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2007年04月30日

『だれが信長を殺したのか』 桐野作人 (PHP新書)

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 著者の桐野作人氏は以前は朝廷陰謀説をとっていたが、2001年の『真説 本能寺』で自説をとりさげ、光秀単独犯行説に転じた。立場を変えた直接の理由は『晴豊公記』の輪読会に参加し、信長と朝廷の間に深刻な対立などなかったと確信したからだという。本書は『真説 本能寺』の内容をさらに深めたもので、有名な「ときは今」の歌仙が巻かれた日に書かれた新発見の書簡など、最新の知見が盛りこまれている。

 『信長は謀略で殺されたのか』でも説かれているように、機密保持という点でも、変後の光秀の泥縄な動きという点でも、共謀説は無理のようである。光秀単独犯行となれば、問題点は動機に絞りこまれる。桐野氏は謀反の動機として領国の再編問題と四国問題をあげている。

 領国の再編問題とは京都に近い領国は信長の息子たちが独占し、家臣は遠国に移封されることをいう。江戸幕府は江戸の周辺を親藩譜代で固め、外様大名を遠方に配したが、織田幕府が誕生したとすれば同様の政策をとった可能性が高い。

 怨恨説でよくいう「まだ敵地の出雲・石見をあたえる代わりに丹波を召し上げた」という『明智軍記』のエピソードは荒唐無稽にしても、都の隣の丹波から遠国に転封されることは「惟任日向守」という名乗りをあたえられた時点でわかっていたはずだ。

 むしろ重要なのは四国問題である。四国で勢力を伸ばしつつある長宗我部を取りこむか排除するかで光秀と秀吉の間に路線対立があったことはこれまでにも指摘されてきた。著者は領国再編問題のからみで、対立がもはや光秀対秀吉ではなく、光秀対信長に移っていたと指摘する。本願寺が大坂に健在な間は大坂の背後に控える長宗我部に利用価値があったが、本願寺の降伏とともに利用価値はなくなり、むしろ邪魔な存在になっていった。信長が四国渡海軍の総大将に息子の信雄を指名したことは四国の都に近い東半分が信雄の領国になることを意味していた。長宗我部は排除されるしかなかったのである。

 ここで明智軍の主力、美濃譜代衆をたばねる斎藤利三の存在が浮上してくる。利三は春日の局の実父として有名だが、長宗我部元親と姻戚関係にあり織田側の親長宗我部の代表者だった。長宗我部の排除で利三は立場を失っただけでなく、稲葉家から明智家に移った時の遺恨を蒸し返され、一時は信長に切腹を命じられるほど追いつめられていた。本能寺の変では利三の活躍が目立つが、彼には謀反を主導したとしてもおかしくない動機があったのだ。

 陰謀j説ファンとしては寂しくもあるが、本能寺の変の真相は本書が説くところで決まりかもしれない。

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『信長は謀略で殺されたのか』 鈴木眞哉&藤本正行 (洋泉社)

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 本能寺の変をあつかった本やテレビ番組は夥しい数にのぼるが、その多くは明智光秀の謀反の背後には共犯者ないし別の真犯人がいるという陰謀説をとっている。近年の信長人気の高まりとともに、陰謀説はいよいよ花盛りであるが、本書はそうした陰謀説を一網打尽にして、斬って棄てた本である。

 著者の鈴木・藤本両氏は先に『偽書『武功夜話』の研究』を上梓している。『武功夜話』とは1959年の伊勢湾台風で崩れた愛知県の旧家の土蔵で発見されたと称する古文書群だが、保存状態がきわめて悪いという理由で一部を除き外部の人間には見せず、本文の写真版すら公開していない。刊本に載っているのは一族の吉田蒼生雄氏による読み下し文である(吉田蒼生雄氏は歴史の専門家でも古文書の専門家でもない)。

 オリジナルを出していないという点からして怪しげだが、信長や秀吉の秘話が小説的に描かれている上に、朝日新聞とNHKが御墨つきをあたえたことから世間の注目を集めた。遠藤周作『男の一生』、津本陽『下天は夢か』、NHK大河ドラマになった堺屋太一『秀吉』等々、『武功夜話』をもとに書かれた作品は枚挙にいとまがない。

 同書は『武功夜話』を学問的に検討した最初の本と思われるが、用語・文体・形式・内容の両面から問題点をあらいだした後、墨俣一夜城の条を検討している。全四巻に補巻まである中で墨俣一夜城をとりあげたのはNHKの歴史番組で大々的に紹介されよく知られているからだろう。

 『武功夜話』では中洲の真ん中に東西120間、南北60間の砦を建てたことになっているが、史実では中洲の端に作り、陸続きを塀で遮断する構造になっていた。もし『武功夜話』のように長方形の砦を作ったとすると、四方に防壁と堀を巡らせたことになる。それでは工事が大変だし、四方向から敵が来るので守るのも大変である。船着き場と砦が離れているので、敵に囲まれたら補給ができなくなるという致命的な欠陥もある。通常、塀際の土塁の上に建てる櫓が敷地の中央にあるのも不合理だ。『武功夜話』の一夜城は実際の合戦を知らない人間が空想ででっち上げた代物なのである。

 『武功夜話』は同書によってとどめを刺されたといってよい。オリジナルが公開されていないので成立過程については断定を避けているが、偽書が盛んに作られた江戸時代後期に『武功夜話』の原型になる文書が創作され、現代においてさらに潤色されたという推定は説得力がある。

 さて、『信長は謀略で殺されたのか』であるが、本書は二部にわかれる。第一部で『信長公記』や「本城惣右衛門覚書」のような信憑性の高い史料をもとに、本能寺の変の実像を現在わかっている範囲で記述し、第二部ではさまざまな陰謀説を紹介・検討して五つの共通点をあぶりだしている。

 第一部については簡単なものなので、やや不満が残る。信忠周辺の動向など、もっとわかっていることはあるのではないか。ただ、機密保持の点から共謀説がありえないという指摘はくつがえすのが難しい。このハードルを越えない限り、陰謀説は成立しない。

 第二部では夥しい陰謀説の中から、足利義昭黒幕説を提唱する藤田達生氏の『謎とき本能寺の変』と、朝廷黒幕説からイエズス会黒幕説に転じた立花京子氏の『信長と十字架』の二冊を選び検討している。

 批判だけを読んで判断するのは公平を欠くので二冊とも目を通してみたが、本書の批判はすべて当たっていると思う。

 『信長と十字架』は批判されているとおりのトンデモ本だったが、『謎とき本能寺の変』の前半は京都追放後の足利義昭の活動を紹介していておもしろかった。TVドラマなどでは都落ちした後の義昭は影が薄いが、室町幕府発祥の地である鞆の浦に幕府を開いて九州に影響力をおよぼよし、外交活動まで展開していた。義昭はバカ殿として描かれることが多いが、実際は二枚腰のしたたかな人物だったようである。

 これから陰謀説を提唱する人は本書があげた疑問点に答える必要があるだろう。

 なお、本筋とは関係ないが、陰謀説好きを日本人の特性と決めつけているのはおかしい。『ダ・ヴィンチ・コード』が世界的なベストセラーになったことでもわかるように、歴史に関心の高い国ほど陰謀説を楽しむ文化が育っているのである。

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『二人の天魔王』 明石散人 (講談社文庫)

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 最近はイエズス会陰謀説などという奇説まであらわれていて、本能寺の変の謎解きは煮詰まった感があるが、本書はまったく新しい視角から信長と本能寺の変に光をあてた本である。新しい視角とは室町幕府第六代将軍足利義教である。

 義教は籤引きで将軍になった男と揶揄的に語られるか、後南朝をあつかった本に悪役として顔を出すくらいで、知名度は信長とは較べるべくもない。しかし、一般に知られていないだけで、信長をしのぐ大変な傑物だったのである。

 義教は26歳で天台座主という仏教界の最高位にのぼりつめるが、甥の第五代将軍義量が早逝したために、34歳の時、籤引きで将軍に選ばれる。天台開闢以来の逸材と見られていただけに、当初は仏教にもとづく慈悲深い政治がおこなわれると期待されていたが、還俗した後の義教は大胆に旧弊を改めて将軍の独裁権力を強化し、室町将軍の頭痛の種だった関東を平定してからは琉球から奥州までを制圧してしまった。参勤を怠った大名は容赦なく改易し、天魔の所行と畏れられた。そして、なんと、明国出兵の構想までもっていた。重臣による暗殺がなければ実現していたかもしれない。

 信長の非道なおこないとされる比叡山焼討や蘭奢待切りとりも義教がすでにやっていた。それだけでなく、茶、能、相撲、弓、示威行動としての富士遊覧等々、信長にあたえた影響はきわめて大きい。

 著者によれば、義教を補助線にすると、信長と義昭の関係は従来とはまったく違った様相を呈してくるという。義昭の将軍就任直後、細川信良邸でおこなわれた能興業、特に「弓八幡」をめぐる両者の鞘当ての解読はなるほどと思ったが、どこまで妥当か判断する知識はわたしにはない。しかし、きわめておもしろい見方ではある。

 義教を中心に見ると、信長は義教になろうとしてなれなかった亞流にすぎなくなる。昨今の信長人気に冷水をあびせかけるような視点転換である。

 そうした視点からあらためて信長の生涯を見直すと、疑問点が次々と出てくる。信長の生母は信秀正妻の土田御前であり、家督を争った信行と同腹とされてきたが、本当にそうか。弟喜六郎が織田孫十郎家臣に討たれた時、信行は仇を討とうとしたが、信長は傍観している。信行と喜六郎が同腹で、信長の生母は別だったのではないか。もしそうなら、信長は嫡流の信行を騙し討ちして織田家の家督を簒奪したことになるし、父の葬儀での無礼なふるまいや守役平手政秀の諫死、信長の兄弟と叔父たちが十人も死んでいることも別の意味を帯びてくるだろう。

 著者の新説がどこまで妥当なのかはわからないが、次の一節は妙に説得力を感じた。

 『町をお通りの時、人目をもはばかりなく、栗、柿は申すに及ばず、瓜をかぶりくいになされ、町中に立ちながら餅をまいり、人によりかかり、人の肩につらさがり……』、この文に視えるのは、誰からも愛されない、そして孤独な若者の姿です。僕は信長が誰も信ぜず誰も必要としなかったと言いましたが、言葉を変えれば誰も信長を信じなかったし、誰も信長を必要としなかったと言えるのです……。信長にとっての織田家は、己から始まり、信長が織田家の祖なんです。無論宗家は信長に直系の系譜を持つ者がなるのです。これを実現するには、同時代に生きる叔父、兄弟、まして織田宗家なんていうのは邪魔なだけでした。信長は全てが己から始まればよいと考えていたのです……。この結果信長十人殺しが起きたのです。

 本書には信長に対する偶像破壊的な新解釈が多数含まれている。義教は全国を遊行してまわる時宗を保護することによって日本全土を覆う情報網を掌握したが、信長は一向宗と敵対したために情報戦で後手にまわったという見方はなるほどと思った。ただし、桶狭間の新説などは想像の域を出ないと思う。

 ついでながら、加藤廣氏の『信長の棺』に、太田牛一が信長の不名誉になる史料を片端から握りつぶす場面があるが、その大部分は本書中の新説である。加藤氏は『信長の棺』の参考文献リストで本書に『信長公記』の次、『武功夜話』の前という目立つ位置をあたえているが、ここまで依存しているとなると、あとがきに注記するくらいのことはした方がよかったのではないか。

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『「本能寺の変」本当の謎』 円堂晃 (並木書房)

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 わたしが本能寺の変に興味を持ったきっかけは半村良の『産霊山秘録』だった。

 もう30年以上前になるが、『石の血脈』で華々しく再デビューした半村良がSFマガジンで『産霊山秘録』の連載を開始した。皇室を守るために歴史の背後で暗躍するヒ一族の活躍を追った伝奇小説だが、「真説・本能寺」と題された第一回を読み、バットで頭を殴られるような衝撃を受けた。『産霊山秘録』という小説自体は龍頭蛇尾だったが、「真説・本能寺」の章だけは傑作中の傑作だと思うし、あれを越える陰謀説には出会っていない。

 以来、そんな馬鹿なとは思いながらも、半村説を頭から払いのけることはできなかった。それどころか、1990年代にはいると信長と朝廷の間に深刻な対立があったとする今谷明氏の研究や、光秀の謀反の動機は「非道阻止」にあったとする小和田哲男氏の説(『明智光秀』)があらわれるようになり、「真説・本能寺」は最初の印象ほど荒唐無稽ではなかったのではないかと思うようになった。1972年時点で信長と朝廷の対立に着目した半村は慧眼だったといわなければならない。

 さて、本書であるが、おそらく半村説を発展させた最初の本である。わたしにとっては30年間待ちつづけていた本ということになる(著者の円堂氏は『産霊山秘録』をあげておらず、半村とは独立に同一の結論にいたったのかもしれないが)。

 本能寺を襲った明智軍の規模は二万人説、三万人説と諸説あるが、『川角太閤記』の一万三千人説がもっとも妥当とされているようだ。一万三千人だとしても、姉川の戦いの浅井朝倉連合軍や長篠の戦いの武田軍と同規模の大軍である。

 著者は現在とは較べものにならないほど小規模だった当時の京都(本能寺のあった下京は南北2キロメートル、東西1キロメートルほど)にとって、一万三千の軍勢がいかにも巨大で、奇襲にそんな大軍を動かすのは不合理であり、危険だったと指摘する。

 事件当夜は雨が降って桂川や堀川は増水し、道はぬかるんで迅速に動けなかった。家の建てこんだ市中に完全装備の大軍を展開させるには時間がかかったろうし、鎧を着て完全武装して歩くとガチャガチャ音がする。夜中に一万三千の軍隊が市中を動きまわったら相当やかましいはずだ。

 信長は少数の手勢しか連れておらず不用心だったといわれているが、信忠は10日前から二千の馬廻衆を率いて京都に駐屯していたし、本能寺の門前には京都所司代村井貞勝の屋敷があった。大軍に囲まれなければ逃れられたはずだし、逃れられないような大軍が動けば事前に察知できたはずなのである。

 『川角太閤記』によると明智軍が紫野(野条)を発したのは酉刻(午後8時頃)だから、明智軍の先鋒が本能寺に達したのは午前3時、最後尾が到着したのは午前5時と推定される。『言継卿記』という一級の史料によると攻撃開始は卯の刻(6月だと午前4~5時)だから、明智軍は全軍が集結するのを待ってから本能寺に攻めこんだことになる。信長を逃したら一巻の終わりなのに、なにをもたもたしていたのだろう。

 一年三ヶ月ぶりの信長の上洛で厳重に警戒していたはずの京都所司代や市中に分宿していた信忠の馬廻衆が一万三千の大軍の到着に気づかなかったとは考えにくいが、そもそも当時の午前5時は現代人の考える午前5時とは違うと円堂氏は指摘する。

 当時の人は薄明るくなれば仕事を始めた。日中猛暑の夏はなおさらのことである。男は田植えの終わった後の田圃を見回ろうとする時刻。雨の間に伸びてしまった家の周りの草取りも忙しい。商家は一日の仕込みの頃である。女は朝食の準備、泥鰌でも捕ろうというのか、近くの小川には子供の姿が見える。梅雨に閉じ込められていた人たちには、晴れた朝は夜明けから仕事が山積していた。  空には雲があり、真夏の日の出は赤かった。梢に蟬はまだ鳴かない。
 そんな時刻に本能寺の変は起きたと考えればいい。
 つまり本能寺の変は、衆人の見守る前で起きたことなのである。

 信長が寝ていたのか起きていたのかはわからないが、すくなくともドラマでおなじみの夜襲ではなかったようだ。本能寺の変は成功してしまったことが最大の謎なのである。

 この謎に著者が用意した答えはこうだ。明智軍を京都にいれたのは信長自身だった、と。

 実は南蛮史料には信長が明智軍の京都入城を承知していたことをうかがわせる記述があるという。まず、『一五八二年のイエズス会日本年報追加』。

 明智の兵は宮殿の戸に達して直に中に入った。同所ではかくの如き謀叛を嫌疑せず、抵抗するものがなかったため、内部に入って信長が手と顔を洗い終わって手拭で清めていたのを見た。而してその背中に矢を放った。信長はこの矢を引き抜いて薙刀、すなはち柄の長く鎌の如き形の武器を執って暫く戦ったが、腕に銃弾を受けてその室に入り戸を閉じた。

 貿易商人として日本に来ていたアビラ・ヒロンの『日本王国記』にはこうあるという。

 信長は明智が自分を包囲している次第を知らされると、何でも噂によると、口に指をあてて、余は余自ら死を招いたなと言ったということである。

 本書の後半は、なぜ信長が明智軍を京都にいれたかの解明にあてられている。著者の結論は半村説に近いが、半村説ほど過激ではない。

 しかし、著者の説は成立しないだろう。もし著者の考えるとおりの事態が起きていたなら、光秀は細川幽斎に援軍を懇請した書簡に必ず書いていたはずだからだ。半村良の光秀は皇室を秘かに守護する勅忍という立場だったので真相をあかすことができなかったと説明されているが、自己保身ないし野望のためのクーデタなら信長の非道は最大の大義名分になったはずである。この難点を解決しない限り、非道阻止説は無理である。

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2007年04月25日

『信長燃ゆ』 安部龍太郎 (新潮文庫)

信長燃ゆ(上)
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信長燃ゆ(下)
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 本能寺の変の真相については諸説あるが、近年、朝廷陰謀説が人気がある。信長に既得権益の破壊者を期待する小泉前首相的な読み方には古い権威の象徴である朝廷と対決し、つぶされたとする解釈が一番整合するからだろう。すくなくとも、怨恨説よりスケールが大きく、信長がより大物に見える。

 本作は朝廷陰謀説の集大成といっていいかもしれない。小説としても面白い。

 織田家の遠祖は神官とされており、先代の信秀の時代から朝廷に分不相応な献金をおこなってきた尊王の家系であり、信長自身、朝廷によって何度も危機を脱している。しかし、晩年の信長と朝廷の間に対立があったことは御所の隣で軍事パレードというべき馬揃を天正九年に二度もおこなったことからいっても、朝廷が国師号をあたえた快川和尚を焼き殺したことからいっても、間違いないと思われる。

 ただし、陰謀で殺さなければならないほどの危機感を朝廷側がいだいていたかどうかは議論がわかれるし、仮に危険視していたとしても、本能寺の変を演出するような力が朝廷側にあったとは考えにくい。

 本作はこうした疑問に対して説得力のあるストーリーを組み立てている。光秀が謀反に踏みきった動機として、秀吉に対する焦りが云々されることが多い。近年有力な四国問題が変の背景にあったという説にしても、長宗我部に加担した光秀が反長宗我部工作をおこなった秀吉に負けたと説明されている。

 しかし、信長から見た場合、光秀を失脚させて秀吉一人勝ちの状況を作るのは危険である。変後の動きを見てもわかるように、秀吉に対抗できる家臣は光秀しかいなかった。秀吉に筑前守、光秀に日向守の名乗りを同時にあたえたことからわかるように、信長は両者を拮抗させて使う意向だったろう。

 本作の信長は光秀にずいぶん気を使っている。四国問題にしても、信雄の副将に光秀の娘婿の織田信澄をあて、長宗我部が土佐一国に甘んじるなら本領安堵するつもりだったとしている。あくまでフィクションだが、信長の心の動きは納得できる。

 近衛前久と信長の葛藤の描き方もリアリティがある。朝廷陰謀説では近衛前久が朝廷側の黒幕とされることが多いが、前久は信長ときわめて親しく、最後まで関係がよかったことがわかっており、朝廷陰謀説の有力な反証とされている。しかし、表向きの関係がよくても、心の裏側まではわからない。心の裏側を描くのは小説の独擅場である。

 もう一つ特筆すべきは小説にだけ可能な手法によって朝廷の奥の手に光をあててている点である。

 朝廷側の奥の手とは女官である。天皇の意向は側近にはべる女官たちの女房奉書として伝えられることが多かった。女官が勅使として派遣される例もすくなくなかった。女官は天皇の外交官として政治の表舞台だけでなく裏舞台でも活躍していたのだ。

 近衛前久が朝廷側の切札として送りこむのは、あろうことか皇太子である誠仁親王の夫人で、後光厳天皇の生母である勧修寺晴子(後の新上東門院)である。家柄的に皇后にこそなれないものの、皇太子妃といっていい立場の女性を信長にさし向けたのだ。

 この時代、朝廷の因習に反発し、信長に憧れる公家がすくなからずいた。前久の嫡男の信基がその代表だったし(実際に信長の近く侍っていた)、前久自身にもその傾向があった。そして、本作に登場する勧修寺晴子も信長に魅せられ、皇太子妃としてはあるまじき行動に出る。戦前だったら不敬罪ものだ。

 もちろんフィクションにちがいないが、読んでいる間はひょっとしたらという気分になり、皇太子妃の危ういロマンスに一喜一憂させられる。

 すぐれた作品だが、不満がないわけではない。朝廷方の人物は生き生きと書けているのに信長以外の織田方の武将の影が薄く、単なる将棋のコマにしか見えないのである。明智光秀が人物として生きていたら本作は傑作になっていたろう。

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2007年04月23日

『信長の棺』 加藤廣 (日本経済新聞社)

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 本能寺の変後、信長の遺体が見つからなかったことは変の背景とともに日本史上のミステリーとなっている。本作はその謎解きに挑戦した話題作で、今年の正月にはTVドラマになっている。

 本能寺の変と信長の遺体の行方の謎解きを試みた小説はこれまでにもあったが、本作が卓抜なのは『信長公記』の筆者、太田牛一を探偵役にしている点である。

 太田牛一はただの物書きではない。若い頃は弓衆として従軍し、中年になってからは事務官僚として信長に近侍し、晩年は秀吉の側室の松の丸殿や秀頼の警護役となっている。信長のそば近くに仕えていただけでなく、第一線の戦闘員として合戦を経験し、秀吉政権の中枢にも近かったのである。『信長公記』は第一級の史料とされている。

 TVドラマ版では松本幸四郎が牛一を演じていたが、とってつけたようにチャンバラ場面がはさまれ、本当はどうなのだろうと思った。原作を読んだところ、チャンバラはなかったものの、すべて会話で説明してしまうという素人くさい書き方をしていた。エピソードを積み重ねて物語を進めるという基本ができていないので、TV版は無理矢理チャンバラ場面を挿入したのだろう。最後の謎解きも、牛一が生命を助けた女の縁ですべてを知る人物から真相を解説してもらうという書き方だった。

 会話の説明ですますのは小説として稚拙にすぎると思うが、作者の加藤廣氏はもともとエコノミストで、小説ははじめてのようだから仕方なかったのかもしれない。

 小説としてはお粗末だが、謎解きとしてはなかなか面白かった。基本的には朝廷謀略説だが、本能寺と信長が保護した南蛮寺が近い点に注目し、抜け穴があったが、その抜け穴を掘ったのが秀吉の息のかかった鉱山技術を持つ山の民だったために、明智の謀反をいちはやく摑んだ秀吉が遮断を命じたとする。朝廷の陰謀だけなら逃げられたが、秀吉が逃げ道を塞いだので信長は横死したというわけで、二段階謀略説といえよう。

 ちょっと気になったのは、秀吉が『信長公記』を検閲したことになっている点だ。牛一は崇敬する信長の伝記を書くために準備をしていたが、それを聞きつけた秀吉が大金を積み、自分の文庫に納めるために書くように命じる。牛一は完成した稿本を伏見に持参したが、秀吉は目の前で読みあげさせ、牛一の記述にいちいち突っこみをいれる場面がTV版の中盤の見せ場になっていた。牛一は触れずにすませたかった信長の残酷な面を加筆させられてしまうが、秀吉に復讐するように、一度文庫に納めた稿本に秀吉が書く必要なしとした永禄十一年の上洛以前を描いた「首巻」をこっそり追加する。『信長公記』の構成上の問題を逆手にとったのはいい着眼である。原作ではどうなっているのかと思ったら、ほぼTV版の通りだった。

 『信長公記』に異本が多い点、信長の事績を顕彰するために書かれたはずなのに、信長の残虐行為に触れている点を謎解きしようとしたのだろが、そもそもそれが謎なのだろうか。

 作中の牛一は「後の世にいくつもの異なった『信長公記』が流布し、作者としては、とんだ恥さらしになるわ」と、「首巻」のない写本や秀吉の検閲前の稿本が流出したことを地団駄踏んで悔しがっているが、藤本正行氏の『信長の戦争』によれば、牛一自身が盛んに異本を作っていたのである。

 『信長公記』は明治になって活字化されるまでは一度も印行されたことがなく、もっぱら写本で伝わったが、晩年の牛一は有名人だったので、大枚の謝礼を払っても牛一自身の手になる写本を求める人がすくなくなかったという。牛一は半ば記憶で書き写したらしく、間違いというか異文が多かったし、依頼者によってはその家に係わる記述を増やすというようなサービスまでおこなっていた。牛一は中世人であり、牛一や『信長公記』を近代的な尺度でとらえようとするのは正しくない。

 『信長の戦争』に詳しく書かれているが、『信長公記』の真価が最近までわからなかったのは近代的な偏見によるものらしい。

 太田牛一の没した翌年、小瀬甫庵という医者が『信長記』というまぎらわしい題名の信長の伝記を刊行する。『信長記』は『信長公記』を「増補」したものとされてきたが、「増補」部分は甫庵の創作だったことがあきらかになっている。桶狭間の「奇襲」も、武田信玄の「騎馬軍団」も、長篠の「三段撃ち」も、すべて実際の合戦を経験したことのない甫庵の空想の産物であり、事実ではなかった。しかし、近代的に考えれば、寡兵の信長が今川の大軍を破ったのは「奇襲」だと考えた方が通りがいいし、「騎馬軍団」を鉄砲の「三段撃ち」で殲滅したというとわかったような気になる。実際の合戦を知らない甫庵が空想で合理化した『信長記』が世に広まり、事実を伝える『信長公記』が忘れられたのも無理からぬことだったのかもしれない。

 『信長の棺』は学者と歴史マニアにしか知られていなかった太田牛一を広く世に知らせた点では功績があったが、『信長公記』の真価を伝えてはいない。残念なことに、偽書であることが明白な『武功夜話』の与太話までとりこんでいる。『信長公記』に興味を持った人は藤本正行氏の『信長の戦争』を読んだ方がいい。

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