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2007年04月30日

『「本能寺の変」本当の謎』 円堂晃 (並木書房)

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 わたしが本能寺の変に興味を持ったきっかけは半村良の『産霊山秘録』だった。

 もう30年以上前になるが、『石の血脈』で華々しく再デビューした半村良がSFマガジンで『産霊山秘録』の連載を開始した。皇室を守るために歴史の背後で暗躍するヒ一族の活躍を追った伝奇小説だが、「真説・本能寺」と題された第一回を読み、バットで頭を殴られるような衝撃を受けた。『産霊山秘録』という小説自体は龍頭蛇尾だったが、「真説・本能寺」の章だけは傑作中の傑作だと思うし、あれを越える陰謀説には出会っていない。

 以来、そんな馬鹿なとは思いながらも、半村説を頭から払いのけることはできなかった。それどころか、1990年代にはいると信長と朝廷の間に深刻な対立があったとする今谷明氏の研究や、光秀の謀反の動機は「非道阻止」にあったとする小和田哲男氏の説(『明智光秀』)があらわれるようになり、「真説・本能寺」は最初の印象ほど荒唐無稽ではなかったのではないかと思うようになった。1972年時点で信長と朝廷の対立に着目した半村は慧眼だったといわなければならない。

 さて、本書であるが、おそらく半村説を発展させた最初の本である。わたしにとっては30年間待ちつづけていた本ということになる(著者の円堂氏は『産霊山秘録』をあげておらず、半村とは独立に同一の結論にいたったのかもしれないが)。

 本能寺を襲った明智軍の規模は二万人説、三万人説と諸説あるが、『川角太閤記』の一万三千人説がもっとも妥当とされているようだ。一万三千人だとしても、姉川の戦いの浅井朝倉連合軍や長篠の戦いの武田軍と同規模の大軍である。

 著者は現在とは較べものにならないほど小規模だった当時の京都(本能寺のあった下京は南北2キロメートル、東西1キロメートルほど)にとって、一万三千の軍勢がいかにも巨大で、奇襲にそんな大軍を動かすのは不合理であり、危険だったと指摘する。

 事件当夜は雨が降って桂川や堀川は増水し、道はぬかるんで迅速に動けなかった。家の建てこんだ市中に完全装備の大軍を展開させるには時間がかかったろうし、鎧を着て完全武装して歩くとガチャガチャ音がする。夜中に一万三千の軍隊が市中を動きまわったら相当やかましいはずだ。

 信長は少数の手勢しか連れておらず不用心だったといわれているが、信忠は10日前から二千の馬廻衆を率いて京都に駐屯していたし、本能寺の門前には京都所司代村井貞勝の屋敷があった。大軍に囲まれなければ逃れられたはずだし、逃れられないような大軍が動けば事前に察知できたはずなのである。

 『川角太閤記』によると明智軍が紫野(野条)を発したのは酉刻(午後8時頃)だから、明智軍の先鋒が本能寺に達したのは午前3時、最後尾が到着したのは午前5時と推定される。『言継卿記』という一級の史料によると攻撃開始は卯の刻(6月だと午前4~5時)だから、明智軍は全軍が集結するのを待ってから本能寺に攻めこんだことになる。信長を逃したら一巻の終わりなのに、なにをもたもたしていたのだろう。

 一年三ヶ月ぶりの信長の上洛で厳重に警戒していたはずの京都所司代や市中に分宿していた信忠の馬廻衆が一万三千の大軍の到着に気づかなかったとは考えにくいが、そもそも当時の午前5時は現代人の考える午前5時とは違うと円堂氏は指摘する。

 当時の人は薄明るくなれば仕事を始めた。日中猛暑の夏はなおさらのことである。男は田植えの終わった後の田圃を見回ろうとする時刻。雨の間に伸びてしまった家の周りの草取りも忙しい。商家は一日の仕込みの頃である。女は朝食の準備、泥鰌でも捕ろうというのか、近くの小川には子供の姿が見える。梅雨に閉じ込められていた人たちには、晴れた朝は夜明けから仕事が山積していた。  空には雲があり、真夏の日の出は赤かった。梢に蟬はまだ鳴かない。
 そんな時刻に本能寺の変は起きたと考えればいい。
 つまり本能寺の変は、衆人の見守る前で起きたことなのである。

 信長が寝ていたのか起きていたのかはわからないが、すくなくともドラマでおなじみの夜襲ではなかったようだ。本能寺の変は成功してしまったことが最大の謎なのである。

 この謎に著者が用意した答えはこうだ。明智軍を京都にいれたのは信長自身だった、と。

 実は南蛮史料には信長が明智軍の京都入城を承知していたことをうかがわせる記述があるという。まず、『一五八二年のイエズス会日本年報追加』。

 明智の兵は宮殿の戸に達して直に中に入った。同所ではかくの如き謀叛を嫌疑せず、抵抗するものがなかったため、内部に入って信長が手と顔を洗い終わって手拭で清めていたのを見た。而してその背中に矢を放った。信長はこの矢を引き抜いて薙刀、すなはち柄の長く鎌の如き形の武器を執って暫く戦ったが、腕に銃弾を受けてその室に入り戸を閉じた。

 貿易商人として日本に来ていたアビラ・ヒロンの『日本王国記』にはこうあるという。

 信長は明智が自分を包囲している次第を知らされると、何でも噂によると、口に指をあてて、余は余自ら死を招いたなと言ったということである。

 本書の後半は、なぜ信長が明智軍を京都にいれたかの解明にあてられている。著者の結論は半村説に近いが、半村説ほど過激ではない。

 しかし、著者の説は成立しないだろう。もし著者の考えるとおりの事態が起きていたなら、光秀は細川幽斎に援軍を懇請した書簡に必ず書いていたはずだからだ。半村良の光秀は皇室を秘かに守護する勅忍という立場だったので真相をあかすことができなかったと説明されているが、自己保身ないし野望のためのクーデタなら信長の非道は最大の大義名分になったはずである。この難点を解決しない限り、非道阻止説は無理である。

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