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2008年12月28日

『文明崩壊』 ジャレド・ダイアモンド (草思社)

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 『銃・病原菌・鉄』で世界的に注目されたジャレド・ダイアモンドがふたたび文明論に挑んだ本である。『銃・病原菌・鉄』は人種間に差がないことを強調するあまり過激な地理決定論になっていたが、本書では文化的な差を重視し、環境政治学とでもいうべき分野を開拓している(「環境政治学」という言葉をダイアモンドが使っているわけではない)。

 『銃・病原菌・鉄』はユーラシア大陸対南北アメリカ大陸という対立軸で展開されたが、本書でとりあげられるのは島の閉じた生態系である(密林に囲まれたマヤの都市国家やアナサジ族が定住した砂漠の中の峡谷も一種の「島」である)。島の有限な資源でいかに永続的な文明を築いたか、あるいは失敗したかという視点からイースター島、『バウンティ号の叛乱』の舞台となったピトケアン諸島、アナサジ族のプエブロ・ボニート、マヤの都市国家群、ヴァイキングが植民したアイスランドとグリーンランド、イスパニョーラ島、日本、そしてオーストラリアを考察しているのである。

 このうちイースター島、プエブロ・ボニート、マヤはフェイガンの『千年前の人類を襲った大温暖化』と、アイスランド、グリーンランドは『歴史を変えた気候大変動』と重なっている。フェイガンは気候という切口から環境の脆弱性を説明したが、ダイアモンドはさらに環境被害、近隣の敵対集団、友好的な取引相手、環境への社会の対応という視点を導入している。

 中でも重視されているのは社会の対応である。

 たとえばグリーンランドに開かれたノルウェイの植民地である。中世の温暖化が終わり、寒冷化するとグリーンランドのヴァイキングは死に絶えるが、さらに北方ではイヌイットが生存をつづけていたのである。もしグリーンランドのヴァイキングがイヌイットの文化に学んでいたら、餓死することはなかっただろう。

 だが、彼らはイヌイットを軽蔑し、大変なコストをかけてヨーロッパ人よりもヨーロッパ人らしくあろうとした。教会に莫大な献金をして司教を派遣してもらい、寒冷地では牛より羊や山羊の方が育てやすいのがわかっているのに、牛の飼育にこだわった。そうした出費は象牙の代用品として珍重されたセイウチの牙の輸出でまかなわれたが、十字軍後、象牙がまたヨーロッパにはいりはじめるとセイウチの牙の需要がなくなり、グリーンランドは経済的に逼迫した。グリーンランドがノルウェイ本土から見捨てられたのは経済的にうまみがなくなったからだったのである。

 イスパニョーラ島の例も示唆的である。カリブ海に浮かぶイスパニョーラ島は、現在、東半分のドミニカ共和国と、西半分のハイチに二分されているが、ドミニカが森林と肥沃な農地をたもっているのに対し、ハイチは禿山ばかりで土地は痩せ、国民一人あたりの所得はドミニカの1/5、最貧国のひとつになりさがっているのである。ドミニカの方が多少降雨量が多いものの、自然条件に決定的な差はない。19世紀まではハイチの方が強盛で、22年間にわたってドミニカを支配下においていたこともあるというのだから、ハイチの凋落ぶりはよけい際立つ。

 なぜドミニカとハイチはこんなにも差が開いてしまったのだろうか? ダイアモンドはさまざまな要因を検討するが、最大の違いは1930年代から50年間、トルヒーヨとバラゲールという二代の独裁者が森林保護政策をとったことにあるらしい。森林保護は私欲の制限につながるから独裁者の強権をもってしなければ実現できないのである。

 ダイアモンドは江戸幕府の森林保護政策も高く評価している。現在、日本の国土の2/3は森林だが、江戸時代のはじめ、日本の森は危機に瀕していた。戦国時代に乱伐がおこなわれた上に、秀吉の時代にあいつぐ大規模な土木工事と朝鮮出兵のための大型船の建造、鉄の精錬で木材が大量に費消され、本州と九州と四国の原生林は一部を除いて壊滅状態だったというのだ。幕府は森を復活させるために樹木一本一本の台帳をつくり、農民の利用を制限し、専任の管理者をおいて厳重に管理した。諸大名もそれにならった。今日に残る日本の森は江戸時代に二百年余をかけて再生させた森だったのである。

 オーストラリア大陸が本書で「島」あつかいされていることに疑問をもつ人がいるかもしれない。オーストラリアが大陸と見なされないのは環境の単調さと生産性の低さのためである。オーストラリアは小麦の産地だから、乾燥してはいるが、土地自体は肥沃なのだろうと思っていたが、実際は逆だった。オーストラリアは最古の陸塊なので、雨によって地上のミネラル分がすっかり流出してしまい、世界で最も土壌が痩せているのだそうである。小麦の生産は肥料の大量投入によっておこなわれており、きわめて高コストの農業ということである。

 ダイアモンドによると養分の供給源は火山である。火山は地底から地表にミネラルという恵みをもたらしてくれるというのだ。太平洋の島で森林破壊のおこりやすい要因として乾燥、高緯度、面積の狭さ、海抜の低さなど九つあげているが、そのうちの四つは火山がらみである(古い火山島、火山灰が降下しない、中央アジアの黄砂が降らない)。日本の森林に回復力があるのは火山のおかげなのかもしれない。

 森林破壊の九つの要因のほとんどをそなえているのはイースター島である。かつてイースター島は森に覆われ、多くの川が流れ、おびただしい鳥が群れる緑ゆたかな島だった。しかし、ポリネシア人の移住後、鳥は絶滅し、森も失われて回復することはなかった。森が消えると、保水力が亡くなるので川も消えた。カヌーも作れなくなり、島から逃げることはおろか海に漁に出ることすら不可能になった。島には飢饉が起こり、内紛で多くの島民が死んだ。人肉嗜食もおこなわれた。モアイを狂ったように作りつづけたのは衰えゆく自然をなんとか回復させようとする必死の試みだったのだろう。

 イースター島に最後に一本だけ残ったヤシの木のイメージは強烈である。まかり間違えれば地球は第二のイースター島になってしまうかもしれない。イースター島の轍を踏まないためにも過去に学ぶことが必要なのである。

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『歴史を変えた気候大変動』 ブライアン・フェイガン (河出書房新社)

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 『千年前の人類を襲った大温暖化』の8年前に上梓された本だが、内容的には補完しあう関係になっている。『大温暖化』では同時代という切口で切り、中世温暖期はヨーロッパと北米以外の地域では大旱魃期だったことをあきらかにしたが、本書では時間軸方向に視線を転じ、中世温暖期につづいてやってきた小氷期を描いている。

 寒冷化のきざしは1315年にあらわれた。1315年は気温が低下した上に嵐と長雨が襲い、農作物に打撃をあたえただけでなく、北海沿岸の干拓地を海没させた。翌年も冷害がつづき種籾さえ底をついた。その後も天候の不順がつづき、1317年から8年にかけての冬期には多くの家畜が餓死した。1320年代になって天候は回復するが、家畜の不足のために耕作ができず、多くの農地が放棄された。

 小氷期は単に気温が低下するだけでなく、寒暑の差が烈しくなり、異常気象が頻発した。特に嵐がたびたび襲った。1362年の冬にも大嵐が襲い、オランダでは大量溺死グローテ・マンドレンケと呼ばれる大災害をまねいた。デンマークでは60の教会区が海没し、英国でも多くの港が破壊された。

 1588年にスペインの無敵艦隊は劣勢の英国艦隊に敗れるが、その敗因は嵐に二度つづけて遭遇し、決戦前に大損害をこうむっていたからだと見られている。

 中世温暖期の満ち足りた時代は終わり、飢えと疫病の時代に突入した。フェイガンは書いている。

 飢饉がいっそう深刻化したのは、その前の世紀に人口が急増していたからである。十一世紀末に約一四〇万人だったイングランドの人口は、一三〇〇年には五〇〇万人にまで増えていた。フランスの居住者は、十一世紀末の約六二〇万人から約一七六〇万人、ないしそれ以上に増えていた。一三〇〇年には、これまでよりも高度や緯度の高い場所で穀物が栽培されるようになり、ノルウェーには五〇万人が暮らしていた。だが、経済の発展は人口増加と同じ速度では進まなかった。地方経済はすでに一二五〇年には停滞をはじめ、一二八五年以降はどこでも成長の速度がにぶった。

 現在のアルプスでは氷河の後退が問題になっているが、当時は前進が恐怖の的となっていた。氷河に呑みこまれそうになった村の住民は氷河の突端まで聖像を押してて行進し、司教にミサをあげてもらったという記録が残っているそうである。

 悲惨なのはグリーンランドである。グリーンランドの植民地は牧畜で自給自足していたが、中世温暖期が終ると牧草が育たなくなった。沿岸には流氷が増えて航海が危険になり、ノルウェイ本国との連絡が何年も途絶えるようになった。最後の船から150年後、探検隊が訪れると植民地はゴーストタウン化し、住居には牛の蹄だけが残されていた。最後の生存者はどうしても食べられない蹄以外の部分をすべて食べつくしたのだろう。

 その一方、危険な北洋に乗りだす船乗りもいた。目当ては鱈だった。

 キリスト教会は金曜日と四旬節の40日間に赤肉と熱い食物をとることを禁止したが、魚と鯨肉は海でとれるので「冷たい食物」とされたので重要な蛋白源になった。中でも最長二年間保存できる干し鱈は重宝された。

 中世温暖期の間、鱈の漁場はノルウェイ沖だったが、寒冷化とともに南へ移っていった。バスクや英国の漁師は鱈を追ってアイスランド沖、グリーンランド沖、最後は北米沖にまで船を進めた。

 グリーンランド植民地が築かれた直後、アメリカ大陸は発見されていたが、その事実は隠され、アイスランドでサーガの中に語り伝えられるにとどまった。アメリカ先住民に阻まれたので定住はできなかったが、木材を伐りだすために定期的に訪れていたらしい。

 バスクと英国の漁師たちもアメリカ大陸の存在を知っていた可能性が高いが、外部に漏らされることはなかった。

 バスク人は山岳民族だとばかり思っていたが、実は恐れ知らずの船乗りで、優秀なバスク船は重要な輸出品になっていたという。イグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルを産んだ土地だけのことはある。

 陸でも小氷期に立ち向かう人々がいた。農業革命の推進者たちである。

 農業革命は北海沿岸とオランダではじまり、その成功がオランダの繁栄を支えた。英国の地主貴族ジェントリーたちはオランダの農法の信奉者となり、細分化された農地を買いとって土壌を改良し、大規模農業をはじめた。第二次囲いこみエンクロージャーである。

 エンクロージャーはマルクス主義系の学者たちからは資本の原始蓄積の手段として否定されてきたが、非マルクス主義系の歴史家からは農業革命として評価されてきた。フェイガンは後者の立場で、エンクロージャーのおかげで英国は不順な天候の年でも餓死者を出さずにすんだとする。むしろ人口は増え、その余剰人口が都市に移って産業革命をささえる労働者となった。マルクスは土地を奪われた農民が都市に流入したとしたが、集約型の大規模農業は農業労働者を必要とするので実際は人口の増えた分が都市に向かった。

 対照的なのはフランスである。フランス貴族は農業にはまったく関心がなく、農村は旧態以前のままだった。しかも、貧しい農民までもがジャガイモを嫌い、麦から作るパンに固執したので天候の変化が社会不安に直結した。

 フェイガンは英国が漸進的な改革に成功し、フランスが革命に突っ走った要因の一つは農業革命に成功していたかどうかだとしている。

 一七八八年の気候は、もちろん、フランス革命を起こした最大の要因ではない。しかし、穀類やパンの不足や食糧難による苦境は、革命勃発の時期を決定するのに大きな役目をはたしていた。何世代にもわたってつづく慢性的な飢えによって生じたフランスの社会秩序の脆さは、一七八九年夏の歴史的事件の前の暴動を起こす引き金となった。「一七八九年の大恐怖」はフランス国民の大半を集団ヒステリー状態にさせ、フランス革命を引き起こし、農民を政治の舞台に引きずりだしたのである。

 フランス革命の主役を農民としていることに疑問を持つ人がいるかもしれない。フランス革命はブルジョワジーが主導したのではなかったかというわけだ。しかし、フランス革命がブルジョワ革命だというマルクスの説は間違っていたことが明らかになった。ルネ・セディヨの『フランス革命の代償』あたりを読めばわかるが、ブルジョワジーが台頭してくるのは革命後40年以上たってからで、革命当時のフランスでは弱小勢力にすぎなかった。

 フランス革命のような流血の混乱をまねかないためにも、農政は重大なのである。今、異常気象が頻発する時期にはいっているが、政治の役割はいよいよ重くなるだろう。

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『千年前の人類を襲った大温暖化』 ブライアン・フェイガン (河出書房新社)

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 温暖化懐疑論にくみするわけではないが、昨今のエコの大合唱には首をかしげたくなるところがある。古今未曾有の大惨事が起きるかのような騒ぎになっているが、地球はこれまでにも温暖期と氷河期をくりかえしてきたのである。

 北極の氷が消えるとシロクマが絶滅するという趣旨の映像が飽きもせずに流れているが、北極に氷のない時期ならこれまでに何度もあった。たとえば七千年前から五千年前まで二千年間つづいた完新世の最温暖期である。流氷がないと餌がとれないのなら、シロクマはとっくに絶滅していたはずである。

 近いところでは12世紀をピークとする中世温暖期がある。現在、葡萄栽培の北限はドイツ南部だが、当時はノルウェイでもワインが生産されていた。グリーンランドでは10世紀末から14世紀半ばまでの400年間、バイキングが牧畜をいとなんでいた。ヨーロッパは温暖な気候と十分な雨に恵まれた。人口は急増し、12世紀ルネサンスと呼ばれる文化が花開いた。各地でゴシックの大聖堂の建設がはじまったのもこの頃である。温暖化は北の国にとっては歓迎すべきことなのである。

 だが、温暖化によって不利益をこうむる地域もある。『千年前の人類を襲った大温暖化』はこの問題をあつかっている。

 著者のブライアン・フェイガンは自然人類学者で人類の起源に関する著書が多いが、サイエンス・ライターとしても一家をなしていて、専門からすこしはずれる気候史についても本書にくわえて『歴史を変えた気候大変動』と『古代文明と気候大変動』をものしている。

 本書はまず中世温暖期がヨーロッパにとっていかに恵みの時代だったかを描きだした後、他の地域に目を転じるが、これが死屍累々なのである。

 アメリカ大陸についていうと、北米大陸の北ではヨーロッパと同じ恩恵を受けたものの、南部のプエブロ、中米のマヤ、南米太平洋岸のチムーは数百年つづく大旱魃にみまわれ、文明が崩壊した。

 同様のことがエジプトやインド、カンボジアのアンコール朝でも起こった。亜寒帯に属するヨーロッパや北アメリカ、中国北部では温暖期でも、それまで文明の中心だった温帯や亜熱帯に属する地域にとっては数百年つづく大旱魃期だったのだ。

 いや、旱魃が数百年つづくという言い方は適切ではないだろう。旱魃というような一時的なものではなく、文明を育んでくれた降雨帯が移動してしまい、肥沃な農業地帯が乾燥地になったのである。温暖化というと海面上昇ばかりが話題になるが、フェイガンは本当に深刻なのは旱魃の方だと指摘する。正論である。

 さて、中世温暖期で得をしたヨーロッパであるが、いいことばかりではなかった。中央アジアのステップ地帯が旱魃にみまわれたために、食いつめた遊牧諸部族はチンギス汗の旗下、一丸となって大征服事業をはじめたのだ。モンゴル帝国である。

 モンゴルの矛先はヨーロッパにも向けられた。チンギス汗の孫のバトゥはロシア全土を手中におさめた後、ポーランドとハンガリーを席巻し、中欧に狙いをさだめた。だが、二代皇帝オゴディが薨去したためにバトゥはクリルタイに出るために軍を引いた。バトゥはクリルタイからもどった後、ロシアの支配に専念し、ヨーロッパに軍を進めることはなかった。

 その理由はさまざまに忖度されてきたが、フェイガンは雨がもどり、牧草地が回復したからだとする。

 バトゥはつねに西方へ戻る野心をいだきつづけたが、本拠の牧草地の状態は良好で、彼の民はヴォルガ川とドン川からブルガリアまでの広大な領土で放牧することができた。牧草地が豊富にあって、南方の地との交易が盛んな時代には、野心的な征服に人を駆り立てるものはなかった。

 もしステップ地帯の旱魃があと三年つづいていたら、ヨーロッパはバトゥの軍勢に蹂躙され、イベリア半島の突端までモンゴルの版図にはいっていたかもしれない。そうなったら、フェイガンは中央アジアと同じことが起きただろうと見ている。ヨーロッパはモンゴル帝国の交易網の一部となるのでコロンブスの航海は動機がなくなる。モンゴルの宗教保護政策によって、イベリア半島のイスラム教徒がピレネー山脈を越えて影響力をのばすことも十分ありえただろう。歴史に if はないが。

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