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2007年12月31日

『ふたつの旗』 リュシアン・ルバテ (国書刊行会)

ふたつの旗 上
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 『ふたつの旗』という作品もリュシアン・ルバテという作家も日本ではほとんど知られていないが、これはフランス最高の教養人によって書かれた至高の恋愛小説である。

 知られていないのには理由がある。作者のルバテは筋金入りの反ユダヤ主義者であり、ドイツ占領下のフランスでヒトラー讃美とユダヤ人告発の論陣を張った極右ジャーナリストだったからだ。ドイツ軍がフランスから撤退すると、ルバテは他の対独協力者とともにドイツに逃れるが、後に逮捕、死刑判決を下され、1952年に恩赦で釈放されるまで獄につながれていた。『ふたつの旗』はその獄中で完成されたのである。フランスではルバテは呪われた名前であり、文学事典の類では長らく存在が抹殺されてきた。

 日本でも敗戦後、軍国主義に協力した文学者が排撃されたが、ルバテの場合、協力した相手がナチスだけに庶民の間でも反感が根深いらしい。あえてたとえれば、オウム真理教の死刑宣告を受けた幹部のようなものか。

 わたしはこの作品を学生時代、ジョージ・スタイナーの「屠殺の使嗾」(『脱領域の知性』と『言語と沈黙』に収録)で知った。スタイナーはユダヤ系の批評家であり、両親を強制収容所で殺されているが、ユダヤ人狩りに積極的に加担した作家の作品を「創造力が成し遂げた不滅の業績」と評し、ヒロインのアンヌ=マリーを『戦争と平和』のナターシャに匹敵するとまで絶賛しているのである。

 ずっと読みたいと思ってきたが、二段組で上下二巻1500ページ近い大冊なのでなかなかとりかかれなかった。今回、ようやく読むことをえたが、確かにこれは二十世紀を代表する傑作の一つである。スタイナーの絶賛は決して過褒ではない。一部でいわれているような政治的底意のある発言でもないだろう。

 ただ、長い上に、反時代的というか、アナクロニズムというか、十九世紀の大小説の形式をあえて踏襲して書かれているので、調子が出てくるまで時間がかかる。

 物語は一方の主人公、ミシェル・クローズの寄宿学校時代からはじまる。ミシェルは修道会の経営する学校の厳格な教育ですっかりカトリック嫌いになり、卒業後、リヨンに出て法律の勉強をはじめる。公証人である父の仕事を継ぐには法学をおさめる必要があるが、法律は性に合わないと早々に放棄し、親友のギョームの後を追って憧れのパリに出て、ソルボンヌで哲学の勉強をはじめる。仕送りは一年限りという約束だったので、二年目からは修道会の学校の住み込みの復習教師になり学業をつづける。

 クリスマス休暇で帰郷したミシェルはパリにもどる途中リヨンでレジスという遠縁の青年と再会する。ミシェルはレジスの音楽の才能は認めていたものの、田舎者と見下していたが、兵役を終えたらイエズス会で出家し、修道士となるという決意を打ちあけられ愕然とする。しかもレジスにはアンヌ=マリーという恋人がいたが、彼女も彼の感化で信仰を深めており、彼が出家したら彼女も出家し、修道尼となることを承知しているという。ミシェルはアンヌ=マリーに引きあわされるが、出家志願とはとても思えない溌剌とした姿に一目惚れしてしまう。

 ヒロインのアンヌ=マリーが登場するまで130ページ(今の文庫本なら200ページ相当)かかっているのである。つづく130ページはパリにもどったミシェルがアンヌ=マリーに対する片恋で悶々とする描写に費やされる。この合計260ページ――通常の小説一冊分の分量――を読みとおすのはつらいが、「ケルビーノの夜」と題された章までくれば、あとは一気呵成に読める。

 ケルビーノとは『フィガロの結婚』のケルビーノである。ミシェルは一人でパリに遊びに来たレジスをもてなし、最後の夜に大枚はたいて手にいれたチケットでベルリン・フィルの『フィガロの結婚』を見にいく。すばらしい演奏と可憐なケルビーノに気分の高揚したミシェルはアンヌ=マリーに会いたくてたまらなくなり、仕事を放りだしてレジスとともにリヨン行きの特急に乗ってしまう。

 ミシェルにとってレジスはギョーム以上に重要な存在となり、彼の生活すべてがレジストアンヌ=マリーを中心とするようになる。それを象徴するのがミシェルが妹とギョームの結婚を邪魔するエピソードだ。世俗的に考えればこの結婚にはなんの問題もないが、ミシェルはレジスにいわれるまま二人の仲を裂いてしまう。恋愛中も享楽生活をつづける世俗の知恵の代表者というべきギョームはミシェルに失望し離れていく。

 ミシェルはその後もパリとリヨンの間を往復するが、ついにアンヌ=マリーに引かれるあまり、学業を放棄してリヨンに移ってくる。ミシェルは信仰の仮面をかぶって彼女を誘惑しようとし、彼女もしだいに官能の世界に目覚めていくが、驚くべきことに禁欲は守ったままだ。息づまるような心理的駆引が展開されるが、それは今にも破裂しそうな禁欲の圧力の下の駆引だ。プラトニックラブとはこんなにも猥褻で残酷なものだったのだ。最後の最後に禁欲が破られる時、小説は新しい次元の精神性を暗示して終わる。

 この小説は決して信仰告白をおこなっているわけではなく、ましてカトリック小説であるはずもないが、信仰と禁欲によって開かれる精神の生活の深さ、恐ろしさをあますところなく描いている。精神生活への傾倒は世俗生活への嫌悪と表裏していて、オウム真理教信者の幼稚な出家志向と無関係とはいいきれないだろう。

 スタイナーはアンヌ=マリーを『戦争と平和』のナターシャにたとえたが、彼女はナターシャのような深窓の令嬢ではない。ケルビーノを演じる女優のような色気がある一方で生活力旺盛であり、恋愛においては相当な悪女である。ミシェルやレジスのような男は現代にはいないかもしれないが、アンヌ=マリーのような女性なら新橋の立ち飲みにあらわれてもおかしくない。『ふたつの旗』はあえて古風な意匠を選んでいるが、アンヌ=マリーを通してこれから来る時代につながっているのかもしれない。

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