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2007年02月26日

『花のほかには松ばかり』 山村修 (檜書店)

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 匿名書評家<狐>こと山村修は大の能楽ファンで、晩年は謡を習っていたそうである。本書は「謡曲を読む愉しみ」とある通り謡曲論集で、表題の「花のほかには松ばかり」は『道成寺』の詞章からとっている。

 本書は二部にわかれる。

 第一部は「謡曲を読むということ」と題した導入的な文章で、やはり大の能楽ファンだった夢野久作を枕に、謡曲は独立の文学作品として読めるかどうかを考えている。謡曲は能の歌詞にすぎないとする人を「見る」派、文学作品として読めるとする人を「読む」派がと呼ぶとすると、能楽師や謡を習っている人は圧倒的に「見る」派が多い。当然といえば当然だが、シェイクスピアの戯曲という文学作品を守備範囲としているはずの英文学者になぜか「見る」派が多いという指摘は興味深い。

 こういう本を書くくらいだから、山村は「読む」派であり、活字になった「ことば」は「見るのとは別の次元」で胸にとどき、「読めばこそ目に映るものがあり、耳にひびくものがあり、胸が揺すられることがある」とまで書いている。

 第二部は「阿漕」から「夜討曽我」まで、25編の作品をあいうえお順にならべた作品論である。一編あたりの分量はページ数にして6ページ、原稿用紙にしてほぼ8枚にそろえられているから、作品論というよりは書評集といった方がいいかもしれない。

 各章ではまずストーリーと背景を説明してから、詞章のここぞという条を現代語訳つきで引く。著者にとって引用は20年の書評で鍛えた練達の芸である。

 注目すべきは、本書は芸事をあつかった本にありがちの蘊蓄本ではないという点だ。博識の人だから蘊蓄を披露しようと思えばいくらでも披露できたろうが、原稿用紙8枚という分量は蘊蓄をならべるには短すぎる。

 著者は原稿用紙8枚という制限をみずからに課すことによって、蘊蓄などにはそれず、詞章のことばとしての魅力にまっすぐ切りこんでいく。

 たとえば、『融』の章。かつて栄華を誇った源融は陸奥の塩竃の景色を自邸に再現し、わざわざ塩竃から海水を運ばせ、塩を煮詰める煙まで立たせて楽しんだといわれている。今は荒れ果てた源融邸跡にやってきた旅の僧は、都の真ん中なのに汐汲みをする老爺と出会う。老爺は実は融の亡霊で、月光の中でかつての栄華を回想する。

 しかし、著者は作り物の塩竃など、出来そこないのテーマパークのようなものだったのではないかと疑問を提起する。そして、「われ塩竃の浦に心を寄せ……」以下の条を引き、こう指摘する。

 この詞章を読んで、私ははじめて分かったような気がしました。記憶が美しくしているんだ。記憶のなかの月光のかがやきが、いまの荒涼たる跡地の空にかかった月光のかがやきと重なって、そこにかつて遊んだ、涙がでるほど綺麗で、懐かしい浦のたたずまいが――たとえレプリカにせよ――、よみがえるんだ。
 なにも、いまの日本のテーマパークがどれも通俗だとはいいませんが、それらも一度滅びて、その跡地に月光がやさしく注いだならば、どれも記憶のなかで、きよらかに映えて立ち現われるかも知れません。

 批評であると同時に詩でもある。そういう希有な文章がここにある。

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