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2008年03月31日

『A Computational Theory of Writing Systems』 Richard Sproat (Cambridge Univ Pr)

A Computational Theory of Writing Systems
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 文字についてはいろいろな本を読んできたが、本書はきわめつけユニークな本である。わたしは文字コード問題から文字に興味をもった人間なので、"A Computational Theory of Writing Systems"(文字のコンピュータ理論)という表題を見て文字コードの本だろうと思って注文したが、予想ははずれた。

 著者のスプロートはコンピュータによるテキスト読みあげシステムの研究者で、機械で読みあげるというプラグマティックな視点から文字を考察しているのである。

 動いてなんぼの世界で仕事をしている人なので、表音文字 vs 表意文字(表語文字)の二分法などは最初から眼中にない。快刀乱麻を断つというか、ズバリ、ズバリと言い切る断定口調の文体とあいまって、実に痛快だ。

 驚いたのはインド系の文字やハングルのような結合音節文字と、漢字やマヤ文字、楔形文字のような表語文字をひとまとめにしていることだ。確かにアルファベットなどは一次元的に文字をつなげて音節を表現するのに対し、結合音節文字や漢字は部品を二次元的にくみあわせることで音節を表現する点は同じであるが、この思いきり方はちょっと乱暴ではないか。この乱暴さが本書の魅力でもあるのだが。

 正書法を重視しているのも従来の文字論にはなかった視点だ。近代欧米の文字論は未知の文字の解読からはじまったこともあってもっぱら歴史に目がいき、正書法はどうあるべきかという問題は等閑にふされてきて。しかしコンピュータでテキストを読みあげるという実践的立場にたてば正書法は喫緊の課題であろう。

 正書法では表現しきれないアクセントやイントネーションの問題になるとついていけなくなるが、諸大家の文字の分類を論評した部分はおもしろかった。スプロートはクルマスをもっともバランスがとれていると評価しており、クルマス的な視点からゲルプ、サンプソン、デフランシスの三人の分類を検討しているのである。わたしもクルマスをもっともすぐれていると考えているので、まだ読んでいないデフランシスの部分以外はその通りだと思う。

 機械読みあげで一番の難物は日本語だと思うが、クルマスとサンプソンの日本文字の記述を紹介するにとどまっている。日本語という泥沼にはいってきたほしかったのでちょっと残念ではある。

 

 新しい文字論としてはHenry Rogersの『Writing Systems : A Linguistic Approach』、Amalia E. Gnanadesikanの『The Writing Revolution : From Cuneiform to the Internet』あたりが気になっている。意外なのは20年前に出た中西亮氏の『Writing Systems of the World: Alphabets, Syllabaries, Pictograms』が依然として健闘していることだ。元版の『世界の文字』(松香堂書店)は絶版だというのに、英語版が読まれつづけているというのは日本人としては複雑である。

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2008年03月30日

『書字言語-その歴史と理論および病態』 アンドレ・ロック・ルクール編 (創造出版)

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 山鳥重氏の業績を探していて発見した本である。山鳥氏は森山成氏と本書の日本文字の章を執筆するとともに邦訳にあたっておられる。

 編者のルクールはカナダのケベック州出身の神経心理学者で、フランス語圏カナダとフランスで失語症の研究をしている人らしい。本書はフランス語の読字・書字障害を失語症モデルの拡張で解明しようとする試みで、フランス語の事例が中心になるが、日本語の漢字仮名交じり文の事例を随時参照しながら普遍を目指すあたり、きわめてフランス的といえる。

 欧米の言語はアルファベットを共通して用いるのに、なぜフランス語かと不審に思う人がいるかもしれないが、フランスは17世紀に正書法を定める王立の研究機関(アカデミー・フランセーズ)を設立し、体系的一貫性にこだわった表記体系を国家の権威で教育普及させてきた歴史がある。フランス語の綴りには François(フランソワ)の語末の s のように発音しない文字が多いが、読まない s をつけくわえることによって、女性形の Françoise(フランソワーズ)との関連がたもたれる。書きことばとしてのフランス語は綴りと発音の乖離がいちじるしく、きわめて人工的な言語なのである。

 本書ではフランス語表記体系の人工性を「不透明なアルファベット記号」と呼んでいるが、実際、不透明性による書字障害があるという。たとえば、français(フランス語)を francait、bibliothèque(図書館)を bibliotec のように誤って綴る障害である。

 また、知っている単語は普通に書きとれるが、知らない単語や辞書に存在しない単語は書きとれなくなる深層失書という微妙な障害があるが、発音と綴りの距離の近いスペイン語にくらべて、フランス語話者では深層失書がはるかに起こりやすいそうである。

 認知心理学などでは言語の処理過程に生得的な「心的辞書」が存在するとされてるが、著者たちは「心的辞書」には後天的な影響が大きいと考えている。脳に同じような障害が生じても、普段の生活によって障害の程度に顕著な差が出てくるというのである。

同じ書字体系で、同じ教育水準で、同様の大脳病巣が同じ年齢かほぼ同じ年齢に生じたとしても、卒業後はスポーツ新聞くらいしか読まなかった人が、全失語かそれに近い病像を呈する反面、日常生活での読書量がずっと多かった人は深層失読を呈するのである。

 本書は欧米の神経文字学を紹介した数少ない本であり、非常に興味深い。アルファベット中心主義を克服しようという姿勢も評価できるが、残念なことに文字についての基礎知識に限界がある。非アルファベットの表記体系として漢字、ハングル、日本の漢字仮名混じり文をとりあげているが、中国漢字とハングルは概念的に言及されるにとどまり、議論に登場するのは日本の漢字仮名混じり文だけである。たまたま日本人の研究者が身近にいたということなのかもしれないが、中国語における漢字と日本語における漢字を同一にあつかえるかどうかは今後の課題だろう。

 インドの文字も言及されているはいるものの、かなり誤解がある。カンナダ語話者がたまたま著者たちの周辺にいたからなのかもしれないが、デーヴァナーガリ文字をさしおいてカンナダ文字をインドの文字の代表としてとりあげるのもおかしい。医学畑だからしょうがないといえばそれまでだが、欧米における文字学の伝統の浅さが背景にあるのかもしれない。

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2008年03月29日

『神経文字学』 岩田誠&河村満編 (医学書院)

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 『神経文字学』という文字面からSF的な印象をもつかもしれないが、脳科学の視点から文字を考えようという最先端の論集である。

 編者の岩田誠氏は1983年に仮名文字と漢字では脳の処理過程が異なるという「二重回路仮説」を提唱した人で、2004年に日本神経学会の会長に就任したのを機に、長年追求してきた神経文字学のシンポジュウムを開き、その成果をまとめたのが本書ということである。

 脳における文字処理過程の研究は第二次大戦後にはじまっている。当時は脳の働きを画像化して見せてくれる MRIも PETもなかったが、脳卒中のような脳血管障害の後遺症としてあらわれる失読症や失書症を研究することで、文字の処理過程が推定できたのである。

 この方面では山鳥重氏が先駆的な研究をおこない、「二重回路仮説」の先駆となる発見をされているが、一般向けの本としては海保博之編『漢字を科学する』(有斐閣、一九八四)に収録された「脳損傷者にとって漢字とは」という文章しかなかった(ソフトカバーの安っぽい本で内容も古くなっているが、類書がないためか、古書店では法外な値段がついている)。

 わたしは『漢字を科学する』で「形態 → 音韻 → 意味」という処理過程とは別に「形態 → 意味」という処理過程があるのを知って大いに啓発された。その後の動きを知りたいと思っていたが、MRIを使った脳の言語処理過程の研究については酒井邦嘉氏の『言語の脳科学』(中公新書)のような概説書が出ているが、文字についてはそういう本がなかった。

 本書はその意味でも待望の本だったが、基本的には最新画像診断技術による「二重回路仮説」の確認であり、あっと驚くような新発見はなかった。

 しかし、「二重回路仮説」がハイテク機器によって確認された事実は大きいし、この分野にはじめて関心をもった人にとっては大変有意義な本であり、本書の出版の意義が大きいことは言うまでもない。

 文字処理過程とはすこし離れるが、「触覚読み」と「書字動作の神経科学」の二編にも啓発された。

 脳の言語処理過程については欧米が先行しているが、欧米人は文字に対しては関心が薄いので、日本が世界をリードする立場にある。中国人の漢字処理過程は日本人とはちがうのではないかと秘かに妄想しているが、今は脳の画像診断技術があるのだから、やるべきことはたくさんあるはずである。本書を基礎にして「神経文字学」の研究が進んでほしいものである。

 なお、版元のサイトに「文字の脳科学――過去・現在・未来」というインタビューが掲載されており、参考になる。

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