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2007年06月30日

『セリーヌ伝』 ヴィトゥー (水声社)

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 邦訳で600頁を越えるセリーヌの伝記である。作家の伝記にどれだけの意味があるかという見方もあるが、セリーヌの場合、作品がきわめて自伝的であることもあって、本名のルイ・フェルディナン・デトゥーシュの生涯と二重写しされる形で読まれてきた。われわれは作品そのものを読んでいるつもりでも、実際はセリーヌ伝説を読んでいたのかもしれないのである。

 日本で最初に紹介されたセリーヌの作品は1964年に中央公論社の「世界の文学」の一巻として出た生田耕作・大槻鉄男訳の『夜の果ての旅』である。この訳はのちに生田一人によって改訳され、『夜の果てへの旅』として中公文庫にはいり、現在も版を重ねている。

 日本の読者はこの本によってセリーヌという作家を知ったといっていいだろう。わたし自身にとっても思い出深い本だが、日本におけるセリーヌ像を決定したといえる訳者解説にはこうある。

 一九〇五年、小学校を終えたセリーヌは、さっそく商店に就職した。名目は見習い店員であったが、実際はつかいはしりに終始し、実務習得の点では、無収穫におわったらしい。……中略……

 一九一四年大戦勃発と同時にセリーヌはフランドル西部戦線にひっぱり出された。有名なポルカベルの激戦場において、デトッシュ軍曹は、生命を賭して、危険な伝令任務を率先志願し、そしてみごとに任務を遂行した。その勇敢な行動は、将兵の模範として、《日々命令》を通じて全部隊に表彰され、セリーヌは戦功勲章をさずけられ、さらに絵入り週刊誌『国民画報』は第一面全ページをさいて、この愛国の英雄をたたえたほどであった。

 家族の援助なしに一人努力し、戦争で負傷した可哀想な青年の姿が浮かんでくるが、本書によると下線を引いた部分は明らかな誤りであり、他にも誇張がある。もちろん、訳者の責任ではない。すべてはセリーヌ自身が吹聴していたはったりであって、1980年代まではそう信じられていたのだ。

 セリーヌの父親は自分は学士号をもっていたのに、息子には教育を受けさせず、義務教育がおわるとすぐに徒弟奉公に出したことになっていたが、実際はリセを卒業しただけで、大学入学資格もとっていなかった。保険会社の薄給サラリーマンだった父親は学歴は役に立たないと見切りをつけ、息子を商人にすべく、ドイツに一年半と英国に半年語学留学させている。しかも、ドイツの寄宿先には両親そろって二度つきそっていっているし、英国には父親がつきそっている。

 徒弟時代のセリーヌは古典から哲学書、娯楽小説まで、本を片端からむさぼり読んだ。仕事を憶える気がなかったのだ。それでしばしば勤め先を変えたが、最後に勤めた宝石店では気にいられ、兵役終了後には正社員にするといわれていた。

 また、戦場で負傷したセリーヌは早い時期にパリの陸軍病院に転院しているが、これは父が長兄でパリ大学医学部事務局長だったジョルジュに頼みこみ、運動してもらったおかげだった。なお、開頭手術は嘘だそうである。

 セリーヌが医学の道に進めたのにも伯父のジョルジュが一枚かんでいる。セリーヌは英語力のおかげでロックフェラー財団の結核啓蒙隊の一員として働くようになり、レンヌ大学医学部のフォレ教授の知遇をえて女婿にむかえられるが、フォレ教授はパリ大学医学部直属のレンヌ医学校の校長の座をねらっていた。伯父のジョルジュは多くのコネをもっており、フォレはみごと校長の座を射止めることになる。

 義父となったフォレは野心があったとはいえ、本ばかり読んでいる婿に自分の跡を継がせるつもりはなかった。それが無理なことは見抜いていたし、ブルジョワ的な価値観を押しつけることもなかった。セリーヌが放蕩をはじめても、女性関係が盛んだったフォレは咎めたりはしない。義父との関係は悪くはなかったのである。

 博士論文に早くも後年の文体のきざしが見えるとか、国際連盟職員時代はユダヤ人の上司にかわいがられたとか、無料診療所の医師時代、副業として、ユダヤ人が経営陣にいる製薬会社でコピーライターをやっていたとか、本書には覗き見趣味にこたえるような「新事実」が次から次と出てくるが、それだけが本書の価値ではない。本書の本当の夜見どころはセリーヌが生きた時代背景と、外国人にはなかなかうかがい知れないフランス社会の内情を活写している点である。セリーヌの小説はフランスの裏側の顔に係わるだけに、本書のような本は必要である。邦訳には訳注や解説という形で作品の背景が語られているが、一冊の本を読むにしくはない。

 『夜の果てへの旅』執筆前後の条は興味深いが(この革命的な作品はベストセラーになったとはいえ、真価がすぐに認められたわけではなかった)、一番おもしろかったはドイツ軍占領下のフランス社会を描いた条と、有罪判決を受けて亡命生活をつづけていたセリーヌ夫妻の帰国のために、マルセル・エメら、友人たちが奔走する条だ。最終的には第一次大戦の軍功のおかげで特赦されるが、セリーヌに有利な証言をしてくれる文学者は案外多かったのである。

 ドイツ占領下のフランスを描いた作品はレジスタンス側のものが圧倒的に多く、タブーを破ったとされる『ルシアンの青春』のような映画でも、無学な貧困層が金持ちに対する復讐のためにナチスに加担したと描くにとどまっていた。しかし、実際は違った。フランス最高の知識人というべき人たちがナチスに加担し、反ユダヤ主義の論陣を張っていたのだ。ドイツ占領時代のセリーヌは歓迎されたとはいえ、やや浮気味だったらしい。

 ゆきとどいた本だが、原著の出版直後に行方が判明したエリザベス・クレイグの証言は含まれていない。『夜の果てへの旅』執筆時に同棲していた重要な女性だが、彼女については「訳者あとがき」で7頁にわたって補足されている。それを読む限りでは、本書中のエリザベスの記述に大きな訂正は必要なさそうである。

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2007年06月28日

『セリーヌ――私の愛した男』 デトゥーシュ&ロベール (河出書房新社)

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 セリーヌの二度目の妻、リュセット・デトゥーシュの回想を、彼女の舞踏の弟子であるヴェロニック・ロベールがまとめた本である。

 各章の頭にはロベールによる短い紹介文がおかれているが、マリー・ローランサンの絵を思わせるような少女趣味の文章で、セリーヌの作品との落差に戸惑う。リュセットの回想部分では苛烈な人生が語られるが、少女趣味の残り香がだだよっていて、女どうしの親密な打ちあけ話を盗み聞きしているような気分になる。

 リュセットがセリーヌとはじめて出会ったのは1935年。リュセットは23歳の修行中の舞踊家。セリーヌは41歳で、第二作『なしくずしの死』を完成した直後の絶頂の時期。リュセットは以後、セリーヌのそばを片時も離れず、ナチス・ドイツ退却後の亡命にも同行し、修羅場をともにしている。亡命三部作に登場する「リリ」が彼女である。

 邦訳には「踊り子リュセットの告白」とあって、「リリ」と重なるが、実際のリュセットははるかにたくましく、毅然とした女性だった。「踊り子」という表現も誤解をまねく。貧しい生まれだったのは事実だが、生来の才能と努力でパリのコンセルバトワールを卒業し、オペラ座で踊った後、独自のメトードを編みだし、舞踊の教室を開いている。教室にはプロの舞踊家や名流夫人がレッスンにかよい、繁盛していた。ムードンの豪邸(実は豪邸だったのだ)を買ったのも彼女の甲斐性である。

 印象的な条を引いてみる。

 センチなひとだった。なんでもとっておくフェチシストだったわ、古い壊れた母親の鍋まで。彼を識るのに二五年かかった。彼のことを説明するのは難しい、でも理解するのは容易だった。たいてい彼は考えてるのと反対のことを言ったから。優しさを見せたがらない。それで攻撃する。わたしに対してだってひどいもだった。

 彼との一生はまるで心臓の中でコップを割られてるみたいだった。彼は絶えず茎を支えていなければならない一輪の花みたいだった。わたしは支え通した。

 ジャーナリストたちがこの怪人を訪ねてムードン詣でをするようになると、彼はいっそう怪人ぶるの、彼らの払うお金のために怪人を振る舞うの。役を演じてたの、自分自身を自分の戯画にして。ひとがそれを真に受けるとほくそ笑んでたの。

 晩年のセリーヌは世間から爪弾きされて悲惨な生活を送ったのだろうと思いこんでいたが、そうではなかったらしい。フリーメイソンから勧誘(!)され、入会こそしなかったものの、地下集会場までいって儀式を見たというし、ガリマール書店にとっては売れっ子作家で、出版顧問のロジェ・ニミエを通じて影響力をもっていた。世界各地から研究者というか崇拝者がムードン詣でをし、気にくわない研究者は怒鳴りつた。ヘンリー・ミラーに対しても自分の模倣者と決めつけ、けんもほろろだった。フランス社会にとって困った存在には違いなかったが、裏では支援する人がすくなくなかったわけだ。

 後書には訳者の高坂和彦氏がムードンを訪ね、リュセット未亡人にあたたかくむかえられた経緯が書かれているが、本篇からは見えにくい未亡人の生活がわかって興味深い。高坂氏は「私の足を遠のかせたのは、それがやはり、セリーヌの避けた、セリーヌのものではない世界だったからである」と書いているが、セリーヌが戦後の不遇時代を生きのびることができたのは、そのセリーヌのものではない世界のおかげだといっては言いすぎだろうか。なお、墓石には Non とだけ刻まれているというのも嘘で、実際はヨットの線画が彫刻されているそうだ。

 リュセット未亡人は日本贔屓だそうで、彼女はセリーヌの没後、外国をたびたび旅行しているが、最初の滞在先に選んだのは日本だった。『夜の果てへの旅』は多くの監督から映画化の申しこみを受けているが、彼女は大島渚ならいいと言っているという。

 大島監督にその気がなく、映画化は実現しなかったが、北野武だったらどうだろう。セリーヌには大島渚より、北野武の方が合うような気がする。リュセット未亡人が健在なうちに、北野武監督による『夜の果てへの旅』が実現しないものか。

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