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2008年09月28日

『甲骨文字に歴史をよむ』 落合淳思 (ちくま新書)

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 甲骨文字を手がかりに殷代の社会を読みといた本であり、同じ著者の『甲骨文字の読み方』につづく本である。

 殷代を知るには甲骨文字の知識が不可欠だが、甲骨文字を学ぶのにも殷代の知識が必要である。『甲骨文字の読み方』には殷代の社会が簡単に紹介されていたが、本書では甲骨文字が紹介されている。二冊の本は三割程度の内容が重なっているが、もちろん、両方読んだ方が理解は深まる。

 甲骨文字の存在が世に知らされたのは20世紀になってからだが、その時、驚きをもって受けとられたのは、甲骨文字から復元された殷王朝の王の系譜が『史記』の中に残された系譜と一致していたことだった。『史記』の権威はいよいよ高まった。

 という話は甲骨文字の解説文でおなじみだが、実際は若干のズレがあった。その事実にはじめて気がついたのは日本の島邦男で、1950年代に論文に書いているという。

 契~微までの遠祖と中壬・沃丁・廩辛の名前は甲骨文字の記録に見えないが、重要なのは帝乙を祀った形跡がまったくないことである。帝乙とは殷の滅亡をまねいた紂王の父である。一番すくない王でも六回の祭祀をおこなっているのに、実父であり、一代前の王である帝乙を祀った記録がないのは偶然ではすまされない。

 従来、帝乙は文武帝乙の名で二例の記録があるとされていたが、著者によると、記録の一つは周に残っている卜辞であり、もう一つは製作年代の怪しい青銅器の碑銘であって、帝乙の実在の証拠とはならないという。

 改竄したとしたら、誰が改竄したのか。著者は殷を滅ぼした周と、殷の祭祀を継いだ宋が改竄したのだろうと推定している。

 『史記』によれば紂王が自殺した後、周の武王は紂王の子の禄父に殷を継がせた。だが、禄父は反乱を起こし、鎮圧に三年もかかった。禄父の乱に懲りた周公は殷の領土を二分し、紂王の庶兄である微子啓を東半分の宋に封じて殷の遺民を治めさせた。

 しかし、紂王と微子啓の父である帝乙が存在しなかったとすると、話はまったく違ってくる。微子啓は周によって送りこまれた殷王室と無関係な監視者であり、殷の旧領を支配する口実を作るために、帝乙を系譜に押しこんだことになる。

 そこまで言い切っていいのかどうかはわからないが、帝乙の存在が怪しいという島の半世紀前の指摘は重く受けとめるべきだろう。ところが中国ではこの発見は知られておらず、現在進行中の「夏商周断代工程」というプロジェクトも『史記』の絶対化の上に進められているのだという。著者は共産主義が説得力を失ったので、誇大な歴史を捏造してナショナリズムを宣揚していると斬って捨てている。

 著者は立命館大学の出身で、現在も立命館で教鞭をとっている。となると、白川静との距離が気になるが、批判すべきところは批判している。白川の重要な発見である祭器としての「口」について、著者はこう論評している。

「口」に祭器としての用法があることは重要な発見であったが、全てを呪術で一元的に解釈する方法は、確証を得られない仮説でしかない(ちなみに、趙一九八一によれば、「」には口と祭器以外にも、「窓の形」や「抽象的な物体」などを表す用法があるという)。

 著者は学生時代から白川説を批判していたが、学問の上のことだからと、何も支障はなかったそうである。

 意外だったのは日本には甲骨文字研究者が育っておらず、若手で殷代史を専門にしているのは著者だけという指摘である。甲骨文字研究の第一世代には貝塚茂樹・島邦男・池田末利・白川静・赤塚忠という大学者が綺羅星のようにそろっていた。第一世代があまりにも大物ばかりだったので、跡を継ぐ勇気のある研究者が出なかったらしい。

 第一世代の努力によって研究のための基礎が固まったというのに、後続が出ないとはもったいない。研究のツールがそろっている上に競争相手がいないのだから、若い研究者には狙い目だと思う。

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