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2008年10月31日

『輝く断片』 シオドア・スタージョン (河出書房新社)

輝く断片 →bookwebで購入

 大森望氏の編纂による日本オリジナル短編集で八編をおさめる。本邦初訳は三編、単行本初収録が一編である。同じ編者の『不思議のひと触れ』はイノセントな作品が中心だったが、こちらは鬼畜系である。スタージョンにはイノセントな面と鬼畜の面の両面があるのだ。

 「取り替え子」は本邦初訳。日本人にはちょっとなじみの薄い取り替え子譚のスタージョン流のアレンジで、グロテスクな赤ん坊が出てくるあたりが鬼畜だ。

 「ミドリザルとの情事」は艶笑SFとして有名な作品だが、男女の結びつきの多様性を訴えた作品と読むこともできる。マッチョ文化に対する嫌悪があからさまなかたちで出ているが、繊細なスタージョンは成人してから下層階級のマッチョ文化の中でもまれ、鬱憤がたまっていたのだろう。

 「旅する巌」は本邦初訳。奇妙な現象の背後に宇宙人がいたというSFだが、ここにもマッチョ文化嫌悪がはっきり出ている。

 「マエストロを殺せ」は『一角獣・多角獣』所載の「死ね、名演奏家、死ね」の新訳。邦題がずいぶん違うが、原題は「Die, Maestro, Die!」で小笠原豊樹訳の方が忠実である。

 冒頭の段落を比較しよう。まず、小笠原訳。

 おれはとうとう一丁のペンチでラッチ・クロフォードを殺した。これがラッチだ。奴のすべて、奴の音楽、奴のジャズ、奴の聴衆、奴のプライド、何もかもおれの掌中にある。文字通り、掌の中にあるのだ。ピンク色がかったナメクジ状のもの。片方の端に角質がくっつき、反対の側には血がくっついている。それが三本。おれはそれを放り上げ、受けとめ、ポケットに収め、ラッチのテーマ音楽だった《ダブー・ダベイ》を口笛で吹きながら、歩み去った。

 次に柳下訳。

 おいらはとうとうラッチ・クロウフォードをボルトクリッパで殺した。こいつがラッチだ――ラッチのすべて、音楽のすべて、ラッチのジャズ、ラッチの摑み、ラッチの誇りがおいらのてのひらに載っている。文字通りおいらの手の中に――三匹のピンク色のなめくじが一方に爪を、一方に血をつけて載ってやがる。そいつを宙に放り上げて、受け止めて、ポケットにおさめて『ダブー・ダベイ』を口笛で吹きながら歩く。こいつはラッチのテーマだった。

 手の上で弄んでいるものが何かが徐々にわかってくるが、いつわかるかというタイミングが訳の巧拙をわける。

 「ニュースの時間です」は自分の存在を確かめようとして狂っていく男の悲劇で、日本で最近頻発する秋葉原事件のような「誰でもいい」殺人と通底しているかもしれない。

 「ルウェリンの犯罪」は「ニュースの時間です」の喜劇版だが、主人公の暴走の背景には弱虫はいけないというマッチョ文化があるだろう。アメリカの猟奇事件はマッチョ文化に疲れた男が犯すのではないかという気がしてくる。

 最後の「輝く断片」は鬼畜小説の傑作で、伊藤典夫氏の練達の翻訳で読める。キングの『ミザリー』と同じパターンだが、もしかしたらキングは「輝く断片」から着想したのかもしれない。『ミザリー』の場合、ミザリーを作家の熱烈なファンの元看護婦にするといった合理化がはかられているが、「輝く断片」の方は合理化一切なしに一気呵成に語られており、緊迫感と不条理感には目を見張るものがある。

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『不思議のひと触れ』 シオドア・スタージョン (河出書房新社)

不思議のひと触れ →bookwebで購入

 大森望氏編纂による日本オリジナル短編集で十編をおさめる。早川書房から邦訳の出ていた『奇妙な触れ合い』の新訳かと思ったが、重なっているのは二編だけだ。本邦初訳は三編、単行本初収録が二編で、半分は定評のある作品の新訳だった。

 「高額保険」はスタージョンの処女作だそうである。四頁のショートショートだが、純然たるミステリだ。読者をどう引っかけるかだけがポイントの作品だが、誰しも引っかかってよかったと思うだろう。

 「もう一人のシーリア」はSF怪談の傑作で、『奇妙な触れ合い』にはいっている他、いろいろな形で紹介されている。誰か落語に仕立てないか。

 「影よ、影よ、影の国」は以前、SFマガジンに載ったホラーで、懐かしかった。

 「裏庭の神様」はミダス王ものの佳作だが、かかあ天下の夫婦にひねくれた神様をからませたことでダークな笑いが生まれている。

 「不思議のひと触れ」は「奇妙な触れ合い」の新訳である。人魚の仲介するボーイ・ミーツ・ガールで、読後感が爽やかだ。この作品の strange は「奇妙」と訳すより「不思議」の方があっている。

 「ぶわん・ばっ!」はジャズ小説だが、一種の芸道ものといえる。わたしはジャズはまったくわからないが、この作品を読んで「信じられないような上昇グリッサンド」や頭の「蓋が吹っ飛んだ」瞬間がわかるような気がした。つまり、傑作ということである。

 「タンディの物語」は子供と異星人が接触する話だが、異星人に形がないのが味噌だ。形がないのに「ET」以上に異星人の存在を感じさせる。続篇が読みたかった。

 「閉所愛好症」は内向的でヲタクな兄と、外向的でマッチョな弟の話。弟は『トイ・ストーリー』のバズ・ライトイヤーそのままのマッチョな宇宙飛行士だが、結末で価値転換がおこなわれる。マッチョ嫌いのスタージョンらしい作品だ。

 「雷と薔薇」はわたしにとって思い出の深い作品だ。はじめて読んだスタージョンがこれだったのである(『SFマガジン傑作選NO.3』にはいっていた小笠原豊樹訳「雷鳴と薔薇」)。原爆症でヒロインの肌から血がにじみ出し、ハンカチでぬぐってもぬぐっても出血が止まらず、「氷を拭いているようだ」というメタファーが脳裏に焼きついている。

 核戦争後の世界を描いた短編で、人類以外の生物にチャンスをあたえるために人知れぬ活動をつづける人々を描くが、30年ぶりに読んでがっかりした。これだけの話だったのか。

 「孤独の円盤」は『一角獣・多角獣』にはいっていた傑作の白石朗による新訳。筒井康隆の「おれに関する噂」と類似のテーマだが、スタージョンが書くとこんなに情感あふれた話になる。小笠原豊樹訳と比較しておこう。まず、小笠原訳。

 わたしは蹴とばすように靴をぬぎ、砕ける波のなかへ走った。大声で叫びながら、ひらめく白いものをつかんだが、それは指に冷たさを残すただの海水だった。わたしは女のすぐ右側に跳びこんだらしい。波に顔を叩かれて、わたしたち二人がころがった拍子に、女の体がわたしの横腹にぶつかった。目をあけると、緑色がかった白い月のようなねじれたものが、わたしの目の前を通りすぎた。と、わたしの足に吸いこむような砂の表面が触れ、わたしの手が女の髪にひっかかった。

 次に白石訳である。

 ぼくは靴を脱ぎ捨てて、みぎわに駆けよった。大声で叫びながら周囲を手でさぐり、ちらりとのぞいた白いものをつかんだが、指がふれたとたん、それは冷たく塩からい海の水に変わった。どうやらぼくは、女の横を飛びすぎてしまったらしい。女の体がぼくの体に真横にぶつかってきて、同時に波がぼくの顔を叩き、ぼくたちふたりの体を転がした。固く感じられる水のなかであえぎ、水面の下で目をひらくと、波に突き転がされるあいまに、薄緑色の歪んだ月が視界を猛烈な速さで横切っていった。つづいて、吸いこむ力をもつ砂を足がふたたびとらえ、右手が女の髪ともつれあった。

 小笠原訳では主人公は姿勢をかろうじてたもち、その目の前をヒロインが波にさらわれていき、「緑色がかった白い月」のように見えたとなっているが、白石訳では主人公はヒロインとともに波にさらわれて転がり、「薄緑色の歪んだ月」が視界を横切ったとなっている。「月」がヒロインの裸身の比喩的表現なのか、文字通りの月なのか、微妙なところである。ヒロインの髪をつかんだ時、主人公の足が砂にめりこんだとすると彼は姿勢をたもっていたことになり、小笠原訳の解釈の方が適切ということになる。原文を見ていないので、結論は出せないが。

 本書はスタージョンのイノセントな面を代表する作品を選んでいるので、鬼畜系のファンにはもの足りないかもしれない。鬼畜を自認する人は『輝く断片』をお勧めする。

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『海を失った男』 シオドア・スタージョン (河出文庫)

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 若島正氏の編纂による日本オリジナル短編集である。親本は2003年に晶文社から出たが、現在は河出文庫で入手可能。本書の成功のおかげで他の本の出版や復刊が実現したわけで、スタージョン・ルネサンスの端緒を作ったといえる。

 八編をおさめるが、そのうち五編が本邦初訳、一編が単行本初収録である。「ビアンカの手」と「シジジイじゃない」(「めぐりあい」)は小笠原豊樹訳『一角獣・多角獣』で日本に紹介されているが、「ビアンカの手」は若島氏の特に思いいれの高い作品、「シジジイじゃない」は旧訳が省略だらけで原作のおもむきを十分伝えていないという理由で新たに訳されている。

 「ミュージック」は『一角獣・多角獣』に収録されていたが、小笠原訳では抜けていて今回が初訳になる。わずか二頁の作品で、ショートショートというより散文詩に近い。萩原朔太郎の『猫町』にはいっていてもおかしくないかもしれない。

 「ビアンカの手」はスタージョンの代表作であり、あらためて紹介するまでもない。まだ読んでいない人には早くお読みなさいとだけ言っておく。

 今回、若島氏が新訳したわけであるが、どう違うか、同じ箇所を引用しておこう。まず、小笠原訳。

 ごはんをたべさせてもらっているビアンカを、ランは見守る。ビアンカの手は愛らしい貴族のように、決してビアンカにたべものを運ぶことをしない。この美しい二人の寄生虫は、自分たちを支えているずんぐりした体から栄養を吸収するけれども、そのかわりに何かを与えるということは決してしない。一人づつ、皿の両側に横たわり、しずかに脈打っている。ビアンカの母親は、よだれの垂れる大儀そうな口にたべものを運ぶ。

 こちらが若島訳である。

 彼は食べさせてもらっているときのビアンカを眺めた。お洒落な貴族然としている手は、ビアンカに食べさせたりなんかしない。美しい寄生体で、それを支えてくれるずんぐりとした肉体から生き物としての栄養をとり、お返しには何も与えない。皿の両側にぴくぴくしながらじっと控えていて、そのあいだビアンカの母親がよだれを垂らしている無関心な口に食べ物を放り込むのである。

 小笠原訳は手を愛らしく擬人化しているのに対し、若島訳は怪物性を強調しているようである。

 「シジジイじゃない」も両訳を比較しておく。まず、省略が多いという小笠原訳。

 ぼくはしげしげと彼女を見た。彼女はワインカラーのスーツを着て咽喉にマリゴールド色の絹のスカーフを巻きつけていた。その色が頬のあたりのあたたかいオリーブ色と相映じていた。
「きみは素敵だ」適切な言葉を探すのに苦労しながら、ぼくは、ゆっくりと言った。

 同じ箇所が若島訳だとこうなる。

 おれは彼女を見つめた。彼女が着ているのは葡萄酒色のスーツで、喉のところにはキンセンカ色の絹のスカーフがたくしこんである。そこには彼女の顎のあたたかいオリーブ色が映えていた。それを見ていると、おれはまだほんのガキだったころにおばあちゃんが言っていた言葉を思い出した。「さあてと、おまえはバターが好きかな」と言いながら、おれの顎の下にキンポウゲバターカップを差し出して、どれくらいそこに黄色が映えるか見ていたのだ。「きみはいい人だ」おれは必死に言葉を探しながら、ゆっくり言った。

 小笠原訳は不注意ではなく、読みやすくするために確信犯的に省略したのではないかという気がする。省略によって視線が一方向に単純化されているが、若島訳では視線が時間をまたいで交錯しており、世界が重層化している。ただ、この重層化がテーマとどう結びついているかはわからないが。

 「三の法則」はスタージョンの最高傑作『人間以上』につながる短編で、ホモ・ゲシュタルトが音楽のセッションから着想されたことがわかって面白かった。

 「墓読み」は喪の仕事の話である。最愛の妻が浮気相手とおぼしい男といっしょに自動車事故で死んだ。真相をつきとめるために、主人公は墓の読み方を習うという怪奇風味の味つけがしてある。スティーブン・キングがこんな話を書いたら嘘臭くなるが、スタージョンだと心の温かさが伝わってくる。

 「海を失った男」は死にゆく男の意識の流れを記述した作品で、混乱のうちにはじまり、二転三転するが、最後にようやく全体像があきらかになる。フォークナーがSFを書いたらこんな感じになるだろう。主流文学の方でも評価され、権威あるマーサ・フォリー編『Best American Short Stories: 1959』に再録されている。

 なお、アメリカではポール・ウィリアムズによって、厳密な校訂をほどこした『The Complete Stories of Theodore Sturgeon』が刊行中とのこと。没後にきちんとした全集がまとめられるなど、SF作家としては異例である。スタージョンは生前、栄誉に恵まれなかったが、再評価の気運がめぐってきたとすれば、こんなにうれしいことはない。

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2008年10月30日

『ヴィーナス・プラスX』 シオドア・スタージョン (国書刊行会)

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 うっかりしていたが、ずっと絶版だったスタージョンの本が相次いで復刊され、日本で編まれたオリジナル短編集が四冊も出ていた。ついこの間まで古書店で法外な値段がついていた『スタージョンは健在なり』は『時間のかかる彫刻』と改題して創元SF文庫にはいっていたし、名訳の誉れ高い『一角獣・多角獣』まで復刊していた。

 狂い咲きかもしれないが、スタージョン・ルネサンスとでもいうべき状況が生まれていたのである。その真打は長らく翻訳が待たれていた長編『ヴィーナス・プラスX』の刊行だろう。出版不況の中、よく出してくれたものである。

 スタージョンの長編は短編より読みやすいが、本書もすらすら読めた。原文は未読だが、翻訳の日本語は情感がある。

 物語はウィリアム・モリスの『ユートピアだより』そっくりのはじまり方をする。主人公が目を覚ますと未来の地球にタイムスリップしていて、平和が実現された理想的な社会を観光して歩くという趣向である。

 ただし、未来社会の住人はホモ・サピエンスではなく、レダム人という両性具有の別の人類だ。ホモ・サピエンスは核戦争で滅びてしまったらしい。

 レダム社会見聞録と平行して、作品が書かれた1960年頃のアメリカの日常生活が描かれ、例によってマッチョ文化批判が展開される。スタージョンはアメリカの下層階級のマッチョ文化が嫌いなのだ。

 ユートピアもののまま終わるのかと思ったら、クライマックスで物語は急展開し、実はバイオSFだったことがわかる。ネタバレになるので控えるが、スタージョンがこんなストレートなSFを書いていたのかと驚いた。バイオテクノロジーの進歩は著しいから、現在ではこういう荒っぽい設定は無理だろう。その意味で古びているが、それが生々しい味わいにつながっている。

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