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2008年03月30日

『書字言語-その歴史と理論および病態』 アンドレ・ロック・ルクール編 (創造出版)

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 山鳥重氏の業績を探していて発見した本である。山鳥氏は森山成氏と本書の日本文字の章を執筆するとともに邦訳にあたっておられる。

 編者のルクールはカナダのケベック州出身の神経心理学者で、フランス語圏カナダとフランスで失語症の研究をしている人らしい。本書はフランス語の読字・書字障害を失語症モデルの拡張で解明しようとする試みで、フランス語の事例が中心になるが、日本語の漢字仮名交じり文の事例を随時参照しながら普遍を目指すあたり、きわめてフランス的といえる。

 欧米の言語はアルファベットを共通して用いるのに、なぜフランス語かと不審に思う人がいるかもしれないが、フランスは17世紀に正書法を定める王立の研究機関(アカデミー・フランセーズ)を設立し、体系的一貫性にこだわった表記体系を国家の権威で教育普及させてきた歴史がある。フランス語の綴りには François(フランソワ)の語末の s のように発音しない文字が多いが、読まない s をつけくわえることによって、女性形の Françoise(フランソワーズ)との関連がたもたれる。書きことばとしてのフランス語は綴りと発音の乖離がいちじるしく、きわめて人工的な言語なのである。

 本書ではフランス語表記体系の人工性を「不透明なアルファベット記号」と呼んでいるが、実際、不透明性による書字障害があるという。たとえば、français(フランス語)を francait、bibliothèque(図書館)を bibliotec のように誤って綴る障害である。

 また、知っている単語は普通に書きとれるが、知らない単語や辞書に存在しない単語は書きとれなくなる深層失書という微妙な障害があるが、発音と綴りの距離の近いスペイン語にくらべて、フランス語話者では深層失書がはるかに起こりやすいそうである。

 認知心理学などでは言語の処理過程に生得的な「心的辞書」が存在するとされてるが、著者たちは「心的辞書」には後天的な影響が大きいと考えている。脳に同じような障害が生じても、普段の生活によって障害の程度に顕著な差が出てくるというのである。

同じ書字体系で、同じ教育水準で、同様の大脳病巣が同じ年齢かほぼ同じ年齢に生じたとしても、卒業後はスポーツ新聞くらいしか読まなかった人が、全失語かそれに近い病像を呈する反面、日常生活での読書量がずっと多かった人は深層失読を呈するのである。

 本書は欧米の神経文字学を紹介した数少ない本であり、非常に興味深い。アルファベット中心主義を克服しようという姿勢も評価できるが、残念なことに文字についての基礎知識に限界がある。非アルファベットの表記体系として漢字、ハングル、日本の漢字仮名混じり文をとりあげているが、中国漢字とハングルは概念的に言及されるにとどまり、議論に登場するのは日本の漢字仮名混じり文だけである。たまたま日本人の研究者が身近にいたということなのかもしれないが、中国語における漢字と日本語における漢字を同一にあつかえるかどうかは今後の課題だろう。

 インドの文字も言及されているはいるものの、かなり誤解がある。カンナダ語話者がたまたま著者たちの周辺にいたからなのかもしれないが、デーヴァナーガリ文字をさしおいてカンナダ文字をインドの文字の代表としてとりあげるのもおかしい。医学畑だからしょうがないといえばそれまでだが、欧米における文字学の伝統の浅さが背景にあるのかもしれない。

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