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2007年04月30日

『二人の天魔王』 明石散人 (講談社文庫)

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 最近はイエズス会陰謀説などという奇説まであらわれていて、本能寺の変の謎解きは煮詰まった感があるが、本書はまったく新しい視角から信長と本能寺の変に光をあてた本である。新しい視角とは室町幕府第六代将軍足利義教である。

 義教は籤引きで将軍になった男と揶揄的に語られるか、後南朝をあつかった本に悪役として顔を出すくらいで、知名度は信長とは較べるべくもない。しかし、一般に知られていないだけで、信長をしのぐ大変な傑物だったのである。

 義教は26歳で天台座主という仏教界の最高位にのぼりつめるが、甥の第五代将軍義量が早逝したために、34歳の時、籤引きで将軍に選ばれる。天台開闢以来の逸材と見られていただけに、当初は仏教にもとづく慈悲深い政治がおこなわれると期待されていたが、還俗した後の義教は大胆に旧弊を改めて将軍の独裁権力を強化し、室町将軍の頭痛の種だった関東を平定してからは琉球から奥州までを制圧してしまった。参勤を怠った大名は容赦なく改易し、天魔の所行と畏れられた。そして、なんと、明国出兵の構想までもっていた。重臣による暗殺がなければ実現していたかもしれない。

 信長の非道なおこないとされる比叡山焼討や蘭奢待切りとりも義教がすでにやっていた。それだけでなく、茶、能、相撲、弓、示威行動としての富士遊覧等々、信長にあたえた影響はきわめて大きい。

 著者によれば、義教を補助線にすると、信長と義昭の関係は従来とはまったく違った様相を呈してくるという。義昭の将軍就任直後、細川信良邸でおこなわれた能興業、特に「弓八幡」をめぐる両者の鞘当ての解読はなるほどと思ったが、どこまで妥当か判断する知識はわたしにはない。しかし、きわめておもしろい見方ではある。

 義教を中心に見ると、信長は義教になろうとしてなれなかった亞流にすぎなくなる。昨今の信長人気に冷水をあびせかけるような視点転換である。

 そうした視点からあらためて信長の生涯を見直すと、疑問点が次々と出てくる。信長の生母は信秀正妻の土田御前であり、家督を争った信行と同腹とされてきたが、本当にそうか。弟喜六郎が織田孫十郎家臣に討たれた時、信行は仇を討とうとしたが、信長は傍観している。信行と喜六郎が同腹で、信長の生母は別だったのではないか。もしそうなら、信長は嫡流の信行を騙し討ちして織田家の家督を簒奪したことになるし、父の葬儀での無礼なふるまいや守役平手政秀の諫死、信長の兄弟と叔父たちが十人も死んでいることも別の意味を帯びてくるだろう。

 著者の新説がどこまで妥当なのかはわからないが、次の一節は妙に説得力を感じた。

 『町をお通りの時、人目をもはばかりなく、栗、柿は申すに及ばず、瓜をかぶりくいになされ、町中に立ちながら餅をまいり、人によりかかり、人の肩につらさがり……』、この文に視えるのは、誰からも愛されない、そして孤独な若者の姿です。僕は信長が誰も信ぜず誰も必要としなかったと言いましたが、言葉を変えれば誰も信長を信じなかったし、誰も信長を必要としなかったと言えるのです……。信長にとっての織田家は、己から始まり、信長が織田家の祖なんです。無論宗家は信長に直系の系譜を持つ者がなるのです。これを実現するには、同時代に生きる叔父、兄弟、まして織田宗家なんていうのは邪魔なだけでした。信長は全てが己から始まればよいと考えていたのです……。この結果信長十人殺しが起きたのです。

 本書には信長に対する偶像破壊的な新解釈が多数含まれている。義教は全国を遊行してまわる時宗を保護することによって日本全土を覆う情報網を掌握したが、信長は一向宗と敵対したために情報戦で後手にまわったという見方はなるほどと思った。ただし、桶狭間の新説などは想像の域を出ないと思う。

 ついでながら、加藤廣氏の『信長の棺』に、太田牛一が信長の不名誉になる史料を片端から握りつぶす場面があるが、その大部分は本書中の新説である。加藤氏は『信長の棺』の参考文献リストで本書に『信長公記』の次、『武功夜話』の前という目立つ位置をあたえているが、ここまで依存しているとなると、あとがきに注記するくらいのことはした方がよかったのではないか。

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