« 2008年03月 | メイン | 2008年05月 »

2008年04月30日

『チベット女戦士アデ』 アデ・タポンツァン&ジョイ・ブレイクスリー (総合法令出版)

チベット女戦士アデ →bookwebで購入

 1958年から1985年――26歳から53歳――までの27年間、獄中にあったチベット人女性アデ・タポンツァンの生涯をノンフィクション作家のジョイ・ブレイクスリーがまとめた本である。日本ではさっぱり売れなかったようだが、アメリカではベストセラーになったという。

 「チベット女戦士」というとゲリラ部隊の女隊長のような印象を受けるが、そうではない。彼女は夫とともに中国に対する抵抗運動にくわわったものの、もっぱら連絡係で実際の戦闘には参加していないし、夫が毒殺されてからは幼い子供を育てることに専念していていた。

 彼女が逮捕されたのは、彼女の一族が土地の領主であるギャリツァン家の家来筋にあたり、不穏分子と見なされていたからのようである。ちなみに、ギャリツァン家は本書の監訳者ペマ・ギャルポ氏の生家で、ペマ氏の家族も登場する。

 彼女の戦いは生きつづけることにあった。銃を持たない戦いではあったが、監獄と労働改造収容所で27年間生きとおすことは戦場の戦い以上に苛烈だった。彼女は釈放後亡命し、中国のチベット絶滅政策の生き証人としてドイツやデンマークの国会で証言をおこなっている。その限りでは、彼女は中国に対してささやかな勝利をおさめたといえるかもしれない。

 チベットの現代史の本を読んだことのある人なら彼女の体験は目新しくはないだろう。だが、実際に体験した人の聞書はリアリティが違う。たとえば、人民解放軍がチベット侵入直後にとっていた懐柔政策である。

 収穫の時期には、中国兵のグループが、ほほえみながら畑にやって来て手伝いを申しでた。重い荷を運んでいる者を見かけると、兵隊たちはその荷を下ろさせ、
「手伝わせてください。私たちは親戚同士です」
といいながら、かわりに運んだ。彼らが僧院を訪れたときは、
「こんなふうに精神的な修行に励んでいるのは、すばらしいですね」
と僧たちに告げ、銀貨入りの袋の寄贈を申し出た。

 銀貨は一般の民衆にもあたえられたが、後に強制的に返還させられることになる。中国は最初から民衆をだますつもりだったのだ。それにしても、武骨な兵士が一糸乱れず猫なで声の演技をしている情景は背筋が寒くなってくる。

 「民主的改革」の実情もようやくわかった。中国人は乞食に制服と銃をあたえて「新幹部」にとりたて、土地の名士や裕福な人間や僧侶は敵だと徹底的に教えこみ、民衆の監視にあたらせた。悪名高きタムジン(吊るし上げ集会)に犠牲者を引っぱってくるのも彼ら「新幹部」の役目だった。中国は最下層の人間の復讐心を煽り立てることで、密告社会をやすやすと作りあげたのだ。

 人民公社の中の生活も細部にわたって語られているが、オーウェルの『動物農場』そのままで、笑ってしまった。

 労働改造収容所の生活はソルジェニーツィンの描くソ連の収容所とよく似ている。囚人を無償で使える労働力としてこきつかうのも、ソ連と同じである。ソ連の収容所には社会革命党員が古参の囚人になっていたが、中国の収容所では国民党員がその位置にあった。国民党員は釈放されても帰る場所がないので、刑期が終わっても収容所にいつづける例が多かった。

 1967年には医師団がやってきて、体力のある囚人を選んで大量に血を抜き、栄養失調のまま体力を弱らせる人体実験がおこなわれた。それで死んだ囚人が多い。まるでナチスである。

 悲惨な話がつづくが、どこかマンガ的であり、なぜそんなことをやるのか理解に苦しむようなことばかりだ。中国共産党は狂っているとしか言いようがない。

 1979年にはじまる胡耀邦の開放政策で囚人の暮しは緩和され、1985年にアデは釈放されることになる。まずはハッピーエンドといえるが、獄中で死んでいった多くのチベット人を考えると、ハッピーエンドなどとはいえまい。

 こんなことをする中国共産党が権力を握りつづけるとは思えない。独裁国家がオリンピックを開催すると、9年後に滅びるという説があるが(ナチスドイツは1936年にベルリン大会を開き、1945年に敗戦。ソ連は1988年にモスクワ大会を開き、1987年に解体)、ナチスドイツやソ連があっけなく崩壊したように、中国だって崩壊しないとは限らない。その時には身の毛のよだつような事実がごろごろでてくることだろう。

→bookwebで購入

『チベットの核―チベットにおける中国の核兵器』 チベット国際キャンペーン (日中出版)

チベットの核―チベットにおける中国の核兵器 →bookwebで購入

 中国の核兵器というと、まず、新疆ウィグル自治区(東トルキスタン)が思い浮かぶ。中国は楼蘭遺跡で有名なロプノールの砂漠地帯を核実験場にして、46回の大気圏核実験をおこない死の灰を撒き散らした。ロマンあふれるシルクロードは実は放射能汚染地帯であり、ウィグル人の村では「奇病」が頻発し、奇形児誕生率や悪性腫瘍発生率が他の地域に住む漢人より著しく高いという(英国Channel4の製作したドキュメンタリー「シルクロードの死神」、水谷尚子『中国を追われたウィグル人』)。

 だが、本書『チベットの核』によると、放射能汚染の被害はウィグル人だけでなく、チベット人やモンゴル人も受けているという。中国の「核関連施設(実験場、処理工場、兵器製造工場)はすべて非漢民族居住地域に置かれるのが通例」となっているからだ。

 本書をまとめた「国際チベットキャンペーン」(The International Campaign for Tibet)は1988年にワシントンDCに設立されたNGOで、リチャード・ギアが理事長、チベット問題に詳しいジャーナリストのジョン・アックリーが代表をつとめている(「チベットのための国際運動組織」と訳している本もある)。グリーンピースの幹部が序文を寄せているが、グリーンピース系というわけではなさそうだ。チベットの現地調査や、核関連施設の視察までもが許されているから、かなり影響力のある団体といえる。

 チベットと核の係わりは1958年に、第九研究所(第九学会、211工場とも呼ばれている)が青海省(アムド)海北チベット族自治州海晏県に建設されたことにはじまる。第九研究所は中国のロス・アラモスというべき核兵器開発の中心的な機関で、1970年代半ばまでの中国の核兵器はここで設計製造されたと見られている。周辺には核関連工場が集まり、そのため海晏県の工業生産額と平均所得は青海省の他の県の倍以上ある。

 問題は研究所が青海湖(ココノール湖)から16kmしか離れていない湿地帯に作られたことだ。研究所と関連施設から出る核廃棄物は通常のゴミを埋めるのと同じような浅い穴に投棄され、土で覆うことすらしていなかったという。放射能をおびた粉塵が飛び散った可能性が高いし、地下水は確実に汚染されただろう。

 たまたま海晏県を含む三つの県で、中国人とチベット人の遺伝的近縁性を証明するプロジェクト(チベット併合の正当化のためだろう)のために2000人の血液サンプルの採取がされた。現地で採取にあたったチベット人女医は白血病が多いことに気がついたが、血液サンプルで放射線の影響を調査することはできなかった。

 また、研究所周辺で放牧した家畜の肉は販売が禁止されていた。漢人は禁止をよく守っていたが、チベット人はなぜ食べてはいけないかを説明されていないので平気で食べていたという。

 青海省にはウラン鉱山が多数あるが、ここでも汚染が起きている。阿壩チベット族自治州のウラン鉱山周辺の住民は3年間で500人以上が激しい下痢と高熱で死んだ。そんな病例は過去にはなかったという。

 甘南チベット族自治州の鉱山では有毒性の廃水はいったん石製の貯蔵プールにためてから河川に放流された。ここでも1988年から91年にかけて原因不明の病気で住民が50人以上死んでいる。家畜の変死や植物の枯死も起こっている。

 こんなやりとりが紹介されている。地元のチベット人がウラン鉱山の中国人の役人に鉱毒でチベット人が死んでいると抗議したところ、役人は「川は汚染されていない」ととりあわない。

 チベット人は、川の水の入ったコップを役人の前に突きだした。

「では飲んでみせろ」

 中国人役人は後ずさりした。

「川の水は、人間が飲めないほど汚染されている」

 笑い話のようだが、現地のチベット人にとっては笑いごとではすまされない。

 1980年代にはドイツや台湾の使用済み核燃料を中国が有償で引きとる話がすすんでいたという。両方とも途中でつぶれたが、核のゴミの貯蔵場所が新疆かチベットになるのは確実だったと見られている。

 核関連の話は機密中の機密なので、本書の記述には留保が多く隔靴掻痒の感が否めないが、核汚染の被害がチベットでも広がっていることは事実と見ていいだろう。

→bookwebで購入

2008年04月29日

『チベット白書―チベットにおける中国の人権侵害』 英国議会人権擁護グループ (日中出版)

チベット白書―チベットにおける中国の人権侵害 →bookwebで購入

 英国議会は1976年に国際的な人権擁護のために上下両院合同で「英国議会人権擁護グループ」(The Parliamentary Human Rights Group)という委員会を設立したが、本書は1987年のラサ騒乱後、この委員会に提出された報告書の邦訳である。初版は1989年に刊行されているが、2000年に改訂新版として再刊するにあたり、刊行後10年の状況を翻訳者の一人である酒井信彦氏が解説した「その後のチベットと日本の対応」が追加されている。

 報告書はチベットの地誌と歴史について簡単な説明をおこなった後、中国のチベット支配の歴史を「1950~79年」、胡耀邦の開放政策のはじまった「1979~83年」、「1983~87年」の三期にわけて叙述し、その後に政治犯や教育、移動の制限、漢人の移民奨励と中国化政策、産児制限の強制、鎮圧されたラサの状況を述べている。英国議会の報告書であるから、情報の信頼性はきわめて高いと思われる。

 国際的に注目された1987年のラサ騒乱の背景を解明するためにまとめられたものなので、胡耀邦の開放政策の実態解明が主要なテーマとなっている。文章は平明かつ明解で、あっという間に読めるが、内容は重い。

 記憶に残った箇所を引いてみる。まず、中国のチベット支配は暗黒の封建体制からチベット人を開放したとする中国の主張について。

 一方チベットは、農奴を支配し、時代遅れの封建制を持続させるための身の毛もよだつ刑罰と宗教的堕落とによって、ボロボロになった中世社会であったという中国の主張に荷担する解説者もいなくはない。しかし、注目すべきことは、中国のプロパガンダにそうした話が含まれるようになったのは、一九五九年の蜂起後であり、それ以前の中国の主張は、チベットは中国の一部であり、また常に歴史的に一部であったという議論にのみ頼っていたのであるから、その残虐な行為云々の主張はおそらく、自らの占領をさらに正当化する手段に用いられるために作り出されたのであろう。
 一九六〇年に法学者国際委員会(The International Commission of Jurists)は、一九五〇年以前はチベットに人権は存在しなかったという、中国の申し立てを却下した。ヒュー・リチャードソンは次のように言っている。「生きた人間の皮をはいだり、手足を切り落としたりという話を私は信じない。中国による占領以前にそんな申し立てがあったということを聞いたことはない。」

 宗教弾圧は胡耀邦時代になって緩和され、破壊され寺院の修復が行なわれたのは事実だったが、それは観光のためにすぎないと喝破している。

 中国の姿勢がこれだけ改善されてきても、チベット人の満足からはほど遠い。その理由を理解するのは難しいことではない。外国人観光客や報道関係者の目につきそうな寺や僧院だけが修復されているのである。その結果、ほとんどの人々は長い旅をしなければ、宗教行事に参加できないのである。難民の証言によれば、僧院を管理する僧侶たちは戒律を捨てており、もはや人々に尊敬されてはいないという。「まやかし」の行事が外国人を楽しませるために仕組まれていると報告されており、真実の礼拝は特別に定められた日のみに制限されている。

 中国の環境破壊は最近世界的な関心を呼んでいるが、チベットではすでに1980年代にはとりかえしのつかないところまで進んでいた。その原因はチベットの気候を無視した無茶な農業政策と略奪的な林業政策にある。

 近年のこうした改革にもかかわらず、それまでの農林政策の失敗によって、大地の荒廃は広がり、チベットは大変に苦しんでいる。森林の伐採は非常に広い地域で実行され、中国は一九五九年以来、二〇〇〇億元(三三〇億ポンド=七兆五九〇〇億円)もの利益を得てきた。この作業は、時には強制労働によって実行された。パオ・タモでは二〇年以上もの間、毎年五〇〇万立法メートルの木材が、主に囚人によって切り倒され、中国に輸送されたとの報告がある。広漠たる森林がこれまでに切り倒され、しかも植林の計画はまったくない。
 このような荒廃は重大な土砂の流出と、筆舌に尽くしがたい生態系の破壊を生み出してきた。五〇年代の中国のチベット侵入以後、それまでの豊かだった野生動物は、現況では回復の見込みがないほど、組織的に殺戮された。

 民族浄化政策の背後に王化思想があることも、報告書は正確に見抜いている。

 チベットの中国化は、疑いもなく北京政府の最終目標である。この政策をジョーン・ギッティングは次のように説明している。
「中国化の背後にある思想は、中国文化は優れた文化という漢人の思い上がりである。その思想は漢人の意識の非常に深層部分に組み込まれているので、人種差別に近い家長意識にもほとんど気がつかない。それだけに改心し難いものになっている」。
 その結果、中国語と中国文化の支配をさらに強固なものにする試みばかりでなく、チベットの歴史とチベット文明を払拭しようとする多くの試みが存在することになるのである。

 胡耀邦の開放政策は文化大革命期の弾圧から較べればましだが、所詮見せかけにすぎず、チベット人の不満が爆発するのは必然だったというのが結論である。

 20年前に書かれた報告書なのに、今読むと、ことごとく当たっていることに驚かされる。英国の情報分析能力はすごい。

 この報告書の後、江沢民時代がはじまる。六四天安門事件の大虐殺の後、江沢民はもはや共産主義では中国をまとめられないと思い知り、ナショナリズムを新たな統一原理にしようとして愛国主義教育、反日教育を進めたが、ナショナリズムの鼓吹はチベット人にとっては弾圧の時代への逆戻りを意味した。その間の経緯を解説したのが改訂に当たって追加された「その後のチベットと日本の対応」である。日本もチベットも中国に隣接して独自の高度な文明を築いてきた。チベットで起こったことは決して遠い国の出来事ではないのである。

→bookwebで購入

『チベット入門 改訂新版』 ペマ・ギャルポ (日中出版)

チベット入門 改訂新版 →bookwebで購入

 長らくダライ・ラマ法王日本代表部事務所代表をつとめ、最近はTVでコメンテーターとしても活躍しておられるペマ・ギャルポ氏の最初の著書である。初版は1987年に出たが、1991年と1998年に内容を増補し、現在も店頭にならんでいる定評のある本である。

 刊行当初は反中国のプロパガンダ本あつかいされたらしいが(そういう時代だったのだ)、その後出た多くのチベット現代史の本と照らしても本書の内容に疑問はなく、信頼できる本といっていいだろう。

 本書は増補された部分を別にすると、三つの部分からなっている。チベット亡命政府代表団の一員として1980年に故国チベットにはいった際の報告である「チベット紀行」、チベットの地誌・国情・宗教・文化を解説した「チベットとは」、紀元前2世紀の建国から現在までの歴史を簡潔に記述した「チベット小史」である。

 「チベット紀行」と「チベット小史」はチベット人自身によるチベット早わかりであり、とてもコンパクトにまとまっている。類書が多く出ている現在でも価値を失っていないだろう。

 だが、本書の一番の読みどころは「チベット紀行」である。文化大革命の後、胡耀邦が総書記となって開放政策を進めた時代があった。チベットは文化大革命で壊滅的な傷を負ったが、胡耀邦はチベット政策の誤りを一部認め、制限つきながら宗教弾圧を緩和した。さらにチベット亡命政府と対話するために、1980年に亡命政府の代表団のチベット入国を3度受けいれた。ペマ氏は第二次代表団として香港、北京経由でチベット入りし、二ヶ月間調査旅行を許された。

 21年ぶりに訪れた故国は変わり果てていた。6000あった僧院は99%が破壊され、残った僧院も内部は荒らされ、経典は踏みにじられ、仏像や仏画は強奪され、ようやく修復がはじまった状態だった。

 街には中国語の標識や看板しかなく、ようやく見つけたチベット語の表示は男子トイレの表示だった。

 かつてチベットで最も肥沃だったダヤブ県の農地はチベットの気候を無視した農業政策のために荒れ、最も貧困な地域になっていた。

 チベット人の失業率は高く、商店を開こうとすると法外な税金をとられた。漢人はあらゆる面で優遇され、移民が奨励されていたので、ラサは漢人の街に変わっていた。チベット人は自分の国なのに、少数民族にされてしまっていたのである。

 子供の名前は僧侶につけてもらうのが伝統だったが、僧侶は多くが殺されたので、僧侶のいない地区では親が自分で名前をつけなければならなかった。そのため「七・五」とか「六・十三」のような変な名前の子供がすくなくなかった。

 教育現場も悲惨だった。チベット自治区では長らく禁止されていたチベット語教育は開放政策で解禁されたが、青海省や四川省、甘粛省に編入された地区では中国語の教育のみで、学校でチベット語を使うことは禁じられていた。学習内容の中心は共産主義で、教師にはチベット人もいたが、二年から三年の教育しか受けていないので小学校レベルの学力しかなかった。インテリを皆殺しにして、子供たちに洗脳教育をほどこすのは共産主義政権の常であるが、チベットではそれが固有文化破壊のために使われていたのである(チベット人がヒマラヤ越えの危険をおかしてまで、子供をインドに亡命させる背景には教育事情があったのだ)。

 これだけ虐待されているのに、民衆の信仰心は衰えておらず、僧侶が一人もいなかったにもかかわらず、代表団を拝み、祝福を受けようと殺到してきた。涙なくしては読めない条である。

 本書は改訂版刊行にあたって「中国の「チベット一二〇万人虐殺」」とダライ・ラマのノーベル平和賞受賞記念講演が追補されている。

 ダライ・ラマの講演は短い中にも意を尽くしたもので、ぜひ一読してほしいが、「中国の「チベット一二〇万人虐殺」」も重要な論文である。本篇の「チベット小史」はチベットの悲惨な状況がまったく知られていない時期に書かれたせいか、かなり遠慮した書き方になっていたが、こちらの文章ではその後に判明した事実をくわえて、中国の民族絶滅政策に対し真っ向から抗議している。まことに鬼気迫る文章であって、日本人に対する警鐘ともなっている。心ある人は、この部分だけでも読んでほしい。長野の五星紅旗の林立した聖火リレーの異様な光景に、チベットは明日の日本かもしれないと恐くなった。

→bookwebで購入

2008年04月28日

『囚われのチベットの少女』 ブルサール&ラン (トランスビュー)

囚われのチベットの少女 →bookwebで購入

 オリンピックの聖火をめぐる騒動で中国という国家の本質がはしなくも白日の下にさらされたが、聖火リレーに対する異議申し立ての口火を切ったのがフランスだったことに日本では戸惑いがあったようである。なぜフランスが遠く離れたチベットに関心をもつのかという疑問に、ある人は人権宣言の国だから人権問題に敏感なのだろうと答え、別の人は中国の経済的成功に嫉妬しているのだろうと答えていた。

 だが、フランスが最初に異議申し立てをしたのは不思議でもなんでもない。日本では人権を商売にする人たちが社会主義国の人権問題を隠そうとしているのであまり知られていないが、フランスは以前から一貫してチベット問題に強い関心を寄せていたのである。

 たとえば、本書の主人公であるガリ僧院の尼僧、ガワン・サンドルである。フランスでは彼女は「チベットのジャンヌ・ダルク」として広く知られ、何人ものミュージシャンが彼女をテーマにした歌を作っている。多くの文化人や百人以上の国会議員が彼女の釈放をもとめたアピールに署名し、中国大使館にもちこんでいる。1998年には時のヴェドリンヌ外相が社会党の国会議員宛書簡で次のように書いている。

「政府は、ガワン・サンドルの状況、そして彼女の長期にわたる拘留による、フランスでの反響の重大さを認識しております。この若いチベット人の囚人を含む政治犯の扱いに関して、両国間の会議ごとに、あるいはヨーロッパ・中国会議の折に、中国政府に質すことにします」

 本書もまた二人のフランス人によるもので、原著は2001年9月に出ている。ガワン・サンドルは1978年生まれなので、原著が出た時点では23歳だったが、13歳の時から10年間獄中にあった。当然、著者たちは彼女に会っていない。本書はインドに亡命してきた彼女を直接知る人々に取材して書かれている。

 13歳の少女を政治犯として刑務所にいれるとは唖然とするしかないが、彼女が最初に投獄されたのは10歳の時だった。この時は一年で釈放されているが、罪はノルブリンカの祭りで仲間の尼僧らとともに「チベット独立」と叫んだことだけである。その程度のことで10歳の少女をなぜ刑務所にいれる必要があるのか。中国共産党は何におびえているのか。

 彼女は、だが、刑務所の中で筋金入りの独立運動家になっていく。ダブチ刑務所に収監された翌年、彼女は同房の尼僧たちとともに秘かにカセットテープに独立歌を吹きこみ、それが外部に持ちだされ、欧米で彼女の存在が知られるようになった。

 まずは成功といえるが、代償は大きかった。3年だった刑期は6年延長され、9年になった。その後、1996年に看守に反抗したという理由で8年延長、1998年には5年延長され合計22年となり、次は死刑だと裁判官に警告された。13歳で下獄した少女は35歳にならなければ出獄できなくなったのだ。

 ジャン・バルジャンなみだが、ジャン・バルジャンはパンを盗むという罪を犯していたのに対し、ガワン・サンドルは「チベット独立」という言葉を口にしただけである。それが共産主義だといえば、それまでであるが。

 本書を読むと、チベット抵抗運動とチベットの僧院の置かれた状況、中国の監獄の状況がよくわかる。

 チベットの僧院には「再教育班」がたびたびやってきて、数日から数週間とどまり、共産主義の教義と中国の視点で再構成されたチベット史の洗脳教育をおこない、最後にテストをするという。僧院にとどまるためには、このテストに合格しなければならない。

 刑務所は政治犯の区画と一般囚の区画にわけられ、政治犯の監房には一般囚が一人まぜられる。もちろん、スパイさせるためだが、多くの一般囚は政治犯に感化され、めったなことでは密告しないという。

 しかし、まったく密告しないと処罰が待っている。尼僧たちを尊敬し、あくまで密告を拒否したツェヤンという17歳の娘は看守に追いこまれ首吊り自殺している。

 国際的な監視の眼があるので、獄中の尼僧を集団レイプするようなことはなくなったが、暴力は日常茶飯事で、何時間もぶっつづけに体操をさせるというような合法的な拷問もおこなわれた。食事や寝具が劣悪なことはいうまでもない。

 欧米の人権団体がダブチ刑務所を視察したことがあるが、もちろんすべては見せていない。独房や訊問室は隠したし、政治犯も見せていない。共産主義国のやりそうなことだ。

 ひどい話の連続で、神経がまいった。一日で読める程度の薄い本だが、ページをめくるのがつらくなり、一週間以上かかって何とか読みとおした。並の神経の人は読まない方がいい。それにしても、ガワン・サンドルをはじめとするチベットの尼僧たちはなんという強靭な精神力を持っているのだろう。

 唯一の救いは、本書の邦訳が出た5ヶ月後の2002年10月、江沢民訪米にあわせて彼女が釈放されたことだ(ダライラマ法王日本事務所の彼女のページによる)。10年の獄中生活で彼女の体はボロボロになっており、釈放から半年後、病気の治療のためにアメリカにわたり、現在はヨーロッパで活動しているということである(ロンドンの中国大使館前で抗議するガワン・サンドル)。

 彼女はたまたま国際的に有名になったから救われたが、チベットの監獄の中には多くの政治犯が虐待を耐え忍んでいる。日本のマスコミはなぜこうした事実を伝えようとしないのか。

→bookwebで購入

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル・ダナム (講談社インターナショナル)

中国はいかにチベットを侵略したか →bookwebで購入

 3月10日のラサ騒乱以来、チベット問題ににわかに注目が集まるようになったが、1950年以来のチベット侵略以来、中国によるチベット民族の絶滅政策は60年近くにわたってつづいている。日本の人権団体は社会主義国の人権問題にはふれようとしないので知られていないが、欧米では関心が高く、すぐれた本が多数出版されている。同じアジアの国なのに、チベット問題をとりあげた日本人の著作はすくない。残念ながら、本書も翻訳である。

 本書の邦題は『中国はいかにチベットを侵略したか』となっているが、「チベット武装抵抗史」というべき内容の本である。ダライ・ラマは一貫して非暴力による抵抗を説いてきたが、チベットの抵抗勢力のすべてがダライ・ラマのコントロール下にあるわけではなく、最初の25年間は組織的な武装闘争をおこなったグループが存在したのである。しかし、1971年の米中国交樹立によってアメリカの武器援助が打ちきられ、ネパール国内に逃げこんでいた残存部隊が1974年に中国の圧力でネパール軍に掃討されると、武装闘争の時代は終わりをむかえた。本書はその四半世紀の歴史を関係者の証言によって描いている。

 最初に語られるのは人民解放軍進入前のチベット東部カム地方の牧歌的な情景である。

 カムは現在は半分が四川省に編入されているが、この地方のチベット人は独立心旺盛で気性が荒く、中国と接しているために昔から漢人と衝突をくりかえしてきたという。

 当時、主要な都市には国民党軍が部隊を置いていたが、カム地方領有を主張するための形式的な進駐だったので、兵士の士気はすこぶる低く指揮官は簡単に買収されるというように、なあなあの関係だった。

 そこへ国境内戦に勝利した人民解放軍がはいってきたのである。

 人民解放軍は今では信じられないことだが、当初、懐柔策をとった。僧院には多額の寄進をおこない、高位のラマには最上級の中国茶を贈り、商人からは正当な値段で物を買い、軍用道路の工事の人夫には高額の賃金を支払った。軍は町の外に駐屯し、診療所を開設して無料で診察し、国民党の批判はしても共産主義の宣伝はしなかった。軍の規律は厳しく、カム地方のチベット人は「略奪や脅迫をしない最初の中国兵」を歓迎した。

 だが、1954年にラサに通ずる軍用道路がほぼ完成し、大部隊の移動が可能になると、人民解放軍は本性をあらわした。商人には前のようには支払わなくなり、人夫の賃金は大幅にカットした。人手不足を補うために、強制的にチベット人を駆りだすようになった。僧院に押し入っては財宝を強奪し、経典を土足で踏みにじった。タムジンと呼ばれる糾弾集会を開き、高位のラマを引きずりだしては罵倒し、殴りつけ、仏に助けてもらえと嘲った。

「女性たちは公衆の面前で素っ裸にされ、夫が罪を認めないと彼女たちはその目の前で強姦された。長い間男やもめで過ごしていた中共兵に不服はなく、彼らは喜々として強姦の命に従った。また、夫たちは人びとの前で妻と性交するよう強制される場合もあり、その後たいてい処刑された。そして妻や娘は中共兵に投げ与えられた。
 尼僧もこの暴力から免れることはできなかった。裸にされた僧侶は、これも素っ裸にされた尼僧と性交するように強制され、中共軍はこれみよがしに、“これがチベット仏教とその純潔さだ”と嘲笑った。その後僧侶たちの多くは処刑され、尼僧は中共兵の餌食にされた。年に関係なくいたる所で女性は強姦され、それも何度も犯され、揚句殺されていった」

 こうした辱しめを受けて、誇り高いカムパ族(カム地方のチベット人)が黙っているはずはなかった。彼らは「ミマン」という抵抗運動を組織し、貧弱な武器で人民解放軍に闘いを挑んだ。

 この間、ラサの政府は茫然自失状態だった。カム地方から難民が流入し、ラサの人口がふくれあがっていくのに、何もできなかった。

 ダライ・ラマの長兄で、カム地方有数の規模を誇るクンブム僧院の僧院長をつとめていたタクツェル・リンポチェは一年間の軟禁後、弟に中国帰順を説得するという条件で釈放された。彼はダライ・ラマに面会すると中国の侵略意図をすべて話してインド亡命を勧め、内閣に報告書を提出したが、内閣は小田原評定をくりかえすばかりだった。失望したタクツェル・リンポチェはラサを離れ、インドに亡命した。

 タクツェル・リンポチェをインドで待っていたのはCIAだった。CIAの要請でカンパ族の青年6人が選抜され、秘密裏にグアム島の基地に送られ、ゲリラの訓練を受けた。彼らは半年後、パラシュート降下でカム地方とラサ近郊に潜入し、アメリカ軍から武器弾薬の援助を受けて、武装闘争のテコいれをはかることになる。

 CIAがカンパ族の青年を訓練したというエピソードはジョン・アベドンの『雪の国からの亡命』にちらと出ていたが、機密保護期間が終わったからだろうか、本書ではCIAの関係者も含めて、実名と写真入りで証言が語られている。

 だが、武装闘争といっても、人海戦術の人民解放軍の前には多勢に無勢だった。毛沢東は兵士など消耗品と見なしていて、多少損害をあたえたところで、その何倍もの報復が返ってきた。カム地方最大の僧院で、チベット文化圏最大の金銅仏のあったリタン僧院は爆撃によってリタンの街もろとも吹き飛ばされ、瓦礫の山と化した。

 チベット人に対する暴虐も凄まじい。

 ココノル湖に近いある地区では、千人以上の僧侶が僧院の庭で一斉射撃によって虐殺された。僧院の大半は財宝を略奪され、破壊され、残った材木、石材は中国本土からの移民の住居に充てられた。アムド族は強制労働に送り込まれ、その三分の二は死んでしまった。最も悲劇的だったのは、祖国奉仕という名の強制労働に両親が集中できるよう、何千人という子供たちがトラックに積み込まれて連れ去られ、それを阻止しようとした母親たちが近くの河に投げ込まれていったことだ。五十ヶ国からなるジュネーブ人権調査委員会は、約一万五千人の児童がこうして拉致され、行方不明になったと報告している。

 民族浄化は最初から意図されていたのである。ナチスでさえ、ここまでひどいことはやらなかった。

 新たに反抵抗運動法なるものが施行され、解放運動を支援したとされた人間は“タムジン(公開懲罰)”に晒された。中国本土から漢民族の移民が増大し、チベット人は自国にあって少数民族になってしまった。タムジンで有罪とされた人びとは牢獄に入れられ、実に屡々計画的飢餓、遺棄、病気の放置などで生命を奪われていった。新企画の拷問、殺人が導入され、銃の台尻で頭蓋骨を打ち砕かれたり、鉄箸で眼球を抉り出されたりした。僧侶は毛布でぐるぐる巻きにされ、灯油をかけられて焼き殺されていった。公開去勢や、バーベキュー用棒杭にくくりつけて焼く、尼僧を素っ裸にしてむりやり性交させる、というのもあった。特に中共軍兵士の間で人気があったのは、チベット人を“文明化”“浄化”すると称する兵士たちによる集団レイプであった。彼らはそれを“地上の楽園”と称して楽しんだ。

 本書のクライマックスは1959年のチベット動乱である。ノルブリンカ離宮のダライ・ラマが中国に連行されるという噂が流れて民衆が集まり、人民解放軍の攻撃がはじまる前日、ダライ・ラマは秘かに離宮を脱出し、亡命の途につくが、その間、ラサの民衆と人民解放軍の間で市街戦が戦われた、その時のチベット側の主力がラサに退却していたカンパ族のゲリラだったのである。

 この戦いでチベット側は多大の犠牲を出すが、ダライ・ラマの脱出を知らなかった人民解放軍は、ノルブリンカの数千の死体の中からダライ・ラマを見つけ出そうと一つ一つ首実検したという。ラサに人民解放軍を引きつけていたからこそ、ダライ・ラマはインドに逃れることができたのである。その意味では犠牲は無駄ではなかったわけだ。

 その後もカンパ族ゲリラの抵抗はつづくが、アメリカの援助を失った後の末路は悲しい。一部のゲリラはインド軍に特殊部隊として編入され、中印紛争で戦果を上げるが、所詮、傭兵でしかない。

 ダライ・ラマの非暴力路線にはチベット内部に批判があるというが、大国の思惑でふりまわされたカンパ族ゲリラの歴史をふりかえると、選択肢は他になかったのかもしれない。

→bookwebで購入