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2007年03月31日

『言語類型の起源と系譜』 近藤健二 (松柏社)

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 著者の近藤健二は古英語関係の著作のある言語学者だが、本書は言語の古層に測深鉛をおろし、アジア太平洋諸語の底流をさぐろうという壮大な試みである。

 近藤が探求の手がかりとするのは能格言語だが、一般にはなじみがないと思われるので、すこし説明しておこう。

 日本語でも英語でもかまわないが、大半の言語は動詞が自動詞だろうと他動詞だろうとかかわりなく、主語になるのは主格であり、目的語になるのは対格(目的格)である。

私は 泳ぐ。
I swim.

私は 魚を 食べる。
I eat a fish.

 ところが、能格言語に分類される言語では、自動詞の主語になる格は他動詞では目的語になってしまうのだ。他動詞の主語、というか行為者をあらわすのは能格という別の形式である。それに対して自動詞の主語=他動詞の目的語は形式が同一なだけではなく、格をあらわす助詞や活用をともなわないので、絶対格と呼ばれる。近藤があげているイヌイット語の例を示せば、こんな具合だ。

nequa kuimuq.
(魚が 泳いでいる)

angute-m nequta neraa.
(男が 魚を 食べている)

 anute(男)の後ろにつく m は能格を示す標識である。nequa(魚)は絶対格なので、なにもつかない。

 同じ形式の語が動詞によって主語になったり目的語になったりするのは不便のようだが、能格言語に分類される言語は意外に多く、コーカサス山脈やシベリア、北米、オーストラリアなど、世界中に散在している。ヨーロッパで孤立しているバスク語や、やはり系統不明とされているアイヌ語もそうである。

 能格言語は辺境の先住民の話す土着語が多いが、サンスクリット語や古代ペルシャ語、ゴート語など古い印欧語の格組織には能格言語の痕跡が残っており、印欧語も最初は能格言語だったと見られている。ビルマ・チベット語にも能格言語の名残があるという。能格言語は言語の古層に属するらしい。

 能格言語はなぜ自動詞と他動詞で異なるふるまいを見せるのだろうか。その問いに答えるには自動詞と他動詞の違いをまず明らかにしなくてはならない。

  1. きのう、母がなくなりました。
  2. *きのう、母をなくしました。
  3. 一昨年、母をなくしました。

 近藤は「きのう、母をなくしました」という文が不自然な点に注目し、自動詞文は心理的距離の小さい出来事に使われる傾向があるのに対し、他動詞文は心理手距離の大きな出来事に使われる傾向が強いと指摘し、自動詞文の方が直感的であり、より根源的だとしている。幼児の観察でも自動詞文の方が他動詞文よりも早く習得できることがわかっている。言語の歴史において、自動詞文の方が他動詞文よりも先んじて発達した可能性が高い。

 近藤は原初的な言語では格を示すような助詞や活用はなかっただろうと推定している。原始人はターザンのような言語を喋っていたというわけだ。そこで、以下のようなターザン語を考えてみる。

  1. 扉、開く。
  2. 風、扉、開く。
  3. 彼、扉、開く。

 aとbは自動詞文だが、cは他動詞文的色彩が濃い。曖昧さをなくすために、以下のように助詞がくわわったとしよう。

  1. 扉、開く。
  2. 風で、扉、開く。
  3. 彼が、扉、開く。

 bは「風で」という手段・道具をあらわす副詞句がくわわった形であるが、cは能格構文そのままだ。cの「彼が」は機能的には主語ということになるが、「扉、開く」を修飾する副詞句だともいえる。

 われわれの目から見ると aとbの「扉」は主語で、cの「扉」は目的語だが、能格言語の話者にとってはそんな区別はないのかもしれない。

 ここで注目したいのは「風で」と「彼が」が、「扉、開く」を同じように修飾しているという事実である。「風で」は道具・手段を示す具格、「彼が」は行為者を示す能格だが、近藤は能格の起源は具格ではないかと推定している。具格→能格→主格という発展過程があるのかもしれない。

(急いでつけくわえておくが、近藤は主語が存在するという立場なので、「風で」を具格主語と呼んでいる。逆に主語がないという立場に立てば、「彼が」は主格補語と呼ぶべきだろう。)

 以上は本書の第一章の内容を紹介したにすぎない。近藤は能格の具格起源仮説を手がかりに、太平洋をとりまくように分布するモンゴロイド諸語の古層に次々と測深鉛をおろしていき、隠れた系譜を浮かびあがらせようとする。マイナーな言語の話ばかりなのでどこまで妥当なのかは素人には判断できないが、議論の筋道は十分追うことができる。

 近藤は大野晋の日本語のタミル語起源説を評価している。大野は最初は日本語とタミル語の同祖説を主張していたが、途中で縄文時代末期に稲作とともにタミル語語彙が大量に流入し日本語を再編成したというタミル語クレオール説に後退している(『新版 日本語の起源』参照)。近藤はタミル人が稲作技術をもって日本に大挙来航したという仮説をありえないと退け、大野がタミル語起源としている語彙はアジア太平洋祖語に根ざすものだろうとしている。

 また、系統不明とされているシュメール語とエラム語についても一章をさき、アジア太平洋諸語とのつながりを指摘している。音韻対応でさかのぼれるのは一万年程度だといわれているが、本書の方法でその先に遡行できるものかどうか、他の専門家の見解が気になるところだ。

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