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2007年05月31日

『グノーシス』筒井賢治(講談社選書メチエ)

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 日本の新世代のグノーシス研究者によるグノーシス概論である。従来のグノーシス紹介は「厭世的」、「禁欲的」、「反体制的」、「実存的」などのキーワードが定番だったが、本書の描きだすグノーシス像はずいぶんちがう。

 グノーシス主義はこの世のすべてを悪と決めつけ、霊魂の故郷に帰ることを願う運動なのだから、切羽詰まったキーワードがくっつくのは当然といえばいえるが、異和感もないではなかった。そもそもこの運動はなぜ「グノーシス」(知識)と呼ばれるのか。

 本書はそうした異和感が決して根拠のないものではなかったことを教えてくれた。

 グノーシス主義を論じる人の中にはグノーシス主義を一般的な傾向ととらえ、さまざまな時代にグノーシス的なものを読みとる論者もいるが、本書はグノーシス主義がもっとも盛んだった時代、すなわち二世紀のキリスト教グノーシスに話を絞り、二世紀の地中海世界という時代背景の中でとらえている。

 二世紀の地中海世界ではローマ帝国が五賢帝時代という最盛期をむかえていた。都市文化は爛熟をきわめ、教養をそなえた有閑階級がかつてなく増え、人間とは何か、人間はどこから来てどこへ向かうのかという哲学的問いが流行した。知的好奇心が高まり、そうした欲求に応えるものとして「知恵文学」が誕生した。

 著者はこうした時代を象徴する作品としてアプレイウスの『黄金のろば』、なかんずく「アモールとプシケ」をあげ、「好奇心」のために破滅し、神の援助によって救われるという構造がグノーシス主義と同型だと指摘する。

 こうしてみると、理論ないし話のパターンがアプレイウスの『黄金のろば』と驚くほど同じだということがわかる。プトレマイオスにおけるソフィアとアプレイウスにおけるプシュケーおよびルーキウスは、いずれも自らの好奇心によって破滅しかかるが、自分より上位の存在(それぞれプレローマ、アモル神、イシス神)からのめぐみによって助けてもらう。もう少し踏み込んで言うなら、自分から知りたがるという「好奇心」が悲劇をまねき、相手から知らせてもらうという「啓示」が救いをもたらすという構造が共通している。

 注意しよう。著者は「アモールとプシケ」 がグノーシス的だと言っているのではない。グノーシス主義もまた「アモールとプシケ」同様、哲学的関心というか、ゆとりから生まれたと言っているのだ。

 ちょっと乱暴な単純化だが、グノーシス主義のそもそもの担い手は暇をもてあましたインテリだったかもしれないのである。

 そう考えると、腑に落ちることがいろいろある。グノーシス文献にはひどく手のこんだ複雑怪奇な創世神話が書かれているが、あんなややこしいお話は相当な暇人でなければ考えつくものではない。神の超越性をめぐる煩瑣な思弁も同じである。

 また、グノーシス主義者には貧しく無学なキリスト教徒をバカにしている傾向があるが、ああいうエリート主義もグノーシス主義者が暇をもてあましたインテリだったと考えれば説明がつく。

 もちろん、五賢帝時代といえども繁栄を楽しんだのは一部にすぎず、社会の下層には多くの虐げられた人がいた。そうした人たちはキリスト教にすがった。

 こう考えると、グノーシス主義は一時の徒花だったのかもしれない。

 しかし、仮にそうだとしても、グノーシス主義は思想として純化されていき、後のカタリ派など多くの異端運動に思想的基盤を提供した。閑暇の産物であっても、徹底的に考え抜かれた思想は力を持つのである。

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