藤利三の暴走といい、奇蝶の謀略といい、いかにも無茶な決めつけだが、あなどってはいけない。これは相当考え抜いた末の説である。

 長宗我部説の難点は、長宗我部問題は斎藤利三にとっては重要だが、光秀にとっては謀反を起こすほど重要ではなかった点にある。長宗我部説をとる人は長宗我部問題が光秀にとっても重要だったことを論証しようと苦労するわけだが、斎藤利三が勝手に軍団を動かしたことにすれば、難点はあっさり解決する。

 奇蝶黒幕説はいかにも馬鹿げているが、実は陰謀説の根本的な問題の解決になっている。

 本能寺の変は信長を殺しただけでは成立しない。織田家の家督はすでに信忠が継いでおり、信忠は武田攻めの成功などで信長の後継者としての権威を確立していた。信忠とその官僚団が健在な限り、信長が暗殺されても織田体制はゆるがないのである。信忠がいきのびていたなら、美濃に健在な織田本軍を率いてただちにとってかえし、明智軍を撃破していたはずだ。もちろん、秀吉の出番はない。

 信長と信忠が少数の手勢だけで同時に京都に滞在するという偶然がそろわない限り、本能寺の変はありえなかった。こんな御誂え向きの偶然を作りだすのは朝廷でも無理だ。陰謀説の致命的な欠陥である。

 ところが奇蝶が黒幕なら、理屈の上では、信長と信忠の同時在京という状況を作りだすことは不可能ではない。あくまで理屈の上でだが。

 八切氏は長宗我部説はもとより、陰謀説の本質的な矛盾を知り抜いた上で、トンデモ歴史で遊んでいたらしい。洒落のきつい人である。

 もう一つ特筆しなければならないことがある。丹波勢一万三千の謎で長々と引っ張ると書いたが、引っ張る間に朝廷陰謀説、義昭陰謀説、家康陰謀説、秀吉陰謀説、さらにはイエズス会陰謀説から信長爆死説まで、今日までに登場している陰謀説のパターンがあらかた登場しているのである。

 本書は1967年に発表されており、本能寺の変陰謀本の嚆矢といってよいが、陰謀説のパターンはバージェス動物群のように、本書の段階でほとんど出つくしていたのだ。本書は陰謀ネタの宝庫であり、以降に出た陰謀本は本書の脚注にすぎない。目の敵にされるだけのことはあったのである。

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2009年09月26日

『明智光秀』 高柳光壽 (吉川弘文館)

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 明智光秀研究の基本図書とされている本だが、今回、はじめて読んだ。発表されたのは1958年だが、1976年に新装版が出て現在でも版を重ねている。

 いくら名著とされていても、史料の出揃っていなかった半世紀前の本を今さらと手にとらなかったが、読んでみるとこれは凄い。小説やTVドラマでおなじみのエピソードを根拠を明示しながらバッサバッサと否定していくのだ。

 物理的に不可能な場合や前後の矛盾、確定した史実と相違する場合はどう不可能か、どう矛盾するか、相違するかを簡潔に説明しているし、良質な文献をもとに否定する場合は典拠とした文献を一つ一つあげている。有無をいわさぬ迫力で、読んでいて快感である。

 「誤謬充満の悪書」として特に槍玉にあげられているのは『明智軍記』と『太閤記』だ。『太閤記』については堀尾吉晴の手柄話が出てきたら「例の偽りか」と思えと言い切っている。

 『細川家記』と『総見記』については是々非々で、曖昧にぼかすことなく、ここまでは当てになる、ここからは当てにならないと白黒をはっきりさせている。問題があったらいくらでも批判してくれと手駒のすべてをさらしているわけで、恐るべき自負である。最近、トンデモ説を発表する学者が少なくないが、内容的には大胆でも、論証は曖昧模糊として全然大胆ではない。学者も半世紀で劣化したのだろう。

 おなじみのエピソードが全否定された後に何が残るのか。信長そっくりの果断な合理主義者としての光秀である。

 彼が牢籠の身から信長に抜擢され重用されたのは、彼が信長と同じような合理主義者であり、信長と同じような目的を持っていたからであると思われる。……中略……彼は新日本建設の助力者であっても、決してそれの妨害者ではなかった筈である。ただ彼は日本の社会革命の主人公である信長に代わろうとして敗れただけである。

 本能寺の変の動機については当時主流だった怨恨説を一つ一つ検討し、「要するにそれは後人の想像に過ぎず、しかも事情に殆ど通じない、いってみれば一知半解の説」と全否定している。

 変の後、光秀は守旧派勢力に接近し大盤振る舞いするが、これは信長に脅威をおぼえていた守旧派勢力なら確実に支持してくれると計算したからで、決して光秀の保守性を示すものではないとしている。

 著者は基本的には野望説をとるが、謀反の引き金を引いた直接の要因として長宗我部問題をあげている。長宗我部説は最近注目されたものと思いこんでいたが、実は半世紀前に本書で特筆されていたのだった。

 本書の成果の多くは後の研究者に引き継がれているが(無断で引き継いでいる人もすくなくない)、引きつがれていない成果もある。光秀の教養についての評価である。

 「時は今あめが下しる五月哉」という『愛宕百韻』の発句があまりにも有名なので、光秀は高い教養の持主のようなイメージがあるが、実際のところはどうだったのか。「時は今……」の謎解きをする人はすくなくないが、光秀の教養を論じた人は寡聞にして知らない。

 著者はこの問題についてもふれている。『明智軍法』の内容については評価しているものの、末尾につけられた制定の次第を述べた文章については「気取った文字を使用しているが、難渋であるとうだけで悪文というべきものである」とにべもない。当時の流行の文体なので、学者でもない光秀を責めることはできないと断ってはいるが。

 里村紹巴宛書簡に添えられた発句については「幼稚ではあるが古典と結びつけようとする気持ち」を評価し、「それはやはり光秀の教養といってよいであろう」としている。武将にしてはなかなか勉強していますね、という程度の評価だろう。

 一方、光秀の筆跡にはいい点数をつけている。本書には光秀直筆の文書が写真版で掲載されているが、行書は「謹厚」の風があるとし、「なかなか味深い文字である」と評価している。草書については「すこぶる闊達な感じを与える。小事に拘泥する風は見えない。しかもその間に一種の迫力があり余韻さえある」という誉めようだ。

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2009年09月25日

『本能寺の変 四二七年目の真実』 明智憲三郎 (プレジデント社)

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 著者の明智憲三郎氏は光秀の庶流の子孫と伝えられる家に生まれた人である。明智の名をはばかって代々明田を名乗ってきたが、明治になって曾祖父が古文書など証拠の品とともに明智への復姓を願い、認められたという(古文書類は関東大震災で焼失)。

 家系伝説の信憑性はともかくとしても本書の議論は実に興味深く、円堂晃氏の『「本能寺の変」本当の謎』とともに、現在、最も説得力のある陰謀説といっていいだろう。

 内容は四部にわかれる。

 第一部「作りかえられた歴史」では史料批判によって怨恨説と信長不仲説を否定するが、このあたりは学問的に決着がついていて新味はない。注目したいのは光秀の経歴を考証した部分である。

 通説によれば越前朝倉家に仕官していた時、細川藤孝と知りあい、足利幕府再興について話しあって意気投合した。光秀は讒言を受けて朝倉家を去り、信長に仕えるようになると、藤孝を信長に紹介し、互いに連繋して足利義昭の上洛を実現する。光秀は信長側の代表として幕府の行政に参加し、頭角をあらわしていった、とされている。

 ところが永禄6年の幕臣名簿に「明智」の名があり、これが光秀ではないかという説がある。また、『多聞院日記』とフロイス『一五八二年日本年報追加』という第一級史料に光秀は藤孝の家来だったと記されている。

 後者については光秀と藤孝の親密な関係が誤って伝えられたものとする解釈が主流だが、著者はこれこそが事実であり、朝倉被官の方が誤りだとする。朝倉被官は『細川家記』と『明智軍記』に出ているが、『細川家記』は『明智軍記』を史料として名をあげており、しかも両者の記述は一致するので、朝倉被官の根拠は『明智軍記』という信頼性の乏しい史料だけになる。

 『細川家記』は永禄11年に藤孝を信長に引きあわせたのは光秀だとしているが、他の確かな史料によると藤孝は信長とそれ以前から行き来しており、光秀が引き合わせる必要はなかったはずである。

 著者は永禄6年の幕臣名簿については前半部分は確かに永禄6年の名簿だが、後半は永禄8年の義輝謀殺後、藤孝が義昭体制を立ちあげた際の名簿ではないかとしている。義輝とともに多くの側近が討死にした上に、幕臣は義栄擁立派と義昭擁立派に割れていた。義昭を擁立した藤孝は急遽人材を集める必要に迫られ、家来だった光秀を幕府の直臣にとりたてたというのだ。

 これが事実だとしたら、光秀は信長のもとで栄達し、旧主である藤孝を組下にかかえたことになる。光秀と藤孝の親密な交際はつとにしられるところだが、内心まではわからない。著者は光秀に対する屈折した感情が本能寺の変前後の藤孝の動きに影響したと推測している。

 第二部「謀反を決意した真の動機」では三つ要因があげられている。第一は土岐氏再興の野望、第二は長宗我部問題である。

 長宗我部原因説の難点は樋口晴彦氏の『本能寺の変 光秀の野望と勝算』が指摘しているように、長宗我部氏の滅亡は斎藤利三にとっては切実だが、光秀にとっては敢えて謀反を起こすほど重要ではなかった点にある。著者は利三の実兄で、長宗我部元親の正室の義弟であり、元親の嫡男信親に娘を嫁がせた石谷辰頼を前面に押しだすことによって、長宗我部問題と土岐氏再興問題が一体であり、長宗我部氏の命運が光秀にとっても重要だったと論証しようとしている。

 残念だが、著者の試みは成功しているとはいえない。辰頼についてはほとんど史料が残っておらず、光秀との関係は憶測に憶測を重ねるしかないからだ。

 しかし、第三の要因はおもしろい。信長は武田滅亡で利用価値のなくなった徳川家をとりつぶそうとしており、本能寺の変は本来は家康討ちのはずだったというのだ。それが光秀の翻意で信長討ちにすりかわってしまった。すなわち、光秀=家康密約説である。

 光秀=家康密約説は以前からあったが、著者は徳川討伐計画が発動直前まで進んでいたとする。激戦が予想されるので、侵攻は光秀軍団を主体とし、信忠率いる織田本軍は温存する。旧徳川領は恩賞として光秀にあたえられ、明智家は丹波から三河・遠江・駿河に移封されることになるというわけだ。

 著者によれば、信長の甲州遠征は徳川討伐の下見だった。信長は光秀、藤孝、筒井順慶の三人をともなって、新たに征服した信濃・甲斐をまわり、帰路、徳川領で盛大な歓迎を受けているが、これは光秀軍団の幹部に徳川領侵攻作戦の下見をさせたのだと著者は推測する。ヒトラーがオリンピックの聖火リレーをヨーロッパ征服の下見に使ったようなものだろう。

 本能寺の変を家康謀殺と勘違いした者がいたという史料が複数残っていることからわかるように、当時の状況として家康謀殺の可能性は十分ありえた。明智軍が大軍であるにも係わらず、怪しまれずに京都に入城できたのは、信長自身が呼びよせたからということになる。

 なぜ光秀は家康ではなく、信長を討ったのだろうか。光秀は変の二週間前まで饗応役として家康と親しく接する立場にあり、密約を結ぶ機会があったが、それ以上に家康は光秀の同盟者となりうる位置にいた。

 秀吉の中国大返しがあまりにもみごとだったために見えなくなっているが、著者はすぐに畿内にもどれる軍団がただ一つ存在していたとする。甲斐22万石に封じられていた河尻秀隆軍である。秀隆は信忠元服時に補佐役に指名され、信忠をいただく織田本軍を実質的に仕切ってきた。河尻軍が西上していたら、美濃でちりじりになっていた織田本軍を率いて光秀と決戦に臨んでいた可能性が高い。しかし、そうはならなかった。

 いちはやく領国にもどった家康が武田の遺臣を扇動し、甲斐信濃を侵す挙に出たからだ。秀隆は家康の使者を斬り殺して、徳川に対決する姿勢を明確にしたが、国一揆をおさえきれず横死している。

 密約云々は別にしても、結果を見れば家康は本能寺の変に乗じて織田領を脅かし、光秀を助けた形になっている。

 家康は命からがら伊賀越えをしたことになっているが、穴山梅雪の死に方といい、信忠に扈従しながら二条御所から生還した水野忠重といい、甲斐信濃の簒奪が清洲会議で黙認されたことといい、確かに妙なことが多すぎる。

 第三部「本能寺の変はこう仕組まれた」はいよいよ事件の再構成である。家康は5月29日から堺に逗留し、変の当日の6月2日、京都に向かった。変がなければ同日中には本能寺につき、信長に謁見していたはずである。

 著者の推理が正しければ、信長は京都に入る直前の家康と重臣一行を明智軍に襲わせ、その後徳川領に向けて進発させていたことになる。そのシナリオがなぜ、どのように狂ったか。本書の推理は実に巧みに組み立てられており、半ば以上説得されてしまった。

 第四部「新説を裏づける後日譚」はフロイス文書と家康のその後を光秀=家康密約説の視点から再検討している。これもおもしろすぎる。

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2009年09月24日

『検証 本能寺の変』 谷口克広 (吉川弘文館)

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 『本能寺の変 光秀の野望と勝算』で藤本正行・鈴木眞哉の『信長は謀略で殺されたのか』と並べて評価されていたので読んでみたが、独自の見解を打ちだした本ではなく、これまでの本能寺の変研究を紹介したレビュー本だった。新書判の倍の値段だが、初心者向けではないからこれでいいのだろう。

 プロローグとエピローグを別にすると、四部にわかれる。

 第一部では本能寺の変の流れを追いながら、途中で史料を信頼性の高い順に四グループに分類し紹介している。

(1) 手がかりとなる史料(記録・日記)
『言経卿記』、『兼見卿記』、『晴豊公記』、『日々記』、『多聞院日記』、『御湯殿の上の日記』など
(2) 手がかりとなる史料(覚書・編纂物)
『信長公記』、『惟任謀反記』、『立入左京亮入道道隆左記』、『本城惣右衛門覚書』
(3) 参考になる史料
『川角太閤記』、『豊鑑』、『当代記』、『イエズス会日本年報』、『甫庵信長記』、『三河物語』
(4) そのまま信じてはいけない史料
『総見記』、『明智軍記』

 どういう由来の史料で、信頼できる点とできない点を簡潔にレビューしており参考になる。

 第二部では本能寺の変研究の流れを江戸期、明治からNHKで大河ドラマ『信長』が放映された平成四年まで、それ以降の三期にわけて概観している。大河ドラマ『信長』が目印となるのは放映をきっかけに陰謀説が大々的に流行し、今日につづいているからである。

 江戸期は儒学的にも、庶民の人気的にも、信長は残虐非道な暴君として評判が悪く、本能寺の変はもっぱら怨恨が原因と考えられていた。時代が下ればくだるほど、怨恨に尾鰭がついていったということである。江戸期に信長評価の先鞭をつけたのは頼山陽だったが、彼とても怨恨説の枠を出ることはなかった。

 明治になると信長の業績が評価されるようになったが、本能寺の変については怨恨説がもっぱらだった。その原因として著者は実証史学が未成熟で、『総見記』や『明智軍記』のような尾鰭のいっぱいついた俗書を無批判に信じこんだからだとしている。

 こうした流れを変えたのが戦国史の泰斗、高柳光壽氏の『明智光秀』(1958)だった。高柳は史料批判によって怨恨説の論拠をすべて否定し、良質な史料にもとづいて野望説をとなえた。これに対してもう一方の権威、桑田忠親氏が反論し、イエズス会史料など、それまで参照されていなかった史料をもとに怨恨説を主張し、論争となったのは知られているとおりである。

 歴史学の世界では高柳・桑田論争以後、本能寺の変研究は停滞期をむかえるが、一般向け読物の世界では目端のきいた著者がつぎつぎと本能寺の変をとりあげはじめる。その中で世間の注目を集めたのはトンデモ歴史の大家、八切止夫氏だという。

 さて、こうして大河ドラマ『信長』の放映をむかえるわけであるが、雨後の筍のように出てきたさまざまな陰謀説の中で朝廷黒幕説だけは一考の価値があるとしている。

 第三部は陰謀説の紹介と再検証にあてられている。一考の価値ありとした朝廷黒幕説に半分以上の紙幅が使われているが、結論としては「先入観に導かれて史料を曲解するところあら生まれた」とにべもない。

 陰謀説は一通り目を通したつもりだったが、本願寺の教如上人黒幕説などというものまであるそうである。

 最近の陰謀説として井上慶雪、円堂晃、小林正信三氏の著書をとりあげ批判しているが、円堂氏の『「本能寺の変」本当の謎』については批判としては不十分ではないかと思う。著者は一万三千もの大軍で京都に進軍したのはなぜか、市中に分宿していた馬廻衆が駆けつけなかったのはなぜか、信忠を同時に襲わなかったのはなぜかという円堂氏の疑問を「いちおうもっとも」とするものの、明智軍が三隊にわかれて進軍したと考えれば説明がつくと片づけている。

 そうだろうか。円堂氏が提起した一番の問題はあのような大軍が完全軍装で早朝の京都に入城したのに、なぜ京都所司代や馬廻衆は気がつかなかったのかという点なのだ。三隊にわけたとしても数千の軍勢が、庶民が朝の支度をはじめていた時間に市中に展開したのである。著者の批判は批判になっていないのではないか。

 さて、第四部では本能寺の変の原因の諸説を検討し、最終的に長曾我部説に軍配を上げている。現時点では最も妥当な結論だろう。

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2009年09月23日

『本能寺の変 光秀の野望と勝算』 樋口晴彦 (学研新書)

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 本能寺の変から山崎の合戦にいたる経過を良質の史料を用いて再構成した本である。最初はトンデモ説に反駁する本を書こうとしたが、藤本正行・鈴木眞哉『信長は謀略で殺されたのか』と谷口克広『検証本能寺の変』に尽くされているので、ドキュメント風の書き方に改めたということである。

 この方針転換は成功していて、本能寺の変をはさんだおおよそ三週間の日本各地の状況を鳥瞰する本書が出来あがった。こういう重宝な本が廉価な新書で入手できるのはありがたい。

 序章では光秀の人物像をとりあげている。小説やTVドラマ、映画、最近はゲームによって紋切型の光秀像――伝統第一主義の神経質で小心なガリ勉タイプ――がすっかり定着した観があるが、著者はそれをリセットし、伝統的な権威をものともしない、近代的で果断で独裁的ともいえる光秀像を描きだしている。

 たとえば、叡山焼討である。司馬遼太郎の『国盗物語』には光秀が信長に焼討を思いとどまらせようと必死に諌める条があり、類似の場面はTVなどでくりかえし映像化されてきたが、史実は逆で、叡山周辺の土豪の懐柔に積極的に動いていたことを示す書状が残っている。焼討後、信長は光秀を志賀郡五万石の大名に抜擢しているが、これは光秀が叡山攻めの最大の功労者だったことを示すものだろう。光秀は叡山を扼する坂本に築城して延暦寺関連の荘園を容赦なく接収しており、後に無関係な荘園まで押領したと朝廷から苦情が来ている。

 坂本城が交通の要路に城下町と一体化して築かれた城で、安土城やその後の近世城郭の手本となったという指摘や、検地の断行と知行高にもとづく軍役の再編の先鞭をつけたのが光秀だったという指摘も重要である。信長の天才的な施策のいくつかは光秀がはじめたものだった。高柳氏が指摘したように、信長と光秀は似た者同士で馬が合ったのである。

 変後の光秀の動きについては無駄が多いとか、時間を空費したとか、厳しい見方が多いが、著者は京都で掃討戦に時間をかけ信長の馬廻衆を全滅させた点を重く見ている。馬廻衆は単なる親衛隊ではなく官僚機構であり、織田政権の頭脳だった。馬廻衆の全滅で織田政権は脳死状態におちいったわけである。

 琵琶湖畔の城郭群をすべておさえた点も北陸の柴田勢を仮想敵とした万全の備えだったと評価している。柴田勝家は6月16日には北の庄城にもどっており、もし秀吉が毛利に釘付けになっていたら、柴田勢と明智勢の間で決戦がおこなわれていたはずである。琵琶湖の制圧を喫緊の課題と考えたのは当然だろう。

 さて、秀吉軍の中国大返しである。あまりにもうまくいきすぎた上に本能寺の変の最大の受益者が秀吉だったので、陰謀説のかっこうの根拠となっているが、著者は強行軍を可能にした条件として二つの要素をあげている。第一に信長本隊のために街道沿いに手配されていた大量の兵糧、人足、休息施設。第二にその手配を担当していた奉行の堀秀政が秀吉についたこと。著者は堀秀政は黒田長政とともに参謀として秀吉の天下取りを支えたとしている。

 本書は大筋においては通説を踏襲しているが、大胆な新説がないわけではない。それは光秀は秀吉が協力者になってくれるものと一方的に片想いしていたという見方である。秀吉陰謀説のように事前に連絡があったとするわけではないが、外様でありながら異例の出世をとげた同志、たがいに通ずるものがあったというわけだ。著者は秀吉の妻や生母が長浜城から逃亡するのを光秀が黙認した可能性にふれ、さらには秀吉に変の第一報を知らせたのは光秀自身だったという見方まで披瀝している。

 光秀の動機の推理は本書の主要テーマではないが、本能寺の変をあつかう以上、動機にふれずにすますわけにはいかない。

 怨恨説でおなじみの家康饗応が決して名誉な仕事ではなかったという指摘はコロンブスの卵だった。後世の人間は家康が天下をとったことを知っているので饗応役からはずされたことを大変な屈辱と錯覚するが、この時期の家康は同盟者とは名ばかりで、実質的には織田軍の東海方面軍司令官にすぎなくなっていた。家康の相手をしているより、毛利攻めで手柄をたてたほうが得なのである。

 意外なのは近年最有力視されている長宗我部説をとっていないことだ。長宗我部の苦境を「天下の情勢が見えない田舎大名が、光秀の忠告を聴かずに自滅の道を選んだというだけ」と見きり、長女の嫁ぎ先だった荒木村重ですら攻めた光秀がずっと縁の薄い長宗我部家のために謀叛に踏み切るなどありえないと断定している。

 長宗我部外交からはずされて面子を失ったという見方に対しては、四国平定などは信孝程度でつとまる小事で、毛利攻めとその後に控えている九州征服の方がはるかにリターンが大きいとしている。

 著者がとるのは単独野望説だが、著者も賛同する光秀六七歳説との整合性の点でどうだろうか。当時の六七歳は今の八〇歳くらいにあたるだろう。八〇歳になって天下とりは無理があるのではないか。

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2009年09月22日

『火天の城』 山本兼一 (文春文庫)

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 映画化された話題作である。信長の登場する小説は枚挙にいとまがないが、安土城を建てた実在の大工の棟梁、岡部又右衛門を主人公にした小説ははじめてだろう。

 安土城は謎の多い建築だが、近年、近世城郭の常識を越えた破天荒な構造だったことが明らかになり、信長の天才の表現という見方も出てきている。その安土城を作る話なのだから、面白くないはずがない。

 又右衛門と信長の出会いの条が秀逸である。信長は桶狭間の戦いの直前、熱田神宮で戦勝祈願をしたことが知られているが、その時、熱田神宮付きの宮大工だった又右衛門に義元の首を載せるための輿を作れと命ずる。信長は戦う前から勝つつもりなのである。

 又右衛門は急いで小さな輿を作りあげて後を追ったが、途中、凱旋してくる信長軍と出くわす。

 今川義元のお歯黒首が、輿にとりつけた三方に置かれ、首の根が味噌で固定された。四人の足軽が輿を担いだ。

 もちろん、このエピソードはフィクションだろうが、「首の根が味噌で固定された」というディティールにはっとした。そんな習わしがあったのかどうかは知らないが、味噌は兵糧として常備品だったし、傷薬としても使われていた。生首を味噌で固定するという記述にはリアリティがある。

 又右衛門は信長に重用され、数々の城普請をまかされるようになる。史実の又右衛門は武装して合戦にしたがい、工兵隊長のようなことをしていたらしいが、この小説の又右衛門は大工の棟梁の分を越えていない。

 大工は建築家であるから理詰めであり、数字で考える。安土城のような大きな普請では職人を住まわせるための長屋を大量に建てなければならない。長屋を建てるには坪あたり二石の木材が必要になる。付属の御殿は坪あたり八石、天主は坪あたり十二石で、いずれにせよ膨大な木材を調達しなければならない。

 問題は三本の通し柱である。五層の天主の通し柱に使えるような木など、なかなかあるものではない。あるとしたら木曾だが、木曾は武田方の木曾義昌の領地である。又右衛門は無理を承知で義昌に頼みに行くが、義昌は意外にも協力を約束してくれた。義昌は信玄の娘を娶り武田一門につらなっていたが、落ち目の勝頼が無茶な要求をしてくるので、武田からの離反を考えていた。通し柱の一件は織田方によしみを通じる格好の機会だったのである。

 木曾氏の裏切りは武田家崩壊劇の幕開けとなるが、そうした政治のどろどろを吹き飛ばすように、丸太の急流下りという前半最大の山場がくる。せっかくの巨木も折れてしまっては柱に使えない。急カーブを丸太を無事に通せるか、手に汗にぎる場面がつづく。

 一間の長さの問題も興味深い。通常、一間は六尺であり、武家建築でも六尺半だが、安土城は内裏と同じ七尺なのである。

 六角方の乱波は井戸に汚物を投入するなど小技で工事を妨害するが、蛇石という巨岩を運びあげる機会をとらえて大勝負に出る。スペクタクルとしてはなかなかだが、この後に通し柱の短縮という後半の見せ場が来る。信長の厳命で大砲に耐えられるように壁の厚みを変更したために、天主の骨組が想定以上にで沈下してしまい、通し柱との間に不均衡が生じたのだ。又右衛門は息子とともに沈下量を計算し、通し柱の根本を四寸切りおとす決定を下す。作業は精密を要するために他の職人を締めだし、岡部一門だけでおこなったが、ここははらはらした。

 せっかく完成した安土城だが、本能寺の変で事態は急変する。又右衛門も本能寺に滞在していたが、信長の命令で安土城を守るために寺を脱出する。だが、城は灰燼に帰した。

 誰が安土城に火をかけたのかは謎だが、本作は最も常識的な説にしたがっている。ここであっと言わせてくれたら文句なしだったのだが、終わり方がちょっとおとなしいかなという感想をもった。

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