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2007年10月30日

『村上春樹短篇再読』 風丸良彦 (みすず書房)/『越境する「僕」』 風丸良彦 (試論社)

村上春樹短篇再読
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越境する「僕」
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 村上春樹は多くのすぐれた短編小説を書いているが、『若い読者のための短編小説案内』という本を出していることからもわかるように、短編小説という形式の愛好者で、短編小説の技巧に意識的である。語り口が平明なので、小説をそれほど読んでいない人はただのおもしろい話と読み流してしまうかもしれないが、職業的に小説を読みこんでいる人間が読むと、どの作品も趣向が凝らされており、こう来たかとうならされる作品が多いのである。

 風丸良彦氏の『村上春樹短篇再読』は村上の『若い読者のための短編小説案内』の向こうを張って書かれた本で、15の章からなり、原則として村上春樹の一つの短編をとりあげ、一つのポイントに絞りこんだ読みをおこなっている。『若い読者のための短編小説案内』は大学の講義から生まれたが、本書も「あとがき」に「大学の授業を想定し」と断り書きがあるように、講義ノートがもとになっているらしい。

 実際の授業では入門的な話もあるのだろうが、本書では講義のエッセンスの部分が語られている。「午後の最後の芝生」をとりあげた章では語り手の記憶が不自然なほど細部にわたっているのはフィクションである証拠と指摘したあと、そのような手のこんだフィクションを作りだした動機の核にあるものは何かと切りこんでいる。村上春樹本はおびただしく出版されているが、本質的な思考にこうやってはいりこんだ論考はすくない。

 本書のもう一つの売りは構造主義入門を意図したところだろう。多くの章でフーコーやバルト、レヴィ=ストロースの著書が引かれ、構造主義の発想を援用した議論が出てくる。おそらく、企画段階では「春樹短編による構造主義入門」を意図していたのかもしれない。

 ただし、入門書としてはいささか刺激的すぎるし、不必要に構造主義に引きよせている部分がないではない。たとえば「パン屋再襲撃」はマルクス主義の凋落という思潮の変わり目が背景になっているのは間違いないが、「レヴィ=ストロースが肯定的に埋めこまれている」とまで断定してしまうのは、言い過ぎだと考える。

 むしろ著者の本領が発揮されているのは、英米小説に関する硬軟とりまぜた参照の方だろう。村上春樹はみずから翻訳をやっているくらいで、英米の小説から多くを学んでいるが、まだ本格的には論じられていない。本書にはその手がかりとなるような指摘がそこここにちりばめられており、特に付録としておさめられた村上が翻訳したアメリカ短編小説三編を論じた章には多くを教えられた。

 はっとしたのは、村上春樹の翻訳調の文体が1990年代半ばから変化したという指摘である。著者は翻訳調のなんたるかを「ねじまき鳥と火曜日の女たち」の章で具体的に腑分けしてみせているが、「めくらやなぎと、眠る女」の章では、この作品の1984年のオリジナル版と1995年の改訂版を比較し、翻訳調があらためられていることを検証している。確かにそうなのである。

 著者は本書に先だって上梓した『越境する「僕」』において、村上春樹の翻訳調の文体の問題を本格的に論じている。村上の文体の翻訳くささについては印象批評でしか語られてこなかったが、同書はその実体について踏みこんだほとんど最初の論考と言っていいだろう。

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2007年10月29日

『村上春樹のなかの中国』 藤井省三 (朝日選書)

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 著者の藤井省三氏は中国語圏の現代文学を専門とする研究者で、『世界は村上春樹をどう読むか』の編者の一人でもある。現在、中国語圏の日本文学者とともに東アジアにおける村上春樹受容を共同研究しているということで、その成果の一端は同書でふれられていたが、もっと知りたいと思っていたところに本書が出た。

 本書は六章立てだが、おおよそ二つの部分にわかれる。村上春樹のなかの中国を論じた第一章と第六章、、中国語圏のなかの村上春樹を論じた第二章から第五章である。

 村上春樹が日本の近代史、中でも中国侵略の過去にこだわりつづけていることはつとに指摘されていることで、わたし自身、「ムラカミ、ムラカミ」(「群像」2000年12月号)という試論でふれたことがある。

 著者は魯迅の「阿Q正伝」と「藤野先生」を光源に、初期三部作に一貫して登場する三人のうち、ジェイが昭和初年生まれの中国人であり、最初の短編集『中国行きのスロウ・ボート』の複数の作品に中国に対する「背信と原罪」が埋めこまれていることを指摘する。特に表題作の「中国行きのスロウ・ボート」は単行本収録時と全作品収録時の二度にわたって大幅な改稿がおこなわれているという指摘は重要である。

 村上作品の隠された典拠を探し求めるのは謎解き本の常套で眉に唾をつけた方がいいが、著者の指摘する魯迅の場合は検討に値するし、第六章で素描された阿Qの系譜は比較文学のテーマとしてさらに広がっていくだろう。

 著者が述べるように村上春樹における中国は大きなテーマだとは思うが、その一方、ちょっと待てよと思わないではない。作品を何度も書き直すのは作家にとってそれだけ重要だからにちがいないが、頭では重要だと思おうとしても、リアリティがつかめていない可能性もあるからである。『海辺のカフカ』でカフカ少年は亡霊のような日本兵と出会うが、わたしはあの場面にわざとらしさを感じた。

 四方田犬彦氏が指摘していたと思うが、村上春樹は中国にはあからさまにこだわりつづける反面、朝鮮・韓国は無視しつづけている。村上の中国に対する関心は額面どおり受けとりにくい部分があるのである。

 中国語圏のなかの村上春樹を論じた部分は実に興味深い。村上春樹ブームは台湾 → 香港 → 上海 → 北京と時計回りに広がっていったが、時計回りは経済発展の順序でもあって、夫々の地域で経済成長が一段落した時点で村上春樹ブームが発生しているという共通点がある。一人の作家が経済指標になった例がこれまであったろうか。

 また、経済成長が一段落した時期は民主化運動が終息した時期でもあり、若者の間に喪失感が広がった。村上春樹ブームはその喪失感を埋めるようにして起きているという。

 最後に、欧米では『羊をめぐる冒険』の人気が高いのに対し、東アジアでは『ノルウェイの森』の方が圧倒的に読まれている。著者は『ノルウェイの森』に描かれたコミュニケーションの不可能性が、伝統的な紐帯を失った東アジアの都市に住む若者の心に訴えたのだろうと指摘している。

 著者は以上を四つの法則としてまとめている。

  • 時計回りの法則
  • 経済成長踊り場の法則
  • ポスト民主化運動の法則
  • 森高羊低の法則

 「法則」と呼ぶのは半分は洒落だろうが、確かにそうした事実はあるわけで、後世書かれる東アジア史には村上春樹の章がもうけられるかもしれない。

 著者は四つの法則という視点から台湾、香港、大陸中国に一章をあて、夫々の特殊性を検証している。いずれも地域性と政治制度の問題がくっきり出ており、いろいろな意味でおもしろい。

 最近、中国の贋物が話題になっているが、やはりというべきか、村上春樹の海賊版も横行していた。翻訳を勝手に短縮して辻褄があわなくなった粗悪品が出回っているあたりは想定内だが、なんと「福原愛姫」という村上春樹の友人が書いたと称する『ノルウェイの森』の続篇まで堂々と出版されているそうである。

 第五章では中国語訳の比較が試みられているが、『ノルウェイの森』の林少華訳の誤訳を通じて中国ナショナリズムの問題に遡及している研究が紹介されている。普通、誤訳といえば不注意と語学力の不足という個人的問題にとどまるが、そこにイデオロギーを読みこむのだから、中国人の政治意識の鋭敏さに驚かされる。

 中国は近くて遠い国だなとあらためて実感したが、その中国に橋を架けてくれた村上春樹の存在は大きい。

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2007年10月28日

『ハルキ・ムラカミと言葉の音楽』 ルービン (新潮社)

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 『ねじまき鳥クロニクル』の英訳者であり、『世界は村上春樹をどう読むか』にも参加しているジェイ・ルービン氏による本格的な村上春樹論である。表題は軽めだが、中味はオーソドックスな伝記批評であり、アメリカの文学研究の水準で書かれている。

 日本では夥しい村上春樹本が出ているが、その多くはマニアックな蘊蓄本であったり、コジツケだらけの謎解き本であったりして、最後まで読みとおせるものはあまりない。本書は数少ないまっとうな村上春樹研究書の一冊であり、もし村上春樹で卒論を書くつもりなら、この本は絶対に外すことができない。

 伝記については、作家として成功して以降について、特に村上の海外生活について、類書にはない事実を伝えてくれている。村上本人と個人的親交があることはもちろんだが、アメリカの大学人として日本ではわかりにくいアメリカの大学事情に通じている点も見のがせない。

 本書でもう一つ見のがせないのは、英米のメディアがおこなったインタビューを参照している点である。村上は英米人のインタビューアーに対しては日本人に対してよりも、はるかに率直で踏みこんだ答えを返している。村上春樹研究には海外でおこなわれたインタビューが不可欠だろうと思っていたが、本書を読んでいよいよその感を深くした。そろそろ海外メディアがおこなった村上のインタビューをまとめた本が出てもいい頃ではないか。

 断片的に伝えられていたドイツでの重訳論争についても経緯が詳しく紹介されている。『ねじまき鳥クロニクル』のドイツ語訳はルービン訳から訳しているから、ルービン氏は重訳論争の当事者でもあるわけだが。

 重訳は好ましいことではないが、問題を複雑にしているのはルービン訳が出版社の意向で抜粋訳になっており、村上自身がその抜粋に承認をあたえていることだ。しかも、日本で文庫版を出す際、村上はルービン訳の省略の一部を踏襲している。『ねじまき鳥』の本文は単行本版 → ルービン訳 → 文庫版という経過をたどっているわけだ。これから『ねじまき鳥』を論じようという人はルービン訳を参照しておく必要があるだろう。

 本書からは多くを教えられたが、補足すべき箇所がないわけではない。たとえば、翻訳者としての村上を評した部分。

 翻訳者としての村上春樹も、現代日本文学において重要である。村上作品の人気が村上の訳書に注目を呼び、村上自身は翻訳を通して西洋(とくにアメリカ)文学の幅広い知識を得る。このようにして村上は、たった一人で日本の小説の文体に革命を起こした。新鮮で、都会的で、国際的要素をもった、はっきりアメリカ風に味付けされたスタイルを日本語の文章にはぐくんだ。それは多くの模倣者も生んだ。

 大筋としてはその通りだが、村上はゼロから自分の文体を作ったわけではないと思う。わたしの見るところ、村上の初期三部作の文体は伊藤典夫のカート・ヴォネガットの訳文にきわめて似ている。村上の文体の形成には英米のエンターテイメントの翻訳の厖大な蓄積――丸谷才一いうところの「ハヤカワ文化」――が大きく影響しているはずなのである。

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『世界は村上春樹をどう読むか』 国際交流基金:企画/柴田元幸・沼野充義・藤井省三・四方田犬彦:編 (文藝春秋)

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 国際交流基金は2006年3月に、世界16ヶ国から村上春樹の翻訳者19名を招いて、「村上春樹をめぐる冒険―世界は村上文学をどう読むか」というシンポジュウムとワークショップをおこなったが、本書はその記録である。

 シンポジュウムというと難しそうだが、村上春樹という神輿をかついでワッショイワッショイやっているお祭りである。神輿の担ぎ手が国際的であり、しかも女性が多いところが村上春樹的だ。村上春樹本人が出てきていないという点もすこぶる村上春樹的である。

 参加者はヨーロッパが多いが、本の売行は東アジアが飛びぬけて多いようだ。人口が多いこともあるが、1980年代から紹介が進んでいることも大きいだろう。最大の市場である中国語圏からは中国、台湾、香港にくわえて、マレーシアの華人と四人が来日している。

 村上春樹が世界的なブームになっていると聞くと、最初から売れていたような印象を受けるが、多くの国ではそうではなく、日本の小説にしては売れている程度の時期がしばらくあり、何らかの政治経済的事件の後、ブームに火がつくというパターンをたどるようだ。契機となる事件とは、たとえば香港では天安門事件であり、ロシアでは1990年代半ばの経済危機だ。村上自身、70年代学園紛争の挫折組だが、外国の若者も挫折感、虚脱感をきっかけに村上の本を手にとるというわけだ。

 村上の読者の多くは都市の若者だが、欧米では村上と同世代のベビーブーマーの読者も多いという。日本の団塊世代同様、彼らもまた1970年前後に理想主義の挫折を経験しているかららしい。

 翻訳書の表紙の比較や「スパナ」と「夜のくもざる」を教材にした翻訳ワークショップなど、おもしろいプログラムが目白押しだが、読みごたえという点では「グローバリゼーションのなかで」という討議が抜きんでている。

 村上春樹が従来の日本作家の枠を越えて世界の読者に読まれているのは、アメリカナイズされた都市文化という共通要素によるところが大きい。村上の成功はアメリカ中心のグローバリズムの波に乗った結果という面があるのだ。では、日本の作家というアイデンティティはどうなるのか。討議は問題提起に終始しているが、これは今後、大きな問題としてクローズアップされていくだろう。

 本書を離れた勝手な感想だが、政治的挫折感をきっかけにした第一段階の受容が一段落した後で、グローバリズムとローカリティの矛盾がさらに多くの読者を村上春樹に引きつけていくのではないかと思う。

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