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2007年01月29日

『はだかの起源』 島泰三 (木楽舎)

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 人類と他のサルとの一番はっきりした違いは裸だという点である。体毛がうぶ毛にまで退化していて、皮膚が剥きだしになっているのだ。

 人間は裸になったために、体温や水分を保ち、皮膚をすり傷や打撲から守るために衣服や住居や火が必要になった。衣服と住居と火なしでは人類は生きのびることが出来なかった。

 裸化は生存には明らかに不利であって、進化論の難題となってきた。ダーウィンとほぼ同時に適者生存説を提唱したウォーレスは裸の皮膚と数学的能力は適者生存では説明できないと匙を投げていたそうだし、ダーウィンはダーウィンで「性選択」という別の原理を持ちだしている(『人間の進化』)。体毛の薄い個体の方が異性にもてたので、人類はだんだん体毛が薄くなったというわけだが、性淘汰の例としてあげているのは昆虫や鳥の例ばかりだから、あまり説得力はない。

 本書は『親指はなぜ太いのか』で「口と手連合仮説」を提唱した島泰三氏が人類の裸化問題にとりくんだ本である。

 島氏は本書の冒頭で「口と手連合仮説」では裸化は説明できないと宣言する。そして、人類の直立二足歩行を説明できた「口と手連合仮説」でも説明できないのだから、裸化は直立二足歩行とは無関係に、おそらくは別の時期に生じたのだろうと推論している。

 島氏はまず人類以外で裸化した中小型哺乳類の検討からはじめる。すなわち、水辺に掘ったトンネルの中で暮らすコビトカバ、湿地で水陸にまたがった生活をするバビルーサ、翼をしまう袋をもったハダカオヒキコウモリ、1頭の女王を中心に地中の巣穴でアリのような高度の社会生活をいとなむハダカデバネズミ、人間が実験用に育種したヌードマウスである。ハダカデバネズミの条はすこぶるおもしろいが、他の裸の動物の研究は十分すすんでいないそうで、もどかしい思いが残る。

 陸上の中小型哺乳類では裸化はきわめて珍しい現象で、各分類群で一回しか起きていない。ゾウのような大型哺乳類なら体毛を失っても体温と水分を保持できるが、中小型哺乳類は特別な条件が整わないと生きのびることができない。もちろん、霊長類においても、人類だけに生じた例外的な形質である。

 となると、人類は水辺で進化したというアクア説が説得力を持ってくる。アクア説は学問の世界では異端視されているが、裸化と直立二足歩行をいっぺんに説明できるので、アマチュアの間では人気のある説である(エレイン・モーガン『進化の傷あと』)。だが、島氏はアクア説に対して徹底的に批判をくわえる。サルを研究している学者がアクア説を本格的に批判したのは、日本ではこれが最初ではないかと思うが、ほとんどめった切り状態である。わたしはアクア説のファンだったが、考えを変えなければならないようだ。

 島氏は胎児化ネオテニー仮説や自己家畜化仮説、体温冷却仮説などの学界で認められた仮説も俎上に載せ、やはりめった切りにする。そして、返す刀でダーウィンの適者生存という思想そのものもぶった切る。ダーウィンがフィールドワークをしない書斎派だとか、サブリミナル的な印象操作をおこなっているという指摘は新鮮だったが、論旨には直接関係ないだろう。

 さて、人類はなぜ裸化したのか?

 島氏は偶然が重なったのだとしている。そして、こう書いている。

 裸化に利点はない。しかし、裸化して人間が成功した理由は、裸化にある、と矛盾したことを言ってもいい。

 この指摘は言い得て妙だと思う。

 刺激的な本ではあるが、ところどころ引っかかる箇所がある。たとえば、ネアンデルタール人が裸ではなく、毛皮に覆われた野生動物だと断定している点。最近の復元図はみな裸で、毛皮で作った服をまとった姿で描かれているし、肌が白かったという説も有力のようである。島氏は裸化は分類群ごとに一属一科にしか起きていないというドグマ以外に論拠を示していない。こういう強引な部分が本書ではやや目についた。

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