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2008年09月30日

『昭和を騒がせた漢字たち』 円満字二郎 (吉川弘文館)

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 『人名用漢字の戦後史』の円満字二郎氏が昨年出した本である。『青い山脈』の「變文」騒動から幻の煙草「おおぞら」まで、漢字がからんだ事件をとりあげ、背景にある国民の文字意識を自由と平等の相克という視点から考察している。

 漢字ネタをよくこれだけ集めたものだと思うが、表題の「昭和を騒がせた」は正確には「戦後を騒がせた」だろう。戦前の話題は「八紘一宇」だけで、ほとんどは戦後の、それも1950年以降の事件だからだ。

 1950年が節目になるのは、この頃から当用漢字が普及しはじめたことが関係している。福井県庁の掲示板が「福県庁」になっていたり、朝日新聞や毎日新聞の題字の「新」の横棒が一本多かったり、小学校のブロンズ像の台座の文字の人偏の縦棒が突き抜けていたりといったことが新聞沙汰や裁判沙汰になったりすることは、それ以前にはなかった現象だ。

 新聞題字問題は林達夫がちょっとした皮肉として書いたものだったが、林の意図を越えて大真面目に受けとられ、長期間新聞の投書欄を賑わすことになった。

 当時、新聞協会に加盟していた33紙のうち、27紙の題字が一本多い「新」だったそうだが、その多くは戦前からつづいていた新聞だろう。何十年も前から掲げられていた題字がなぜ急に問題にされるようになったのか。

 子供のお手本になるべき新聞や県庁が学校で教える当用漢字表の字体と違う字体を使っていたから問題になったのだが、著者はそこに自由と平等の相克を見る。

 当用漢字という思想も、軍国主義を敵視するという点で、自由を求めるものではあった。しかしそれは、すべての国民に知識獲得の機会を平等に保証しようというものであったがゆえに、「一時の窮屈」を強制するものでもあった。つまり、自由を求めるためにその前提として平等を欲し、そのために自由に枠をはめるという矛盾を、当用漢字は内部に抱えていたのである。

 当用漢字表の矛盾が普及とともに激化し、それが漢字がらみの事件の続発をまねいたという見方が本書の基本になっている。

 だが、自由と平等の矛盾と一般化すると、問題の所在が曖昧になる。引用中に「一時の窮屈」とあるのは毎日新聞1948年11月8日の「硯滴」というコラムの「当用漢字は、いわば漢字の封鎖であるから、一時は窮屈を感ずることを免れない」にもとづくが、これは漢字の制限をいずれやめるという意味ではない。将来の日本人は漢字を使わなくなるので、漢字制限を「窮屈と感ずる」ことがなくなるという意味である。

 漢字廃止論が笑い話になった現在しか知らない若い人は「一時的制限」を「漢字の制限は一時的」と誤解するかもしれないが、事実はそうではなく、当用漢字表は日本人の改造に失敗したということなのだ。当用漢字表の「当用」とは「当座に用いる」という意味であって、将来的には漢字はまったく使わなくなるはずであった。漢字廃止が実現したあかつきには、当用漢字表の矛盾は克服されるはずであった。

 ところが、著者はこう書いている。

 当用漢字表の論理にとって大事だったのは、情報の受け手のみであって、送り手ではなかったのではないだろうか。だからこそ、情報の受け手の便宜のために、送り手たちは「一時の窮屈」を我慢すべきだ、と考えられたのだ。

 これでは漢字制限は一時的で、教育が普及したら撤廃するみたいではないか。結果的にはそうなったが、それは漢字廃止が失敗し、漢字をあつかえる情報機器が発明されたからであって、当用漢字表施行当時は誰も予想していなかったはずだ。

 前著の『人名用漢字の戦後史』をとりあげた際にもふれたが、漢字廃止・制限をめぐる対立を「民主主義/軍国主義」の二項定立でとらえる見方は間違っている。それは漢字廃止・制限派のプロパガンダであって、陸軍が漢字制限の推進派だったこと、カナモジカイが満洲で中国語をカナ表記させる運動を展開していたこと、インドネシアなど南方の占領地でローマ字による日本語教育がおこなわていたことを隠蔽してしまう。軍国主義に迎合していたのはむしろ漢字廃止・制限派なのである。漢字廃止・制限運動の本質は能率化にあって、だからこそ実業界の支援が得られたのだ。

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『漢字は日本語である』 小駒勝美 (新潮新書)

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 昨年、新潮社から『新潮日本語漢字辞典』というユニークな漢和辞典が出た。普通の漢和辞典は漢籍を読むための辞典で、用例も漢籍からだが、この辞典は『日本語漢字辞典』を名乗ることからわかるように、日本語に使われる漢字を調べるための辞典であり、用例は日本語の文学作品から採られている。

 漢籍に使われる漢字も、日本語に使われる漢字も、同じ漢字ではないかと思うかもしれない。確かにルーツは同じだが、日本に渡来した漢字は犬飼隆『漢字を飼い慣らす』でも述べられていたように、すっかり日本化している。漢字は今や日本語の血肉となっているのだ。

 漢和辞典を作る人は漢学者や中国文学者であるから、漢字の日本化した面を嫌ったり、嫌うとまではいかなくても軽視する傾向がある。日本語のための漢和辞典が求められる所以である。

 本書は『新潮日本語漢字辞典』を企画編纂した小駒勝美氏が漢字に対する蘊蓄をかたむけた本である。

 第一章「漢和辞典はなぜ役に立たないか」は『新潮日本語漢字辞典』の解説と宣伝である。『日本語漢字辞典』には興味があったが、価格が一万円近かったし、今さら紙の辞典なんてと思って買わなかった。だが、この章を読んでちょっと欲しくなった。

 第二章から第五章は漢字豆知識で、使えそうなトリビアがたくさんある。呉音、漢音、唐音の使いわけの法則はなるほとどと思った。ただ、戦前に見られた右横書は「一文字×複数行の縦書」だという指摘はどうなのだろう。欄間額が根拠としてあげられているが、右横書の文字間隔は行間と同じ幅だというような証明がないと納得しにくい。

 第六章「常用漢字の秘密」と第七章「人名用漢字の不思議」は戦後の漢字政策と、漢字政策と同じくらい日本語の文字に甚大な影響をあたえたJIS漢字コードの話である。

 戦後の漢字改革については多くの本が書かれているが、新書レベルでは疑問符のつくような本しかなかった。本書のこの部分は70ページほどしかないが、バランスのとれた公平な記述だと思う。当用漢字の重要な影響として、筆記体と活字体の壁を壊し、混乱をまねた点をあげているのは重要である。その延長に悪名高き「朝日字体」がある。

 「朝日字体」とは朝日新聞社が偏執狂的に活字を作っていた簡略字体を指す業界用語だが、さすがの朝日新聞社も2007年1月から使用をやめている。

 著者はJIS漢字コードの1997年改正の委員会に参加していて、内側から見た97改正を「包摂規準」という「理論武装」をわざわざひねり出しただけで、「ある種の虚しさ」を感じたと書いている。

 わたしは包摂規準を規格に含めたこと自体は歴史的必然だったと思うし、画期的な意義があったと考えているが、97年改正の広すぎる包摂規準については著者と同様、苦しい言い訳という感想をもっている。

 このあたりのことはややこしいので、ここで説明しても何が何だかわからないだろう。本書の177ページ以降にわかりやすく解説してあるので、興味のある人は本書を読んでほしい。

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2008年09月29日

『漢字を飼い慣らす』 犬飼隆 (人文書館)

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 日本語が漢字という難物とどのようにつきあってきたかをふりかえった本で、硬い言葉で言えば日本語表記史である。「漢字を飼い慣らす」とは言い得て妙だが、著者の発明ではなく、恩師の河野六郎氏が講義でよく使っていた言いまわしだそうである。

 日本語表記史の本は十冊以上読んでいて、内容の予想はつくつもりでいたが、本書は違った。類書にない重要な視点が二つ盛りこまれているのである。

 第一は漢字によって日本語がどう変えられたかに注目している点である。これまでの日本語表記史は、漢字をどのように日本語に適応させたかという視点がもっぱらで、日本語の方の変化は偶発的にふれるにとどまっていた。だが、本書は漢字の日本語化を「漢字の飼い慣らし」、漢字による日本語の変容を「鋳直し」と呼び、漢字仮名混じり文の発展を「飼い慣らし」と「鋳直し」のせめぎあいの中でとらえているのである。

 漢字が日本語にあたえた影響というと、撥音(ん)や促音(っ)、拗音(ょ)のような音韻の追加がよくあげられる。現在の日本語の音韻体系は漢字による変容の結果として出来あがっている。

 著者は音韻体系のみならず、語彙体系も漢字によって変化したと指摘する。

 古代日本における漢字と固有語との接触は、固有語の語彙体系を変えてしまう場合もあった。というよりむしろ、現代の私たちが固有の日本語だと思っているものは、実は、もともとの意味用法を漢字という型にはめて「鋳直した」ものだと考えた方が良い。たとえば、文字を「書く」という動詞は、日本語には文字がなかったのだから、固有語には存在しなかった。「かく」という動詞は、「表面をかく(他動詞)」「汗をかく(自動詞)」のような意味用法でもともと存在していた。紙の表面を筆で「かく」動作を漢字という型にはめて「書く」にしたのである。

 目の醒めるような指摘である。同様に古代日本には貨幣はなかったから「買う」という動詞も存在しなかった。「買う」は交換という意味の「換う」を漢字の「買」の型にはめて「鋳直し」したものだという。

 語彙体系が変えられた例としては親族の呼称体系がある。漢語では「伯父」と「叔父」と年齢で区別するのに、大和言葉では「おじ」とひとまとめにすることからわかるように、日本語の親族呼称体系と中国語の親族呼称体系は別物である。漢字によって中国の体系がはいりこんできたことで、日本古来の呼称体系は大きく変化した。著者はこの変化を奈良時代から残っている戸籍という一級史料をもちいてダイナミックに描きだす。この部分は本書の一番の読みどころである。

 第二の視点は視覚的なリズムである。漢字仮名混じり文は単語の互換の部分を漢字、助詞や活用の部分をカナで書くことによって、意識せずとも分かち書き的なリズムが生まれている。すべてカナで書くと区切がわからなくなるので、意識的に分かち書きをして単語の区切を明示しなければならない。

 漢字仮名交じり文のこうした表記システムは一朝一夕に完成したものではなかった。著者は万葉仮名の段階から区切を視覚的に表現しようとする志向が潜み、それがどのように顕在化していったかを各時代の写本を手がかりに論証している。この条もみごとだ。

 本書は日本語表記史に一石を投じるだけでなく、言語と文字の関係についても重要な問題提起をおこなっている。河野六郎の『文字論』以来の本かもしれない。

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2008年09月28日

『甲骨文字に歴史をよむ』 落合淳思 (ちくま新書)

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 甲骨文字を手がかりに殷代の社会を読みといた本であり、同じ著者の『甲骨文字の読み方』につづく本である。

 殷代を知るには甲骨文字の知識が不可欠だが、甲骨文字を学ぶのにも殷代の知識が必要である。『甲骨文字の読み方』には殷代の社会が簡単に紹介されていたが、本書では甲骨文字が紹介されている。二冊の本は三割程度の内容が重なっているが、もちろん、両方読んだ方が理解は深まる。

 甲骨文字の存在が世に知らされたのは20世紀になってからだが、その時、驚きをもって受けとられたのは、甲骨文字から復元された殷王朝の王の系譜が『史記』の中に残された系譜と一致していたことだった。『史記』の権威はいよいよ高まった。

 という話は甲骨文字の解説文でおなじみだが、実際は若干のズレがあった。その事実にはじめて気がついたのは日本の島邦男で、1950年代に論文に書いているという。

 契~微までの遠祖と中壬・沃丁・廩辛の名前は甲骨文字の記録に見えないが、重要なのは帝乙を祀った形跡がまったくないことである。帝乙とは殷の滅亡をまねいた紂王の父である。一番すくない王でも六回の祭祀をおこなっているのに、実父であり、一代前の王である帝乙を祀った記録がないのは偶然ではすまされない。

 従来、帝乙は文武帝乙の名で二例の記録があるとされていたが、著者によると、記録の一つは周に残っている卜辞であり、もう一つは製作年代の怪しい青銅器の碑銘であって、帝乙の実在の証拠とはならないという。

 改竄したとしたら、誰が改竄したのか。著者は殷を滅ぼした周と、殷の祭祀を継いだ宋が改竄したのだろうと推定している。

 『史記』によれば紂王が自殺した後、周の武王は紂王の子の禄父に殷を継がせた。だが、禄父は反乱を起こし、鎮圧に三年もかかった。禄父の乱に懲りた周公は殷の領土を二分し、紂王の庶兄である微子啓を東半分の宋に封じて殷の遺民を治めさせた。

 しかし、紂王と微子啓の父である帝乙が存在しなかったとすると、話はまったく違ってくる。微子啓は周によって送りこまれた殷王室と無関係な監視者であり、殷の旧領を支配する口実を作るために、帝乙を系譜に押しこんだことになる。

 そこまで言い切っていいのかどうかはわからないが、帝乙の存在が怪しいという島の半世紀前の指摘は重く受けとめるべきだろう。ところが中国ではこの発見は知られておらず、現在進行中の「夏商周断代工程」というプロジェクトも『史記』の絶対化の上に進められているのだという。著者は共産主義が説得力を失ったので、誇大な歴史を捏造してナショナリズムを宣揚していると斬って捨てている。

 著者は立命館大学の出身で、現在も立命館で教鞭をとっている。となると、白川静との距離が気になるが、批判すべきところは批判している。白川の重要な発見である祭器としての「口」について、著者はこう論評している。

「口」に祭器としての用法があることは重要な発見であったが、全てを呪術で一元的に解釈する方法は、確証を得られない仮説でしかない(ちなみに、趙一九八一によれば、「」には口と祭器以外にも、「窓の形」や「抽象的な物体」などを表す用法があるという)。

 著者は学生時代から白川説を批判していたが、学問の上のことだからと、何も支障はなかったそうである。

 意外だったのは日本には甲骨文字研究者が育っておらず、若手で殷代史を専門にしているのは著者だけという指摘である。甲骨文字研究の第一世代には貝塚茂樹・島邦男・池田末利・白川静・赤塚忠という大学者が綺羅星のようにそろっていた。第一世代があまりにも大物ばかりだったので、跡を継ぐ勇気のある研究者が出なかったらしい。

 第一世代の努力によって研究のための基礎が固まったというのに、後続が出ないとはもったいない。研究のツールがそろっている上に競争相手がいないのだから、若い研究者には狙い目だと思う。

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『甲骨文字の読み方』 落合淳思 (講談社現代新書)

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 ケータイ絵文字の影響だろうと思うが、最近、文字に対する関心が高まっているらしく、『ヒエログリフを書こう!』とか『マヤ文字を書いてみよう読んでみよう』、『パソコンで楽しむ愛と友情のトンパ文字』といった、およそ実用になりそうもない本が出版されている。

 ただし、文字なら何でもいいというわけではない。フェニキア文字とかデーヴァナーガリ文字など、表音系の文字はお呼びでなく、字形と意味の間に関連のある表意系の文字の人気が高い。確かに目をあらわす文字が目の形をしていれば嬉しくなるものだ。

 面白さという点では甲骨文字はもっと注目されていい。甲骨文字は亀が、林がと象形性が高いだけでなく、「亀」、「林」という現代の漢字に直結しているからだ。「麓」のような複雑な字の甲骨文字字形も、よくよく見れば現代の「麓」そのままである。

(本稿の甲骨文字の字形は16万字の漢字を検索・表示できる「今昔文字鏡」のフォント・サーバーを使わせてもらっている。今昔文字鏡では甲骨文字も異体字の一つという扱いなので、普通に検索できる。)

 甲骨文字にはもっと大きな利点がある。ヒエログリフにしろ、マヤ文字、トンパ文字にしろ、日本語とは縁もゆかりもない言語をあらわすために作られた文字であって、字形の面白さを楽しむ段階より先に進もうとすると、語学という壁が立ちはだかる。実用性に乏しい言語なので、日本語の教本はほとんどなく、英語を介して学ぶしかない。古代エジプト語を勉強してまでヒエログリフを極めようという人はなかなかいないだろう。

 甲骨文字は違う。甲骨文字は一部に後世に伝わらなかった字があるが、大部分は現代の漢字につながっており、漢文の心得があれば文が読めるのだ。

 『甲骨文字の読み方』に掲げられている例文から引く。いずれも実際に出土した甲骨に刻まれていた文である。

王  占  曰  雨

王占ひて曰く、雨ふらんと。

(王は占って言った。「雨は降らないだろうか」)

南  土  受  年

南土、みのりを受くるか。

(南方の土地は収穫を得られるか)

王  夢 子 亡

王、子を夢に見る。むなきか。

(王は子供を夢に見たが、病気にならないか)

 三つとも占いだが、これは偶然ではない。甲骨に刻まれた文はすべて占いなのである。

 占いの結果はほとんどが「吉」か「大吉」だそうである。いい結果ばかりなので本当に占いなのか疑う学者がいたが、著者が骨を火にあぶって再現実験をおこなったところ、骨にヒビがはいりやすくする前加工の段階でどんなヒビがはいるかを操作できることがわかった。占いは政治ショーだったのである。

 なお、巻末には現代の漢字の画数で検索できる簡単な字典がついている。

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『シュメル―人類最古の文明へ』 小林登志子 (中公新書)
『よくわかる!古代文字の世界』 飯島紀 (国際語学社)

シュメル――人類最古の文明へ
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よくわかる!古代文字の世界
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 世界最初の文字は古代メソポタミアで生まれた。文字を生みだしたのはシュメル人だが、どんな系統の言語を話すどんな民族かはわかっていない。現在にいたるまで中近東の一大勢力となっているセム語系の民族や、インド=ヨーロッパ語系の民族でないことは確かで、日本語のように助詞を用いる膠着語系の言語を話していたことから、インダス文明を築いたとされるドラヴィダ人と同系だろうとか、ウラル系の民族だろうとか推測されている。

 しかしシュメル人がどんな社会を作り、どんな生活を送っていたかは細かいところまでわかっている。粘土板文書が残っているからだ。

 『シュメル』は古代オリエント史を専門とする小林登志子氏によるシュメル早わかりである。読み物としてもおもしろいが、文字の誕生と発展、セム語系民族への継承、学校、図書館、読み書き能力、文字と関係の深い印章など、文字関連の話題に多くのページをさいており、シュマント=ベッセラの『文字はこうして生まれた』を補完する本としてお勧めできる。

 シュメル人自身は文字は手紙を書くために作られたと考えていたようである。「エンメルカルとアラッタ市の領主」という叙事詩に文字誕生の経緯が語られているが、それによるとイラン高原の交易都市アラッタにウルクのエンメルカル王が使者を送ったが、使者は王の口上を暗記しきれなかったので文字を発明したというが、暗記しきれないほど長い文章をいきなり書けるはずはなく、あくまで伝説にすぎない。

 著者はシュマント=ベッセラのトークン仮説を有力な説として紹介する。シュマント=ベッセラはコンプレックス・トークンの出現を国家の誕生と結びつけていたが、小林によるとコンプレックス・トークンはウルク期にあらわれ、80%は神殿のあったエアンナ地区から見つかっているという。

 エアンナ地区からはウルク古拙文字と呼ばれる絵文字段階の文字を彫りこんだ粘土板文書が3千枚以上出土している。文書は約1千種の表語文字で書かれ、ほとんどが会計文書である。シュマント=ベッセラ説はこうした考古学的事実に照らしても説得力がある。

 絵文字は縦書で書かれたが、BC3000年頃に楔形文字に変わり、横書になった。表語文字は表音的に使われるようになるとともに、字種数が減少した。表音文字が確立したBC2500年には600字種に減っていた。

 楔形文字は表音的な使い方が主になるが、表語文字としての使い方は最後まで残った。表語文字としての楔形文字は漢字のように部品を組み合わせて一文字が構成されており、日本のシュメル学の草わけだった中原与茂九郎は漢字の六書という分類法を応用して楔形文字を分類した。どちらが影響をあたえたのかはわからないが、人間が考えることはどこでも同じということかもしれない。

 文字の読み書きは書記という世襲職がにない、書記の子弟のための学校があった。学校は 粘土板の家エドゥブバ と呼ばれ、月に24日通った。教科書や練習ノートが出土しており、教科書には生徒の興味を引くためか、子猿が母猿に手紙を出すという物語が載っていた。学校を舞台にした物語が4編残っている。親が教師につけとどけをすると、やかましかった教師が突然やさしくなるという条があるそうで、シュメル人に親近感が湧いてくる。

 書記以外は王族や貴族であっても、読み書きはできなかった。読み書きできる王は珍らしいので史書に特記された。

 シュメル語はシュメルが滅び、セム語系の民族が統治する時代になっても学問語として残った。アッカド帝国を建てたサルゴン王の娘、エンヘドゥアンナ王女はシュメル語で「イナンナ女神賛歌」をあらわすとともに『シュメル神殿賛歌集』を編纂した。

 新アッシリア帝国を隆盛に導いたアッシュル・バニパル王は読み書きができることを誇りにしていて自分を描いた浮彫の腰には二本の葦ペンを彫らせた。王宮の玉座の裏には四万枚の粘土板を収拾した図書館を作り、各文書の最後には王の所有物であることを明記した奥付をつけていた。征服した都市の神殿図書館や個人の蔵書を運んでくるよう命じた手紙も発見されている。乾隆帝のような文人皇帝だったのだろうか。

 

 『よくわかる!古代文字の世界』は楔形文字やヘブライ語、コプト語などの教本を書いている飯島紀氏が書いた古代オリエントの概説書である。

 飯島氏はアカデミックな経歴の人ではない。京大理学部(旧制)を卒業後、松下電器産業で技術畑を歩んだ理系の人で、学生時代セム語の授業を受けたのをきっかけに古代オリエントの言語を独学したようである。専門家からはほぼ無視されていて、古代オリエント語に関心をもつ人たちからは学習に使えないと厳しい評価をされているようである。しかし日本語で読める古代言語の本を継続して出してくれた功績は小さくはないだろう。

 本書は『よくわかる!古代文字の世界』という題名だが、古代文字については図版が多数載っているものの、本文ではほとんどふれておらず、古代オリエント社会の歴史をコンパクトにまとめた本になっている。一冊でシュメル人からヘブライ人まで概観した本は珍らしく、地図と図版が多いことからもお買い得の本と言えよう。

 

 これ以上の知識となると英語の本をあたるしかない。シュメール学の泰斗であるサミュエル・クラメールの『The Sumerians : Their History, Culture, and Character』、『Inanna : Queen of Heaven and Earth』、『History Begins at Sumer』、『Sumerian Mythology』、ションプの『Ancient Mesopotamia : The Sumerians, Babylonians, and Assyrians』、オックスフォード大学出版局から出ている『The Literature of Ancient Sumer』、Society of Biblical Literatureから出ている『Akkadian Grammar』あたりが評判がいいようだ。

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2008年09月27日

『文字はこうして生まれた』 シュマント=ベッセラ (岩波書店)

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 文字の起源論として、現在、最も有力なトークン仮説を、提唱者であるシュマント=ベッセラ自身が一般向けに語った本である。トークン仮説はフィッシャーの『文字の歴史』や菊池徹夫編『文字の考古学』などに言及されているが、本格的な紹介は本書がはじめてである。

 トークンとは中近東の遺跡で大量に出土する粘土製の小物を指す。小指の先からピンポン玉くらいまでの大きさで、形は球形、円錐形、円筒形、三角錐、立方体、円盤とさまざまで、後期には模様を刻みこんだり、動物の頭部を形どったものもある。小さくて大量に出土する上に、遊具と考えられていたので、長いあいだぞんざいにあつかわれていたらしい。保存されている数は遺跡によって開きがあるが、農耕のはじまった8千年前から粘土板文書が作られるようになった千年前まで、およそ3千年間にわたって中近東で広く使われていたのは確かである。

 トークンが注目されるようになったのは、封球ブッラと呼ばれる野球のボールほどの中空の粘土製の容器の中にはいった状態で出土する物が出てきたからだ。しかも封球は印章を捺して封印してあったり、中にはいっているトークンの数と形が分かるように表面に押印してある物まで見つかった。

 こうなると明らかに遊具ではない。ポーカーチップのように、物の数を記録するの使う計算具ではないかという見方が出てきた。神殿に十頭の羊が貢納として納められたら、封球の中に羊をあらわすトークンを十個いれて密封し、表面に行政官の印章と、羊のトークンの模様を十個押印しておくという具合である。

 封球の表面にトークンの模様をトークンの数だけ押印しておくのは、封球を壊さなくても中味がわかるようにするためと考えられるが、そういうことなら粘土板にトークンの模様を押印しても同じである。実際、そういう粘土板が発見されているのである。

 トークンを文字の起源と考えることにはどんな意義があるだろうか。

 素朴な文字起源論では絵から絵文字が生まれ、絵文字から文字が生まれたと考えられている。トンパ文字のような具象性を残した文字が起源に近い文字というわけだ。

 しかし、絵と絵文字の間には深い溝が横たわっている。羊を十頭といっても、さまざまな羊がいる。牧畜社会に暮らしている人なら、われわれよりはるかに羊の個性に敏感だろう。羊の絵から羊の絵文字に飛躍するためには個々の羊の違いを捨象し、羊一般を抽象する操作が必要なのだ。トークンの段階でこの抽象がおこなわれた。文字は絵からではなく、トークンという計算具から生まれたというわけだ。トンパ文字はいかにも原始的に見えるが、案外、漢字の影響で生まれたのかもしれない。

 シュマント=ベッセラは球形や円錐形のような単純な形状のトークンをプレーン・トークン、模様を刻んだり、動物の頭部を形どったような複雑な形状のトークンをコンプレックス・トークンと呼んで区別している。プレーン・トークンは農耕で余剰生産物を蓄積できるようになり、会計が必要になった段階で、コンプレックス・トークンは神殿を中心とする、より複雑な会計が必要になった段階で作られたとしている。

 シュマント=ベッセラによれば、誰もが平等な狩猟採集段階ではタリーと呼ばれる、骨に溝を彫った計算具が使われていたが、農耕で貧富の差が生まれるとプレーン・トークンが使われ、国家の誕生とともにコンプレックス・トークンが使われるようになった。

 トークンの時代の後にトークンと絵文字粘土板を併用する時代がつづき、その後に粘土板だけの時代がくること、トークンに刻まれている模様と同じ模様を刻んだ粘土板文書という物証がある点がシュマント=ベッセラ説の強みだが、まだ定説となっているわけではない。

 トークン仮説が正しければ粘土板文書はコンプレックス・トークンの後に出現したことになるが、コンプレックス・トークンの方が後だという批判があるのである。大半の遺跡はトークン仮説が出てくる前に発掘されたので、トークンがどの層から出たかが曖昧になっているものがすくなくないという事情もあるらしい。

 批判の当否はわからないが、旧石器時代から国家の誕生までを視野におさめたシュマント=ベッセラのトークン仮説が文明の根幹を照射する理論であることに変わりはない。言語学者や考古学者、歴史学者だけでなく、会計の分野からも注目されているというのも当然である(本書の訳者の一人は会計学畑の人である)。


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