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2009年01月29日

『ステファヌ・マラルメ』 ギイ・ミショー (水声社)

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 フランスではマラルメの入門書として定評のあった本だそうである。初版は1953年に出たが、1971年に改訂版が出て、それを邦訳したのが本書である。初版刊行後に出たリシャールの『マラルメの想像的宇宙』などがたびたび引照されていることからすると、相当大きな改訂がおこなわれたようである。

 本書の価値はまず、1971年までのマラルメ批評史を概観した「序」にある。ミショーはマラルメの読み方には二つの局面があったと指摘する。

 第一の局面は伝統的な実証主義と1950年代にはじまったヌーヴェル・クリティックをあわせたもので、マラルメをその時代の中で理解しようとする接近法である。

 これに対して第二の局面はマラルメを構造主義とポスト構造主義という現代の文脈で読もうとする試みであり、マラルメのテキストには構造主義とポスト構造主義を先取りした部分があるとする。すこし長いが、「序」から引用しよう。

 ようやく今日に至って、これほど長いあいだマラルメが「理解されない人」とみなされてきた、いくつかの本当の理由がわかり始めた。それらの理由は、彼の作品が晦渋だから近づきにくいのだとする偏見より以上に、彼の生きた時代が抱いていた根本的な誤解にもとづいていたのである。歴史、文献学、分析に夢中になっていた世紀が、どうして、構造、言語に関する科学、あるいは「精神の楽器」としての<本>に関する彼の《たわごと》を異様と思わずにいられようか。いかなる誇張もなく断言することができるのだが、マラルメは、ソシュールより半世紀前に、自分なりの方法で構造言語学の基礎を築いたし、レヴィ=ストロースとジルベール・デュランより一世紀前に、「類推の魔」によって、言語、神話、人間精神、世界の諸構造間の、今日類質同型イゾモルフィスムと呼ばれるものを研究し、「万象間の諸関係の総体」を把握していたし、そしてバルトよりやはり一世紀前に、詩的言語をひとつの複数性の言語、つまり通常の言語の性質とは異なった性質をもつ言語であるとほぼ定義していたのである。

 マラルメが構造主義=ポスト構造主義という現代の知を先取りしていたというのはその通りだろう。今日、マラルメが注目されているのはまさにその点による。

 ミショーは第二の局面の重要性を強調しつつも、本書はあえて第一の局面にとどまり、伝記という伝統的な接近法を貫いたと述べている。これはこれで立派な見識である。

 さて、伝記として読んだ場合、古さは否めない。改訂版の出た1971年時点では、マラルメの書簡集は四巻のうち、最初の二巻しか出ていなかった。豪華本『大鴉』を出版したレスクリードの書簡はもちろん発見されていなかったし、「アナトールの墓」は刊行されていたものの、なぜか本書では無視されている。孤高の面や妹の死をクローズアップしたり、ヘーゲルの影響を額面どおりに受けとっているのも時代を感じさせる。改訂版が出てから40年近くたっているが、その間のマラルメ学の進歩は大きかったのだ。本書だけでマラルメの生涯がわかったつもりになるのは危険であって、マラルメの生涯が知りたかったら柏倉康夫氏の『生成するマラルメ』を併読すべきだろう。

 伝記としては古びているが、しかし、マラルメの作品の読解としては本書は今でも十分読みごたえがあると。ヌーヴェル・クリティックの最良の成果をとりこんでいるだけでなく、神秘学的な観点を持ち込んでいる点も味わいを深くしている。ここでは憂愁にみちた世紀末詩人としてのマラルメに出会えるのである。構造主義かされたマラルメにあきたりない人は本書を紐解かれるとよい。

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