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2008年11月30日

『1冊でわかるユダヤ教』 ノーマン・ソロモン (岩波書店)

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 オックスフォード大で教鞭をとっていたラビによるユダヤ教の入門書である。

 本書は9章にわかれる。1~3章はユダヤ教とユダヤ人の長い歴史を解説し、4~6章はユダヤ教の風習を紹介する。7~9章では19世紀以降の激動の歴史の中で試行錯誤してきたユダヤ教の姿を描いている。

 小さい本なのに情報量が多いが、百科事典的な羅列ではなく、血の通った叙述になっている。ユダヤ人をなんとかわかってもらいたいという著者の姿勢のゆえだろう。

 ユダヤ教はキリスト教の母体といわれることが多いが、旧約聖書にもとづく信仰をそのまま残しているわけではない。キリスト教がわかれた後、ユダヤ人は信仰の中心だった神殿をローマ帝国によって破壊され、イスラエル王国の故地からも追われる。イスラエル王国時代のユダヤ教はサドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派等々多様な流れがあったが、離散生活の中でファリサイ派の流れだけが生き残り、ラビと呼ばれる宗教指導者によってユダヤ人のアイデンティティが維持された。異民族の中で律法を守りつづけるために口伝が重視され、口伝とその解釈を記した膨大なタルムードが編纂され、旧約聖書に次ぐ典拠として尊重された。いわゆるユダヤ教とは、このラビ的ユダヤ教のことなのである。

 本書の内容は多岐にわたるが、一番の読みどころはユダヤ人のアイデンティティを論じた第一章「ユダヤ人は誰か」だと思われる。

 ユダヤ人はキリスト教圏でもイスラム教圏でも差別を受けたが、差別の不当性を強調するあまり、サルトルの『ユダヤ人』のように、ユダヤ人とは「他の人々がユダヤ人と考えている人々」と極論するのは、ユダヤ人のアイデンティティを無視した暴論だろう。外部から見れば差別問題であっても、ユダヤ人の側から見ればユダヤ人としてのアイデンティティの問題なのだ。

 ゲットーに閉じこめられていた中世、ユダヤ人のアイデンティティは自明で、そんなことで悩む者はいなかった。迫害を受けても、「主は愛する者を懲らしめられる(「箴言」)で、「選ばれた民」である証と受けとられた。ところが啓蒙主義の時代になり、市民としての権利がユダヤ人にも認められるようになると、ユダヤ人としてのアイデンティティがゆらぎはじめる。差別が薄れたことで、「選ばれた民」である自信が怪しくなったからである。

 だが、啓蒙主義時代が終わり民族主義が勃興すると、ユダヤ人差別が再び激化し、近代的な反ユダヤ主義が形成されていく。ユダヤ人の側にも迫害に対抗する宗教的熱情が生まれ、それがシオニズムにつながっていくが、すべてのユダヤ人がユダヤ人の誇りを取り戻そうとしたわけではないという。

 近代社会に同化することを選んだユダヤ人もいて、彼らはユダヤ人蔑視の価値観を受けいれ、自らがユダヤ人であることを恥じるようになっていく。著者がその例としてあげるのは、カール・マルクスである。

 カール・マルクスの初期の論文「ユダヤ人問題によせて」は、ユダヤ人の自己嫌悪の知的形態を示す好例である。彼は、「ユダヤ人性」とは宗教でも民族性でもなく、獲得しようとする欲望である、と論ずる。その際に彼は、中部および東部ヨーロッパの膨大な数のユダヤ人プロレタリアートの存在を完全に黙殺し、ユダヤ人と、そのユダヤ人から生まれた宗教であるキリスト教を信じるキリスト教徒とを「敵」と――すなわちブルジョワ資本主義者と――同一視する。マルクスは明らかに、自分自身がユダヤ人であるということから逃避し(彼は六歳のときに洗礼を受けていたが、両親ともユダヤ教のラビの家系である)、反セム主義的なフォイエルバッハの文化的環境に「同化」し、フォイエルバッハのかたよったユダヤ教の定義を採用し、そして、社会主義的国際主義の中にユダヤ的な特殊主義からの避難所を見出したのである。

 マルクス主義がユダヤ教の濃厚な影響を受けていることは多くの論者が指摘するところだが、ユダヤ人の眼から見るとマルクスは裏切者ということになるらしい。

 日本で出ているユダヤ教関係の本は意外に多く、訳者による日本語文献案内は12ページにおよぶが、なぜかボール・ジョンソンの『ユダヤ人の歴史』(最近、徳間文庫から三分冊で再刊された)がはいっていない。あの本は読み物として抜群に面白いし、内容も信頼できると思うのだが、どうなのだろう。

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2008年11月29日

『1冊でわかるカフカ』 リッチー・ロバートソン (岩波書店)

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 2004年に出版された最新のカフカ入門の邦訳である。

 「最新」と断ったのには理由がある。カフカは80年以上前に亡くなっているが、1982年から旧来のブロート版全集とは相当異なる本文を提供する批判版(白水社から刊行中の『カフカ小説全集』はこちらにもとづく)、1997年年からは手稿の写真版を提供するとともに「帳面丸写し主義」に徹した史的批判版という二つの新たな全集の刊行がはじまっている。伝記研究や当時のプラハの状況も解明が進んでいて、従来のカフカ神話の多くが訂正されている。最初の長編小説の題名が『アメリカ』から『失踪者』に変わったことでもわかるように、カフカ像は今なお揺れうごいているのである。

 わたしは一昔前の知識しかもっていなかったので、本書は驚きの連続だった。学生時代にカフカを読んだだけという人はぜひ本書を読むべきだ。

 カフカというと無名のまま死んだ孤立した作家というイメージがある。プラハに住むドイツ語を母語とするユダヤ人というだけでも孤立感があるが、さらにチェコ語の影響を受けた変則的なドイツ語(チェコ・ドイツ語)で書く、ベルリン文壇から無視された地方作家というわけだ。

 ところが本書の第一章によるとカフカは生前から国際的に注目されており、決して無名作家ではなかった。カフカはチェコ語が話せただけではなく、読み書きもできてチェコの文化に親しんでいた。カフカの活躍した前後、プラハ出身のドイツ語作家はリルケを筆頭にベルリンで活躍していたし、カフカの書くドイツ語は完璧な古典ドイツ語だったという。

 カフカの人物について語った第一章につづいて第二章では作品にはいっていくが、ロバートソンは作中に見られる語呂合わせや登場人物の名前の語源調べを「なるほどと思わせる場合であっても、これらのほのめかしは、カフカのテクストを理解するのにほとんど役に立たない」と一蹴している。カフカは個人的にほのめかしを楽しんだかもしれないが、読者はそんなことは理解する必要がないというわけだ。

 第三章は「身体」、第四章は「制度」について入門書の域を越えた立ち入った考察がくわえられているが、特に興味深いのはカフカと宗教の関係を掘りさげた第五章である。カフカが民衆的なユダヤ教から多くを吸収していたことはグレーツィンガーの『カフカとカバラ』に詳しいが、リチャードソンによればカフカは晩年になるにしたがい、ユダヤ教のみならず宗教全般にのめりこんでいった。カフカのキルケゴールに対する関心はブロートのつとに指摘するところだが、リチャードソンはカフカがキルケゴールに注目したのはブロートのいうような深遠な神学的な理由からではなく、自分の同類として支えにしたかったからだとしている。

 1934年の時点で、『審判』の宗教的解釈をめぐって、ベンヤミンとショーレムの間で論争があったというのも興味深い。ショーレムはカフカが描いたのは「神の啓示の光に包まれる世界」だが、そのメッセージが理解できないために成就されない啓示だとしているという。

 本篇も面白いが、「到着の謎」と題された訳者の明星聖子氏による解説はもっと面白い。最初に触れたように、カフカのテキストは旧来のブロート版、1985年に刊行のはじまった批判版、1997年に刊行のはじまった写真版と三つがあるが、明星氏は『城』の冒頭部分を例にその三者がどう違うかを紹介している。

 その違いは恐るべきもので、啞然呆然、眩暈がしてきた。異文がどうのこうのというレベルではなく、そもそも『城』という長編小説が存在したのかどうかさえ不確からしいのだ。カフカ特有の本文問題について、明星氏は『新しいカフカ―「編集」が変えるテクスト』という本を上梓しているということである。読んでみたくもあるが、読むのが怖くもある。

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2008年11月28日

『1冊でわかる文学理論』 ジョナサン・カラー (岩波書店)

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 入門書として有名なオックスフォード大学出版局の Very Short Introductionsが岩波書店から「1冊でわかる」シリーズとして邦訳されている。

 フランス産の文庫クセジュは良くも悪くも百科全書の伝統に棹さしており、とっつきにくい面があるが、こちらは英国産だけに読み物として気軽に読める。もちろん、気軽といっても、内容は本格的である。訳文は読みやすいものもあれば読みにくいものもあるが、わたしが読んだ範囲では文庫クセジュの日本版よりは概して読みやすいという印象を受けた。訳者もしくは斯界の第一人者による解説と文献案内がつくが、どれも中味が濃い。

 好企画だと思うが、「1冊でわかる」という物欲しげな題名だけはいただけない。原著は Very Short Introduction だから、あくまで基礎づくりであり、その先があるのだ。「1冊でわかる」ではなく、「超短入門」とでも訳すべきだったろう。

 さて、『文学理論』である。本書の評判がいいのは知っていたが、「1冊でわかる」という惹句に抵抗があったのと、同じ著者の『ロラン・バルト』(青弓社)がつまらなかったので二の足を踏んでいた。今回、必要に迫られて読んでみたが、評判通り、いい本だった。

 文学理論といえば、なんといってもフランスである。第二次大戦後のフランス批評の隆盛は目覚ましいものがあって、世界の批評はフランスを中心に回っていた。実存主義、ヌーヴェル・クリティック、構造主義、ポスト構造主義というパリの流行の変遷を世界は追いかけた。ブランショ、バルト、リシャール、クリステヴァといった綺羅星のような大批評家が陸続とあらわれ、サルトルやバシュラール、フーコー、ドゥルーズのような哲学者もすぐれた批評を書いた。ロシア・フォルマリズムの再評価やバフチンの発見もフランス発だったし、アメリカのアカデミズムをかきまわしたディコンストラクションや日本のニューアカの流行もフランスの影響なしにはありえなかった。20世紀後半のフランス文学は批評の時代だった。それはフランス文学の歴史の中でも17世紀後半の古典派演劇や19世紀後半の象徴詩に匹敵する特別な期間だったといえる。

 逆説的に聞こえるかもしれないが、本書の価値はフランス批評の影響から距離をとっていることにある。

 ジョナサン・カラーがフランス批評の影響を受けていないということではない。『ロラン・バルト』や『ディコンストラクション』、『ソシュール』という著書があることからわかるように、彼もまたフランス批評にどっぷり漬かっていたはずである。

 本書の第一章はまことに秀逸で、フランスで生まれた理論の要諦を簡潔かつ平明にまとめ、戯画化までほどこしていて、苦笑しながら読んだが、こういう文章はフランス批評に高い月謝を払った人でないと書けない。第一章を読むためだけでも、本書を買う価値はある。

 何が文学で、何が文学でないかを論じた第二章はやや停滞するが、文学とカルチュラル・スタディーズの関係を論じた第三章からまたおもしろくなってくる。

 カルチュラル・スタディーズは一般にはナチスを逃れて英国に移植されたドイツのフランクフルト学派が源流と考えられているが、ジョナサン・カラーはフランス批評と英国マルクス主義の二つを源泉とし、前者を重視する。ロラン・バルトの『神話作用』をカルチュラル・スタディーズの古典と位置づけ、カルチュラル・スタディーズは「文学分析のテクニックを他の文化的素材に応用したものとして育ってきた」と定義している。主流の見方だとは思わないが、一面の真理ではあるだろう。

 第四章以降はカルチュラル・スタディーズという俗な場で鍛えなおした理論を文学に逆輸入する試みにあてられる。フランス発の文学理論をそのままとりあげない点が本書の味噌のようである。カラーの見解にすべて賛同できるわけではないが刺激的であり啓発された。

 サルトルの名前がまったく出てこないが、本書の後半では文学が社会においてもつ実践的な意味が議論されており、サルトルの『文学とは何か』(1947)の問題設定と重なっている。カラーが意識しているかどうかはわからないが、1997年に書かれた本書は『文学とは何か』に対する半世紀遅れの回答といえるのではないか。

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