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2007年01月31日

『歌うネアンデルタール』 スティーヴン・ミズン (早川書房)

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 認知考古学の視点から音楽と言語の起源に切りこんだ画期的的な本である。ルソーは『言語起源論』で「最初の言語は、単純で、方法的である前に歌うような情熱のこもったものだった」とし、言語と音楽は同じ起源から生まれたと述べているが、ミズンもまた言語=音楽同一起源説をとっている。ただし、結論は直観ではなく、緻密な論証によって導きだされている。

 本書は「第一部現在」と「第二部過去」にわかれるが、「第一部現在」では脳科学の知見を動員して、言語と音楽が別のモジュール群で処理されていることを明らかにしている。

 われわれの脳では言語と音楽は独立に処理されているが、といって無関係なわけではない。言語中枢が左脳のブローカ野にあることはよく知られているが、音楽の中枢もブローカ野にあるのだ(左脳だけでなく右脳のブローカ野も使っている)。療法の中枢は近接しているだけでなく、韻律など一部のモジュールを共用していることまでわかっている。

 現在においても密接な関係にある言語と音楽だが、過去においてはどうだったろうか。

 ヒトと近縁のチンパンジーやボノボ、ゴリラは吠え声やうなり声といった大雑把な音声コミュニケーションしかできないが、サル全般に視野を拡げると、ヒトに匹敵するような多種多様な音声レパートリーをもった種がすくなかららずいる。ベルベットモンキーは危険の種類に応じて警戒音を使いわけることが知られているし、ゲダラヒヒのお喋りはヒトのお喋りそっくりに聞こえるという。

 サルが音声メッセージをとりかわすのは群れの一体感を維持するためであり、いわば音声的グルーミングである。チンパンジーなど大型類人猿は、音声メッセージこそ貧しいものの、身振りによって群れの一体感を保っている。

 ゲダラヒヒのお喋りが人間そっくりでも、ゲダラヒヒは人間のような言語を喋っているわけではない。人間の言語は単語を組みあわせることによって、ありとあらゆる意味をあらわすことができるが、ゲダラヒヒをはじめとするサルの音声は単語に分解できず、全体で一つのメッセージをあらわしている。

 また、蛇を見つけたベルベットモンキーが蛇に対応した音声を発しても、それは蛇の存在をあらわしているのではなく、蛇から逃げる動作をしろというメッセージを伝えているにすぎない。ベルベットモンキーの音声メッセージは指示的・記述的ではなく、あくまで逃げるという動作を誘導するためのものであって、操作的なのである。

 ミズンは単語が析出してくる以前のヒトの言語はサルの音声メッセージに近いものだったのではないかと推定し、Hmmmmmと命名している。Hmmmmmとは以下の略である。

Holistic multi-modal manipulative musical mimetic
(全体的・多様式的・操作的・音楽的・物真似的コミュニケーション)

 Hmmmmmが言語の起源であると同時に、音楽の起源でもあることは見やすい。

 ミズンは『心の先史時代』では、ネアンデルタール人を芸術と無縁の存在として描いたが、Hmmmmmという視点からは別のネアンデルタール人像が見えてくる。ネアンデルタール人は分節言語は使えなかったが、Hmmmmmで仲間とコミュニケーションをとり、一体感を保っていたのである。ネアンデルタール人は喋れなかったが、歌うことはできた。本書が『歌うネアンデルタール』と題された所以である。

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『心の先史時代』 スティーヴン・ミズン (青土社)

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 考古学の立場から人類の心の進化に切りこんだ本である。

 考古学というと物証絶対主義の学問という印象があるが、1990年代から出土物を通じて先史時代人の知的能力や世界観、認知枠の問題をあつかう認知考古学が勃興した。原著は1996年に出版され、認知考古学の存在を一般読書界に知らせた。本書はこの分野の基本図書と目されているようである。

 原始の心性は心理学の分野でも研究されており、進化人類学と呼ばれている。進化人類学は人間の心のメカニズムは進化の過程で獲得されたという仮定に基づき、心理学の立場から初期人類から現生人類にいたる心の発展を再構成する。アプローチの仕方は異なるものの、認知心理学と研究対象がかなり重なり、本書も進化心理学の成果を積極的にとりこんでいる。

 著者のミズンは学部の学生時代に、30万年前には現代人と同じ心が生まれていたとするトマス・ウィンの論文に触発され、先史時代人の心の問題に関心をもつようになったという。ウィンが根拠としたのは対称形に作られた握 斧ハンド・アックスという石器である。対称形の握斧を作るには闇雲に石を叩いては駄目で、心の中に存在する完成形のイメージに照らしあわせながら、注意深く石を整形していかなければならない。ウィンはピアジェの発達心理学を援用し、握斧を製作した原始人は12歳以降の獲得される形式的操作知能をもっているとした。

 ピアジェは心は学習を通じて自らを組みかえながら一連の発達段階を通過していくと説いたが、現在ではピアジェの発達段階説は疑問とされている。ピアジェに代わって有力視されているのがモジュール説である。モジュール説では、人の能力は言語能力や音楽能力、共感能力など、いくつかのモジュールから構成されており、各モジュールは別個に発達すると考えられている。

 進化心理学もモジュール説をとっている。狩猟採集時代の人類が直面する問題はいくつかの類型にわけられるが、類型ごとにまったく違った対処法を必要としており、単一の学習能力で対処しようとしたら命を落としかねない。十徳ナイフのように各類型に特化したモジュールを発達させた方が適応的だというわけである。

 ミズンは進化心理学を踏まえながら、人類の心の発達過程を建て増しされていく聖堂になぞらえているが、わたしは本書を読みながら、むしろパソコンの歴史に喩えた方がわかりやすいのではないかと思いついた。本書の記述から離れるが、少々おつきあい願いたい。

BASIC段階

 最初期のパソコンは電源を入れるとBASICというコンピュータ言語が起動した。BASICは汎用言語で、文字処理でも、画像処理でも、音響処理でも、何でもできることになっていたが、何かをやるにはいちいちプログラムしなければならなかったし、労力の割りには大したことはできなかった。

 BASIC段階はチンパンジーや猿人の段階に相当する。チンパンジーは木の実の中味や骨髄を掻きだすには短い棒、蟻や蜂蜜を食するには長い棒というように、道具選択と食物採取という異なる作業をなめらかに連繋させることができる。これは二つの作業を単一の過程で処理しているからだと推定できる。BASICのような機能は低いが、汎用のプログラムが動いていると考えられる。

MS DOS段階

 MS DOS段階ではワープロや表計算、お絵かきソフトなど多種多様なソフトが利用できるようになったが、個々のソフトは連繋しておらず、融通がきかなかった。表計算ソフトで作った表やお絵かきソフトで作った画像をそのままワープロに取りこむのは不可能だった。

 MS DOS段階は原人や旧人の段階に相当する。ネアンデルタール人は石や木を素材に高度な道具を作ったが、動物の骨から道具を作ることはなかった。道具に関する技術モジュールと、動物に関する博物モジュールが連繋していなかったのである。

Windows段階

 Windows段階になると、各ソフトをクリップボードやOLEによって連繋させることが可能になった。原則として、データはソフトからソフトへそのままの形で貼りつけることができる。

 Windows段階は現生人類の段階に相当する。ミズンはクリップボードにあたる心的機能を「認知的流動性」と呼んでいる。

 自画自賛になるが、人類の心の発達をパソコンの歴史になぞらえるのは悪くない喩えだと思っている。

 ただ、この喩えでは「認知的流動性」をクリップボードに矮小化してしまう恐れがある。「認知的流動性」は単なるデータの一時置き場ではなく、比喩と類推を可能にし、人類の思考を自在に羽ばたかせる新しい時限だからだ。芸術も、科学も、文明も、すべては「認知的流動性」の産物なのだ。人類は「認知的流動性」を獲得するまでに何百万年もかかったのである。

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『ネアンデルタール人の正体』 赤澤威 編 (朝日選書)

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 2004年1月に開かれた『アイデンティティに悩むネアンデルタール――化石人類研究の最前線』というシンポジュウムを活字化した論集で、11人の研究者が参加している。座長で編者の赤澤威氏は1993年にシリア北部のデデリエ洞窟で完全に近いネアンデルタールの子供の骨を発掘し、その骨をもとに学際的な「ネアンデルタール復活プロジェクト」を推進した人である(プロジェクトの成果は『ネアンデルタール・ミッション』としてまとめられている)。

 本書の副題は「彼らの「悩み」に迫る」になっているが、こえはもともとのシンポジュウムのタイトルに『アイデンティティに悩むネアンデルタール』とあるように、現代人の作りあげた勝手なネアンデルタール人像に当のネアンデルタール人が当惑しているだろうから、最新の成果をもちより、すこしでも実像に迫ることで、ネアンデルタール人を慰めようという趣旨である。編者の赤澤氏は「ネアンデルタール人はよろこんでくれるだろうか」と繰りかえしているが、ネアンデルタール供養といったところか。

 実像に迫るにしても、さまざまな分野の専門家が11人も集まると、背景の違いや立場の違いが目立ってくる。われわれ現生人類を「ホモ・サピエンス」と呼ぶ筆者もいれば、「クロマニョン人」、「現代人」と呼ぶ筆者もいる。ネアンデルタール人の埋葬儀礼についても、積極的に認める筆者もいれば、ハイエナが洞窟に骨を持ちこんだのだろうと否定的な筆者もいる。ネアンデルタール人は石器の材料を近場で調達したことが知られているが、ある筆者は20km以内とし、別の筆者は2km以内としている。小説家的な空想を排し、学問的に近づこうとしても、ズレは出てきてしまうのである。しかし研究の現状を知る上で、ズレは決してマイナスではない。

 いくつか目についた箇所を紹介する。

 片山一道「地球上から消えた人々」は極地のイヌイットやポリネシア人、オーストラリアのアボリジニに遺伝的な繋がりがないにも係わらず、ネアンデルタール人的な特徴をもった人がいることに注目し、ネアンデルタール人固有のものとされてきた骨太、ずんぐり、大頭、胴長短脚といった特徴は環境の影響にすぎないのではないかと指摘している。

 赤澤威「人類はいつ、なぜ争うようになったか」は人類の同族どうしの殺しあいの淵源は、1万2千年前、旧石器時代後期のクロマニョン人にさかのぼるとしている。根拠は二つある。第一にスペインのモレリャ・ラ・ヴェリャ洞窟に、二つの集団が弓矢をもって対峙している岩絵があること。第二にほぼ同時期のスーダンのジャバル・サハバ117遺跡から、石器で殺されたとおぼしい大量の人骨が出土していること。

 米田穣「2つの人類が出会ったとき」はネアンデルタール人とクロマニョン人をさまざまな観点から比較し、最後に混血の可能性を検討している。

 ネアンデルタール人は一年を通じておなじ洞窟に住み、獣肉しか食べなかったのに対し、クロマニョン人は季節ごとに住居を移り、獣肉だけでなく魚をたくさん食べていたようだ。

 ミトコンドリアDNAの研究から混血の可能性はないとされているが、そう断定するには疑問があるという。ロバと馬から生まれたラバは一代限りの雑種で、子供を残すことができないが、ネアンデルタール人とクロマニョン人の間で通婚があっても、子孫が残らない可能性がある。また、子孫を残せても、遺伝子浮動でネアンデルタール人の遺伝子が長い年月の間に消失する可能性もある。

 斎藤成也「遺伝子から探る」にはネアンデルタール人の遺伝的系統図が紹介されているが、同じネアンデル渓谷から出土した個体でも、遺伝的に他の地域で出土した個体と近いケースがある。ネアンデルタール人の活動範囲は意外に広かったのかもしれない。

 河内まき子「成長のしかたを考える」は、ネアンデルタール人の成長パターンは基本的にわれわれ現生人類と同じだが、成長速度と成熟時期は早くなっているという。

 澤口俊之「脳の違いが意味すること」には意外な研究が紹介されている。これまで現生人類は類人猿や化石人類よりも格段に大きな前頭葉をもっているとされてきたが、MRIで生きたチンパンジーを調べたところ、脳に占める前頭葉の比率は35~36%あり、現生人類の37%とほとんど変わらないことがわかった。大型類人猿は30~38%の範囲におさまっているそうである。

 澤口氏は体重に対する前頭葉の体積(相対前頭葉体積)という別の指標を考案した。これで見ると、現生人類はネアンデルタール人よりも40%大きくなっている。

 西秋良宏「1日を想像する」ではネアンデルタール人などの化石人類をあつかった小説三作を紹介している。アウルの『大地の子エイラ』はクロマニョン人の子、エイラがネアンデルタール人に育てられる話、ダーントン『ネアンデルタール』は現代の科学者が凶暴なネアンデルタールの生き残りを発見し観察する話で、どちらも現代人の視点から描かれているのでおもしろく読める。それに対して、プロの『原始の風が吹く大地へ』は400万年前の初期人類を厳密に考証し、初期人類になりきって書かれた意欲作だが、思考内容が単純すぎてつまらないという。

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2007年01月30日

『なぜヒトの脳だけが大きくなったのか』 濱田穣 (講談社ブルーバックス)

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 表題の通り、なぜ人類の脳だけが異常に大きくなったのかという切口から書かれた異色の人類進化史である。著者の濱田穣氏は東南アジアをフィールドにサルの身体面の進化を研究している人だそうで、人類(ホモ属)段階の進化だけでなく、サル段階の進化、さらには哺乳類段階の進化も視野にいれて話を進めており、すこぶる見通しがいいのである。

 もともとサルは身体のわりに大きな脳をもっているが、その要因が樹上生活にあることは大方の研究者が一致している。不連続三次元空間である森の中で枝から枝へわたっていくには高度な空間把握能力と運動制御能力が不可欠だからだ。

 人類がチンパンジーとの共通祖先からわかれたのは600~700万年前とされているが、その半分の期間は脳の大きさはあまり変わらなかった。われわれのルーツとされる華奢型アウストラロピテクスになると、大きさは変わらないものの、前頭葉と側頭葉の前部が発達し、われわれの脳に近いプロポーションになっている。そして、ホモ・ハビリスあたりから急激に巨大化していく。

 濱田氏は脳の巨大化は手と発声器官の進化と互いに刺激しあいながら起きたとしている。いわゆる共進化である。

 チンパンジーの手と較べると、われわれの手は親指が発達し、他の四本の指と向かいあっている。チンパンジーは人差し指から小指までの四本の指で枝を握りしめるのに対し、われわれは向かいあう親指と四本の指を使って物をつまんだり、つかんだりする。チンパンジーはわれわれと較べるまでもなく、ニホンザルと較べてさえ、ひどく不器用である。チンパンジーとの共通祖先とわかれた後、人類はだんだんと手を進化させていったらしい。手の化石はあまり残っていないが、石器の進歩で手の進化が推測できる。

 発声器官の方はどうか。われわれが自由に言葉を話せるようになったのは咽頭が下がり、喉の上方に音を共鳴させる空間ができたからだが、問題は咽頭の下降がいつ起こったかである。

 咽頭の下降はごく最近、ネアンデルタール人との共通祖先からわかれた後に起きたとする説が定説とされてきたが、濱田氏によると強力な反論が出てきていて、もはや定説ではなくなったという。喉の形状の復元から推定する手法は限界なので、目下、脳の言語野の発達具合から推定する手法が試みられているが、まだ答えは出ていない。濱田氏は大胆な推測と断った上でこう述べている。

 ここで大胆に推測すると、アウストラロピテクス類はチンパンジーなみの音声しか出せなかったものの、「アー」、「ウー」、「オー」とその中間的母音を用いて、かなりの「会話」を行なっていただろう。そして、ホモ属の出現とともに、脳容量が時代とともに拡大し、多様な音(母音と子音)が出せるようになり、多くの語彙を持つようになっただろう。

 濱田氏は言語の発達も漸進的に起こったと考えているようだ。

 脳が異常に巨大化した結果、われわれはハンディキャップも背負いこむことになった。脳はエネルギーを大量に消費する器官だからである。

 脳が巨大化できたのは肉食をはじめたからだとするのが一般的な説であるが、濱田氏はこれについても別の可能性を指摘する。料理による消化管の短縮と脂肪の蓄積である。

 人類の消化管がゴリラやチンパンジーと較べると短いのは肉という効率のいい食物を食べるようになったからだとされている。濱田氏は植物食でも調理して食べれば消化管は短くてすむこと、消化管はエネルギーを大量に消費しており、消化管が短縮すればその分のエネルギーを脳にふりむけることができると指摘する。

 料理のおかげで脳を巨大化させることができたというわけだが、初期人類がはたして植物を料理したのだろうか。

 料理説はともかく、脂肪の蓄積の方は説得力がある。

 最近、脂肪はすっかり悪者にされているが、われわれにとって脂肪が本当に不要だったら、脂肪の多い食物を口にいれただけでまずいと感じたり、吐き気がしたりするはずである。

 事実は逆であって、われわれの味覚は脂肪を甘いと感じる。脂の乗ったトロや霜降肉、豚の角煮、焼肉のカルビなどは人気メニューであり、脂肪をほどよくつけた女性はグラマーと呼ばれて男性に人気がある。われわれは脂肪を好ましいものとする方向に進化してきたのである。

 人類はサルの中では飛びぬけて体脂肪率が高い。人間の体脂肪の年齢変化はさまざまに研究されているが、サルの体脂肪の年齢変化はほとんどデータがなかった。そこで、濱田氏みずから研究した結果、ニホンザルのオスは15歳まで上昇するが、標準値8.5%をピークに減少に転じることがわかった。メスはのピーク値は8%ほど。チンパンジーは10%程度だそうである。これに対して、ヒトの大人は15~25%と著しく高い。

 幼児期の違いはさらに大きい。ニホンザルとチンパンジーの子供の体脂肪率は5%前後で推移するのに対し、ヒトの赤ん坊は生まれた時には15%だが、生後6~10ヶ月では25%に急上昇する。

 脂肪の蓄積は体温維持のためという説もあるが、濱田氏は脳に絶え間なくエネルギーを供給するのに必要だからだと考えている。脂肪はすぐには燃えないが、単位重量あたりのカロリーが糖の二倍あり、糖をバックアップしている。特に脳が急激に発育する幼児期には脂肪の蓄積が重要だという。

 われわれがまるまると太った赤ん坊を可愛いと感じるのは、脳が健全に発育しそうな赤ん坊を好むように進化の過程でプログラムされたからなのかもしれない。

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2007年01月29日

『人類進化の700万年』 三井誠 (講談社現代新書)

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 コンパクトにまとめれた人類進化の概説書である。著者は読売新聞の科学記者だけに目配りがよく、しかも最新の情報を集めている。新発見があいついでいる分野だけに、知識が古くなっていたと教えられる箇所がすくなくなかった。本書の発行は2005年9月5日だが、なんとチンパンジーの化石がはじめて発見されたという同年7月のニュースまで盛りこまれている。

 ちょっと前に「イーストサイド・ストーリー」という説が流行した。大地溝帯ができて、その東側では森が消えたために、チンパンジーと変わらなかった初期人類はサバンナに放りだされ、直立二足歩行を余儀なくされたという仮説である。今では否定されたと聞いていたが、本書ではどこが間違っていたのか、そして現在はどう考えられているかが手際よくまとめられている。

 ジャワ原人の末裔がフローレス島で小型化し、1万2千年前の大噴火まで生きていたという話があるが、本書によると頭骨のCTスキャンの結果、側頭葉と前頭葉が発達していたことがわかり、言語を話していた可能性があるらしい。また、ジャワ原人の末裔ではなく、ジャワ原人との共通祖先がいて、そこから分かれたという説も出てきているそうだ。

 人類最古の楽器は鳥の中空の骨で作られた笛とされてきたが、2004年にドイツの炭鉱でもっと古い象牙の笛が見つかったという。象牙を二つに割り、中心の穴をくりぬいてから、また接合するという手のこんだ方法でできているというから、人類史を書き換えるような大発見である。

 進化の研究に遺伝子が不可欠となっているが、本書の遺伝子の解説は特にすぐれている。哺乳類が一度失った色覚の遺伝子をサルがどうとりもどしたか、また言語を可能にしたとみられるFOXP2遺伝子がどのように分岐したかという具体例を題材に、すこぶる平明に説明している。いろいろな本を読んできたが、ここまでわかりやすく書かれた本は他に知らない。

 進化の流れを見ていくと、不要になった遺伝子はすぐに失われてしまうことがわかる。恐龍全盛時代、哺乳類は夜行性の動物として細々と暮らしていたが、夜は十分光がないので、四原色(赤、緑、青と紫外線)を感知する遺伝子のうち、緑と青が失われてしまい、色覚が退化した。

 ところがサルの共通祖先が森の中に住み、果実を主食にするようになると、紫外線を感知する遺伝子が青を感知するようになり、さらに赤を感知する遺伝子に突然変異が起きて、緑を感知する遺伝子になった。サルは色覚をとりもどしたのである。色覚に関係する突然変異が定着したのは、森で果実を探すには色がわかった方が好都合だからにほかならない。

 しかし、果実を主食にするようになると、ビタミンCを体内で合成する遺伝子が失われてしまった。果実はビタミンCが豊富なので、わざわざ体内で合成する必要がなかったからである。

 意外だったのは、チンパンジーとの共通祖先から現生人類に進化する過程で新しく生じた遺伝子はFOXP2の二つの突然変異くらいだという説である。人類化の鍵といえる脳の巨大化はどうかというと、新しい遺伝子ではなく、顎の筋肉の遺伝子の退化によってもたらされたのだという。遺伝子は一筋縄ではいかない。

 現時点で本書は人類進化の最良の概説書だと思うが、しかし数年後はどうかはわからない。それくらい進歩の早い世界なのである。

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『はだかの起源』 島泰三 (木楽舎)

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 人類と他のサルとの一番はっきりした違いは裸だという点である。体毛がうぶ毛にまで退化していて、皮膚が剥きだしになっているのだ。

 人間は裸になったために、体温や水分を保ち、皮膚をすり傷や打撲から守るために衣服や住居や火が必要になった。衣服と住居と火なしでは人類は生きのびることが出来なかった。

 裸化は生存には明らかに不利であって、進化論の難題となってきた。ダーウィンとほぼ同時に適者生存説を提唱したウォーレスは裸の皮膚と数学的能力は適者生存では説明できないと匙を投げていたそうだし、ダーウィンはダーウィンで「性選択」という別の原理を持ちだしている(『人間の進化』)。体毛の薄い個体の方が異性にもてたので、人類はだんだん体毛が薄くなったというわけだが、性淘汰の例としてあげているのは昆虫や鳥の例ばかりだから、あまり説得力はない。

 本書は『親指はなぜ太いのか』で「口と手連合仮説」を提唱した島泰三氏が人類の裸化問題にとりくんだ本である。

 島氏は本書の冒頭で「口と手連合仮説」では裸化は説明できないと宣言する。そして、人類の直立二足歩行を説明できた「口と手連合仮説」でも説明できないのだから、裸化は直立二足歩行とは無関係に、おそらくは別の時期に生じたのだろうと推論している。

 島氏はまず人類以外で裸化した中小型哺乳類の検討からはじめる。すなわち、水辺に掘ったトンネルの中で暮らすコビトカバ、湿地で水陸にまたがった生活をするバビルーサ、翼をしまう袋をもったハダカオヒキコウモリ、1頭の女王を中心に地中の巣穴でアリのような高度の社会生活をいとなむハダカデバネズミ、人間が実験用に育種したヌードマウスである。ハダカデバネズミの条はすこぶるおもしろいが、他の裸の動物の研究は十分すすんでいないそうで、もどかしい思いが残る。

 陸上の中小型哺乳類では裸化はきわめて珍しい現象で、各分類群で一回しか起きていない。ゾウのような大型哺乳類なら体毛を失っても体温と水分を保持できるが、中小型哺乳類は特別な条件が整わないと生きのびることができない。もちろん、霊長類においても、人類だけに生じた例外的な形質である。

 となると、人類は水辺で進化したというアクア説が説得力を持ってくる。アクア説は学問の世界では異端視されているが、裸化と直立二足歩行をいっぺんに説明できるので、アマチュアの間では人気のある説である(エレイン・モーガン『進化の傷あと』)。だが、島氏はアクア説に対して徹底的に批判をくわえる。サルを研究している学者がアクア説を本格的に批判したのは、日本ではこれが最初ではないかと思うが、ほとんどめった切り状態である。わたしはアクア説のファンだったが、考えを変えなければならないようだ。

 島氏は胎児化ネオテニー仮説や自己家畜化仮説、体温冷却仮説などの学界で認められた仮説も俎上に載せ、やはりめった切りにする。そして、返す刀でダーウィンの適者生存という思想そのものもぶった切る。ダーウィンがフィールドワークをしない書斎派だとか、サブリミナル的な印象操作をおこなっているという指摘は新鮮だったが、論旨には直接関係ないだろう。

 さて、人類はなぜ裸化したのか?

 島氏は偶然が重なったのだとしている。そして、こう書いている。

 裸化に利点はない。しかし、裸化して人間が成功した理由は、裸化にある、と矛盾したことを言ってもいい。

 この指摘は言い得て妙だと思う。

 刺激的な本ではあるが、ところどころ引っかかる箇所がある。たとえば、ネアンデルタール人が裸ではなく、毛皮に覆われた野生動物だと断定している点。最近の復元図はみな裸で、毛皮で作った服をまとった姿で描かれているし、肌が白かったという説も有力のようである。島氏は裸化は分類群ごとに一属一科にしか起きていないというドグマ以外に論拠を示していない。こういう強引な部分が本書ではやや目についた。

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2007年01月28日

『親指はなぜ太いのか』 島泰三 (中公新書)

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 マダガスカル島にアイアイという不思議なサルがいる。どこが不思議かというと、中指だけが異様に細く、針金のようなのだ。

 アイアイの中指はなぜ一本だけ細いのか? 謎が解けたのは1984年のことだ。本書の著者、島泰三氏が、それまで昆虫食だと考えられていたアイアイがラミーという木の実を食べているところをはじめて観察したのだ。

 ラミーの実は胡桃のように硬く厚い殻に包まれているが、アイアイは切歯で殻に穴を開け、そこに針金のような中指を突っこんで、中味を掻きだして食べていた。アイアイの細い中指と鋭い切歯は、他の動物がもてあましていたラミーの実を主食とするために進化したものだったのである。

 島泰三氏はマダガスカル島をフィールドにアイアイをはじめとする多様な原猿類を研究しているが、手と口の形状と主食の間に密接な関係があることに気づく。

 たとえば、ネズミキツネザルは切歯から臼歯まですべての歯が尖り、手に吸盤をもっているが、これは甲虫を捕まえて食べるのに適していた。一方、体の大きさはネズミキツネザルと同じだが、樹液を主食とするピグミーマーモセットは鋭い鉤爪と、同じ高さにならんだ切歯と犬歯をもっている。鉤爪は樹皮に打ちこんで体を安定させるため、同じ高さにならんだ切歯と犬歯は樹皮を削りとるために適していたのである。

 島氏はマダガスカル島でえた知見をもとに、主食がサルの口と手の形状を決定するという「口と手連合仮説」を提唱している。

 マダガスカル島以外のサルはどうか。ゴリラは日本のヤエムグラのような棘のあるツル植物を主食としているが、指はツル植物を引きよせるように動き、掌はグローブのように分厚く、犬歯は皮を剥くのに適した形状になっている。一方、ニホンザルの主食は木の芽や果実、種子であり、季節季節で熟したものを器用につみとって食べている。ニホンザルの手は人間の手に似て摘みとる繊細な動作が可能であり、顔で目立つ大きなほお袋は種子などを一時的にためておくのに役立っている。どちらも「口と手連合仮説」がよく当てはまっている(本書ではもっと多くの例で検証されている)。

 「口と手連合仮説」はチャールズ・エルトンの「ニッチ概念」や今西錦司の「棲みわけ原理」と似ているが、「ニッチ概念」や「棲みわけ原理」がマクロな視点から見ているのに対し、「口と手連合仮説」は動物の形状というミクロなレベルから出発している。島氏は「ニッチ概念」を「主食に対する諸関係」、「棲みわけ原理」を「食べわけ原理」と捉えなおす。新種が確立するということは新しい独自の主食を開発することであり、新しい職業に就職することだというわけだ。

 これだけでもおもしろいが、以上は前置きにすぎず、本書の眼目は初期人類の誕生を、主食という視点からさぐることにある。

 初期人類もサルである以上、「口と手連合仮説」が正しければ、それまで利用されていなかった主食を新たに開発したはずである。初期人類の主食とは何だったのか?

 主流の説では、初期人類は森を失い、サバンナに進出せざるをえなかったとされている。初期人類はまだ非力で、歩行が遅く、狩りをするどころか、肉食獣の餌食になっていた。

 頑丈型アウストラロピテクスと呼ばれる初期人類は、それまで顧みられなかった草の根を主食としていたらしいが、同時代に生息していた華奢型アウストラロピテクスと呼ばれる別系統の初期人類は肉食をしていたらしい。われわれ現生人類は華奢型アウストラロピテクスの末裔であることがわかっている。

 肉食と行っても、当時の人類は狩猟はまだ下手だったから、肉食獣が食べ残した死骸をあさっていただろうと考えられている。いわゆるスカベンジャー(残肉処理者)仮説であるが、骨についている肉はハイエナなどと競合するので、他の動物が利用できない骨を石器で割って、中の骨髄を食べていたという説が有力である。

 島氏は「口と手連合仮説」をもとに、骨髄食仮説を一歩進め、骨を食べていたのではないかと推論している。

 骨を食べるなどというと奇矯な説のように聞こえるが、人類の歯は貝を噛みくだくラッコ並に厚いエナメル質に覆われている上に、牙状の犬歯が退化し、サル類では類例のない平らな噛み合わせ面をもっている。人類の口は骨のかけらをゆっくり転がすのに適した形状だというのだ。

 しかし、骨などに栄養があるのだろうか?

 骨髄は髄腔のなかだけではなく、海綿質の骨柱のあいだにも満たされていて、血液を造っている。血液を造る作用を失ったものが脂肪になる。つまり、骨髄は骨の構造物質なので、骨を煮て脂肪だけを取り出すならともかく、食物としては骨と骨髄を分けることは現実的ではない。

 骨のかけらをしゃぶっていれば、養分がしみでてくるというのである。駄目押しとして富山県食品科学研究所による骨と豚肩肉との栄養分析比較を提示しているが、なるほど、栄養的には問題なさそうである。まとまった骨髄は手足の骨にしかないことを考えれば、骨髄食よりも骨食の方が食いっぱぐれがないのは確かだ。著者はこう断定する。

 初期人類の手と歯は、骨を主食とするために必要不可欠の条件をすべて満たしている。どんな大きな骨でも砕くことができる石を握りしめる大きな親指のある手と、硬度4の骨を砕いてすり潰すことのできる硬度7(水晶と同じ硬さ!)のエナメル質に厚く覆われた歯によって前後左右上下のすり潰し運動を可能にした平らな歯列こそが、初期人類の主食である骨を開発した道具セットである。

 われわれの祖先はサバンナに転がっている骨をしゃぶって生きのびてきたのだろうか。豚骨ラーメンでも食べながら、初期人類を偲んでみよう。

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