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2008年06月29日

『鄧小平秘録』上下 伊藤正 (扶桑社)

鄧小平秘録 →bookwebで購入

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 産経新聞は毛沢東時代の激烈な権力闘争を多くの証言で暴いた名著『毛沢東秘録』を出しているが、本書はその続篇である。著者の伊藤正氏は現在は産経新聞に移っているが、1974年以来、共同通信社の北京特派員をつとめた人で、二度の天安門事件と毛沢東の死の時も北京にいあわせ、本書にも当時の生々しい体験が語られている。

 『毛沢東秘録』は毛沢東の死後、夥しく出版された手記や回顧録をもとに書かれたが、本書も最近出た本と関係者の取材がもとになっている。もちろん、その多くは中国本土では出版できず、香港や台湾で刊行されている。四人組中、ただ一人刑期を満了して出獄した姚文元の回顧録や、第二の天安門事件で失脚後、死ぬまでの15年間、軟禁生活を余儀なくされた趙紫陽のインタビュー集は香港で出版されたというから、一国二制度は無事に機能しているようだ。本書の連載中も情報漏洩はつづいており、第二の天安門事件を策を弄して「反革命暴乱」に仕立てあげた黒幕は李先念だという秘話は最後の章に、毛沢東が遺言で江青を党主席に指名していたという事実はエピローグに書かれている。

 本書は鄧小平の生涯の最大の汚点となった第二の天安門事件からはじまるが、事件の背景に、前年断行された価格自由化の失敗があるという指摘は重要である。

 計画経済で供給が限られているのに、価格を自由化したら物価が高騰するのは当たり前で、実際、その通りになった。価格自由化は鄧小平の承認を受けていたが、物価高騰で国民の不満が高まり、保守派の攻撃が激しくなると、鄧小平は趙紫陽に距離をおきはじめる。趙紫陽は学生が天安門ですわりこみをしている最中に北朝鮮訪問で北京を留守にするという致命的なミスを犯すが、その背景にはある程度騒動が大きくなったところで学生を説得して納め、勢力挽回をはかろうという計算があったようである。しかし、北京を離れている間に、保守派が主導権を握り、「人民日報」に学生運動を「動乱」と決めつけた社説を掲載する。学生側の指導者は運動をコントロールできなくなり、物価高騰で不満を持つ労働者や地方から来た学生が合流したことで、事態はいよいよ暴走をはじめる。

 保守派が学生に対して強硬姿勢を貫いたのは文革の再来を恐れたからだ。保守派といっても、最左翼の文革派はすでに排除されており、事件当時、党中央を構成していたのは文革で迫害を受けたかつての「走資派」だった。鄧小平もその一人である。彼らは「二つの司令部ができた」というように文革時代の言葉で状況を把握しており、権力の座から追われる不安に怯えていたのである。

 血の弾圧後、鄧小平の改革開放政策は停滞する。西側諸国から経済制裁を受けただけでなく、保守派が主導権を握ったために逆流現象が起こったのだ。鄧小平は総書記に保守派を避けて上海の江沢民を指名するが、中央で何の実績もない江沢民は自ら保守派になることでしか権力を維持できなかった。鄧小平は軍権は握りつづけたが、銃と並ぶもう一つの武器、ペンの方は保守派に奪われたままだった。

 第二部では改革解放を決定づけた1992年の南巡講話が語られる。  鄧小平は改革開放政策をもう一度軌道に乗せるために1992年春、南方を旅行し、改革解放の効果があがっていた深圳や上海で重要な講話をおこなうが、これは文革を発動するために毛沢東がおこなった南下をなぞったものだという。走資派で固まった北京に対抗するためには、毛沢東といえども上海で文革の烽火をあげるという方策をとるしかなかったが、鄧小平も保守派の包囲網を突破するために地方から党内世論を動かさざるをえなかったのだ。

 なぜ保守派はこんなに力を持っていたかという謎は第三部以降でわかる。

 第三部では文革で失脚した時点までさかのぼり、復活と二度目の失脚が、第四部では四人組追放後、三度目の復活を果たすまでが語られるが、この時期、鄧小平を守り、後押ししたのが保守派の長老たちだったのだ。

 四人組追放後も、華国鋒ら文革出世組が党中央を握っていたので、鄧小平は復活するまでに一年半かかっている。復活後も、実権派以前として文革出世組の抵抗がつづき、鄧小平が実権を握るまでにはさらに二年かかっている。この間、文革出世組と理論闘争を展開し、鄧小平の権力掌握を助けたのは、後に保守派の中心となって改革解放路線に立ちはだかることになる陳雲だった。歴史の皮肉というしかない。

 第五部では最高権力者になった鄧小平が共産党の正統性の根拠を階級闘争から経済発展に移し、奇跡の成長に邁進する姿が語られる。第六部は鄧小平の没後に吹きだした経済成長の歪みがテーマである。

 上巻巻末に日本に亡命した哲学者、石平氏の「私の見た鄧小平、鄧小平の時代と中国」、下巻巻末にアメリカに亡命した経済ジャーナリスト、何清漣氏の「鄧小平「経済改革神話」の破綻」が収録されているが、どちらもインパクトのある文章である。

 石平氏は『私は「毛主席の小戦士」だった』では鄧小平を独裁者と一刀両断していたが、実際はそこまで割り切れないらしく、複雑な思いを吐露している。

 重要なのは中国の今日の繁栄は鄧小平が復活し、92歳まで生きしたという僥倖の産物だと喝破している点だ。もし鄧小平が文革中に死んでいたら、四人組が追放されたとしても華国鋒ら文革出世組が権力を握りつづけ、金日成後の北朝鮮のような国になっていただろう。また、1988年までに死んでいたら、天安門事件の血の弾圧もなかった代わりに、中国は分裂と混乱の危機におちいり、経済成長どころではなかったろう。そして、1992年以降も長生きしていなかったら、南巡講話はなく、江沢民政権は保守派に逆戻りしていたはずだ。

 中国の今日の繁栄は本当にきわどいところで達成されていたのである。

 何清漣氏の「鄧小平「経済改革神話」の破綻」は、その今日の繁栄が砂上の楼閣にすぎずないことを容赦なく暴いている。

 鄧小平は資本主義を取りいれたといっても、「毛沢東主義を『体』とし、西側の科学技術を『用』とする」という体用論の枠内にとどまり、共産党独裁を維持するための方便にすぎなかった。鄧小平は根っからの共産主義者だという毛沢東の直観は実は正しく、鄧小平の改革解放路線の根本的な欠陥になっているというわけだ。

 共産党独裁は中国社会に安定をもたらした反面、共産党幹部による特権の世襲をまねき、社会的上昇のプロセスを閉ざしてしまった。鄧小平自身、子供たちの官倒行為を見逃すという悪い手本を示した。経済成長と教育の普及にもかかわらず、中産階級が育たず、大学や大学院の卒業者の失業率が高まり、階層対立が激化しているのは、そのためだ。何氏はまた共産党独裁がつづいているために、経済発展が近代的な信用の発達につながっていない点も指摘している。

 何氏は歴史は鄧小平に「最後の独裁者」となる機会をあたえたが、鄧小平は独裁体制の継続を選んでしまったと断罪している。

 中国の繁栄は先が見えたといってよさそうだ。

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