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2007年08月31日

『Writing Systems』 Florian Coulmas (Cambridg University Press)

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 欧米人の書いた文字論は、ゲルプの先駆的かつ過激な仕事を別格とするとたいしたことはなく、特にインド以東の文字が弱いが、その中ではじめて納得できる本に出会った。フロリアン・クルマスの "Writing Systems"で、河野六郎の『文字論』に匹敵する透徹した文字研究といっていいと思う。

 フロリアン・クルマスは『言語と国家』、『ことばの経済学』などの著書のある言語社会学者であり、社会言語学者としての視点が本書の後半で生きている。

 クルマスはまた12年間にわたり日本の大学で教鞭をとっていたという。日本には仏教のつながりでアジアの文字文化に関する情報が厖大に蓄積されているが、長い滞日経験が他の欧米の文字学者にない視点を可能にしたふしもうかがえる。

 クルマスが本書で達成した業績は二つある。第一はきわめて広い視野で文字に関する議論を整理したことである。

 クルマスは「表音文字」と「表意文字」という二分法を批判し、語の階層構造に即して「表語文字」、「音節文字」、「音素文字」に分類することを提案する。わたしも同じことを考えていたので、我が意を得たりである。

 欧米の文字学者はインド系の結合音節文字を軽視する傾向があるが、クルマスは一章を割いて論じており、アルファベットに匹敵する一大文字体系と評価している。日本語の漢字仮名混じり文を複合表記体系として楔形文字と比較考察するのも、日本では珍らしくないが、欧米でははじめてかもしれない。

 第二は文字学の目標を文字によって人間の意識がどう変容したかの解明においていることである。

 わたしは大学で言語学の授業をとった時、担当の講師が「言語学は最も高級な道楽である」と宣言するのを聞いた驚いた経験がある。異論のある向きもあるだろうが、言語学には道楽的な側面が確かにあるのである。文字学にいたってはそれがいっそうはなはだしい。道楽といって悪ければ、純粋な知的好奇心と言いかえてもいい。わたしは文字学の本をおもしろく読むけれども、世の中の役に立つかと聞かれたら言葉を濁さざるをえない。

 クルマスは本書の後半で文字を習得すると意識における記号の布置が変動し、言語のあり方も決定的に変容すると論じ、最終章では専門の社会言語学の視点から識字能力の社会的意味にまで踏みこんでいる。

 未開拓の分野だけに、クルマスの議論にすべて賛成できるわけではない。たとえば、クルマスは認知心理学的な議論によるところが多いが、脳科学の成果をとりいれたらどうなるかなど。しかし、よくも悪くもディレッタント的な本が多い中で、ここまで文字と人間の関係に肉薄した本は他に知らない。

 文字学という学問が誕生するとしたら、本書はその基礎となるべき本だと思う。きわめて重要な本であり、一日も早い邦訳が望まれる。

 最後に目次を仮訳しておく。

 1. 文字とは何か
 2. 基本オプション:意味と音
 3. 表語文字
 4. 音節文字
 5. 音素文字
 6. 子音と母音
 7. 母音記号
 8. 分析と解釈
 9. 複合表記体系
10. 文字の歴史
11. 文字の心理言語学
12. 文字の社会言語学

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