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2008年04月28日

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル・ダナム (講談社インターナショナル)

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 3月10日のラサ騒乱以来、チベット問題ににわかに注目が集まるようになったが、1950年以来のチベット侵略以来、中国によるチベット民族の絶滅政策は60年近くにわたってつづいている。日本の人権団体は社会主義国の人権問題にはふれようとしないので知られていないが、欧米では関心が高く、すぐれた本が多数出版されている。同じアジアの国なのに、チベット問題をとりあげた日本人の著作はすくない。残念ながら、本書も翻訳である。

 本書の邦題は『中国はいかにチベットを侵略したか』となっているが、「チベット武装抵抗史」というべき内容の本である。ダライ・ラマは一貫して非暴力による抵抗を説いてきたが、チベットの抵抗勢力のすべてがダライ・ラマのコントロール下にあるわけではなく、最初の25年間は組織的な武装闘争をおこなったグループが存在したのである。しかし、1971年の米中国交樹立によってアメリカの武器援助が打ちきられ、ネパール国内に逃げこんでいた残存部隊が1974年に中国の圧力でネパール軍に掃討されると、武装闘争の時代は終わりをむかえた。本書はその四半世紀の歴史を関係者の証言によって描いている。

 最初に語られるのは人民解放軍進入前のチベット東部カム地方の牧歌的な情景である。

 カムは現在は半分が四川省に編入されているが、この地方のチベット人は独立心旺盛で気性が荒く、中国と接しているために昔から漢人と衝突をくりかえしてきたという。

 当時、主要な都市には国民党軍が部隊を置いていたが、カム地方領有を主張するための形式的な進駐だったので、兵士の士気はすこぶる低く指揮官は簡単に買収されるというように、なあなあの関係だった。

 そこへ国境内戦に勝利した人民解放軍がはいってきたのである。

 人民解放軍は今では信じられないことだが、当初、懐柔策をとった。僧院には多額の寄進をおこない、高位のラマには最上級の中国茶を贈り、商人からは正当な値段で物を買い、軍用道路の工事の人夫には高額の賃金を支払った。軍は町の外に駐屯し、診療所を開設して無料で診察し、国民党の批判はしても共産主義の宣伝はしなかった。軍の規律は厳しく、カム地方のチベット人は「略奪や脅迫をしない最初の中国兵」を歓迎した。

 だが、1954年にラサに通ずる軍用道路がほぼ完成し、大部隊の移動が可能になると、人民解放軍は本性をあらわした。商人には前のようには支払わなくなり、人夫の賃金は大幅にカットした。人手不足を補うために、強制的にチベット人を駆りだすようになった。僧院に押し入っては財宝を強奪し、経典を土足で踏みにじった。タムジンと呼ばれる糾弾集会を開き、高位のラマを引きずりだしては罵倒し、殴りつけ、仏に助けてもらえと嘲った。

「女性たちは公衆の面前で素っ裸にされ、夫が罪を認めないと彼女たちはその目の前で強姦された。長い間男やもめで過ごしていた中共兵に不服はなく、彼らは喜々として強姦の命に従った。また、夫たちは人びとの前で妻と性交するよう強制される場合もあり、その後たいてい処刑された。そして妻や娘は中共兵に投げ与えられた。
 尼僧もこの暴力から免れることはできなかった。裸にされた僧侶は、これも素っ裸にされた尼僧と性交するように強制され、中共軍はこれみよがしに、“これがチベット仏教とその純潔さだ”と嘲笑った。その後僧侶たちの多くは処刑され、尼僧は中共兵の餌食にされた。年に関係なくいたる所で女性は強姦され、それも何度も犯され、揚句殺されていった」

 こうした辱しめを受けて、誇り高いカムパ族(カム地方のチベット人)が黙っているはずはなかった。彼らは「ミマン」という抵抗運動を組織し、貧弱な武器で人民解放軍に闘いを挑んだ。

 この間、ラサの政府は茫然自失状態だった。カム地方から難民が流入し、ラサの人口がふくれあがっていくのに、何もできなかった。

 ダライ・ラマの長兄で、カム地方有数の規模を誇るクンブム僧院の僧院長をつとめていたタクツェル・リンポチェは一年間の軟禁後、弟に中国帰順を説得するという条件で釈放された。彼はダライ・ラマに面会すると中国の侵略意図をすべて話してインド亡命を勧め、内閣に報告書を提出したが、内閣は小田原評定をくりかえすばかりだった。失望したタクツェル・リンポチェはラサを離れ、インドに亡命した。

 タクツェル・リンポチェをインドで待っていたのはCIAだった。CIAの要請でカンパ族の青年6人が選抜され、秘密裏にグアム島の基地に送られ、ゲリラの訓練を受けた。彼らは半年後、パラシュート降下でカム地方とラサ近郊に潜入し、アメリカ軍から武器弾薬の援助を受けて、武装闘争のテコいれをはかることになる。

 CIAがカンパ族の青年を訓練したというエピソードはジョン・アベドンの『雪の国からの亡命』にちらと出ていたが、機密保護期間が終わったからだろうか、本書ではCIAの関係者も含めて、実名と写真入りで証言が語られている。

 だが、武装闘争といっても、人海戦術の人民解放軍の前には多勢に無勢だった。毛沢東は兵士など消耗品と見なしていて、多少損害をあたえたところで、その何倍もの報復が返ってきた。カム地方最大の僧院で、チベット文化圏最大の金銅仏のあったリタン僧院は爆撃によってリタンの街もろとも吹き飛ばされ、瓦礫の山と化した。

 チベット人に対する暴虐も凄まじい。

 ココノル湖に近いある地区では、千人以上の僧侶が僧院の庭で一斉射撃によって虐殺された。僧院の大半は財宝を略奪され、破壊され、残った材木、石材は中国本土からの移民の住居に充てられた。アムド族は強制労働に送り込まれ、その三分の二は死んでしまった。最も悲劇的だったのは、祖国奉仕という名の強制労働に両親が集中できるよう、何千人という子供たちがトラックに積み込まれて連れ去られ、それを阻止しようとした母親たちが近くの河に投げ込まれていったことだ。五十ヶ国からなるジュネーブ人権調査委員会は、約一万五千人の児童がこうして拉致され、行方不明になったと報告している。

 民族浄化は最初から意図されていたのである。ナチスでさえ、ここまでひどいことはやらなかった。

 新たに反抵抗運動法なるものが施行され、解放運動を支援したとされた人間は“タムジン(公開懲罰)”に晒された。中国本土から漢民族の移民が増大し、チベット人は自国にあって少数民族になってしまった。タムジンで有罪とされた人びとは牢獄に入れられ、実に屡々計画的飢餓、遺棄、病気の放置などで生命を奪われていった。新企画の拷問、殺人が導入され、銃の台尻で頭蓋骨を打ち砕かれたり、鉄箸で眼球を抉り出されたりした。僧侶は毛布でぐるぐる巻きにされ、灯油をかけられて焼き殺されていった。公開去勢や、バーベキュー用棒杭にくくりつけて焼く、尼僧を素っ裸にしてむりやり性交させる、というのもあった。特に中共軍兵士の間で人気があったのは、チベット人を“文明化”“浄化”すると称する兵士たちによる集団レイプであった。彼らはそれを“地上の楽園”と称して楽しんだ。

 本書のクライマックスは1959年のチベット動乱である。ノルブリンカ離宮のダライ・ラマが中国に連行されるという噂が流れて民衆が集まり、人民解放軍の攻撃がはじまる前日、ダライ・ラマは秘かに離宮を脱出し、亡命の途につくが、その間、ラサの民衆と人民解放軍の間で市街戦が戦われた、その時のチベット側の主力がラサに退却していたカンパ族のゲリラだったのである。

 この戦いでチベット側は多大の犠牲を出すが、ダライ・ラマの脱出を知らなかった人民解放軍は、ノルブリンカの数千の死体の中からダライ・ラマを見つけ出そうと一つ一つ首実検したという。ラサに人民解放軍を引きつけていたからこそ、ダライ・ラマはインドに逃れることができたのである。その意味では犠牲は無駄ではなかったわけだ。

 その後もカンパ族ゲリラの抵抗はつづくが、アメリカの援助を失った後の末路は悲しい。一部のゲリラはインド軍に特殊部隊として編入され、中印紛争で戦果を上げるが、所詮、傭兵でしかない。

 ダライ・ラマの非暴力路線にはチベット内部に批判があるというが、大国の思惑でふりまわされたカンパ族ゲリラの歴史をふりかえると、選択肢は他になかったのかもしれない。

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