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2008年02月29日

『インフルエンザ危機』 河岡義裕 (集英社新書)

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 インフルエンザ・ウィルスの人工合成に成功するなど、世界的な業績をあげているインフルエンザ学者による啓蒙書である。その道の権威が研究生活をふりかえりながら、一般読者向けに解説するという古き良き新書の流儀で書かれており、文章が平明なので二時間もあれば読める。

 H5N1型インフルエンザはヒトに感染しやすい方向に着々と進化しており、新型誕生は時間の問題なので、最近のインフルエンザ関係の本は危機感があらわだが、本書は2005年の刊行なので、牧歌的といっていいくらいのんびりした書き方である。しかし、それがよい。新型インフルエンザ関係の本は何冊も読んだが、見通しのよさという点では本書が群を抜いている。本書のおかげで、ジグソーパズルがようやく一つの絵にまとまってくれた。

 語り口はのんびりしているが、よくよく考えると、恐ろしいことが書いてある。

 1997年5月に香港でH5N1型の死者が出た際、著者の河岡義裕氏が現地にはいって調査にあたったことは『四千万人を殺した戦慄のインフルエンザの正体を追う』にも書いてあったが、この時、河岡氏は弱毒型のウィルスが強毒型のウィルスに変異する鍵となる遺伝子を特定している。たった一つのアミノ酸が置きかわるだけで、弱毒型のウィルスは強毒型に変化してしまうという。日本では弱毒型の鳥インフルエンザであっても、全羽殺処分することになっているが、それは弱毒型はいつ強毒型に変わるかわからないからである。

 最近注目されるようになったインフルエンザ脳症のメカニズムについても触れられている。三歳以下の子供はインフルエンザの免疫がないので、肺でウィルスが一気に増殖し、防衛のためにサイトカインという物質が大量に分泌される。それが脳にはいって炎症を引き起こすというのである。インフルエンザ脳症を起こした子供の50%に後遺症が残るという。著者は三歳以下の子供と書いているが、ワクチン接種を受けないまま成長した子供はどうなのだろう。

 タミフル耐性ウィルスが問題になっているが、大人よりも子供の方が耐性ウィルスができやすいという。原因はやはり免疫がないことだ。ウィルスが一気に増えるので、耐性をもったウィルスが生まれやすくなるわけだ。

 インフルエンザの流行を阻止するにはワクチンが決め手になるが、日本とアメリカのワクチン事情の違いは思いのほか大きい。アメリカではスーパーマーケットなど、人の集まる場所に日を決めて看護婦が出張してきて、日本の半額程度でワクチン接種を受けることができるそうである(高齢者は無料)。ワクチンには副作用がつきものだが、訴訟社会のアメリカでそんなことができるとは意外である。ワクチンのリスクが国民によく理解されているのだろう。

 新型インフルエンザ発生後、半年でワクチンが出てくるといわれているが、森田高参議院議員のblogによると、全国民にゆきわたる量にはまったく届かないそうである。インフルエンザ・ワクチンの集団接種が廃止されて以後、大手製薬会社がワクチンから引いてしまい、公益法人と小さな製薬会社が製造しているにすぎない。年間2000万人分を製造するのがやっとで、緊急増産など不可能ということである。

 欧米諸国は半年程度で全国民分のワクチンを製造する体制を確立しているが、日本の場合、全国民分のワクチンがそろうのは五年後になるようだ。その五年間、国民は無防備のまま、くりかえし襲ってくるパンデミックにさらされることになる。市民運動家の妄言に惑わされてインフルエンザ・ワクチンの集団接種をやめたことの重大さにあらためて慄然とする。

 なお、本書は2005年の刊行なので、やや古い。最新の情報を知りたい方は田代眞人・岡田晴恵『新型インフルエンザH5N1』(岩波科学ライブラリー)、個人でできる対策法を知りたい方は岡田晴恵『H5N1型ウイルス襲来―新型インフルエンザから家族を守れ』(角川SSC新書)をお勧めする。

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2008年02月28日

『四千万人を殺した戦慄のインフルエンザの正体を追う』 ピート・デイヴィス (文春文庫)

四千万人を殺した戦慄のインフルエンザの正体を追う →bookwebで購入

 1998年8月、北極圏に浮かぶノルウェイ領スピッツベルゲン島の共同墓地で、各国のマスコミが注視する中、永久凍土を掘りおこして7人の青年の凍りついた遺体が発掘された。青年たちは極北の島の炭鉱で働く炭坑夫だったが、1918年にスペイン・インフルエンザで死に、この地に葬られたのだった。

 80年前の遺体を掘りだすのはスペイン・インフルエンザのウィルスを採取し、塩基配列をつきとめるためだった。インフルエンザのウィルスがはじめて分離されたのは1933年であり、1918年当時はファイファー桿菌が病原体だと信じられていたから、パンデミックをおこしたのがどういうウィルスだったかわかっていなかった。今後予想される強毒型の新型インフルエンザにそなえるためには、これまでヒトに感染したインフルエンザのうち最も症状の激しかったスペイン・インフルエンザの遺伝子を調べる必要がある。

 同様の試みはアラスカでおこなわれたことがあったが、埋葬された場所が永久凍土ではなかったために遺体は融解と凍結をくりかえしており、遺伝子を採取することはできなかった。インフルエンザはRNAウィルスなので、簡単に損なわれてしまうのである。一方、スピッツベルゲン島は永久凍土の島なので、遺伝子が無傷で残っていると期待されていた。

 本書はこの1998年のウィルス採取プロジェクトを中心にした科学ドキュメントである。

 プロジェクトを率いるのはトロントの大学で地理学を教えるカーティス・ダンカンという女性で、彼女は学生時代にクロスビーの『史上最悪のインフルエンザ』を読んで感銘を受け、いつかスペイン・インフルエンザのウィルスを発見したいと考えていた。徒手空拳プロジェクトをはじめた彼女は大物ウイルス学者や研究機関、大手製薬メーカーの後援をえて、五年目にしてようやく墓場の発掘にこぎつけたのだ。

 と紹介すると、『プロジェクトX』のような感動的な物語を期待するかもしれないが、このプロジェクトは問題がありすぎた。

 リーダーのカーティス・ダンカンは情熱の人だったが、プロジェクトが大きくなりすぎて彼女の能力を超えてしまった。カナダ人だけの仲良しグループだけの間は彼女でも仕切れたが、いろいろな国の研究者が参加し、国際的に名前が知られた大物がくわわってくると、未経験な彼女の手には負えなくなったのだ。地理学という畑違いの研究者であることも悪い方向に働いた。

 困ったことに、ダンカンは窮地に追い詰められると逆に我を張る性格だったらしい。すべてを自分で仕切るろうとするようになり、チームは何度も空中分解しそうになる。CDCが途中で降りたのも、彼女が原因だったらしい。

 運営がまずかった上に、いざ掘りだしてみると、プロジェクトの前提を覆すような事実が明らかになった。

 永久凍土といっても、すべてがカチカチに凍りついているわけではない。地表から一定の深さまでは「活動層」といって、夏に融け秋に凍るという融解凍結をくりかえしている。事前の地中レーダーの調査では遺体は活動層の下に埋まっているはずだったが、棺は活動層の中から出てきた。

 プロジェクトは失敗したのだろうか?

 インフルエンザ学に詳しい人なら、発掘した遺体からウィルスが採取されたことをご存知だろう。実はこの後どんでん返しが二つあるのである。それにはリンカーン大統領が設立した(!)アメリカの研究機関がからんでくる。アメリカの科学情報の蓄積はおそるべきである。

 ドキュメント部分は読み物としておもしろいが、本書の一番の読みどころは実はそこではない。ウィルス採取プロジェクトの重要性を読者に伝えるために、デイヴィスは最初の三章をついやして長い前書きを書いているが、この前書き部分が読ませるのである。

 まず、第一章では1997年5月に香港で起きたH5鳥インフルエンザ・ウィルスがヒトに感染し、死に至らせた事件を語っている。H5とH7は他の亜型と異なり、全身の細胞で増殖できる強毒型であり、家禽ペストとも呼ばれていたが、ヒトには絶対に感染しないと考えられていたので、ヒト・インフルエンザの研究者はH5ウィルスのための検査薬すらもっていなかった。そのためにウィルスの正体をつきとめるのに三ヶ月もかかっている。そして、正体が判明した後の研究者たちのうろたえぶり。背筋が寒くなった。

 最初のH5型の死者が5月に出たという点も注目である。8月にウィルスの正体がわかり、12月に香港のすべての家禽が殺処分にされるまで、さみだれ的に罹患者と死者が出つづけた。インフルエンザといっても、暖かくなれば大丈夫というわけではないのだ。

 第二章と第三章はスペイン・インフルエンザ早わかりである。第二章はクロスビーの『史上最悪のインフルエンザ』の要約といってよく、第三章はクルスビー以後の研究成果を紹介している。クロスビーの本でも暗澹たる気持ちにさせられたが、実際はもっと悲惨だったようである。

 クロスビーはスペイン・インフルエンザの発生地をシカゴ近郊と考えていたが、本書によると現在では諸説があって結論は出ていないらしい。第一次大戦で若い男が出征して生まれた労働力不足をおぎなうために、中国人が数万人ヨーロッパに出稼ぎにきていたが、その彼らがウィルスを持ちこんだという説まであるそうである。鳥インフルエンザがヒト型に変わる揺籃地は中国南部という例が多かったが、スペイン・インフルエンザにもその可能性があったのである。

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2008年02月27日

『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』 速水融 (藤原書店)

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 世界を席巻したスペイン・インフルエンザは日本にも襲来した。まず、1918年5月に先触れの流行があり、1918年冬の第二波、1919年冬の第三波が欧米とほぼ同時期に日本を駆け抜けた。先触れ流行は大角力夏場所で休場力士が多数出たことから「角力風邪」と呼ばれた。高病原性を獲得して以降の第二波と第三波は多数の死者を出したので疫病としてあつかわれ、「前流行」、「後流行」と呼ばれている。

 本書は日本におけるスペイン・インフルエンザの流行を研究したはじめての単行本である。クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ』に倣った部分が多く、周辺地域や文藝作品にまで目を配っている。クロスビーはアメリカを中心に全世界をあつかっていたが、本書は日本だけなので生の史料を多数引用している。ほとんどのページに当時の新聞(ローカル紙が多い)に載ったスペイン・インフルエンザ関連の記事が画像で掲げられているが、「全村惨死」、「棺桶大払底」、「漁夫続々死亡」、「屍体を原野に山積して火葬す」といった見出しを眺めているだけでも惨状がうかがえる。巻末には栃木県の矢板で診療にあたった五味淵伊次郎医師の手記と、軽巡洋艦「矢矧」の航海日誌が付録として全文収録されている。

 どちらも克明な日録であり貴重だが、「矢矧」の記録は特に興味深い。「矢矧」は第一次大戦に際し南方の警戒と輸送船保護にあたったが、シンガポールでスペイン・インフルエンザに感染し、次の寄港地であるマニラにたどり着くまでに458名の乗組員全員が罹患、副長をふくむ48名が死亡するという事態にいたった。航海士までもが倒れたが、たまたま便乗していた「明石」の乗組員が操艦を引き継ぎ漂流をまぬがれた。「明石」は地中海に派遣されていたので、乗組員は免疫があったのである。

 「矢矧」が寄港した時点のシンガポールはインフルエンザ禍の最中で、艦長は乗組員の上陸を許さなかったが、交代の船が遅れたために停泊は2ヶ月におよんだ。出航の時点では流行がおさまっていたので、艦長は温情から乗組員に上陸を許した。それが裏目に出たのである。

 インフルエンザの流行は数ヶ月で終息するが、免疫ができて新しい発症者が出なくなったというだけであって、ウィルスは空気中に充満しているのだ。免疫のない人間がそんなところへ出ていったら一発で感染する。

 この教訓は重要である。パンデミックが起きたら第一波が通りすぎるまでの二ヶ月間、自宅に籠城するといいという説があるが、感染がおさまったように見えても、免疫が間にあわなかった人が死に、間にあった人が生き残っただけであって、ウィルスが消えたわけではないのだ。そんなところへ出ていったら、シンガポールに上陸した「矢矧」の乗組員同様、感染は必至である。

 著者の速水融氏は日本で歴史人口学を確立した人だけに、歴史人口学的な考察ではクロスビーを一歩進めている。「前流行」と「後流行」の死亡者数を地域ごとに集計し、比較するという精密な作業をおこなっているのである。

 「前流行」と「後流行」では死亡率が5倍も違うので、別種のウィルスではないかという説もあるそうだが、速水氏は「前流行」で死者の多かった地域では「後流行」の死者がすくなく、逆に「前流行」で死者のすくなかった地域は「後流行」で多いという相関関係をつきとめ、「前流行」でできた免疫が「後流行」で有効だったとしている。

 免疫の有効性は陸軍の統計からもうかがえる。アメリカ同様、日本でも若い兵士が密集して生活する兵営が感染の温床となったが、いったんおさまった流行が、12月1日に新兵が入営してくるとふたたび猖獗をきわめたのだ。しかも、罹患者と死者のほとんどは初年兵だった。二年兵以上には「前流行」で免疫ができていたと考えるべきだろう。「前流行」でできた免疫が「後流行」でも有効なら「前流行」と「後流行」は同一ウィルスだった可能性が高い。

 こうした分析が可能なのは日本では戸籍が完備している上に、内務省による統計とその元になった都道府県別の統計が残っていたからだが、都道府県別の資料をみていくと内務省の統計の不備が見つかった。ローカル紙の記事からすれば死者が出ているはずなのに、死者ゼロになっている県や、京都府のように途中から数字がなくなっているところがすくなくないのだ。そもそもインフルエンザで亡くなった人の死因がすべてインフルエンザないし肺炎となっているかどうかも怪しい。

 そこで本書では流行の前年の1917年の死者数を基準に差分をとるという「超過死亡数」という手法で推計をやり直している。従来、スペイン・インフルエンザによる死者数は38.5万人ということになっていたが、本書では7万人も多い45.3万人という数字を導きだしている。

 これだけの被害が出ているのに、日本でも欧米同様、スペイン・インフルエンザは忘れられてしまった。欧米の場合は第一次大戦の惨禍の蔭に隠れたが、日本の場合は3年後に起きた関東大震災が影響したのではないかと著者は推測している。死者はスペイン・インフルエンザの方が4倍も多かったが、震災は街に目にみえる傷痕を残し、復興に何年も要したのである。

 もう一つ、「風邪」という呼称も軽んじられる一因となったと考えられる。著者は「スペイン風邪」ではなく「スペイン・インフルエンザ」という呼称を提案しているが、致死率60%というH5系のウィルスの凶悪さからすると「インフルエンザ」も軽すぎるかもしれない。

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2008年02月26日

『史上最悪のインフルエンザ』 アルフレッド・W・クロスビー (みすず書房)

史上最悪のインフルエンザ →bookwebで購入

 新型インフルエンザの関連でスペイン・インフルエンザが注目されているが、本書はスペイン・インフルエンザを歴史の観点からあつかった最初の著作である。初版刊行は1976年だが、30年以上たった現在でも読みつがれており、この分野の古典といってよいだろう(邦訳では「スパニッシュ・インフルエンザ」と表記されているが、本欄では速水融氏の提唱する「スペイン・インフルエンザ」という呼称で統一する)。

 スペイン・インフルエンザは第一次大戦さなかの1918年春、アメリカのシカゴ近郊で誕生したと著者は考えている(現在では必ずしもそう考えられてはいない)。スペイン・インフルエンザは普通のインフルエンザとは異なり、若者を狙い撃ちにした。感染の温床となったのは軍の訓練キャンプだった。当時、アメリカは毎月20万人以上の兵士をヨーロッパ戦線に送っていたが、訓練キャンプで蔓延し、アメリカ兵とともに大西洋をわたった。そして、長引く戦争で疲弊していたヨーロッパで感染爆発を起こした。高病原性を獲得した株が生まれ、1918年秋に第二波、1919年秋にはさらに激症化した第三波が全世界に拡がり、犠牲者はすくなく見積もっても2500万人にのぼるとされている(クロスビーの推計では4000万人)。

 スペイン・インフルエンザは弱毒型であり、子孫が数年おきに流行しているので、風邪の延長のように思いがちだが、出現当初は風邪とは次元の違う病気だったらしい。罹患すると5人に1人が鼻血を出し、重症者のベッドは鼻血と血痰で血まみれ、死亡して死後硬直がはじまると鼻から血の混じった液体が染みだしてきて、遺体を包んだ布を赤く染めたという。初期に治療にあたった医師が肺ペストを疑ったのもむべなるかなで、クロスビーはウィルスに襲われた都市の惨状を「グランギニョール的カオス」と形容している。弱毒型でここまで凶悪では、強毒型になると予想されるH5N1の新型インフルエンザはどうなるのだろうか。

 スペイン・インフルエンザの蔓延には第一次大戦が影響している。若者を過密に詰めこんだ兵営は感染のかっこうの温床になったが、もっとひどいのは兵員輸送船だった。軍当局は乗船一週間前からヨーロッパに送る部隊を隔離し、罹患の疑いのある兵士を出航直前までふるい落していったが、潜伏期があるので感染を防ぐことはできなかった。大西洋を横断するのに8日かかったが、出港後数日たつと患者が増えすぎて隔離が不可能になり、全乗員の1%以上が洋上で死んだ。フランスについても10%は自力では下船できずに入院、死亡者が続出した。

 アメリカ本土では兵営を中心に感染が広まっていったが、戦費調達のためにたびたびおこなわれた戦時公債販売促進のためのイベントが感染に一役買った。医師や看護士も不足していた。医師の25%が軍に動員されて出征し、感染爆発がはじまると医師と看護士自身がどんどん罹患して倒れていった。自治体によっては遺体の埋葬が追いつかなくなり、平時の6倍の金額をふっかける葬儀屋まであらわれた。

 ヨーロッパでは四年つづいた総力戦で人々の抵抗力が落ちていた上に、十分な医療を受けることができなくなっていた。そこへ狙いすましたように、スペイン・インフルエンザが襲いかかった。

 スペイン・インフルエンザのパンデミックは第一次大戦が促進したといっていいいが、第一次大戦の方もスペイン・インフルエンザに影響された。第二波の流行はドイツ軍の戦線が崩壊した時期にあたり、大戦の終結を早めたといわれている。

 クロスビーはパリ講和会議にもスペイン・インフルエンザが影響したと考えている。講和条件は実質的にはアメリカ、英国、フランス、イタリアの四首脳の秘密会議で決められたが、ドイツに対する天文学的な賠償金とラインラント占領に反対していたアメリカのウィルソン大統領が会議の終盤、スペイン・インフルエンザで病床につき、阻止できなくなったというのだ。

 首脳会議が参加者の個人的資質に影響される部分が大きいのは確かだが、ウィルソン率いる民主党は1918年秋の選挙で負けており、後に国際連盟加盟も否決されている。ウィルソンがスペイン・インフルエンザで倒れなかったとしても、ドイツに対する懲罰的な処分を押しとどめることができたろうか。パリ講和会議への影響は話半分に受けとっておいた方がよさそうだ。

 抗ウィルス剤が開発されるまでインフルエンザに対抗する手段はマスクとワクチンしかなかったが、当時のマスクはウィルスを素通しするガーゼマスクだった。サンフランシスコでは公共の場でマスクの着用を義務づける条例が可決された。たまたま第二波の終息期にあたっていたのでマスクには効果があるということになったが、第三波の流行がはじまると効果がないことがわかり、マスクを強制する警官とマスクを嫌がる市民の間で衝突がくりかえされた。

 ワクチンは作られたことは作られたが、標的を間違えていたので効果はなかった。1890年のインフルエンザ流行の直後、細菌学の権威であるファイファーが患者の痰の中から桿菌を発見し「インフルエンザ菌」と発表したため、当時はその細菌がインフルエンザの原因と誤解されていたのだ。

 マスクもワクチンも駄目となると、残された手段は検疫だけである。オーストラリアはいちはやく厳重な検疫体制を確立し、第一波と第二波は水際で阻止したが、第三波は二ヶ月もちこたえたものの上陸を防ぎきれなかった。しかし、時間を稼ぐことはできた。第一波の直撃を受けたニュージーランドとは被害の規模が違う。

 明暗をわけたのは太平洋の島々である。もともと離島の先住民は伝染病に弱いが、オーストラリアの保護下にあった島はほとんど被害を受けなかったのに対し、ニュージーランドの保護下の島では甚大な被害を受けた。

 たとえば、サモア諸島。サモア諸島は東側をアメリカが、西側をドイツが領有していたが、第一次大戦が勃発するとドイツ領サモアはオーストラリアとニュージーランドに分割された。オーストラリア領サモアとアメリカ領サモアはウィルスの上陸を阻止したが、ニュージーランドは検疫の重要性を理解しておらず、島民の20%がインフルエンザで死亡した。

 本書の邦題には「忘れられたパンデミック」という副題がついているが、これは1989年に刊行された原著第二版の題名 America's forgotten Pandemic にもとづく。これだけの犠牲を出した世界的疫病だったのに、スペイン・インフルエンザは経験が後の世代に継承されず、1989年の時点でも「忘れられたパンデミック」だったのである。

 本書の最終章はなぜスペイン・インフルエンザが忘れられたかをテーマにしている。クロスビーはいくつか理由をあげているが、もっとも大きいのは第一次大戦と重なったことと、数ヶ月で終息するインフルエンザの疫学的特質の二つだったようである。第一次大戦はスペイン・インフルエンザの忘却にもかかわっていたのである。

 今、H5N1インフルエンザのヒト型化が焦眉の問題となっており、さまざまな情報が飛びかっているが、こういう時期こそ歴史をさかのぼり、過去の失敗に学ぶべきだろう。本書はウィルス学的には古くなったとはいえ、多くのことを教えてくれる。

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